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親への感謝と敬愛、礼節を説く

 【17//2016】

長良川の戦い



骨肉相争う
弘治二年(1556年)四月二十日、辰の刻

斎藤新九郎義龍が、家督相続により起った内乱を制圧する為に動き出したのを見て、
敵対行動をとっていた斎藤山城守道三が、長良川まで進軍し、両者が激突する。



信長公記によると、

一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、

散々に入りみだれ、相戦ふ。

終に竹腰道塵合戦に切り負け、山城道三竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足侯ところ、

二番鑓に新九郎義龍、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ侯。

義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。

叉、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、

柴田角内、晴れがましき高名なり
と記されている。


義龍勢の先鋒竹腰摂津守道塵の突撃で長良川の戦いは始まった。



長良川の戦い

弘治二年(1556年)四月二十日

斎藤山城守道三とその嫡男斎藤新九郎義龍との間で行われた合戦。

名門土岐氏に替わって美濃国主となった道三は、嫡男義龍に国を譲り隠居した。
しかし、道三と義龍の不仲は深刻なものとなり、道三は義龍を廃嫡し、
自身が寵愛する義龍の弟を跡継ぎにすることを考えるようになった。

そうした動きに気付いた義龍は、美濃稲葉山の屋敷に二人の弟孫四郎龍重喜平次龍定を呼び寄せると、
寵臣(ちょうしん)の日根野備中守弘就に暗殺させ、骨肉相争う事態となった。

道三が国主となるまでの経緯もあってか、家中の大半は義龍を支持し、義龍軍一万七千五百に対し、
道三が動員できたのはわずか二千七百と義龍が有利であったとされる。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

土岐氏(ときし)
家系は清和天皇を祖とする清和源氏の一つ摂津源氏の流れを汲む美濃源氏嫡流として美濃国を中心に栄えた。
五職家の一角を占めるとともに美濃国守護を務め、最盛期には美濃、尾張、伊勢の三か国の守護大名となった。
家紋は水色桔梗紋で、白黒紋でなく彩色紋として知られる。
土岐光衡が戦争で桔梗花を兜に挟んで戦ったのを記念して、家紋としたのが始まりである。
「土岐桔梗」と呼ばれ、旗紋としては水色地に白抜きの桔梗紋が使われた。

斎藤 龍重(さいとう たつしげ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は右京亮、雅楽助。美濃国主 斎藤山城守道三の次男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

斎藤 龍定(さいとう たつさだ)
戦国時代の武将。通称は喜平次。官位は玄蕃。美濃国主 斎藤山城守道三の三男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

日根野 弘就(ひねの ひろなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は徳太郎、備前守、備中守。美濃斎藤家家臣。美濃本田城主。
斎藤道三・義龍・龍興の美濃斎藤家三代に仕えた重臣であったが、斎藤家滅亡後、遠江国の今川氏真に仕えた。
今川没落後は、浅井長政に仕えた。
その後、織田家、豊臣家に仕え、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に参加するものの、
西軍内通の証拠を隠滅した疑いで自害させられている。



激戦

六百ばかりの手勢を率い、一丸となって義龍派の竹腰勢は、道三の旗本へ切りかかった。
双方散々に入り乱れ激戦となったが、最終的には竹腰勢が押される形となり、
竹腰摂津守道塵は道三勢に討ち取られた


道塵討死の報を受けた道三が床机に腰掛け笑みを浮かべたところ、竹腰勢の壊滅を聞いた義龍が、
自ら旗本勢を率い長良川を越え進軍

この時、義龍勢の中から長屋甚右衛門という者が、ただ一騎前へ進み出て武者名乗りをあげ、
道三勢に挑みかかった。
道三勢からは柴田角内という武者が出て、両軍の間で一騎打ちが始まった。

柴田角内が、長屋甚右衛門の首を挙げ、道三勢の士気が上った。
道三はここぞとばかりに全軍に突撃を命じ、迎え撃つ義龍もまた全軍に突撃を命じた。


双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし相戦ひ、しの木をけづり鍔をわり、爰かしこにて思ひ貼の働きあり、

