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念願の尾張統一。信長の歴史はまだまだ続くんだZ!

 【19//2014】

浮野合戦の事

永禄元年(1558年)
織田上総介信長は尾張統一を目指し尾張岩倉城攻めを開始する。

永禄元年(1558年)七月十二日
尾張岩倉城主織田伊勢守信賢を攻略すべく、二千の兵を率いて尾張清洲城を出陣。


戦国Check✓

尾張岩倉城(おわりいわくらじょう)
尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。



激戦
信長公記によると、
清洲と岩倉は直線にして三十町足らずの距離(約3.3km)であったが、直進すれば悪所が続き攻め難く困難を要する為、北西に三里迂回し、岩倉西方の浮野という地に展開し布陣したとある。
現在でいう愛知県一宮市にあたる。

これに対し信賢は、三千の兵を率い岩倉城を出陣し、信長勢と対峙した。

合戦は午(うま)の刻に始まった。

両軍が一斉に敵軍向かって突撃し、敵味方入り乱れての激戦となるが、
尾張犬山城主織田下野守信清の援軍が到着すると形勢は一気に傾き、信賢勢を追い崩した。

信賢勢は信清勢の急襲に混乱し陣形は崩れ、逃げまどうところを次々と信長勢に討ち取られていった。

千二百を超える死者を出し、壊滅寸前のところで信賢は岩倉城へ敗走したという。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。



相打つ
信賢勢の中に尾張国丹羽郡浅野村の林弥七郎と申す弓達者の者がいたと記されている。

弥七郎は先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者ではないかと云われている。

敗軍の中、弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた信長勢の鉄砲の名人橋本一巴に声をかけられた。


浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体(じんたい)なり。

弓を持ち罷(まか)り退き候ところへ、橋本一邑、鉄砲の名仁、渡し合ひ、連々(れんれん)の知音(ちいん)たるに依って、

林弥七郎、一邑に詞(ことば)をかけ候。

「たすけまじき」と申され候。

「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根を、しすげたる矢をはめて、立ちかへり候て、

脇の下へふかぶかと射立て候。

もとより一邑も二ツ玉をこみ入れたるつゝ(筒)をさしあてて、はなし候へば、倒れ臥しけり。



橋本一巴とは信長の鉄砲の師匠であり、鉄砲の名人であった。

「弥七郎、汝とは長年に渡り互いによく心を知り合った友であるが、この場にあっては助けることも出来ない。」

「いざ勝負」

「心得候」

弥七郎が強く弓を引き放つと、矢は一巴の脇下へ深々と命中し、
一巴が放った二発玉も見事弥七郎に命中し、相打ちとなった。


戦国Check✓



武辺者

然るところを、信長公の御小姓衆佐脇藤八走り懸かり、林が頸(くび)をうたんとするところを、

居ながら大刀を抜き持ち、佐藤藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。

かゝり向って終に頸を取る。

林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。


その様子を見ていた信長の御小姓衆佐脇藤八郎良之が、
手柄を得ようとまだ息のある弥七郎の首を討ち取らんと走りよって来たが、
逆に太刀を抜いて良之の左肘を切り応戦する。

