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東海の覇者・今川治部大輔義元の最後

 【31//2012】

東海の覇者・今川治部大輔義元の最後


暴風雨の後に突如現れた織田勢の急襲で東海の覇者今川治部大輔義元は討ち取られた。
信長公記によると、
未刻(午後二時頃)
暴風雨の後に突如現れた織田勢の急襲に、今川勢はひとたまりもなく崩れさり、弓も槍も鉄砲も打ち捨てられ、
指物が散乱していたという。
この混乱の中、義元は三百騎ばかりの兵に護衛され後退する。
そこを織田勢が数度にわたり執拗に攻撃を繰り返し、とうとう護衛の兵は五十騎程にまで減ってしまっていた。
信長も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい敵を突き伏せていた。
周りの者達も負けじと勇戦し、歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだという。
まさに双方入り乱れての激戦である。
混戦の中、今川義元を見つけた服部小平太が我先にと義元に槍を付けるが、
義元は佩刀(はいとう)を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだ。
がしかし、その横合いから毛利新介の突進を受けた義元は、これを防ぎきれず、
毛利に突き伏せられ、ついに討取られてしまう。
東海の覇者今川治部大輔義元は、志半ばにして桶狭間で最後を遂げた。
毛利は、先年武衛様(ぶえいさま)が遭難された折、その弟君を救った者であり、人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうとのちに噂したという。
この戦いでの戦死者は、今川軍二千五百、織田軍八百程であったという。

服部 一忠(はっとり かずただ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太、采女正。
織田信長の馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつけ戦功をあげた。
しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られた為、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。
桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。

毛利 良勝(もうり よしかつ)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。通称は新助(新介とも)、新左衛門。
織田信長に馬廻として仕えたとされるが、小姓であったともいう。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた。
(この際、指を噛み千切られたとも言われている)。
その功により、のちに黒母衣衆のひとりとなった。
以後は目立つ活躍もできず、一隊の長に昇ることなく信長の側近として旗本部隊に属した。


今川撤退
総大将である今川義元や、その他有力武将を失った今川勢は、総崩れとなり駿河に向かい撤退する。
義元の命により大高城を守っていた松平蔵人佐元康も大高城を捨て、松平家菩提寺である大樹寺に軍を移す。
また、岡崎城代を勤めていた山田新右衛門尉景隆も、義元討死の報せを受け、岡崎城を捨てて駿河に撤退する。

大樹寺(だいじゅじ、またはだいじゅうじ)
愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。
正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。
徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。
大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線状にマンション等の高層建築物を建てることはできない。


桶狭間にて勝利した織田上総介信長は、沓掛城の近藤九十郎景春など、尾張国内で引き続き抵抗する
諸将の討伐に動き出し一帯を一挙に奪還していく。
しかし、岡部五郎兵衛元信が城将を勤める鳴海城の抵抗はすさまじく、難攻を示した。
そこで信長は鳴海城の無理攻めを諦め、岡部元信との和睦交渉を行い、
「義元の首級の返還と引き換えに鳴海城の開城」を約束させた。
こうして西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されることとなった。

近藤 景春(こんどう かげはる)
戦国時代の武将。尾張国沓掛城主。通称・九十郎。
藤原秀郷の後裔を称する、沓掛近藤氏第9代。
近藤氏は当初、三河国の松平広忠の傘下にあったが、後に尾張国で勢力を拡大していた織田氏に従った。
永禄2年(1559年)尾張侵攻を目論む今川義元に寝返っていた同国鳴海城主山口教継によって今川氏に降った。
永禄3年(1560年)沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、支城の高圃城に移って織田軍に備えるが、
桶狭間の戦いで今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため沓掛城に戻るが、
直後に織田軍に攻められて戦死した。

岡部 元信(おかべ もとのぶ)
戦国時代の武将、今川氏の家臣。通称は五郎兵衛、官位は丹波守。
名は長教、元綱、真幸とも。岡部久綱の子。
岡部正綱の弟(親子説もあり、同族だが親子兄弟ではないとする説もある)。
今川氏が衰退してからは武田氏に仕えた。

また別働隊として戦っていたため難を逃れた松平元康は、もぬけの殻となった岡崎城に入城。
今川氏から独立を果たし松平氏の旧領回復を目指し急速に勢力を拡大させていく。
一方で今川領国の動揺は地域情勢に多大な影響を及ぼすことになる。
後年、甲斐の武田氏と今川氏の関係は悪化し、武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始されることになる。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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奇跡ともいえる奇襲攻撃