長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、

あら武者の小真木源太走り来なり、山城が鐘を薙ぎ臥せ、頸をとる。

忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり



双方がぶつかり合い、入り乱れ、火花を散らして戦い、激戦となった。
数で劣る道三勢は次第に押され、道三率いる旗本勢が崩れかけた時、
義龍勢の長井忠左衛門尉道勝が突進して道三に組み付いた。


戦国Check✓

長井 道勝(ながい みちかつ)
美濃斎藤氏の家臣。通称は忠右衛門尉。
はじめ、父の道利とともに斎藤道三に仕え、弘治二年(1556年)、長良川の戦いでは父とともに斎藤義龍側に付いた。
道三・義龍・龍興と三代に仕えるが、斎藤氏滅亡後は、井上姓に改め、豊臣秀吉に仕えた。
のち弟の頼次とともに黄母衣衆に加わったというが定かではない。



范可

道三を生け捕りにした長井道勝は、そのまま義龍へ引き渡そうと考えた。
旧主でる道三の首を討つことをためらったものと思われる。

そこへ小牧源太道家が走り寄り、道三の首を切り功を挙げたのである。
下克上の世における戦場では道勝のそんな思いなどは通用しない。

功を奪われた道勝は、後の証拠の為にと道三の鼻を削ぎ落としその場を退いた。

旧土岐氏の勢力に支えられた新九郎義龍は、蝮の異名を持つ梟雄斎藤山城守道三を討ち果たし、
名実ともに美濃国主となった。

義龍を「無能」と評した道三は、この長良川の合戦で、義龍の卓越した戦略戦術を目の当たりにし、
戦国大名としての器量を充分に備えていた事を知り瞠目したという。


合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。

此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしなりけり。

是れより後、新九郎はんかと名乗る



合戦が終り、首実検が行われ道三の首が運ばれてきた時、義龍は、
「これは私の不徳より出た罪である」と言い出家している。
是より後、義龍は新九郎范可(はんか)と名乗ったという。

范可(はんか)とは中国唐の時代の人物で、
止むを得ない事情により父親を殺さざるを得なかった経歴を持つという人物である。

弟二人は殺したものの、父道三を殺す気は義龍には無かったのかもしれない。
戦国の世とはいえ、父を殺してしまった義龍は、古事にある范可に身を重ね合わせ、悲しみを感じていたのである。


戦国Check✓

小牧 道家(こまき みちいえ)
美濃斎藤氏の家臣。通称は源太。
斎藤道三と嫡子義龍の対立時には義龍側に属したが、長良川の合戦で敗死して晒された道三の首を盗み出し、
長良川畔に懇ろ(ねんごろ)に葬ったと伝えられる。


大罪
春秋時代の中国の思想家であり儒家の始祖でもある孔子もまた、いくら世が乱れていようとも
「親殺し」「主君殺し」はあってはならないと「春秋」を編纂している。


世衰え、道微して、邪説暴行作る有り。

臣にして其の君を弑する者これ有り、子にして其の親を弑する者これ有り。

孔子懼て、春秋を作る。

春秋は天子の事なり。

是の故に孔子曰く「我を知る者惟だそれ春秋かな、我を罪する者惟だそれ春秋かな」

(「孟子」滕文公章句下より)


世が乱れに乱れきったとき、道徳は廃れ、邪説ははびこり、犯罪が横行するようになった。
家臣の身で君主を殺す者や、子の身で親を殺す者が現れるようになった。
孔子は、世の混乱を恐れ、事実を残す必要性を感じていた。
善行を善行として、悪行を悪行として歴史を書き連ねていくことが、世の安寧のために必要であると考えたためだ。



この儒教の「親への感謝と敬愛、礼節を説く」の教えは
日本の刑法第二百条に大きな影響を与えていると考えられるが、現在は「削除」とだけ書かれている。
刑法第二百条の条文は過去に大きな論争を巻き起こし廃止となった。

