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創意工夫と献身的奉公

 【30//2012】

創意工夫と献身的奉公


織田上総介信長の下で奉公する事になった日吉丸は、名を木下藤吉郎秀吉と改め、
歴史の表舞台に登場していくことになる。

秀吉は日本の武士階級で一番低い足軽から身を起こし、やがて主君信長の覇業を受け継ぎ
百年に及ぶ戦乱の世を統一し、国家の最高権力者である関白にまで上り詰めた人物である。


関白(かんぱく)
天皇の代わりに政治を行う役職。
律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位。敬称は殿下。


この秀吉には数多くの逸話が残っている。
秀吉が信長の草履取り頭に任命された時の逸話である。

草履取り
武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。草履持ち。

ある寒い日のこと、信長が草履を履くと、草履が暖かかった。
「さては猿め、尻に敷いておったな」と疑い怒った信長に対し、
秀吉は「懐で温めておりました」と答え懐を開いて見せたという。
今日は寒い日であった為、信長の足を気遣い、懐で温めていたというのである。
主君を想う秀吉の心遣いに感心した信長は、その場で秀吉を草履取り頭に任命したという。
絵本太閤記に記されたこの有名な逸話は、作り話であるとも言われているが、周りの同輩や主君信長からも
「猿」と呼ばれ慕われていた秀吉らしい逸話である。


絵本太閤記(えほん たいこうき)
江戸時代中期に書かれた読本(よみほん)
豊臣秀吉の生涯を描いた「川角太閤記」をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。
全7編84冊。



草履取り頭に任命された秀吉は、部下を使うことはせず、自らが率先して信長の草履取りを続けたという。
主君の御側近くに仕える事を望み、立身出世を夢見る秀吉にとって、こんないい仕事を部下に与えてしまう事はもったいないと考えていたのかもしれない。
人が面倒だと思う事、嫌がる事、出来ない事、そして思いもつかない事を自らが率先して取り組む事が、
出世への近道であると秀吉は解っていたのである。

信長の真意を十分に理解し、何をやらせても卒なくこなす秀吉は次第に信長の覚えも良くなり、厩番(うまやばん)
台所役台所賄頭(だいどころまかないがしら)足軽三十人組の足軽頭侍大将と順調に出世して行く事になる。


創意工夫と献身的な奉公、そして生まれながらに持っていた人心掌握術で、
秀吉は国家の最高権力者の地位をも掴むのである。



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1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
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立身

 【29//2012】

立身


弘治元年(1555年)
日吉丸(のちの豊臣秀吉)は、蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)の家臣となっている。

武功夜話によると、
「この人、弘治元年の夏越方の出会いと承るなり。尾州小折村の生駒屋敷にて候。」
「蜂須賀小六殿、生駒屋敷で見知り、不審の儀もこれあり、乱波の類にて候わずや、風体は無類の輩の如く小兵なれども武芸あり、兵法の嗜も深く得体知り難し、仕切りに小六の稼ぎ好み候なり。やむなく小六殿宮後屋敷に伴ひ、出入り御用に足し候。」と記されている。


乱波の類(間諜)(らっぱ)
戦国時代、敵国に忍び入って探索などをつとめた忍者。


尾張に戻った日吉丸がどのような経緯で正勝の家臣となったのかは謎であるが、
矢作川の橋の上で日吉丸と蜂須賀小六が出会ったという逸話がある。
立身という夢を抱きながら放浪の生活を送っていた日吉丸が、矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士集団が通りかかり、野武士集団の頭目が寝ている日吉丸の頭を蹴り飛ばしたという。
それに怒った日吉丸は「侘びていけ」とその頭目を睨みつけたという。
その頭目こそが尾張海東郡蜂須賀を根拠とした国人領主である蜂須賀小六正勝であったという。
正勝は日吉丸のその度胸を買い手下にしたという逸話である。


矢作橋(やはぎばし)
愛知県岡崎市を流れる矢作川にかかる橋であり、橋上を通るのは東海道(国道1号線)である。
この地は古来より交通の要衝であった。
橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。


この逸話は有名ではあるが、当時の矢作川にはまだ橋が掛けられていなかったため、
後世の創作である可能性が高いと指摘されている。


また日吉丸は、蜂須賀家と生駒家が縁戚関係であった為、自然に生駒屋敷に出入りするようになり、
生駒家で奉公するようになった。
ちょうどその頃生駒屋敷には、明智城の合戦で夫を失い、未亡人として実家に戻っていた吉乃がおり、
日吉丸は、吉乃との出会いによって人生を大きく変える転換期を迎えることになる。