 【30//2012】

奇跡ともいえる奇襲攻撃


これまでの通説では、桶狭間での勝利は、今川軍の虚を突く、迂回攻撃による奇襲によって行われたものである、
と言われていたがこれには多くの疑問が残る。

信長公記でも、信長軍が迂回したことは書かれてなく直進説となっている。
また義元本陣がいた場所だが通説では、田楽狭間といわれているが、
信長公記によるとそれは桶狭間山と記されている。
つまり進軍経路や義元本陣の場所については未だ謎に包まれているという事になる。

桶狭間(おけはざま)
愛知県の豊明市(旧愛知郡)と名古屋市緑区の有松町(旧知多郡)にまたがっている古戦場跡と推定される丘(おけはざま山)の、その北側にある手越川の谷間=狭間のこと。
桶狭間の戦いで知られる。文献によっては、桶廻間とも記されてきた。


大日本帝国陸軍参謀本部が編纂した日本戦史によると、
義元が休息に田楽狭間で酒宴を開いているという情報を得た信長は、全軍に奇襲攻撃を命じる。
しかし、義元が酒宴を開いたという記述は、信長公記には一切記されていない。
これは、信長公記を江戸時代になって書き直したものである信長記によって脚色されたものと思われる。
信長公記には、
「わが矛先には天魔鬼神も近づく能わず。心地よし」と上機嫌になり、謡いを謡った。
義元が桶狭間山にて休息を取り、謡いを謡ったということしか記されていない。
また信長は、「今川治部大輔義元、桶狭間山にて休息」を情報として知らされた訳ではなく、中島砦から見ていたのではないだろうかと思われる。

桶狭間山と中島砦は直線距離にして2km程度しか離れていない。
不動産公正取引協議会の表示規約では、徒歩所要時間として、1分=80m(時速4.8km)として計算するように基準が設けられている。
歩兵の急軍速度を時速6km(1分=100m)
騎兵の急軍速度を時速9km(1分=150m)と仮定すると、
中島砦から桶狭間山までわずか13分足らずで到着する。
遅くても20分ほどで到着する事になる。
この時始めて信長は勝機を感じたのかもしれない。

だから敵からあえて丸見えの状態であっても進軍したかったのかもしれない。
また、今川勢が本陣を構えたのは谷ではなく山だったということ。
織田勢の来襲は見えていて、奇襲というよりむしろ強襲だったということなどが色々と解ってくる。

「小軍ナリトモ大敵ヲ怖ルルコト莫カレ、運ハ天ニ在リ、と古の言葉にあるを知らずや。敵懸からば引き、しりぞかば懸かるべし。而してもみ倒し、追い崩すべし。分捕りはせず、首は置き捨てにせよ。この一戦に勝たば、此所に集まりし者は家の面目、末代に到る功名である。一心に励むべし」
勝機を得た信長は全軍を率い突撃する事になる。


「急襲」
信長公記によると、
信長軍が桶狭間山の麓まで達したとき、にわかに天が曇り、強風が吹き付け、大地を揺るがす豪雨となる。
沓掛の峠に立つふた抱えほどもある楠が東へ向け音をたてて倒れ、人々はこれぞ熱田明神の御力であろうとささやき合ったという。
やがて豪雨が収まり空が晴れてきた。
信長は槍を天に突き出し、大音声で「かかれっ」と最後の下知を下し、
全軍が義元本陣めがけ黒い玉となって駆け出したと記されている。
休息している義元にとっては暴風雨に続く織田勢の急襲である。
義元からすれば豪雨により視界が閉ざされた後、突如目の前から信長の軍勢が現れた。
「奇襲攻撃」であったとしてもおかしくはない。
こうしてみると、天が信長に味方して奇跡ともいえる「奇襲攻撃」を与えたともいえなくはない。


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義元に油断は無かった

 【29//2012】

義元に油断は無かった

永禄三年(1560年)五月十九日未明
織田上総介信長は、「今川軍、丸根・鷲津砦に攻撃開始」の報せを受け、わずか六騎で熱田へ向かう。

熱田に着いた信長は、同神宮の摂社・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の前で、東方に二条の煙が立ち上るのを見て、丸根・鷲津の両砦が危機的状況である事を知ったと信長公記に記されている。