刑法第二百条
「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」

自分や結婚相手の直系尊属(父母、祖父母など)を殺した者は、死刑又は無期懲役にする
という条文が、かつては刑法の条文として存在していた。

刑法第二百条では、直系尊属を殺すと刑法第百十九条の「殺人」よりも罪が重くなると言うことである。
言い換えれば「親殺し」「子殺し」よりも大罪であるという訳だ。
しかし、現代の日本ではその考え方が見直されている。

日本国憲法第十四条で全ての日本人が「法の下に平等」であると謳われているからだ 。


戦国Check✓

春秋時代(しゅんじゅうじだい)
中国の時代区分の一つ。
紀元前770年、周の幽王が犬戎に殺され洛邑(成周)へ都を移してから、晋が三国(韓、魏、趙)に分裂した
紀元前403年までの約360年間を指す。

孔子(こうし)
中国、春秋時代の学者・思想家。
早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、
十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。
晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心し、後世、儒教の祖として尊敬され、
日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。

おススメの本
わが子に教えたい日本の心
青銭大名
悪人がつくった日本の歴史
赤穂義士 忠臣蔵の真相
赤穂義士の歩いた道
あなたが上司から求められているシンプルな50のこと
あの日本史有名人の老い方 死に方
あの名将たちの狂気の謎
あやしい天守閣
あるじは信長
あるじは秀吉
安吾 戦国痛快短編集



次回 第八十七話 殿 ⇒



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組織における補佐役の重要性を改めて評価する

 【17//2016】

偉大なる名軍師



弘治元年(1555年)十月十日
駿河今川家の政治・軍事・外交で今川治部大輔義元を補佐した太原崇孚雪斎が死去する。
享年六十歳。

雪斎の死は、今川家に大きなショックを与えたに違いない。
政治と軍事全ての事を取り仕切り「智謀神の如し」と、近隣諸国にまでその名を轟かせていた、
戦国期最強の名軍師 太原崇孚雪斎の死は駿河今川家の衰退を暗示していた。



軍師(ぐんし)

戦略戦術陰陽術などを駆使し、合戦や外交交渉まで行ったのが軍師である。

軍師は軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者のことである。
このような職務を務める者は、東アジアにおいては古代から軍中にみられたが、
ヨーロッパでは近代的な軍制において参謀制度が確立するまで制度としては存在しなかった。
知将策士などとも言われる。

「軍師」は後世のイメージによって創作された部分が大きく、実際に軍事にのみ助言する軍師という存在は
「三国志演義」「水滸伝」あるいは日本の戦国時代を基に作られた軍記物などの創作の世界にのみ登場する
幻想の存在とする考え方もある。

軍師と聞いてまず最初に思い描くのが、
三国志の天才軍師 諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)である。
伏龍、臥龍とも呼ばれ、蜀の建国者である劉備(りゅうび)の創業を助け、
その子の劉禅(りゅうぜん)の丞相(じょうしょう)として補佐した人物である。

軍師の代表例とも言える諸葛亮孔明であっても、政治・軍事の枠を超えて、
のほとんどの分野に関わった人物であった。


戦国Check✓

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

参謀(さんぼう)
軍隊などの軍事組織において高級指揮官の幕僚として、作戦・用兵などに関して計画、指導にあたる将校の役職。

諸葛亮 孔明(しょかつりょう こうめい)
中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍人。字は孔明(こうめい)。
司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。
蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。
今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。

(しょく)
中国の三国時代に劉備が巴蜀の地(益州)に建てた国。
蜀は魏、呉と共に三国時代を形成した一国である。
巴蜀(現在の四川省・湖北省一帯)を領土とし、成都を都に定めた。
実際には魏の文帝曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、漢の正統を継ぐものとしたため、漢が正式な国号である。
蜀あるいは蜀漢という呼称は、後世の人々が統一王朝であった漢との区別のため便宜上つけたものである。

劉 備(りゅう び)
後漢末から三国時代にかけて活躍した武将。蜀の初代皇帝。
黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。
諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。
その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。
明代の小説「三国志演義」でも中心人物として登場する。