「彼の者、信長公に奉公の濫觴(らんしょう)は久庵(きゅうあん)様御口添えあるによる所、多大なり。久庵様の前少しも憚らず、色話もしばしば、生来の利口者なば、久庵様の御機嫌取ること巧みなり。」

生駒屋敷に出入りするようになった日吉丸は、次第にその小才を吉乃に見込まれるようになり、
「必ずお館様のお役に立つ者でございます。」と、織田上総介信長に推挙してくれたのである。


「立身」という夢を抱きながら奉公を続ける日吉丸に、
吉乃は織田家への仕官の道を作ってくれたのである。



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日輪の子

 【28//2012】

日輪の子


天文六年(1537年)二月六日
尾張国愛知郡中村で、織田弾正忠信秀の足軽木下弥右衛門(きのしたやえもん)(なか)の間に男子が誕生する。
幼名を日吉丸という。
後の木下藤吉郎秀吉である。


尾張国愛知郡中村
現在の愛知県名古屋市中村区中村

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の尾張国の武将、大名。織田信長の父。
智勇に優れた名将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
商業都市津島や熱田を支配し、経済力を蓄えるなど、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、信長飛躍の土台を作った人物。

足軽(あしがる)
日本の平安時代以降存在した歩兵の一種で、軍の主要部隊。
身分は武士と農民の間に位置して低かったが、功を認められれば足軽大将に抜擢され、家禄も200石から500石程度となり、中級の武士として認められる存在になる。



日吉山王権現に参拝して懐妊した、又は日輪が懐中に入る夢をみて懐妊した為、
幼名を日吉丸としたという逸話が残されている。
仲は、日吉丸の他にとも小竹を授かる事になるが、小竹、旭については、なかの後夫である竹阿弥(ちくあみ)の子とも云われている。


山王権現(さんのうごんげん)
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。
天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。

竹阿弥(ちくあみ)
戦国時代の人物。その出自は諸説がある。
豊臣秀吉の生母なかの後夫。
前妻との死別後、なかと再婚するが竹阿弥の晩年の詳細は不明である。
異説では、秀吉の実父・弥右衛門と同一人物であり、織田家の雑兵(雇い兵)として戦い、負傷を負ったために、
弥右衛門自身が出家して「竹阿弥」と名乗ったとも伝わる。


天文十二年(1543年)一月二日
日吉丸は六歳の時に父、弥右衛門を病で失うことになる。
その後、織田信秀の同朋衆(どうぼうしゅう)を務めた竹阿弥(ちくあみ)と仲が再婚し、日吉丸は竹阿弥の養子となる。
日吉丸は八歳の時に奉公に出されたが、十二歳の時に奉公先を逃げ出し中村の実家に戻っている。
しかし義父である竹阿弥と馬が合わず、再び家を飛び出し放浪の生活を送る事になる。
諸国を放浪していた日吉丸は、今川治部大輔義元こそ天下人となる武将と見込んで、
東国を目指したと武功夜話には記されている。


今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。
今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げた人物。

天下人(てんかびと/てんかにん)
天下の政権を掌握した人のこと。
主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者。

同朋衆(どうぼうしゅう)
主君の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。
阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。
時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。


天文二十年(1551年)
駿河国の今川家の直臣である飯尾氏の配下であった
遠江国長山郡頭陀寺城主松下源太左衛門長則(まつしたげんたざえもんながのり)に仕官している。


遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。
別称は遠州(えんしゅう)。領域は現在の静岡県の大井川以西に当たる。

頭陀寺城(ずだじじょう)
現在の静岡県浜松市南区頭陀寺町にある高野山真言宗の古刹・頭陀寺の門前にあった城。

松下 長則(まつした ながのり)
松下氏は元来、近江国の守護である近江源氏六角氏の一族・西條氏の庶流と称して、鎌倉時代末期に三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区)に移住し、これにより苗字を松下と名乗ったとされる。
豊臣秀吉が織田氏の家臣になる以前に仕えた人物で、武芸・学問・兵法などを秀吉に教えたとみられる。



日吉丸が長則に奉公したのは僅か三年間であったが、長則の下で異例の出世を遂げている。
しかし、中途採用であった日吉丸は他の家臣から妬まれるようになり、長則の下を去っている。
一説には長則が日吉丸の才能を見抜き、「その才能を当家にて埋もれさすのは非常に惜しい」と諭し、
他家への仕官を進めたともいう。
長則は当時としては異例であった能力主義で人材を重用してきたが、それが松下家の家風に合わず、
他の家臣等の不満に繋がっている事を知った長則は、日吉丸に幾ばくかの路銀を与え、松下家から出している。