しかし最後は、良之に組み伏せられた弥七郎は首を討ち取られた。

首は討ち取られたが弥七郎の奮戦を見ていた敵味方から
「弓と太刀の両用の働き比類なき武辺者」と賞賛されたという。

信長は岩倉城へ敗走する信賢勢を追撃することはせず、そのまま清洲へ帰還している。
翌日首実検を行ったところ、首数は千二百五十余にのぼった。



岩倉落城ノ事
翌永禄二年(1559年)春
織田上総介信長は軍勢を率い、尾張岩倉城を包囲

岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、

二、三ケ月近陣にとりより、火矢・鉄炮を射入り、様々攻めさせられ、越訴拘へ難きに付いて、渡し進上侯て、ちり転、

思ひ貼罷り退き、其の後、岩倉の城破却させられ侯て、清洲に至つて御居城侯なり。


信長は岩倉城下を焼き払い裸城にしてから、四方を鹿垣で囲み、
廻番を据え置き長期包囲により外界との接触を遮断する。

しかも信長は、二、三か月におよぶ長期包囲中、連日城内に火矢・鉄砲を撃ち込ませた。

城兵は思い思いに退去し、万策尽きた織田伊勢守信賢は数ヶ月に及ぶ篭城戦の末、ついに城を明け渡し、
降伏する。


織田上総介信長はついに念願であった尾張統一を成し遂げたのである。




次回 第百九話 信長の色小姓



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同族の誼

 【17//2014】

織田伊勢守家の内紛

尾張下四郡の支配を固めつつあった織田上総介信長は、
いよいよ尾張統一に向け尾張上四郡を支配していた織田伊勢守家の攻略に動き出す。


戦国Check✓

尾張上四郡(おわりかみよんぐん)
尾張国春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡に及ぶ範囲。

尾張下四郡(おわりしもよんぐん)
尾張国海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡(現在の愛知県名古屋市から知多半島)に及ぶ範囲。



叛旗
織田伊勢守家当主である織田伊勢守信安は、
織田弾正忠信秀の妹秋悦院を妻として迎えており、織田弾正忠家とは縁戚関係にあった。

しかし、弘治二年(1556年)四月
長良川の戦いで斎藤山城守道三が嫡子新九朗義龍に討たれると、
信安は義龍と呼応し信長と敵対するようになる。

また信安は、弾正忠家の家督問題にも関与しており、
織田勘十郎信行と共謀して信長廃嫡行動を起こすなどの動きも見せていた。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

長良川の戦い(ながらがわのたたかい)
弘治二年(1556年)四月、斎藤道三とその嫡男斎藤義龍との間で美濃国(岐阜県)の長良川にて行われた合戦。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

織田一族



家督騒動

永禄元年(1558年)
織田伊勢守信安は、嫡男左兵衛信賢によって国外へ追放されている。

信安には、嫡男左兵衛信賢と次男信家の二人の子息がいたが、信安が次男信家を溺愛するあまり信賢を廃嫡にし、信家を後継者にと考えるようになり、織田伊勢守家は二派に別れ相続の争いが行われるようになった。

御家安泰を求める家臣達と争いを避けるべく道を模索した信賢は、美濃国の斎藤義龍に後ろ楯を頼み、
自らが後継者として名乗りを挙げ、父信安と弟信家を国外へ追放するのである。

この織田伊勢守家の内紛を信長はただ傍観していた訳ではない。

伊勢守家の相続争いを裏で操っていたのは信長であった。

織田伊勢守家攻略に動き出していた信長は、
生駒八右衛門家長を織田伊勢守家重臣稲田修理亮植元前野右京進宗康福田大膳正に接触させ、
信安引退をほのめかすなどの調略をめぐらしている。
 
また信賢との戦いに備え、一時敵対関係にあった尾張犬山城主織田下野守信清に、
自分の姉である犬山殿を嫁がせ協調体制をとるなど、着々と織田伊勢守家攻略の包囲網を形成させていく。


戦国Check✓

生駒 家長(いこま いえなが)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒家第四代当主。
灰(染料用)と油を扱い、馬借としての商いで財を蓄えた武家商人。
はじめ犬山城主 織田信清の配下であったが、妹の吉乃(類)が織田信長に見初められ側室に迎えられ、
縁戚関係を結んだため、父ともに信長の家臣となり馬廻りとして仕えた。

稲田 植元(いなだ たねもと)
戦国時代から江戸時代初期の武将。幼名は亀之助。通称は左馬亮。洲本城代稲田家初代当主。
尾張国岩倉城主織田信安の家臣、稲田大炊助貞祐の三男として誕生。
蜂須賀小六に従い、阿波蜂須賀藩筆頭一番家老となり阿波脇城番を勤める。
江戸所代になると徳川幕府の命により淡路洲本城代となり、稲田家は明治維新まで代々洲本城代を勤めた。

前野 宗康(まえの むねやす)
坪内 勝定(つぼうち かつさだ)
戦国時代の武将。通称は小次郎、右京進。
前野宗康と坪内勝定は同一人物ではないかと言われている。
小坂雄吉・前野長康・前野勝長の父。
坪内文書によると、信長より六百八十七貫文の地を安堵され、さらに三百貫文の地を宛行われたと記されている。