丞相(じょうしょう)
古代中国の戦国時代、秦王朝、漢王朝において、君主を補佐した最高位の官吏を指す。
今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。
古代中国では、丞相が2名置かれることがしばしばあった。
この場合「右丞相」「左丞相」と呼ばれ、王朝によってその上下関係に違いがあるものの、
一方が正宰相、残る一方が副宰相となった。
なお、宦官がこの官職に就く場合は、中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。





補佐
劉備劉禅親子の右腕として特殊な技術知恵を駆使しながら、親子を補佐した諸葛亮孔明の様に、
戦国時代にも多くの名軍師がその策を競い合い戦国大名を補佐している。



武田大膳大夫晴信の伝説的軍師として武田二十四将の一人にも数えられた山本勘助晴幸

羽柴筑前守秀吉に天下を獲らせた竹中半兵衛重治黒田官兵衛孝高

戦略、戦術に長け策士として名を轟かせた真田安房守昌幸

毛利治部少輔元就や甥の毛利右馬頭輝元を支えた小早川左衛門佐隆景

石田治部少輔三成に過ぎたるものとまで謳わせた島左近清興

独眼竜の補佐役として伊達藤次郎政宗に仕えた片倉小十郎景綱

上杉弾正少弼景勝の側近として義を貫いた直江山城守兼続

羽柴筑前守秀吉の影の存在として活躍した羽柴小一郎秀長など、名軍師と呼ばれる人物は数多くいる。



その数多くいる名軍師の中で1、2を争う人物が、
駿河今川家の発展と繁栄に大きく関わり、黒衣の宰相(こくいのさいしょう)の異名を持った
名軍師太原崇孚雪斎である。

雪斎の最も大きな活躍としては、甲斐武田氏、相模北条氏と結んだ甲相駿三国同盟である。
三国同盟を結んだことで武田・北条・今川はそれぞれの勢力拡大に集中できるようになった。

また三河岡崎城主松平次郎三郎広忠が暗殺されると、すぐさま西三河の安祥城を取り囲み、
城主織田三郎五郎信広を捕らえ、織田方に人質となっている広忠の嫡子竹千代との人質交換を成功させ、
三河松平氏を今川家の支配下に入れるなど、今川家の発展繁栄の背後には、間違いなく雪斎の存在があった。



資質
補佐役(ナンバー2)の一般的な仕事は、情報の収集から始まり、収集した情報の分析
分析の結果からの問題定義、そして問題定義の解決策である。
トップはこれらを判断し決定する。

トップの仕事が決断なら、補佐役の仕事は残り全てであるといわれている。

だが補佐役が力を発揮しすぎて表に現れてはいけない。
このパターンは国が滅びる危険性を多く含んでいるからだ。

補佐役はあくまでも戦略を立案するまでであり、
「これをやりましょう」と踏み込んだ発言をしないことが重要である。
さらには「あれはオレがやった仕事」などと言うのは論外である。
もっと言えば、「私は補佐役(ナンバー2)である」という存在を明確にするのではなく、
あくまでも現場にいる全組織の一員として、自らの役割をこなすという意識が必要なのである。

上記の事から考えると羽柴小一郎秀長などはまさに名補佐役であるといえるのではないか。
数多くの武功を立て、天下統一をめざす兄藤吉郎秀吉を支えたが、五十二歳で亡くなるまで、
自らの功績をけっして誇ることはなかったという。




戦国Check✓

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)
天文二十三年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の
三者の合意によるもの。
締結時に三者が会合したという伝説(後述)から善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)とも呼ばれている。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

おススメの本
松平家の謎
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ
真似てみたい 武士の妻の作法
三日月竜異聞~伊達政宗嚆矢
三河物語 原本現代訳
三河物語―マンガ日本の古典
水の城―いまだ落城せず