松下家を出た日吉丸は立身という夢を抱きながらまた放浪の生活を送る事になった。
十八歳になった日吉丸は地元尾張国で仕官することを心に決め、一路尾張へと旅をすることになる。





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天下への歩み

 【27//2012】

天下への歩み


生駒吉乃が織田上総介信長の側室となり、嫡子である奇妙丸(織田勘九郎信忠)を産んだことにより、
生駒八右衛門家宗(いこまはちえもんいえむね)は、織田弾正忠家で重要な地位を占める事になる。
信長の大躍進の裏には、常に生駒家の情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していた。
家宗の子家長(生駒宗家4代)、孫利豊(5代)ともに信長に仕え、1900余石を知行し尾張衆と称されるまでになる。
その後は、豊臣秀吉、徳川家康に仕え尾張藩士となる。
以後幕末まで加増を繰り返し、尾張徳川家の家老職をも勤め、4000石の尾張藩士として存続することになる。
廃藩置県後は、尾張徳川家相談人となり士氏族年金管理の銀行家、経済史家などを輩出している。


廃藩置県(はいはんちけん)
明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。


武功夜話によると、
信長や秀吉が天下への歩みを始めたのが、生駒屋敷であると記されている。
武功夜話とは、前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
前野家文書は、尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種で、
昭和三十四年(1959年)に、三百八十年ぶりに蔵の中から発見されたという。
豊臣秀吉に仕え大名にまでなった前野長康や、前野家と関係の深かったという蜂須賀氏、生駒氏、そして生駒屋敷に出入りしていたという織田信長や豊臣秀吉の青年時代、桶狭間の戦い墨俣一夜城といった織田氏に関連する重要な情報を伝えている。


前野 長康(まえの ながやす)
通称は将右衛門。
元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿であり、別名を坪内長康とも言われているが、
その出自は『武功夜話』に依拠するところが多い。
定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。




この史料の中に日吉丸という少年が生駒屋敷に出入りしている事が記されている。
後の太閤豊臣秀吉である。

日吉丸の出自に関しては、諸説が色々ある。
太閤記によると、
誕生は天文五年(1536年)一月一日
幼名は日吉丸となっているが、天正記や家臣、伊藤加賀守秀盛(いとうかがのかみひでもり)の願文の記載からは、
天文六年(1537年)二月六日と記されており、今日ではこの説が有力であるとされている。

素性(すじょう)に関しても色々と諸説があり、本能寺の変を記した惟任退治記(これとうたいじき)では、
「秀吉出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が記されている

関白就任後の関白任官記(かんぱくにんかんき)では、
「秀吉公の祖父は萩中納言という、公卿であったが、同僚の讒言によって都を追われ、尾張国飛保の村雲という在所に住んでいた。中納言に娘が一人おり、父の伝手で若い頃宮中に奉公に上がり、ほどなくして村雲に帰ってきて男児を一人産み落とした。これが秀吉である」と記されており、
時の天皇の御落胤だった事を匂わす事が記されている。


落胤(らくいん)
父親に認知されない庶子、私生児のこと。
歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。
正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていない。
歴史上に登場した落胤といわれている人物
藤原不比等:奈良時代の公卿。天智天皇の落胤説がある。
平清盛  :平安時代末期の武将。白河法皇の落胤説がある。
大友能直 :大友氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
島津忠久 :島津氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
結城朝光 :結城氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
一休宗純 :室町時代後期の名僧。後小松天皇の落胤説がある。
細川藤孝 :戦国時代の武将。室町幕府将軍足利義晴の落胤説がある。
大谷吉継 :戦国時代の武将。豊臣秀吉の落胤説がある。
天草四郎 :江戸時代の人物。豊臣秀頼の落胤説がある。


しかし、秀吉発給文書や、太閤記太閤素性記豊鑑(とよかがみ)には、
尾張国百姓 弥右衛門(やえもん)の子となっていて、記述が一致している。
また、萩中納言という公卿は公家の史料に一切記されていないのである。
このことから、関白任官記の秀吉御落胤説は史実ではないと考えられている。


