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覇業への道~獅子奮迅~

 【31//2015】

北条家臣団・二十八老将



伊勢新九郎盛時の孫にあたる北条左京大夫氏康は、
譜代の四十六家から、二十八人を抜擢し、それぞれ三家老五家老二十将に任命し、
北条氏の重要な城に配属した。


戦国Check✓

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。


「関八州の大守」といわれた相模北条氏は、
支配領域が広大なことと、初代伊勢新九郎盛時が伊豆に攻め入った延徳三年(1491年)から
第五代当主北条左京大夫氏直が豊臣秀吉に攻められた天正十八年(1590年)まで、
百年間にわたって戦国大名として君臨していたこともあり、家臣の数は膨大である。


三家老には、
今川氏、武田氏の侵攻に備えた西の守りである駿河興国寺城松田尾張守憲秀

上杉氏、武田氏に備えた北の守りである上野松枝城大道寺駿河守政繁

千葉氏、佐竹氏、里見氏に備えた東の守りである武蔵江戸城遠山丹波守綱景

三家老は相模北条氏の前線基地として重要な城の警固を任された。


戦国Check✓

駿河興国寺城(するがこうこくじじょう)
駿河国駿河郡(現在の静岡県沼津市根古屋)にあった城。

松田 憲秀(まつだ のりひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は左馬助、尾張守。相模北条家臣。小田原衆筆頭。
「小田原衆所領役帳」には貫高二千七百九十八貫文余と記載されており、これは家臣中最高であった。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原来攻に当たって籠城を主張したといわれる。
籠城中、秀吉方に内応しようとし、戦後秀吉より切腹を命じられている。

上野松枝城(うえのまつえだじょう)
上野国碓氷郡松井田(現在の群馬県安中市松井田町)にあった城。

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。幼名は孫九郎。官位は駿河守。相模北条家臣。河越衆筆頭。
北条早雲の重臣であった盛昌以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで松枝城を守るが、前田利家・利長軍に攻められ降伏。
秀吉の命で天正十八年七月十九日自害。

武蔵江戸城(むさしえどじょう)
武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城。

遠山 綱景(とおやま つなかげ)
戦国時代の武将。通称は藤九郎。官位は隼人佑、甲斐守、丹波守。相模北条家臣。江戸衆筆頭。
北条早雲の重臣であった直景以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
「小田原衆所領役帳」によると、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約九百六十三貫を知行していた。
永禄六年、第二次国府台合戦にて討ち死。


五家老には、
扇谷上杉氏の元居城で武蔵国中心の城である武蔵河越城北条左衛門大夫綱成

鎌倉を制圧する拠点の城である相模玉縄城北条治部少輔綱高

古河公方の元居城である下総栗橋城富永三郎右衛門尉直勝

相模北条氏の南の守りであり、水軍の拠点でもある伊豆下田城笠原能登守康勝

山内上杉家の元居城である上野平井城多目周防守元忠がそれぞれ配属された。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
相模北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。

相模玉縄城(さがみたまなわじょう)
相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった城。

北条 綱高(ほうじょう つなたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官位は常陸介。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の赤備えを率いた勇将。
武蔵制覇に貢献し、地黄八幡こと北条綱成に匹敵すると言われる武将。

下総栗橋城(しもうさくりはしじょう)
下総国葛飾郡(現在の茨城県猿島郡五霞町)にあった城。

富永 直勝(とみなが なおかつ)
戦国時代の武将。幼名は岩千代。通称は神四郎、四郎左衛門、三郎右衛門尉。相模北条家臣。
「小田原衆所領役帳」によると、伊豆西土肥に加え相模西郡飯田など千三百八十三貫を知行していた。
相模北条氏三代に仕え、五色備の青備えを率いた勇将。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏規を城主とする韮山城に篭って戦うも六月二十四日落城。
北条氏が没落した後、家康から仕官の誘いがかかったがこれを断り、代わりに長男の直則を仕官させた。