今川家最強の布陣
雪斎は、軍略にも秀でており、義元に代わり一軍を率い戦場に赴くことも度々あった。

義元が領国を守り、雪斎が今川軍団を統率する

もし仮に雪斎が健在であれば、もしかすれば今川軍団を率いて桶狭間に向かったのは雪斎であり、
義元は領国を守っていたのかも知れない。
義元が若くして家督を嫡男上総介氏真に譲ったのも、雪斎の死が原因だったものと思われる。




次回 第八十三話 智慧の鏡 ⇒



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 【14//2016】

三河武士の忠誠心


貧しさに苦しもうとも命を惜しまぬ三河武士の忠誠心は、
忠臣であった鳥居伊賀守忠吉によって松平党に植えつけられたものと考えられる。

忠吉は駿府に人質として預けられている幼君竹千代の遊び相手にと、
息子の彦右衛門元忠を駿府へ送っている。
この時、竹千代は十歳、彦右衛門は十三歳であった。



三河武士(みかわぶし)
酒井左衛門尉忠次本多平八郎忠勝
元信の主な家臣は三河武士で構成されている。

一般的に精強忠誠心が強く面倒くさいとされている。

松平次郎三郎元信(徳川家康)に仕えて、江戸幕府創業に貢献した譜代の三河出身の家臣を総称して
「三河武士」「三河衆」と呼ぶ。

語源は、大久保彦左衛門忠教著「三河物語」に、
「三河之者」「三河衆」とある。

また、「柳営秘鑑」にも「三河衆」とある。



戦国Check✓

酒井 忠次(さかい ただつぐ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は小五郎、左衛門尉。官位は従四位下左衛門督。三河松平氏譜代家臣。
徳川家康が幼いころから仕え、今川氏から自立して三河一国を支配した時点で吉田城をまかされ、「東三河の旗頭」
と呼ばれ、「西三河の旗頭」石川家成(のち甥の数正)と共に家康の「両家老」といわれた。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
戦国時代から江戸時代前期の武将。通称は平八郎。官位は中務大輔。三河松平家臣。
藤原北家兼通流本多家第十一代当主。
本多平八郎家初代当主。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。
生涯で五十七回の戦に参戦したが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと云われ、
徳川四天王、十六神将、徳川三傑に数えられる猛将。
家康の功臣として「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された名将。

鳥居 忠吉(とりい ただよし)
戦国時代の武将。通称は伊賀守。三河国碧海郡渡城主。
三河国松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・松平広忠・松平元康(後の徳川家康)の三代に渡って仕えた。
生年は不明だが、没した時に八十余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。

鳥居 元忠(とりい もとただ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は彦右衛門。下総国矢作藩初代藩主。
人質時代から家康に付き従った家臣。徳川十六神将の一人。
姉川の戦い、三方原の戦い、長篠の戦いなどで功をたて、家康の関東入国にあたり下総国矢作城主となる。
関ケ原の戦いに際して伏見城の留守をまもるが、西軍の攻撃により戦死。





鳥居家譜によると、
「忠吉が子彦右衛門元忠をば、君の御側にまいらせ置て御遊仇とせしが、

君は十歳、彦右衛門は十三歳なり。・・・・・

そのころ百舌鳥をかひ立て鷹のごとく据よと、彦右衛門に教へ諭し給ひけるが、

据方よからずとていからせ給ひ、橡より下に突き落し給ひければ・・・」



ある時、竹千代は鷹狩りを真似て、飼い育てていた百舌鳥(もず)を腕に乗せてみろと、
彦右衛門にやらせてみたが彦右衛門は据え方がよく解らず上手く出来なかった。

それを見ていた竹千代は怒りだし、彦右衛門を縁から突き落としたという。

その様子を見ていた大人達が、忠吉殿が忠誠を尽すあまり息子までお側に参らせているのに、
どうしてそのような仕打ちをなされるのかと、竹千代を諫めたという。



鷹狩
支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、日本書紀では仁徳天皇が鷹狩を好み、
タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録が残されている。