摂末社(せつまつしゃ)
神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、
摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、
格式は本社>摂社>末社の順とされる。

逸話ではあるが、
熱田神宮に着いた信長は、集結した兵達の前で作らせていた願文を読み上げ戦勝を祈願している。
無神論者として知られている信長でも、人生最大のピンチを迎えると「ああ神様」と祈らざるを得なかったのかもしれない。
この時、本殿の奥から一羽の白鷲が舞い立つという吉兆があらわれ、
「熱田の大神が我々を護り、勝利に導く印である!」と高らかに宣言し、送れて終結した兵達を激励したというが
どうなんだろうか…。

佐久間出羽介信盛が守る善照寺砦に入った信長勢は、一旦軍勢を整え戦況を確認している。
「御敵、今川義元は、桶狭間山にて人馬の休息」
「丸根・鷲津両砦が陥落」
「佐久間大学助盛重、織田玄蕃允秀敏、飯尾近江守定宗 討死」
信長が善照寺砦で戦況判断をした時に入ってきた情報である。
今川義元が桶狭間山に到着した時刻は、信長が善照寺砦に到着する時刻よりも早かったことが解る。

佐久間 信盛(さくま のぶもり)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。
織田信長が幼少の頃より、重臣として仕え、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。
その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。
信長に従って各地を転戦し織田家の主だった合戦には全て参戦している。


織田家滅亡か・・・
信長の善照寺参陣を確認した佐々隼人正政次千秋四郎季忠ら遊撃部隊が、僅か三百ばかりの兵を率いて今川勢に攻撃を仕掛けるが、多勢に無勢、悉(ことごと)く討死している。
信長公記によると、
「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で候へば、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。
是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。」と記されてある。
ここで言っておきたいが、義元が桶狭間山にて謡いを謡ったということについてである。
これは決して「義元の油断」などではない。
丸根・鷲津の攻略、佐々政次らが率いる遊撃部隊を撃破するなどの快進撃で「勝利」に酔っていた訳でも無い。
義元は「勝利を確信」していた。


佐々 政次(さっさ まさつぐ)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。尾張国井関城主。佐々成政の長兄。隼人正。
諱は「政次」で通っているが、文書上の裏付けはない。系図には「成吉」「勝通」とある。
織田信秀に仕え、三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられるほどの猛将。

千秋 季忠(せんしゅう すえただ)
熱田神宮の大宮司、武将。尾張国幡豆崎城主。通称四郎。
父千秋季光は熱田神宮の大宮司で、武士として織田信秀に仕えていたが、加納口の戦いで戦死。
季光の死後、季忠が家督と大宮司職を継ぎ、信秀の子、信長に仕えた。



義元は、信長の行動を全て把握していた。
信長は、最前線基地となった善照寺砦から中島砦へと急ぎ進軍し、その後桶狭間へ向け進軍する事になるが、
その行程を信長公記は次のように記している。
「敵方よりさだかに相見え候」
敵から丸見えの状態であえて進軍しているという事だ。
通説にあるような、簗田出羽守正綱「義元本隊、おけはざま山にて休息中である」と言う報せに、
「好機」とばかりに奇襲攻撃をしかけたというのはどうも出来すぎた話である。
もし信長が迂回しての奇襲を考えていたとすれば、敵に見られた時点で失敗である。


簗田 政綱(やなだ まさつな)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。子は簗田広正。出羽守、九之坪城主。
桶狭間の戦いで、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利新助よりもその功績は大きいと評価され、沓掛城主となったという。
しかし、なぜ本陣の場所を簗田が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、小和田哲男や
武田鏡村らの歴史研究者が推測を発表しているが定説はない。


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決戦前夜

 【28//2012】

決戦前夜

信長公記「今川義元討死の事」によると、
「永禄三年五月十七日、今川義元沓懸へ参陣。
十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、その夜の御話、軍の行は努々これなく、色六世間のご雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇下さる。
家老衆申す様、運の末には知恵の鏡も曇るとは、この節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ候」と記されている。