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。




尾張を追放された織田伊勢守信安は美濃国武藝郡白金の郷へ逃れ、斎藤義龍の家臣となり、
義龍の死後もその子刑部大輔龍興に仕え信長に抵抗するが、後年同族の誼から信長に罪を許され、
美濃白金に所領を与えられている。
また共に亡命した信安の次男信家は信長の嫡男勘九郎信忠の家臣となっている。



次回 第百八話 浮野合戦の事



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総動員可能兵力数

 【01//2014】

総動員可能兵力数

今川治部大輔義元の尾張侵攻軍は総勢二万五千、迎える織田上総介信長の軍勢は総勢二千余りというのが通説となっている。
そして通説では「奇襲攻撃」となる。

しかし、いくら全軍を率いて義元の首だけを狙い奇襲攻撃をしかけたところで、その兵力差は10倍以上に及ぶ。
これだけの兵力差の前で相手になるはずが無い。
信長公記によると、
今川義元の軍勢は四万五千と記されており、実際のところこの兵力差自体に信憑性があるのか疑問である。

そもそも戦国大名の動員兵力は、領地の石高により左右される。
動員兵力を算出する際の目安となる数値が、一万石に対し、250人~300人の兵力とされている。
では、この数値で動員兵力を算出すると、今川義元と織田信長の兵力の差はどうなるのか。
後に行われた慶長検地の結果から、両軍の兵力を算出してみると意外な事が解る。
駿河国 約十五万石、
遠江国 約二十五万五千石、
三河国 約二十九万石
六十九万五千石となる。
この石高から今川軍の総動員可能兵力を算出すると、17,375~20,850となる。

一方、尾張国はというと、
尾張国 約五十七万千石
織田軍の総動員可能兵力を算出すると、14,275~17,130となる。

「あれ?」
尾張一国の織田信長と、三国の太守である今川義元の間に余り開きが無いことが解る。
これは肥沃(ひよく)な土地が広がる尾張平野に対し、山が多く一国あたりの石高が低い今川領との差である。
とは言え、尾張統一直後の信長に全ての兵を動員できたかどうかは微妙である。
また美濃国からの脅威にも備えの兵が必要だったであろう事も考えられる。
しかも丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津の砦にも守備兵が必要である。
以上の事から全体の3分の1程度の兵力しか動員出来なかったとしても4,758~5,710という事になる。

一方の今川軍だが、三国同盟を結んでいるとは言え、甲斐国の武田や相模国の北条への備えにある程度の兵を
領国内に残しておく必要はあったと思われる。
また、松平隊・朝比奈隊らの先行部隊の兵を差し引くと、義元本陣の動員可能兵力は、せいぜい10,000程度なのではないかと思われる。
「ん?」
まあそれでも2倍以上の兵力差はあった事になる。
しかしこうして仮説を立てて検証してみると、奇襲によらずとも織田軍が今川軍に勝つ可能性が出てくる事になる。





そもそも「奇襲説」は、信長公記を参考にして書いた以降の軍記物により、面白おかしく着色されていった事による為かと思われる。
「敵勢の後の山に至りて推廻すべし。山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかかれ」
これは「信長記」に記された義元の本陣を急襲せよという信長の作戦の全貌である。
ところが、一級史料の「信長公記」には迂回した事実は一切書かれていない。
総動員可能兵力数に関してはあくまで推測ではあるが、「奇襲説」に関しては果たしてどうなのだろうか・・・。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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大日本帝国陸軍参謀本部による桶狭間の合戦

 【01//2014】

大日本帝国陸軍参謀本部による桶狭間の合戦


永録三年(1560年)五月
東海の覇者今川治部大輔義元が、二万五千の大軍勢を率い尾張へ侵攻。

桶狭間合戦の通説によれば、織田上総介信長が十倍以上の敵を撃破ることが出来たのは「奇襲攻撃」にあったとされている。
が果たしてそれは本当なのだろうか。
桶狭間の合戦については未だ謎に包まれている。