伊豆下田城(いずしもだじょう)
伊豆国加茂郡下田(現在の静岡県下田市)にあった海城。

笠原 康勝(かさはら やすかつ)
戦国時代の武将。幼名は弥太郎。官位は能登守。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の白備えを率いた勇将。
相模北条家譜代家臣である武蔵小机城代 笠原越前守信為の子。
加島合戦では松田憲秀、北条氏繁らとともに北条軍の先鋒を勤めた。

上野平井城(うえのひらいじょう)
上野国緑野郡平井郷(現在の群馬県藤岡市西平井)にあった城。

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
相模北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。


五色備
五家老の指物の色はそれぞれ定められており、北条五色備と戦場で恐れられた精鋭部隊であった。

黄備を率いていたのが、北条左衛門大夫綱成

赤備を率いていたのが、北条治部少輔綱高

青備を率いていたのが、富永三郎右衛門尉直勝

白備を率いていたのが、笠原能登守康勝

黒備を率いていたのが、多目周防守元忠であった。

氏康の陣立は、この五家老を中心としたもので、五色の色分けによって、
遠くからでも自軍の攻撃の様子などを把握しやすく、指揮しやすかったという。



また氏康は、三家老・五家老の下に二十将衆を配置している。
二十将衆とはいずれも駿河、伊豆、相模などの国人衆で構成されており、彼らも領国内の諸城の守備を分担していた。

普通は支城主クラスの家臣を重臣と呼んでいる。
もっとも、重臣とは何貫文以上の所領高であるとかいった規定があるわけではなく、
ただ漠然と呼び習わされているだけである。
相模北条氏の場合、領国規模も大きかったこともあって、重臣の数も多かった。


二十将衆
荒川豊前守、山中主膳正、荒木右衛門尉、在竹又太郎、福島伊賀守、
横井越前守、清水上野介、南条九衛門尉、山角四郎左衛門尉、石巻勘ヶ由、
佐藤左衛門尉、板部岡右衛門尉、中条出羽守、伊丹右衛門尉、行方弾正、
間宮豊前守、朝倉右京亮、大藤式部丞、大谷帯刀、安藤左近太夫などである。

この八人の家老と、二十人の部将による二十八老将と呼ばれる譜代の家臣団が、
氏康率いる相模北条家の中核を担うのである。


おススメの本
内閣総理大臣 織田信長 志野 靖史 (著)
なぜか語られなかった日本史の意外な顚末 
「なぜか成果が出てしまう人」の習慣術 土井 哲 (著), 高木 進吾 (著)
難儀でござる 岩井 三四二 (著)





次回 第七十三話 河越城の戦い ⇒



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覇業への道~若獅子の覚醒~

 【30//2015】

北条家臣団・譜代四十六家



救援
今川治部大輔義元との和睦を成立させた北条左京大夫氏康は、



天文十五年(1546年)四月二十日
八万もの大軍団に、約半年間もの間包囲されていた武蔵河越城救援に向かう。

関東連合軍の包囲網を見た氏康は、自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を北条五色備の一つ、
黒備を率いる多目周防守元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)
小田原北条家で軍事面で活躍した家老五人衆

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。





草創七手家老
氏康の軍師として黒備を率いた多目家は、伊勢新九郎盛時からの古参の重臣であり、
北条家初期の家臣団「草創七手家老」(そうせいしちてかろう)の一家である。

草創七手家老とは、伊勢新九郎が駿河国にやって来た時、追従して来た者達であり、
新九郎の覇業を助けた六人の盟友、

大道寺太郎重時

多目権兵衛元益

荒川又次郎

荒木兵庫

山中才四郎

在竹兵衛

それと相模国の土豪であった松田尾張守盛秀を加えた七家である。


北条記に、
新九郎が駿河国へ下向する際、大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛の仲間六人と、
伊勢で神水を酌み交わし、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという逸話が残っている。