永禄三年(1560年)五月十七日
今川治部大輔義元が沓懸へ参陣。
「十八日、大高城へ兵糧を運びこみ、翌十九日に織田の後詰を封じるため、丸根・鷲津両砦の攻撃を開始する。」
という情報を掴んだ、鷲津砦の織田玄蕃允秀敏、丸根砦の佐久間大学助盛重らが十八日の夕方に、
清洲城の織田上総介信長に、今川軍の動きを報告している。
知らせを受けた信長は、直ちに軍議を設け、篭城案を提案する諸将の意見を一蹴し、雑談に終始し、夜も更けたと云って諸将等を帰らせている。
そして、帰された諸将等は自らの運命の行く末を考えることになるというのがこれまでの通説である。


なぜ?
信長は、前線から「義元は沓掛城に参陣」という報告を受けている。
しかも翌十九日に今川勢は、丸根・鷲津の両砦を攻撃するという。
この緊迫した状態にも関わらず信長は、諸将等に何も指示を与えていない。
なぜなのか?
それは「十八日」の情報が少なすぎた為に信長は動けなかったのである。
前線からの報告では、十七日に義元は沓掛城に入ったという。
そして十八日に大高城へ兵糧を運びこみ、
十九日に丸根・鷲津の両砦を攻撃するというものであった。
しかしこの報告では義元主力部隊の動向がまったく解らない。

十七日は沓掛城にいたとして、十八日はどこに居るのか?
兵糧搬入と一緒に大高城へ入城しているのか?
十九日は沓掛城か大高城のどちらの城から出陣するのか?
また大高城に兵糧を搬入したり、砦を攻撃することに義元主力部隊が加わるのかどうか?

この時点で信長は、義元が何処に居るのかに焦点を絞っていた。
義元の所在が解らない以上、全軍を率いて前線の救援に向う事も出来ず、また前線の指揮官たちにも、指示を与える事が出来なかった。
もし信長が義元の所在を把握しており、報告を受けた時点で沓掛城にいることを確認できていたとしたら、夜間であろうと沓掛城に向かって出陣していたのではないだろうか。


運命の日
永禄三年(1560年)五月十九日未明
「今川軍、丸根・鷲津両砦に攻撃開始」
松平蔵人佐元康が、千余の兵を率い丸根砦の攻撃を開始する。
時を同じくして、朝比奈備中守泰朝井伊信濃守直盛が、千余の兵を率いて鷲津砦の攻撃を開始する。

敦盛の舞
この時、信長敦盛の舞をあそばし候。
「人間五十年、下天の内にくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり。一度、生を得て滅せぬ者のあるべきか」
貝を吹け、具足をよこせと仰せられ、御物具めされ、立ちながら食事をまいり、御冑をめし候て、御出陣なさる。

信長出陣
弱冠二十七歳の信長が、常に死を意識しているのだと魅了させられる有名なシーンである。
そして信長はわずか六騎で出陣し熱田へ向かう。
通説では、義元主力部隊が桶狭間を経て、大高城に向かおうとしているという情報を掴んだ上での出陣とされているが、信長が清州を出陣したのは、義元の所在が判明したからでは無く、「丸根・鷲津が攻撃された」からである。
実際信長は、義元の所在をつきとめることが出来ないまま出陣しているのである。


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今川義元の真意

 【26//2012】

今川義元の真意

今川治部大輔義元による「尾張侵攻」「上洛」ではなかったとする説が今では有力な説となっている。

では義元による「尾張侵攻」の真の目的は何だったのだろうか。
それは先代である織田弾正忠信秀の頃から続く、今川家と織田家とによる勢力争いでしかなかった。

稀代の英雄として三河国で絶大の力を誇った松平二郎三郎清康の死後、弱体化した三河の領地を巡り今川家と
織田家は幾度と無く争っていた。
しかし信秀の死後、弾正忠家の家督を継承した織田三郎信長が、主家の器では無いとして、
鳴海(なるみ)、大高(おおだか)、沓掛(くつかけ)の諸将が、今川方に寝返ってしまう。
この諸将の動きによって、今川家と織田家の均衡は崩れてしまう事になる。
東海道の支配権を確固たるものとするためには、伊勢湾交易の拠点であり、尾張随一の商工都市津島を支配下に置く事が最重要課題と捉えていた義元にとって、「尾張の虎」と恐れられた信秀の死や、織田弾正忠家を見限った諸将の動きは願っても無いことであった。
しかし義元の思惑とは裏腹に、弾正忠家を継承した信長の躍進は凄まじく、先代信秀でさえ成しえなかった尾張を統一してしまうのである。
今川義元の「尾張侵攻」の真の目的
それは、尾張を統一し、尾張守護代にまでなった信長の勢いを抑える必要性と、今後どうなるか解らない尾張の諸将の動きを抑制する必要性に迫られての「尾張侵攻」であった。