戦国武将の中でも特に松平次郎三郎元信は鷹狩を好み、
鷹匠組と言う技術者が側近として常に近侍することを命じていたようである。


戦国Check✓

鷹狩り(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、
餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

仁徳天皇(にんとくてんのう)
諱は大雀命、大鷦鷯尊。称号は天皇。第十六代天皇。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と
互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去により即位した。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の
茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。








忠吉の教え
彦右衛門を縁から突き落としたという話を伝え聞いた忠吉は、

「なみゝの君ならんには、御幼稚にてもそれがしに御心を置せ給ふべきに、

いさゝかその懸念おはしまさで、御心の儘に愚息をいましめ給ふ、

御資性の闊大なるいと尊とし。

この儘に生立せ給はゞ、行末いかなる名将賢主にならせ給ひなん」



並の主君であったなら、幼くても私のことを気にかけてしまうだろうが、そのようなこともなく、
お心のままに愚息をお叱りになったのは器量の大きい証拠だ。

このまま成長なされたなら、将来はどれほどの名将賢君になられるだろうかと感激し喜んだという。

これを聞いた者達は皆、忠吉の忠誠心に感じ入ったという。



戦国武士の全てがそうなのかは解らないが、三河武士の真情がよく伝わる逸話である。



またこんな仕打ちを受けた己が愛子である彦右衛門に対し忠吉は、
「彦右衛門汝は末永くつかへ奉り、萬につけてをそそかにな思ひそ」
と厳しく言い渡したという。

この忠吉の教えを忠実に守った彦右衛門は、
後年主君家康の命を受け、山城伏見城壮烈な最期を遂げるのである。




松平宗家のためなら自己犠牲もやむなし

この裏には
「いざというときは、忠義をつくした相手がきっと自分を守ってくれるだろう」
との期待が込められていたのではないだろうか。

また自分にできる最高の仕事をするためには、
家臣は主君と主君がめざすものに対する忠誠心を持っていなければならないとする忠吉の偏った考え方が
「自己犠牲もやむなし」という考え方になるのかもしれない。

「家臣は自己犠牲のもと100%御家に貢献し、見事なパフォーマンスを示す」

正規社員が減り、年功序列や終身雇用も崩れた現代においては考えられない「忠誠心」である。


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山城伏見城(やましろふしみじょう)
山城国紀伊郡伏見(現在の京都府京都市伏見区桃山町大蔵)にあった城。


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息子の過ちの許しを請う母

 【13//2015】

内部抗争の決着・勘十郎信行の死


弘治二年(1556年)八月二十四日
織田弾正忠家で起きた家督争いから発生した稲生の原の合戦において、
織田上総介信長は多くの首級(しゅきゅう)を挙げ、その日のうちに尾張清洲城に帰城している。

翌日首実検をおこなったところ、
取った首級は林美作守通具をはじめとしてその数、四百五十にのぼったという。

この合戦後、信長は叛旗を翻した信行勢に対して非常に寛大な措置を見せた。

謀反を起こした勘十郎信行を特に罰することもなく、赦免(しゃめん)している。
しかも信長は、林佐渡守秀貞柴田権六勝家にも罰を与えなかったのである。


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稲生の戦い(いのうのたたかい)
弘治二年(1556年)八月二十四日に、現在の名古屋市西区で起きた戦い。
尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟織田信行との家督争いから起きた戦い。
稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。


赦免嘆願

御袋様の御使として、色々様々御詫言にて、御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、

御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり



土田御前は、さまざまに詫び言を伝え、信行の赦免を頼み込んだ為、信長はこれを許している。

勘十郎信行 柴田権六勝家 津々木蔵人は、
墨染めの衣姿で土田御前と共に尾張清洲城に現れ赦免の礼を述べたという。

信長の寛大な措置は、内部分裂による織田弾正忠家の弱体化を防ぐ為の処置であった。


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土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。
法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。