草創七手家老は、御由緒家(ごゆいしょけ)とも呼ばれ、
一門衆で編成されている御家門方(ごかもんかた)の次に位置し、別格の扱いを受けていた。


戦国Check✓

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。

北条記(ほうじょうき)
鎌倉府の滅亡より、小田原北条五代の盛衰を隣接する諸将との関連の中で、
豊臣秀吉により滅ぼされるまでの過程を書いた軍記物語。

おススメの本
徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話 ライバル敵将篇 (文春文庫) 徳川 宗英 (著)
殿様を叱る! 歴史を動かした戦国大名家臣たちの直言集 澤宮 優 (著)
とまどい関ヶ原 岩井 三四二 (著)
虎の夢見し 津本 陽 (著)
トンデモ日本史の真相 史跡お宝編 (文芸社文庫) 原田 実 (著)








譜代四十六家
相模北条家譜代の家臣には
新九郎が駿河国へ下向する際、新九郎の覇業を助けた六人の盟友である
御由緒家
大道寺氏、多目氏、荒川氏、荒木氏、山中氏、在竹氏、松田氏の他に、

駿河興国寺城に入った新九郎が新たな家臣とした
駿河衆四家の、
葛山(かつらやま)氏、福島氏、岩本氏、朝比奈氏

続けて伊豆国に入った新九郎に味方した
伊豆二十一家の、
桑原氏、横井氏、笠原氏、松下氏、遠山氏、富永氏、高橋氏、鈴木氏、
山本氏、佐藤氏、安藤氏、山角(やまかど)氏、狩野氏、村田氏、上村氏、
梅原氏、朝倉氏、横地氏、田中氏、南条氏、清水氏

そして相模小田原に入った新九郎が西相模の国人を家臣とした
相模十四家の、
間宮氏、石巻氏、安藤氏、梶原氏、大谷氏、諏訪氏、橋本氏、関氏、
福島氏、中村氏、酒匂(さこう)氏、行方(なめかた)氏、河村氏、布施氏などがあった。

これら御由緒家の七家、駿河衆の四家、伊豆衆の二十一家、相模衆の十四家の計四十六家が
相模北条氏の草創の功労のあった家臣たちであった。

これらを総称して譜代四十六家と呼ばれている。




次回 第七十二話 北条家臣団・二十八老将 ⇒



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その無念たるや想像するに余りある

 【30//2015】

並々ならぬ器量



天文二十二年(1553年)四月十八日
尾張富田の聖徳寺で、斎藤山城守道三織田上総介信長の会見がおこなわれた。

織田弾正忠家当主である信長は、
茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、大小は差していたものの荒縄で腰に巻き、
芋縄を腕輪にし、腰には猿使いのように火打ち袋や、瓢箪を七つ八つぶらさげ、下は虎革と豹革の半袴という
いつものうつけ姿で会見の場に現れた。


しかし、斎藤山城守道三の前に現れた信長は、
うつけ姿ではなく、髪はきちんと折髷(おりまげ)にし、
袴は長袴を履き、貴公子とした様子で会見に臨んだという。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

聖徳寺(しょうとくじ)
尾張国中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)にあった真宗大谷派の寺院。山号は七宝山。
天文二十二年、織田信長と斎藤道三がこの寺で会ったことで知られる。
鎌倉時代後期の寛喜年間、閑善の開山により尾張国大浦(現在の岐阜県羽島市)に創建された寺で、
その後尾張国冨田村、清洲などを転々とし、寛永年間に現在の名古屋市中区錦三丁目に移ったが、
最近現在の名古屋市天白区に移転した。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

茶筅(ちゃせん)
茶道において抹茶をたてるのに使用する茶道具のひとつ。
湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。

湯帷子(ゆかたびら)
入浴の際、または入浴後に着た、麻や木綿の単(ひとえ)。湯具。ゆかた。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