日吉丸の父とされる弥右衛門に関しても、名字を持たない最下層の貧民、あるいは針売り商人、山窩(さんか)と呼ばれる漂流民であったとする説が色々とある。
もともと織田家の足軽であったが、合戦において膝を切断、あるいは足の裏を負傷したため辞職し、
故郷に帰農し百姓になったとも言われている。


山窩(さんか)
「山家」、「三家」、「散家」などと表記され、「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ」、「ミツクリ」、「テンバ」など、地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人びとの総称として用いられることが多い。
定住することなく、山間を移動しながら生業に携わる生活形態をとることがほとんどであり、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくなかった人びとであったとされている。
それぞれの呼称は、「ホイト」、「カンジン」など、特定の芸能を指す言葉と併用されることも多かった。




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第二章 弘治記
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弘治記

 【07//2012】

弘治記 目次

第七十九話 誓い
竹千代の元服。
2012.09.08

第八十話 三河武士の忠誠心
三河武士の忠誠心は、鳥居忠吉によって作られた。
2012.09.09

第八十一話 一番の宝
松平元信と家臣団との心の繋がり。
2012.09.10

第八十二話 偉大なる名軍師
戦国期最強の名軍師 太原崇孚雪斎。
2012.09.11

第八十三話 智慧の鏡
事の道理を正しく判断する事が出来なくなった戦国の梟雄。
2012.09.12

第八十四話 新たな蝮・誕生
道三から「無能」と評されていた斎藤義龍。
2012.09.13

第八十五話 遺言書
美濃国の譲り渡し状。
2012.09.14

第八十六話 長良川の戦い
蝮の道三の死。
2012.09.15

第八十七話 殿
劣勢局面での大将の心得。
2012.09.16

第八十八話 父殺しの汚名
一色姓を名乗るようになった斎藤義龍。
2012.09.17

第八十九話 信長と義元の和平会見
尾張守護 斯波武衛家の補佐役。
2012.09.18

第九十話 家督争い勃発・弟の謀反
筆頭家老 林秀貞の企て。
2012.09.19

第九十一話 稲生の原の戦い
兄弟での衝突。
2012.09.20

第九十二話 内部抗争の決着・勘十郎信行の死
織田弾正忠家の弱体化を防ぐ為の処置。
2012.09.21

第九十三話 明智一族
二百年間、東美濃を統治してきた一族。
2012.09.22

第九十四話 明智城落城
土岐家庶流 明智家の滅亡。
2012.09.23

第九十五話 光秀と煕子
流浪の身となった明智十兵衛。
2012.09.24

第九十六話 斎藤義龍が恐れた織田・明智の親密な関係
古くから絡み合う織田と明智。
2012.09.25

第九十七話 最愛の女性
嫡男・奇妙丸の誕生。
2012.09.26

第九十八話 天下への歩み
諸説が色々とある日吉丸の出自。
2012.09.27

第九十九話 日輪の子
「立身出世」を夢る日吉丸。
2012.09.28

第百話 立身
人生を大きく変える転換期を迎えた日吉丸。
2012.09.29

第百一話 創意工夫と献身的奉公
人が思いもつかない事を率先して取り組む事こそが出世への近道である。
2012.09.30

第百二話 ハイセンスな命名
織田うつけ介信長・降臨  「息子とて、笑い道具である。」
2012.10.01

第百三話 異例の家督相続
今川治部大輔義元の秘策
2012.10.02

第百四話 謀反の罪を懸けられた親子
孤立する対尾張の最前線基地
2012.10.03

第百五話 今川一門衆
義元から格別の期待と扱いを受けてきた者
2012.10.04

弘治年間年表
弘治期はどのような時代だったのか。
2012.10.05

Category: 信長奮闘記

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天文年間年表

 【06//2012】

天文年間(1532-1555)

天文(てんぶん:てんもん)期は、1532年から1555年までの24年間を指す。
享禄五年(1532年)七月二十九日
室町幕府第十二代将軍 足利義晴の申請により、享禄から天文と改元される。


天文元年(1532年)
○細川晴元、本願寺法主証如が共に、畠山義堯、三好元長を討伐。
 河内国守護畠山義堯自害。
 堺の顕本寺で、三好元長自害。
○享禄から天文に改元。
○本願寺勢力に不安を感じた細川晴元が、法華宗徒と近江六角定頼に、山科本願寺を襲撃させる。
 城郭化された寺内町は全焼。[山科本願寺焼討ち]
 以後、本願寺は石山へ移り石山本願寺となる。
○武田信虎が甲斐国を統一する。
○イエズス会宣教師ルイス・フロイスがポルトガルの首都リスボンで誕生。
○織田弾正忠家当主 織田信定が、嫡男織田信秀に家督を譲り居城勝幡城を与える。