我々に馴染みのある桶狭間合戦の通説は、大日本帝国陸軍参謀本部が日本で起きた合戦を軍部の視点でまとめた「日本戦史」によるところがある。
軍事の専門家により作られた物であった為、それなりに価値のある物とされてきたが、歴史の専門家という訳では無い為、物事の解釈や推理が偏る傾向にあり、近年、歴史家による新説が色々と注目されてきている。




大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝國陸軍)
1871年(明治4年)から1945年(昭和20年)まで日本(大日本帝国)に存在した陸軍。

参謀本部(さんぼうほんぶ)
大日本帝国陸軍の軍令を司った機関。
参謀総長を長として、作戦計画の立案等を職務とする。


今では義元が尾張へ侵攻してきた理由には色々と諸説がある。
通説としてよく語られているのが、「義元上洛説」である。
上洛の途上にある尾張を斬り従えて・・・・というものだ。
これは大日本帝国陸軍参謀本部の視点でまとめられたものである。
日本戦史によると、
「戦国時代における英雄豪傑中、東海道方面にあったものは、地理的に力を中原(中央)に伸ぶるの便が多かった為(中略)天子を奉ずることを最も捷徑(近道)と考へ、何れも京都の占有を目的となし、その行動を律した」
と記されている。

信長に関する第一級資料とされている信長公記によれば、
「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」
という文面から桶狭間の戦の項が始まる。
「義元上洛」については一切ふれられていない。

しかし信長公記以降に執筆された「信長記」では、
「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば…」
義元が上洛して天下を斬り従えるために駿河を出陣したと記されている。

また「織田軍記」では、
「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる・・・」
と記されている。

執筆順からすると「信長公記」→「信長記」→「織田軍記」→「日本戦史」という順になる。
当初、はっきりとしなかった「義元の尾張侵攻」が時の経過とともに「義元上洛」へと移り変わっていく。
歴史と言うものは言い伝えられる過程で、あるいはその時の時代背景で、都合のいいように誇張して伝えられていくものなのである。


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織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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諏訪の姫

 【01//2014】

諏訪の姫


天文十四年(1545年)
武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)は、諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室として迎えている。

山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)が、武田家の重臣たちの反対を押し切って、諏訪の姫を側室として迎える事を
晴信に強く進言した為であるとされている。
諏訪家の姫が晴信の子を産めば、信濃の名門である諏訪家との絆となり、諏訪への懐柔策(かいじゅうさく)になるであろうと考えたからである。
また、「尋常隠れなき美人」と現在にも言い伝えられる程の美貌をした諏訪の姫を、側室へと望んだのは晴信自身であったとする説もある。
どちらにしても、武田家に深い恨みを抱いていた諏訪の姫を側室として迎える事は、晴信にとって非常に危険な事であった。

諏訪氏(すわし)
日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。
諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。

諏訪の姫が武田家に深い恨みを抱いていたのには訳があった。
天文十一年(1542年)六月
晴信は、諏訪氏庶流である高遠信濃守頼継(たかとおしなののかみよりつぐ)と共に諏訪領への侵攻を開始し、諏訪の姫の父である諏訪刑部大輔頼重(すわぎょうぶのだゆうよりしげ)の本拠上原城を攻略し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み
諏訪領を制圧していた。
諏訪氏は、出雲神話の神建御名方神(タケノミナカタヌシ)の血筋を継承した極めて尊貴な血筋とされていた特異な家系であり、代々、諏訪大社の大祝(おおほうり)を務めてきた一族である。
大祝とは、神として諏訪社の頂点に位置していた神職であった。





高遠 頼継(たかとお よりつぐ)
信濃国の国衆で、伊那郡高遠城(長野県伊那市高遠町)城主。甲斐武田氏の家臣で信濃先方衆。
諏訪郡の領主諏訪氏庶流の高遠氏の当主で、諏訪姓も称している。

諏訪 頼重(すわ よりしげ)
信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。上原城城主。
諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。

建御名方神(たけみなかたのかみ)
日本神話に登場する神。
「古事記」の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。
長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ、他田氏や保科氏など
諏訪神党の氏神でもある。