津々木 蔵人(つづき くらんど)
末森城主織田信行の近臣。津々木は都筑、都築とも書かれる。
「信長公記」によると、天文二十四年(1555年)六月、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵が
織田信長、信行の弟 秀孝を射殺し、信次は逐電。
信行は守山城下を焼き払い、その後守山城攻囲のため大将として派遣したのが柴田勝家と津々木蔵人であった。
蔵人は信行の若衆で、柴田勝家と並ぶ地位を占めていた。
信行の死後、蔵人の消息についての記述はなく、不明である。







しかしこの二年後、再び謀反を企てた信行を信長は殺害している。

謀反を企てた信行を、元腹心であった勝家が信長に密告したため、
信長は信行を清洲城北櫓天主次の間に呼び寄せて殺害する。

この頃、信行と勝家の主従関係は微妙な関係となっていた。
信行は従来の腹心であった柴田勝家を遠ざけ、津々木蔵人と言う者を優遇し、腹心としている。

勝家もまた稲生の原の合戦以降、信長に心を寄せるようになっており、
勝家の心は少しずつ信行から離れていったのである。

信行は有力な家臣をみなこの津々木蔵人の配下に付け、再度謀反を企て
その総司令官的なポストに津々木蔵人を配置している。

津々木は有頂天となり、重臣である柴田勝家をないがしろにする始末であった。

人の心を掌握できなかった信行は、元腹心であった勝家により謀反の計画を密告されてしまうのである。
計画をしった信長は、病気と称して気弱な手紙を土田御前に送っている。
驚いた土田御前は、信行に見舞いに行くように懇願し、すでに信行を見限っていた勝家もそ知らぬ顔でこれを勧めた。


弘治三年(1557年)十一月二日
病気見舞いに訪れた信行は、清洲城北櫓天主次の間で、
信長の乳兄弟である池田勝三郎恒興によって斬られ絶命する。

最愛の息子を失った土田御前は、以後信長に引き取られるが、
信行を殺された憎しみを生涯抱いたまま息子信長と暮らすことになる。

皮肉にも土田御前は、兄弟の殺し合いから織田家の没落までを見届けることになる。

また「池田家履歴略記」によると、
信行を討った池田恒興に信長は事後処理として、恨みを残さぬようにと信行の未亡人を妻に迎えさせ、
遺児を引き取らせている。

信行未亡人はのちに池田家の繁栄をもたらした古新を生むことになる。
のちの池田三左衛門輝政である。

こうして弟との戦いに決着をつけた上総介信長は、尾張統一に向けて歩み始めることになる。


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池田 恒興(いけだ つねおき)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は勝三郎、官位は紀伊守(自称)。
織田弾正忠家臣。織田信長、豊臣秀吉に仕える。清洲会議における四宿老の一人。
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
信長の乳兄弟であり輝政の父であることからついた名ではないかと思われる。

池田家履歴略記(いけだけりれきりゃくき)
池田家歴代の重要事件を編年で記述したもの。
著者は岡山藩士の斎藤一興。全二十六巻。

池田 輝政(いけだ てるまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は三左衛門。官位は武蔵守、侍従、右近衛少将、参議。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。播磨姫路藩初代藩主。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれる。
信長、秀吉に仕え、豊臣時代には、豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。
また、関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、
福島正則とともに功を挙げた。

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尾張の大うつけが、絶世の美女に恋をした

 【13//2015】

最愛の女性


弘治三年(1557年)
織田上総介信長の長子奇妙丸が尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で誕生する。
のちの織田勘九郎信忠である。

生母は側室の生駒吉乃という説が一般的だが、異説もある。



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織田 信忠(おだ のぶただ)
安土桃山時代の武将。通称は勘九郎。官位は出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将。
織田弾正忠家第五代当主。織田信長の嫡男。
父信長に従い長島の一向一揆、長篠の戦などに転戦し、信長が安土に移った後は、
織田弾正忠家を継承し岐阜城主となる。
甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国攻めのため上洛するが、京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知り、
二条城で光秀方に包囲され自刃。

生駒 吉乃(いこま きつの)
戦国時代の女性。織田信長の側室で、信忠、信雄、徳姫(見星院)の母。
馬借を家業としていた生駒家宗の長女。
名は「前野家文書」で吉乃(吉野)と創作されるが実名ではない。