鳴海、大高、沓掛の諸将の裏切りに対し信長は、丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津に付け城と呼ばれる砦を築き、
今川方からの補給路を断っていた。
尾張侵攻の最前線基地にあたる大高城が落城、あるいは織田方へ寝返りでもしてしまうと鳴海、沓掛の諸将の動きも怪しくなり、義元は尾張侵攻の足掛かりを失ってしまう事になる。
そこに危機感を感じた義元は、永禄三年(1560年)五月、大軍を率い出陣するのである。

信長公記によると、
「永禄三年五月十七日、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧いれ、助けなき様に、十九日朝、塩の満ち干を堪がへ、取手を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、…」とある。
永禄三年(1560年)五月十七日
尾張沓掛城へ入った義元は、尾張侵攻の最前線基地にあたる大高城へ兵粮を送ると記されている。
義元は、大高城への兵糧入れという困難な任務を松平蔵人佐元康に命じている。
大高城は、織田の丸根・鷲津砦に囲まれており、そこに兵糧を運ぶのは非常に危険な任務となった。

信長公記によると、
「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」とある。

三河物語によると、
「即押寄て責給ひければ、程無タマラズして、佐間は切て出けるが、雲もツキずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫供をば悉打取る。其寄大高之城に兵ラウ米多く誉。」とある。

尾張の諸将の動きを抑制する必要性に迫られての「尾張侵攻」
それは、丸根・鷲津砦を攻略し、大高城へ兵糧を搬入する事であった。
義元は、その任についた松平元康の後詰として大軍を率いて尾張へ侵攻して来たに過ぎなかった。


そして通説通り、「今川軍が丸根・鷲津に攻撃開始」の早馬が信長の元へ届き、
信長が「敦盛」を舞い、わずかな兵で出陣し熱田へ向かって・・・・という事になる。


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桶狭間合戦の通説

 【24//2012】

桶狭間合戦の通説

桶狭間合戦
尾州桶狭間合戦 歌川豊宣画

永禄三年(1560年)五月十九日
東海一の弓取りと謳われた駿河・遠江の太守今川治部大輔義元の首を討って、
織田上総介信長の名を一躍天下に轟かせた桶狭間の戦いは、奇襲攻撃の成功にあった。

義元軍二万五千に対して、信長軍はその10分の1程とも言われる二千余りの軍勢で敵本陣を奇襲する。
信長は蛇のように長く伸びた今川軍の中核、義元の本陣を横から狙うべく、北側の丘陵を迂回し、
義元が休憩する桶狭間に向う。

突如、激しい風雨に見舞われるがこれが幸いし、敵に気配を気取られずに敵本陣に到達。
信長は「分捕り(略奪)をするな。切捨てして突き進め」と下知すると、
自らが果敢に切り込み、義元を討ち取った。
これが桶狭間合戦の通説である。


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利家出奔

 【23//2012】

利家出奔

永禄二年(1559年)六月
十四歳の初陣以来、織田上総介信長に付き従って数々の武勇を立て「槍の又左」の異名をとるまでなっていた
前田又左衛門利家が、信長の同朋衆十阿弥を斬り出奔、浪々の身となってしまう。


出奔(しゅっぽん)
逃げだして行方をくらますこと。武士の失踪(しっそう)。


刀の笄(こうがい)を盗んだ同朋衆・十阿弥(じゅうあみ)の処罰を巡り、主君信長と対立した「傾き者」が起こした事件である。
笄とは、髪を掻き揚げて髷(まげ)を形作る装飾的な結髪用具。
頭が痒い時に髪型を崩さずに掻くなど、女性の身だしなみに欠かせない装身具としても使われていた。
三所物と呼ばれる日本刀(脇差)の付属品のひとつで、刀と一緒に持ち歩く場合が多い。


加賀藩の資料・亜相公夜話(あしょうこうおんやわ)によると、
信長の同朋衆に十阿弥という僧体の者がいた。
十阿弥は茶湯、香、連歌などの芸能に秀でており、側近、あるいは取次ぎ人といった役目で信長に仕えていた。
この十阿弥も、利家同様に信長の寵愛を受けていた人物の一人であったが利家の事を快く思っていなかった。