天文二年(1533年)
○島津貴久の嫡男、虎寿丸(島津義久)が誕生。
○朝倉孝景の嫡男、長夜叉(朝倉義景)が誕生。
○毛利元就が従五位下右馬頭に任官する。
○毛利元就の三男、徳寿丸(小早川隆景)が誕生。
○西村正利(斎藤道三)が、上意討ちの名目で、長井長弘を殺害し、長井氏を乗っ取る。


天文三年(1534年)
○織田信秀の嫡男、吉法師(織田信長)が誕生。


天文四年(1535年)
○細川晴元と、石山本願寺法主証如が和睦する。
○丹羽長政の次男、万千代(丹羽長秀)が誕生。
○松平清康が、尾張守山滞陣中に家臣の阿部弥七郎に殺害される。[守山崩れ]
○斎藤利政の娘、帰蝶(濃姫)が誕生。
○荒木義村の嫡男、十二郎(荒木村重)が誕生。


天文五年(1536年)
○尾張中村の百姓木下弥右衛門の子、日吉(木下藤吉郎)が誕生。
○室町幕府第十二代征夷大将軍 足利義晴の嫡男 菊童丸(足利義輝)が誕生。
○駿河国守護今川氏輝が死去。
○大内義隆が、朝廷から太宰大弐に任命される。
○玄広恵探と栴岳承芳(今川義元)による家督騒動が勃発。[花倉の乱]
○細川晴元が、法華衆(比叡山延暦寺)を、六角定頼と連合して壊滅させる。
 京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き払う。[天文法華の乱]
○武田晴信が初陣として、佐久郡海ノ口城主平賀源心を攻める。
 一夜にして落城させたという伝承が残る。
○今川義元の斡旋で、左大臣三条公頼の息女を、武田晴信が正室に迎える。
○越後国守護代長尾為景が、嫡男の長尾晴景に家督を譲り、居城春日山城を与える。
○松平仙千代が元服し、松平次郎三郎広忠と名乗りを改める。
○佐々成宗の五男、佐々成政が誕生。


天文六年(1537年)
○細川晴元が、右京大夫に任官され、管領として幕政を支配する。
○今川義元が、武田信虎の娘定恵院を正室として迎える。[甲駿同盟]
○北条氏綱が、駿河国河東地域に侵攻し占領する。[河東一乱]
○細川晴元が、左大臣三条公頼の息女を正室として迎える。
○松平広忠が、岡崎城を奪い返し、松平宗家を継承する。
○室町幕府第十二代征夷大将軍 足利義晴の次男 覚慶(足利義昭)が誕生。


天文七年(1538年)
○北条氏綱が、足利晴氏を擁立し、足利義明・里見義堯連合軍を撃破する。[第一次国府台合戦]
○前田利昌の四男、犬千代(前田利家)が誕生。
○織田信秀が、古渡城を築城し移城する。
○織田信秀が、今川勝豊の那古野城を奪い取り吉法師を城主とする。
○美濃国守護代・斎藤利良が死去し斎藤宗家が断絶。
○土岐頼芸の命により、長井規秀が斎藤宗家を継承し、名を斎藤利政と改め守護代の地位に付く。
○今川義元の嫡男、龍王丸(今川氏真)が誕生。
○北条氏康の次男、松千代丸(北条氏政)が誕生。
○武田晴信の嫡男、太郎(武田義信)が誕生。


天文八年(1539年)
○三好長慶が、父・三好元長の遺領を求め上洛し、摂津守護代越水城主となる。
○織田信秀が万松寺を建立する。
○古河公方足利晴氏が、北条氏綱の娘芳春院を正室に迎える。


天文九年(1540年)
○松平広忠が、尾張の鳴海城を攻めるが敗北。
○織田信秀が、水野忠政を伴い三河に侵攻。
 安祥城を攻め落とし、庶長子の織田信広を城主とする。
○尼子経久が、30,000の軍勢で毛利元就の居城吉田郡山城を攻める。[吉田郡山城の戦い]
 元就は3,000の兵で籠城して尼子勢を迎え撃ち撃退する。
○尾張中村の木下弥右衛門の妻なかの後夫・竹阿弥の子 小竹(豊臣秀長)が誕生。