折髷(おりまげ)
束ねた髪を立てずに折りまげて結ったまげ。


完訳フロイス 日本史1~12
将軍義輝の最期および自由都市堺
信長とフロイス
安土城と本能寺の変

秀吉の天下統一と高山右近の追放
「暴君」秀吉の野望

ザビエル来日と初期の布教活動
宗麟の改宗と島津侵攻
宗麟の死と嫡子吉統の背教

島原・五島・天草・長崎布教の苦難
大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗
黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国
キリシタン弾圧と信仰の決意






信長公記によると、

寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、

一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、

一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、

一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵(こしら)えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、

さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消(つぶ)し、各次第貼に斟酌(しんしゃく)仕(つかまつ)り侯なり




信長は寺に着くなり、四方に屏風(びょうぶ)をめぐらせ、その中で髪を整え、いつの間にか用意した長袴をはき、
これもいつの間にか作らせていた見事な拵(こしら)えの小刀を差した。

家臣の者どもは、この姿を見て、「日頃のうつけぶりはわざと作っていたものであったか」と肝を潰し、
次第に信長のことを見直すようになっていたという。



暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。

叉、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、

であるかと、仰せられ侯て、

敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。


さて、道空御湯付を上げ申し侯。

互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。

附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。



古風の儀礼にのっとった貴公子姿の信長は、八百人の斎藤家臣が、肩衣、袴姿で挨拶するのを知らぬ顔をして通り抜け、
会見の場である一室で待った。
しばらくして、道三もまた、知らぬ顔をしてあらわれ端座(たんざ)した。




山城守道三は、美濃五十四万石の太守である。
しかし、信長は、道三を恐れはばかるどころか、まったく動揺の色を見せなかった。

見かねた堀田道空が脇から、「山城殿にござる」と声を出した。
すると信長は、「であるか」とのみ答え、敷居の内に入り、道三に挨拶を述べた。

斎藤家宿老である堀田道空は、津島に居館を構えており、信長の亡父織田弾正忠信秀とは
昵懇(じっこん)の間柄であったため、接待役をかってでていたが気が気ではなかった。

互いに盃を酌み交わし、表情一つ動かさない、その若き当主信長に、道三は圧倒されていた。
道三は、苦虫(にがむし)を噛み潰したような顔で別れの口上(こうじょう)を述べた。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

端座(たんざ)
姿勢を正して座ること。正座。

堀田 道空(ほった どうくう)
戦国時代から安土桃山時代の武将。
早くから斎藤道三に仕え、天文二十二年(1553年)道三と織田信長が尾張正徳寺で会見した際、
道三に随行したことが知られている。
道三死後は、その後継義龍、龍興に仕えるが、永禄十年(1567年)信長によって美濃稲葉山城が攻略されると、
信長の家臣豊臣秀吉に仕え、元和元年(1615年)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した際、これに殉じた。






信長は、沿道で道三が見ているであろうことは予測していたのである。
八百人もの重臣に正装をさせ、美濃の国力を見せつけようとした道三に対し、圧倒的な軍事力を見せつけた信長。
そして、尾張のうつけ者を見たいという道三の望みをも叶えてやったのである。

また信長は、虚勢を張るところがなく、言葉にも無駄が無かった。
刃物のように研ぎすまされた神経が、動作にまで現れており、四隣を脅かす謀将になるのは眼にみえていた。
それが解った道三は、若き信長に圧倒され、魅了されてしまっていた。


信長公記にはこんな文面が続く、
「猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。

と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。

山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。

今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。」



稲葉山へ帰る道中、家臣の猪子兵助高就が、
「どうみても、上総介はたわけでござりました」といったところ、道三は吐き捨てるかのように、

「無念である。わが子どもは、かならずやそのたわけの門前に馬をつなぐことになろう。」とのみ答えたという。

道三は、短い会見の席で、信長の並々ならぬ器量を見抜いたのである。


戦国Check✓

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

猪子 高就(いのこ たかなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は兵助。斎藤家、織田家 家臣。
斎藤道三に側近として仕え、正徳寺の会見の際、ひそかに織田信長を観察する道三の側に控えていたという。
道三死後は信長に仕え、罪人糾明・検使などを務めた。
信長側近として信長配下の軍団長格の武将との仲介連絡役として活躍し、
吉田兼見(兼和)も度々贈答品を送るなどしている。
天正十年、本能寺の変にて織田信忠とともに二条城に篭り討死。