ある日、十阿弥が利家の愛用している笄を盗んだ(隠した)事により主君信長をも巻き込む事件が起こる。
十阿弥が盗んだ笄は、利家の正室・まつの亡き父である篠原一計の形見の品であり、日頃からまつが大事に扱っていた代物であったという。
利家にとって「洒落」「遊び心」で扱われていい代物では無かった。

怒りに我を忘れた利家は、刀を抜き十阿弥を斬捨てようとするが、十阿弥と親交の深かった者達の仲介や、
命乞いをする十阿弥の姿を見て利家は我に帰り刀を収めた。
後日、利家は笄を盗んだ十阿弥の処罰を信長に願い出るが、信長にはあまり取り合ってもらえず、
「大目に見てやるように」と逆に諭された。

お咎めを受けなかった十阿弥は、
信長の寵愛を一身に受けていると思い込みますます増長してしまうのである。
「人に物を盗まれるような男が、かぶき者とは片腹痛い」
「嫁御に鼻の下を長くしているかぶき者」
「武士がいったん斬ると口外したからには、たとえ殿よりお言葉添えがあったにせよ、
斬らぬことがあるものか。
途中で思いとどまるくらいなら、最初から斬るなどと言わぬことよ」
などと大口を叩き利家を陰で蔑み始めた。

これに激怒した利家は、わざわざ信長の見ている前で十阿弥を斬捨てたのである。
信長の判決に対する、「傾き者」としての意地であった。

「おのれ又左、主君への面当てのつもりか!手討ちにしてくれるわ!」
信長の逆鱗にふれた利家の「覚悟」はどのようなものだったのであろうか。
利家を斬ろうとする信長の前に、柴田権六勝家森三左衛門可成が、
身を呈して立ちふさがり、利家に代わり様々に詫びたという。

柴田勝家や森可成らの取り成しにより、なんとか利家は手討ちにされずに済んだが、無期限の出仕停止処分を言い渡される。
この時、利家は二十二歳であった。
十阿弥殺害の罪で織田弾正忠家から追放された利家は、二年にも及ぶ浪人生活を送る事になる。

二年にも及ぶ浪人生活の間、信長は何かと利家を気に掛けていたようである。
逸話ではあるが、
利家が他の大名家に仕官するかしないか、信用が出来る人間かどうかを見極める為の追放処分という話も残されている。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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松平宗家を襲う因縁

 【22//2012】

松平宗家を襲う因縁

永禄二年(1559年)三月六日
松平蔵人佐元康(まつだいらくらんどのすけもとやす)と、正室である瀬名姫(築山御前(つきやまごぜん))との間に嫡男・竹千代
駿府で誕生する。
のちの松平次郎三郎信康である。
この信康もまた、父・元康同様に、波乱に満ちた生涯を送る事になる。


築山殿(つきやまどの)
徳川家康(松平元康)の正室。本名は瀬名(せな)。別名を鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)。
築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
今川家一門、瀬名家の関口親永の娘。
母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたる。
また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。


「松平宗家」には不思議な因縁のような事が起こる。
信康誕生のちょうど十年前にあたる
天文十八年(1549年)三月六日
信康の祖父にあたる松平次郎三郎広忠が、三河国岡崎城で家臣により斬殺されている。

信康の曽祖父にあたる松平二郎三郎清康もまた、
天文四年(1535年)十二月五日
尾張国守山対陣中に家臣により斬殺されている。
そして不思議な事に「広忠」、「清康」共に「妖刀村正」によって斬殺されている。
この妖刀村正による不思議な因縁は、なおも「松平宗家」を襲う事になる。


村正(むらまさ)
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工。または、その作による日本刀名。
別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。
「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。
村正以外にも、藤村、村重など、「村」を名乗る刀工や、正真、正重など、「正」を名乗る刀工が存在する。
江戸時代においては「千子正重」がその問跡を幕末まで残している。


松平宗家の血を狙う村正の次なる獲物は、元康の嫡子松平信康であった。
天正七年(1579年)九月十九日
織田信長の厳命で切腹を申しつけられた信康を介錯した刀も「妖刀村正」であった。
天正七年(1579年)八月二十九日
元康の命を受けた野中三五郎重政が、小藪村で築山御前を殺害した刀も「妖刀村正」である。