天文十年(1541年)
○武田信虎が国外追放され、嫡男武田晴信が家督を継承する。
 武田家当主となった晴信は信濃侵攻を開始
○北条氏綱が病に倒れ死去、嫡男北条氏康が家督を継承する。
○尼子経久が居城月山富田城内で死去。
 嫡孫三郎四郎が家督を継承し、尼子晴久と名を改める。
○織田信秀、伊勢神宮式年遷宮のため、材木や銭七百貫文を朝廷に献上。
 朝廷はこれに感謝し信秀を三河守に叙任する
○斎藤利政により、土岐頼満が毒殺される。
 土岐頼芸と斎藤利政との対立抗争が開始。
○松平広忠が水野忠政の娘於大の方を正室に迎える。


天文十一年(1542年)
○大内義隆が国人衆を集め、尼子氏の月山富田城攻略を開始する。[月山富田城の戦い]
 一年四ヶ月にも及ぶ遠征の挙句、敗北する。
○細川晴元が、三好長慶、遊佐長教、畠山稙長連合軍に木沢長政討伐を命じる。[太平寺の戦い]
○武田晴信が、諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻し諏訪領を制圧する。
○西三河侵攻を進める織田信秀と、今川義元・松平広忠連合軍による合戦[第一次小豆坂の戦い]
 織田勢の小豆坂七本槍の奮戦によって織田軍の勝利に終わる。
○松平広忠の嫡男・竹千代(徳川家康)が誕生。
○服部保長の四男・服部半蔵(服部正成)が誕生。
○斎藤利政が、美濃国守護土岐頼芸を追放し美濃を奪う。
○織田信秀が、内裏の修繕費として朝廷に4000貫文を献上する。


天文十二年(1543年)
○本願寺第十世法主証如の嫡男、茶々(顕如)が誕生。
○狩野派の絵師・狩野松栄の嫡男・源四郎(狩野永徳)が誕生。
○水野忠政が死去。
 水野信元が家督を継承し、今川家から離反。織田信秀と同盟を結ぶ。
 結果、松平広忠は、於大の方と離縁することとなる。
○長尾虎千代が元服し、長尾景虎と名乗りを改め、越後国古志郡司として栃尾城主となる。
○ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲が日本に伝来する。
○細川高国の養子・細川氏綱が、細川晴元打倒を掲げ、和泉で挙兵する。
○武田晴信が信濃国長窪城主・大井貞隆を攻略し滅ぼす。


天文十三年(1544年)
○伊達晴宗の次男・彦太郎(伊達輝宗)が誕生。
○竹中重元の次男・重虎(竹中重治)が誕生。
○謀反を起こした越後の豪族を、古志郡司であった長尾景虎(上杉謙信)が壊滅させる。
 景虎初陣


天文十四年(1545年)
○後奈良天皇の命を受けた道増が、今川家と北条家との和睦の使者として駿河に下向する。
○武田晴信が、信濃高遠城主・高遠頼継を攻略し滅ぼす。
○武田晴信が、信濃福与城主・藤沢頼親を攻略し滅ぼす。
狐橋の戦いで今川義元が北条氏康を撃破する。
第二次安城合戦で本多忠豊が討死。
○関東連合軍約八万の軍勢が北条家支城河越城を包囲
○越後黒滝城主・黒田秀忠が、長尾景康らを殺害し謀反を起こす。
 長尾景虎が黒滝城主・黒田秀忠を討伐する。[黒滝城の戦い]
○今川家と北条家との和睦が成立する。
○浅井久政の嫡男・猿夜叉丸(浅井長政)が六角氏の居城観音寺城下にて誕生。
○毛利元就が、周防国守護大内義隆の命により、竹原小早川家を三男徳寿丸に継承させる。
 徳寿丸は、大内義隆の偏諱を賜い、小早川隆景と名乗りを改める。


天文十五年(1546年)
○最上義守の嫡男・白寿(最上義光)が誕生。
○八万の軍勢が包囲する河越城に、北条氏康が奇襲をしかけ大勝利を挙げる。[河越城の戦い]
○今川義元が、戸田宣成の今橋城を攻略し、東三河侵攻の拠点とする。
○足利義輝が室町幕府第十三代将軍に就任
○吉法師が古渡城で元服し、織田三郎信長と名乗りを改める。
○武田晴信の庶子・四郎(武田勝頼)が誕生。