次回 第五十二話 クーデター ⇒




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過去の過ちを何度もほじくり返さないで

 【17//2015】

古今に比類なき家臣



諫死(かんし)
死んでいさめること。
また、死を覚悟し ていさめること。

諌める(いさめる)
地位・身分が上位にある者にあえて苦言(くげん)を呈(てい)し、
間違った振る舞いや言動を直すよう忠告すること。



天文二十二年(1553年)閏正月十九日

尾張志賀城主平手中務丞政秀  諫死

織田弾正忠信秀三郎信長の二代に仕えるが腹を切って自害。
享年六十二歳。
法名 政秀寺殿功案宗忠大居士


昨今では、自害した理由は他にあったと疑問視されているが、うつけ者と呼ばれていた信長を表す逸話として、
信秀の葬儀政秀の諌死がセットとして代表的なものとなっている。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張志賀城(おわりしがじょう)
尾張国春日井郡志賀(現在の愛知県名古屋市北区平手町)にあった城。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。






信長は幼少の頃、父 信秀から尾張那古野城と四人の家老をあたえられた。

一番家老 林佐渡守秀貞
二番家老 平手中務丞政秀
三番家老 青山与右衛門信昌
四番家老 内藤与三右衛門勝介である。

この四人の家老はそれぞれよく信長を補佐したが、なかでも平手中務丞政秀は、
尾張那古野城に住み込み傅役としてよく補佐した。

政秀は、茶湯や連歌などを嗜(たしな)むインテリの老人である。
対する信長は、手のつけられないうつけ者であった。


戦国Check✓

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。

家老(かろう)
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として
補佐役に抜擢されているが不明な点が多く謎の人物。

連歌(れんが)
鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。
和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。




やがて元服した三郎信長は、三河大浜への初陣を無事果たすのであるが、
この大事な初陣(儀式)の介添え役は、平手政秀が受け持っている。

また政秀は、美濃国主斎藤山城守道三の娘濃姫(帰蝶)と信長の縁談をまとめている。
これは織田弾正忠家にとって、とても大きな功績であった。

それまで仇敵であった斎藤山城守道三との和睦を成立させたのである。
しかし信長は依然として「うつけ者」であり続けた。


戦国Check✓

三河大浜(みかわおおはま)
三河国碧海郡大浜(現在の愛知県碧南市羽根町)辺りの地。

初陣(ういじん)
日本における武士階級の子弟が初めて戦闘行為に参加すること。
初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、元服前後の十代前半が多く、
親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる戦いに参加させる傾向があった。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、
武藝郡、郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。和解。








信長を「うつけ者」として決定付ける事が起った。

それは父信秀の葬儀の席の事である。
定刻を過ぎても現れない喪主信長に対し、苛立ちを隠せない家臣一同。

喪主不在の葬儀が始まり、不安と苛立ちの中 家臣一同のストレスはピークを迎えた。
そこにうつけ姿で現れた信長が、抹香をつかんで信秀の位牌に向かって投げつけたのである。

居合わせた家臣一同が「はぁぁぁあぁぁあぁあぁぁ~」
傅役として補佐していた政秀をも嘆かせることになり、信長を「うつけ者」として決定付ける事となった。



「さる程に、平手中務丞、上総介信長公実日に御座(おざ)なき様体をくやみ、守り立て験(しるし)なく侯へば、

存命侯ても詮(せん)なき事と申し侯て、腹を切り、相果て侯。」


諫死である。
つまり、信長の常軌(じょうき)を逸した生活態度を諫めるための割腹自殺であったと言われているが、
信じ難い話である。


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抹香(まっこう)
シキミの葉・皮を粉末にして作った香。
仏前の焼香に用いる。
古くはジンコウとセンダンとの粉末。