また、もともと武田家と諏訪家は武田信虎の三女・禰々(ねね)が諏訪頼重に嫁いでおり、同盟関係にあった。
晴信にとって頼重は妹の夫であり、義兄弟ということになる。
しかし父・信虎を国外追放にし、国主となった晴信は、生き神としての諏訪の血に目を付け、諏訪領への侵攻を画策するようになる。
信濃侵攻を本格化させた晴信は、諏訪氏庶流である高遠頼継や、諏訪下社の金刺氏と手を結び、
二万の大軍をもって諏訪領に侵攻。
武田軍の侵攻を許した諏訪家は、圧倒的な武田家の軍事力の前に成す術も無く上原城は落城。
しかし諏訪頼重は、桑原城に退いて尚も武田家に抵抗した。

禰々御料人(ねねごりょうにん)
甲斐国国主武田信虎の3女。信濃国諏訪領主諏訪頼重の正室。
武田信玄の異母妹で、信玄の次妹にあたる。
武田義信・武田勝頼(後に諏訪氏の名跡を継ぐ)は甥。

上原城(うえはらじょう)
信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市ちの上原)にあった中世の山城。長野県指定史跡。
金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城である。
築城年は定かではないが、文正元年(1466年)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、「守矢頼実書留」によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。

桑原城(くわばらじょう)
信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪市四賀桑原)にあった中世の山城。
別名を高鳥屋城(たかとやじょう)、水晶城(すいしょうじょう)。長野県指定史跡。
築城年は不詳であるが、諏訪総領家の本拠上原城の支城としての役割を果たしていた。
現在は、標高981m(比高差約190m)の山頂や尾根に、本丸跡、二の丸跡、土塁、空堀などの遺構が残る。
城跡からは諏訪湖が一望できる。


天文十一年(1542年)七月五日
諏訪頼重は、助命を条件に晴信に降伏し、桑原城を開城する。
しかし頼重は、弟の諏訪勝三郎頼高(すわかつさぶろうよりたか)と共に甲府に連行され東光寺に幽閉されてしまう。
天文十一年(1542年)七月二十一日
助命を条件に降伏した筈の頼重であったが、晴信の強制により弟の頼高と共に自刃させられ、若干二十七歳という若さでこの世を去った。

諏訪 頼高(すわ よりたか)
戦国時代の武将、諏訪大社大祝。
兄頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承する。
甲斐の武田晴信(信玄)の信濃に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。
その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐に送られて自害させられた。

東光寺(とうこうじ)
山梨県甲府市東光寺にある寺院。山号は法蓋山(ほうがいさん)。臨済宗妙心寺派。
本尊は薬師如来。甲府五山のひとつ。
創建年代は不明だが、寺伝の由緒書によれば平安時代の保安2年(1121年)に新羅三郎義光が、国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、寺号を興国院とした。
その後荒廃し、密教寺院であったが、配流されていた渡来僧の蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。
「甲斐国志」では再興年を文永年間としている。
また、官寺として執権北条高時から諸山位に次ぐ寺格を与えられ(鎌倉市立図書館所蔵文書『崇鑑北条高時公帖』)、五山十刹の次に位置する。


頼重の辞世の句に、
「おのづから、枯れ果てにけり、草の葉の、主あらばこそ、又も結ばめ」

「枯れ果てた草の葉であっても、また再び命を宿すものであり、例え私が死んだとしても、主がいれば再び実を結ぶだろう」と、残された幼き我が子、寅王丸に諏訪家の未来を託したのである。
諏訪頼重の死により、古来より続く極めて尊貴な血筋とされていた諏訪惣領家は滅亡したのである。
父を殺した怨むべき仇へ側室として仕える事になった諏訪の姫の心中は穏やかでなかった事は言うまでも無い。
しかし諏訪惣領家は滅亡し、幼き弟の寅王丸と共に生きていく為には、側室として生きていく他に道は無かった。
戦国乱世を生きた姫の悲しい宿命である。
晴信の側室として迎えられた姫は、諏訪御料人と呼ばれるようになり、翌年、
最後の武田家当主となる諏訪四朗勝頼(武田勝頼)を生む事となる。
また諏訪惣領家を相続することになっていた寅王丸は、勝頼が生まれた事により廃嫡されてしまい、
駿河の今川治部大輔義元を頼って亡命を試みるが、露見したために晴信に捕えられ殺されたとする説がある。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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