天文十六年(1547年)
○武田晴信が、信濃国志賀城主笠原清繁に大勝する。[小田井原の戦い]
○織田信秀が、斎藤利政討伐の大規模な稲葉山城攻めを開始。
 斎藤利政の反撃により信秀の弟・犬山城主織田信康や清洲三奉行家織田達広ら討死。
 総勢五千の兵を失う。[加納口の合戦]
○松平忠倫が謀反を起こす。
○松平竹千代が、千貫文で織田家に売り払らわれる。
○斎藤利政が、織田家支城・大垣城を攻略する。
○織田信長が、三州吉良大浜で初陣を飾る。
○織田信秀の娘・お市の方が誕生。
○織田信秀の十一男・源五(織田長益)が誕生。
○織田信秀は居城を古渡城から末盛城に移す。
 実弟・織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成する。
○武田晴信が、領国支配の分国法を定める。[甲州法度之次第]
○毛利元就が、吉川家の乗っ取りを企て、次男毛利元春を養子として送り込む。


天文十七年(1548年)
○本多忠高の嫡男・鍋之助(本多忠勝)が誕生。
○信濃上田原で、武田晴信が葛尾城主・村上義清に大敗する。
 晴信はこの合戦で、重臣と多くの将兵を失う。[上田原の合戦]
○織田信秀が、水野信元を従え三河国に侵攻。
 先鋒織田信広隊が、三州小豆坂にて今川勢と遭遇し大敗する。[第二次小豆坂の合戦]
○信濃塩尻峠にて武田晴信が、信濃林城主小笠原長時を撃破する。[勝弦峠の戦い]
○織田信秀が、美濃斎藤家との縁組による和睦を画策。
 嫡男の三郎信長と、斎藤利政の息女帰蝶との婚姻が決定する。
○長尾景虎が兄・晴景に代わって家督を継承し春日山城に入城。
 越後国守護代となる。
○斎藤義龍の庶子・喜太郎(斎藤龍興)が誕生。
○越前国守護朝倉孝景が死去。
 嫡男の長夜叉(朝倉義景)が家督を継承し、朝倉延景と名乗りを改める。
 若年のため、一族の名将朝倉宗滴が補佐する。


天文十八年(1549年)
○斎藤道三の娘濃姫が、織田信長に嫁ぐ。
○松平広忠が、居城岡崎城にて家臣の岩松八弥に殺害される。
 太原崇孚雪斎が城代として岡崎城に入城。
○三好長慶が、三好一族の和を乱す傍流の三好政長を討伐。[江口の戦い]
 これにより主筋である管領・細川晴元と敵対関係になる。
 三好長慶を恐れた細川晴元は、前将軍足利義晴 将軍足利義輝父子を伴って近江の坂本へ避難。
フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着。
 キリスト教を伝える。
○太原崇孚雪斎が安祥城を攻略し、織田信広が捕虜となる。
 松平竹千代と織田信広の人質交換が行われる。
○三河松平領が今川義元の支配下となり、竹千代が今川の人質として駿府へ出立。
○織田信長が近江国友村に500挺の鉄砲製作を依頼する。
○筒井順昭の子・藤勝(筒井順慶)が誕生。


天文十九年(1550年)
○豊後国守護・大友義鑑が家臣に襲撃され死去。[二階崩れの変]
○越後国守護・上杉定実が死去する。
 将軍・足利義輝より、長尾景虎が越後国主と認められる。
○武田晴信が、小笠原領に侵攻し小笠原長時の林城を攻略する。
 城を追われた小笠原長時は村上義清のもとへ逃走。
信濃砥石城攻防戦で武田晴信が村上義清に大敗する。
 晴信は二度目の敗北を味わう。[砥石崩れ]
○毛利元就の三男小早川隆景が、沼田小早川家の家督を継承。
 小早川家を一つにまとめる。
○毛利元就が、吉川興経を隠居させ、次男吉川元春に家督を継承させる。
 (※元就は熊谷信直らに命じ、興経とその実子である千法師を殺害する。) 


天文二十年(1551年)
○越後坂戸城主・長尾政景が反乱を起こす。
 長尾景虎が政景の家臣越後板木城主・発智長芳を攻撃し勝利する。
○織田信秀が病死。織田信長が那古野城にて家督を継承。
 弟 織田信行は末盛城を与えられ移城。
 柴田勝家らも同行する。
○真田幸隆の策略で信濃砥石城が落城する。
 武田晴信は信濃国において次第に優勢となる。
○尼子晴久が、因幡.伯耆.隠岐.出雲.美作.備前.備中.備後八ヶ国の守護となる。
 同時に幕府相伴衆に任ぜられる。
○長尾景虎が、後奈良天皇より従五位下弾上少弼の位階を賜る。
○長尾景虎が、越後坂戸城を包囲し、政景の反乱を鎮圧。
 越後国の内乱を鎮圧し、越後国統一を成し遂げる。
○周防国守護大内義隆が、陶晴賢に攻められ、逃亡先の長門大寧寺にて自害。[大寧寺の変]
○古河公方足利晴氏が、家督を梅千代王丸(足利義氏)に譲る。
○今川義元が、今川仮名目録追加二十一条を制定する。