織田信長のマネー革命 (ソフトバンク新書) 武田 知弘 (著)
織田信長 破壊と創造 (日経ビジネス人文庫) 童門 冬二 (著)
織田信長はなぜ「天才」と言われるのか 武田 鏡村 (著)
織田信長 炎の生涯 (講談社青い鳥文庫) 小沢 章友 (著)
おのれ筑前、我敗れたり 南条 範夫 (著)
女たちの戦国時代 米田 一雄 (著)



また、政秀の死の原因には色々と諸説がある。

「平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。

総領の平手五郎右衛門 能き駿馬を所持侯

三郎信長公御所望侯ところ、にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免侯へと申し侯て、進上申さず候。

信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。」


平手中務丞政秀には三人の息子がいた。
長男、五郎右衛門、次男、監物、三男、甚左衛門という三兄弟である。

五郎右衛門長政が所有していた優れた駿馬を信長が所望したときの話である。

「私は武士を業としています。武士は主君の為に軍事でお役に立つのが本分です。
主君に奉仕するために駿馬を所有していますから、
信長公に差し上げれば軍事的奉仕ができなくなります。」

長政は、信長が所望する駿馬を差し出さなかったのである。

確かに生意気である。

信長はこの件を深く恨み、たびたびこの事を思い出しては不快になり、次第に主従が不和となった。
そして信長は政秀を疎(うと)んじるようになったという。

信長の幼児性が強調されている話ではあるが、リアリティ(現実感)がない。
政秀の死の原因としてはどうも決め手に欠ける内容である。


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平手 長政(ひらて ながまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門、孫右衛門。平手政秀の嫡男。
家老クラスの人物と思われるが、謎の人物。

平手 久秀(ひらて ひさひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門。官位は監物。平手政秀の次男。

平手 汎秀(ひらて ひろひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は甚左衛門。官位は監物。
平手政秀の三男或いは兄 久秀の嫡男(政秀の孫)ともいわれる。
織田信長の命を受け、三方原の戦いで徳川家康の援軍として武田軍と戦い戦死。

駿馬(しゅんば、しゅんめ)
足の速い優れた馬。


政秀の死の原因は、五郎右衛門長政の逆心にあった。

五郎右衛門長政は、尾張末盛城主である信長の弟、勘十郎信行に心を寄せていた。

長政は、密使を尾張清洲城に出入りさせ、坂井大膳勘十郎信行との交渉人として働いていた。

その事が、信長の使う諜者によって明るみとなり、その責任を取って政秀は自害する。
長政の逆心は、「うつけ者」であり続けた信長が招いたことであった。

平手中務丞政秀を死に追いやったのは、信長自身である。
政秀の死を悔いた信長は、太田又助牛一に、
政秀の死は諫死であったと信長公記に記すよう命じた。
このほうがリアリティがある。


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尾張末森城(おわりすえもりじょう)
尾張国愛知郡末森(現在の愛知県名古屋市千種区城山町)にあった城。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

諜者(ちょうじゃ)
敵の内情などをひそかに探る者。スパイ。間者。

太田 牛一(おおた ぎゅういち、うしかず)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は又助。官位は和泉守。
織田家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。
その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治めた。
文才に優れ、信長、秀吉、秀次、秀頼、家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である「信長公記」が特に有名。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。



幼くして両親と離れ尾張那古野城主となっていた信長にとって、政秀は、親以上の存在であった。
政秀にとっても、我が子同様、或いはそれ以上に手の掛かる主君の御子息 信長が愛おしかった。
政秀の自害を知り信長は号泣したと言われている。

信長の政秀に対するこんな逸話がある。
近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃の話である。

近臣たちが信長に、
「このように強大勢力になるとも知らずに平手中務丞が自害したのは、短慮軽率(たんりょけいそつ)でありました。」
と媚(こ)び諂(へつら)う近臣に対し、

信長は、
「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。
自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそである。
古今に比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」
と語ったという。

また、信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、
その一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。