武功夜話によると、
馬借を家業としていた生駒因幡守家宗吉乃(吉野)という娘がいた。
しかし生駒家に伝わる系図には吉乃の名は記されておらず、記されている名は「類」であり、
「類」が正式な名であると推察されている。

信長と吉乃

川賊
尾張生駒家についての資料は乏しく、不明確な点が多い。
太政大臣藤原良房の子孫が大和国平郡生駒の地に移り住み、後に生駒を名乗るようになる。

応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱の戦禍から逃れるため、
生駒左京進家広の頃に尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。

灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え富家となる。

上総介信長の飛躍の裏には
生駒家の資金力情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたと言われている。

当時、生駒屋敷は各地から浪人や旅芸人などが多く集まり、情報交換の場として広く開放されていた。
その為 諍い(いさかい)も絶えず、その諍いが発展し抗争になることも少なくなかった。
そこで「川並衆」と呼ばれる傭兵部隊を率いる蜂須賀小六正勝という者に警固にあたらせていた。

美濃と尾張との国境に流れる木曽川流域には古くから「川並衆」と呼ばれる独立勢力があった。
人々からは川賊と呼ばれ恐れ嫌われていたが、信長は早くからこの川並衆の力に目を付け、
自陣に引き入れようと模索していた。

その川並衆の党首である蜂須賀小六正勝を従わせる程の生駒家の経済力とはどれ程のものなのか。
また他国から集まる情報網に目をつけていた信長は、
情報収集基地として頻繁に生駒屋敷に出入りするようになっていた。




愛惜
しかし信長が生駒屋敷に足繁く通った最大の理由は他にあった。
それは、以前から好意を寄せていた女性が生駒屋敷にいたためである。

その女性こそが吉乃であった。

吉乃は弘治二年(1556年)の明智城の戦いで、
夫である土田弥平次を失い後家(ごけ)として実家である生駒屋敷に戻っていた。

吉乃は信長より六歳年上であったとされ、母から与えられなかった愛情を信長は吉乃に求め、
吉乃もまた信長のその欲求を満たしてやっていたのである。

信長最愛の女性とまで言われた吉乃であったが、
勘九郎信忠三介信雄徳姫と信長の子をもうけたが産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなっている。
享年三十九歳であったとされる。

久昌寺縁起(きゅうしょうじえんぎ)によると、吉乃の死を深く悲しんだ信長は、常に吉乃を愛惜(あいじゃく)り、
美濃小牧山城望楼(ぼうろう)から彼女の墓のある西の方角を望んではを流していたという。

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武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
三巻本、二十一巻本などいくつかの異本が存在している。

生駒 家宗(いこま いえむね)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒家第三代当主。
生駒氏は灰や油の商いと馬借で冨を築き、小折城と呼ばれる屋敷を構えた尾張国丹羽郡小折の土豪。
武家商人として飛騨国から三河国まで広範囲の商圏を有し、犬山城主織田信清に属していた。
その後、出戻りの娘類(吉乃)が織田信長の側室となったことにより、信長に仕え重用された。
屋敷は遠方から多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の財力と情報力を求めて近づいた。

蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は小六、小六郎。官位は従四位下修理大夫。尾張蜂須賀家第三代当主。
正勝は、秀吉の片腕として秀吉に従軍して数多くの合戦に参加しているが、槍働き(白兵)としての活躍よりも、
参謀として民政や調略に手腕を発揮した人物であったことが知られている。

明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)
弘治二年(1556年)九月十九日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安は、弟光久と一族を集めて籠城し、
義龍軍3,700余の軍勢を相手に二日間にわたり抵抗したという。
光安は、光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃したという。
この時、光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが証明するものはない。
城は落城後再興されることもなかった。

後家(ごけ)
夫と死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。

愛惜(あいせき)
愛して大切にすること。名残惜しく思うこと。あいじゃく。

望楼(ぼうろう)
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