天文二十一年(1552年)
○関東管領・上杉憲政が、北条氏康に領国の上野国を攻められ、越後国へ逃亡する。
○三好長慶は、細川晴元・足利義輝らと有利な条件で和睦する。
 (※長慶は幕府相判衆となり、晴元は氏綱に家督を譲って隠居する。)
○謀叛を起こした鳴海城主山口左馬助を、織田信長が馬廻り兵八百を率いて討伐。[赤塚合戦]
○朝倉延景が、室町幕府第十三代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、朝倉義景と改名する。
 同時に左衛門督に任官する。
○長尾景虎が、上杉憲政の居城上野平井城の奪還に成功。
 北条軍を率いる北条長綱は、上野国から撤退する。
○織田信長が、守護代家家老坂井大膳らと萱津の原で戦う。[萱津の戦い]
○今川義元の娘嶺松院と、武田晴信の嫡男武田義信が婚姻する。[甲駿同盟]
○織田信長が上総介を自称する。


天文二十二年(1553年)
○傳役の家老 平手政秀が、織田信長を諌めるため諫死。
○毛利隆元の嫡男・幸鶴丸(毛利輝元)が誕生。
○武田晴信が、信濃葛尾城を攻略する。
 葛尾城主・村上義清は城を放棄し、越後国の長尾景虎もとへ逃れる。
 晴信は北信を除き信濃国をほぼ平定する。
○織田信長が尾張富田の正徳寺にて妻濃姫の父斎藤利政と会見する。[正徳寺の会見]
○織田信友とその家臣坂井大膳が、尾張国守護斯波義統を殺害する。
 斯波義統の嫡男・斯波義銀を織田信長が保護する。
○柴田勝家が清洲に攻撃をしかけ、誓願寺前にて清洲勢を討ち破る。
○村上義清の要請を受けた長尾景虎が、信濃侵攻を開始。[第一次川中島の戦い]
 以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる。
○長尾景虎が上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第十三代将軍・足利義輝に拝謁する。
○武田晴信と北条氏康が同盟を結ぶ。[甲相同盟]


天文二十三年(1554年)
○今川義元が村木に砦を築き刈谷・緒川の連絡経路を封鎖する。
 斎藤道三からの援軍安藤守就に那古野城留守居を命じ、織田信長出陣。
○織田信長・水野信元連合軍が、村木砦を攻略する。
○織田信長が、叔父織田信光と謀り、尾張守護代織田信友を謀殺し、清洲城乗っ取りに成功する。
 叔父織田信光に那古野城を与える。
○毛利元就が、周防国に侵攻し、玖珂郡小瀬と御庄で陶晴賢軍と激突し勝利する。
○毛利元就が、安芸国佐西郡明石に攻め込んできた陶晴賢軍を明石口で撃破する。[明石口の戦い]
○守山城主・織田信次の家臣が信長の弟・織田秀孝を誤って射殺する。
○織田信光が家臣によって暗殺される。
○北条氏康の娘早川殿と、今川義元の嫡男今川氏真が婚姻する。[相駿同盟]
○甲斐の武田晴信、相模の北条氏康、駿河の今川義元による甲相駿三国同盟が完成する。
○斎藤利政が家督を斎藤義龍へ譲り、常在寺で剃髪入道を遂げて道三と名乗り隠居する。
○越後北条城主・北条高広が、甲斐国の武田晴信と通じ長尾景虎に反乱する。


天文二十四年(1555年)
○安芸国厳島で毛利元就が、陶晴賢を破る。[厳島の戦い]
○長尾景虎が、越後北条城主・北条高広を包囲し反乱を鎮圧する。[北条城の戦い]
○長尾景虎が、武田晴信と川中島の犀川を挟んで対峙する。[第二次川中島の戦い]
 駿河国の今川義元の仲介により景虎側に有利な条件で和睦する。



CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ
第一章 天文記
1532年から1555年までの24年間を指すこの時期に、戦国期の英雄が尾張国に誕生する。

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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