信長は政秀の死を悼んで春日井郡小木村に政秀寺を建立し、禅僧の沢彦宗恩に託している。
信長は幼いころからの傅役としての苦労に報いようとしたのである。


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鷹狩り(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、
鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

河狩り(かわがり)
川で、水をせき止めたり、投網を打ったりして魚を捕ること。

小木村(こきむら)
尾張国春日井郡小木村(現在の愛知県小牧市)辺りの地。

政秀寺(せいしゅうじ)
現在 愛知県名古屋市中区栄にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は瑞雲山。
もともとは天文二十二年に織田信長が、家臣平手政秀を弔うために小牧山の南にある小木村に創建したのが始まりである。
その後慶長十七年に、現在の地に移転した。

沢彦 宗恩(たくげん そうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、
中国周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。









次回 第五十話 若き当主 ⇒




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戦国時代の事柄は、 果たして本当の事なのだろうか?

 【17//2015】

戦国の謎

稀代の英雄として語り継がれていた松平二郎三郎清康は、
家臣の阿部弥七郎正豊により暗殺されている。

弱体化した松平宗家を守った悲運の英雄、松平次郎三郎広忠もまた、
家臣の岩松八弥により暗殺されている。

清康暗殺の犯人である阿部弥七郎は、その場で植村新六郎氏明によって斬殺されているが、
不思議な事に広忠暗殺の犯人である岩松八弥もまた、氏明によって斬殺されている。


戦国Check✓

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

阿部 正豊(あべ まさとよ)
戦国時代の武将。三河松平家臣。阿部定吉の嫡男。通称は弥七郎。
正豊が斬ったのは清康の孫松平元康(徳川家康)であり、しかもそれは永禄三年(1560年)十二月五日の事であり、
それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする異説もある。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

岩松 八弥(いわまつ はちや)
戦国時代の武将。三河松平家臣。
岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)を刺殺したとの伝承がある人物。

植村 氏明(うえむら うじあき)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は栄安、新六、新六郎。
松平宗家三代(清康、広忠、家康)に仕え、主君の仇を二度も討った忠義の臣。
天文四年(1535年)、主君松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られ時、正豊をその場で斬殺している。
また、天文十八年(1549年)、主君松平広忠が岩松八弥に斬られた時も、八弥をその場で斬殺し感状を得ている。

ビジネス下克上時代に勝つ!
ビジュアル図解でわかる時代の流れ! 早わかり戦国史
もったいない 常識への謀反
精神科看護師、謀反―極私的「革命」レポート
戦国武将 勝利の実学
謀反人たちの真相








東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
此時も植村新六郞外のかたより來ながら、おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ、

共にからぼりの中におちいり、終に組敷て八彌を伐はたす。

この植村さきに淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ、今度また八彌をも其座をさらず首をとり、

二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と感じうらやまぬ者ぞなかりける



岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)にも、
岩松八弥は植村新六郎氏明によって、「大手先ノ堀ノ中で討ち取られた」とある。

主君暗殺現場に二度も居合わせ、二度とも刺客を斬る。
これは偶然なのであろうか。


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徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を
「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、
その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)
正保二年(1645年)から寛政十年(1798年)の間に編纂された岡崎城領主に関する年代記。
また、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、
朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。


また、主君を暗殺した阿部弥七郎正豊の罪を問われる事無く、その後も松平家に仕え続けた
阿部大蔵大輔定吉もまた謎である。

阿部定吉と植村氏明との間には何らかの関係性があり、そしてそこには織田弾正忠信秀、
或いは今川治部大輔義元の何らかの策略があったのではないかと思われるがどうなのだろうか。


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阿部 定吉(あべ さだよし)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は大蔵大輔。
松平宗家に仕えたが、息子弥七郎があやまって主君清康を殺害してしまう。
定吉は息子の過ちを詫びようと自害を図るが、清康の嫡子広忠に止められ、以後、誠心誠意広忠に仕えた。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。





次回 第四十話 人質交換 ⇒




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