「祖父」「父」「嫡男」「妻」を殺害した「妖刀村正」はなおも「松平宗家」を襲う。
関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田河内守長孝が、戸田武蔵守勝成を討ち取るという功を挙げた。
その槍を徳川家康(松平元康)が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。
聞くところ槍も「村正」で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。

また元和元年(1615年)五月七日
真田左衛門佐信繁(真田幸村)が大坂夏の陣で、徳川本陣を急襲した時、家康に向かって投げつけたと云えられる刀も「妖刀村正」という伝承がある。

名将言行録には、
「真田信繁は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、
さらに家康の孫である徳川権中納言光圀が、「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」
賞賛したという逸話が併記されている。

そして、
慶応四年(1868年)四月十一日
江戸城を制圧した西郷隆盛が帯びていた刀も、「徳川(松平)に仇をなす妖刀村正」であったという。


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美濃の暗殺者

 【21//2012】

美濃の暗殺者

永禄二年(1559年)二月
織田上総介信長は、時の将軍足利義輝に拝謁する為に上京している。
このとき美濃の斎藤治部大輔義龍(さいとうじぶだゆうよしたつ)から、信長を暗殺するべく刺客が放たれたようであるが、那古屋弥五郎配下の丹羽兵蔵の機転により信長はその難を逃れている。


那古屋 弥五郎(なごや やごろう)
尾張国那古屋荘の豪族。那古屋弥五郎勝泰。
尾張守護・斯波義統または織田信友の家臣。
三百人扶持の大身であり、梁田弥次右衛門とともに織田信長に仕えた。


信長公記によると、
清洲の那古野弥五郎の家中に、丹羽兵蔵という機転のきく者がいた。
信長の後を追って上洛する途中、近江志那(おうみしな)の渡し舟でただならぬ様子の人物5.6人に率いられた30人ばかりの集団に、兵蔵は遭遇している。
その集団の頭目らしき男に「どこに住んでいる者だ」とたずねられた兵蔵は、
「三河国だ。尾張国を通ろうとしたが、今川に仕えている身であるから気を使いながら通ってきたのだ」と答えた。
いかにも人目を忍ぶ様子になにやら怪しいものを感じた兵蔵は、
「あなた方は何処へ行かれるのか」と訊ねてみた。すると、
「美濃国斎藤治部大輔義龍様からの大事な用事」とだけ答え、彼らは黙り込んでしまった。
不審に思った兵蔵は、後をつけ彼らが泊まる宿の傍らに宿を取った。

「義龍の大事な用事」がどうにも気になる兵蔵は、機転の利く子供を手なずけ、それとなく彼らの目的を調べさせた。
「おじさん達は、湯につかりに来たのか」と何気に話しかける子供に対し、相手が子供と言う事に気を許したのか一人の男が「我らは湯につかりに着たのではないぞ。美濃国の斎藤義龍様から大事な用事を受けてきたのだ。
我らは上総介の討ち手に選ばれたのだ。」と誇らしげに答えた。
この者達は、信長を暗殺すべく義龍によって送られた
小池吉内、平美作、近松田面、宮川八右衛門、野木次左衛門ら美濃衆であった。

「美濃刺客」である事を知った兵蔵は、その後も彼らと行動を共にした。
京に入った小池吉内らは、二条蛸薬師のあたりに宿を取った。
兵蔵は、その宿の門柱を削り目印をつけ、信長が泊まる上京室町通り裏辻の宿所へと急ぎ向かった。
「尾張より使いとして参った。火急の用事の為取り急ぎ金森殿か蜂屋殿にお取次ぎ願いたい。」
兵蔵はこれまでの経緯を詳細に説明し、京での宿を突き止めてきた旨を金森五郎八長近(かなもりごろはちながちか)
蜂屋頼隆(はちやよりたか)両人に伝えた。


金森 長近(かなもり ながちか)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
織田氏、豊臣氏、徳川氏の家臣。
名ははじめ可近(ありちか)、後に織田信長から一字を賜り、長近を名乗った。
通称は五郎八。法印素玄。飛騨守、兵部大輔。飛騨高山藩初代藩主。
金森氏は、美濃源氏土岐氏の支流と称する。
応仁の乱にて西軍として活躍した美濃守護土岐成頼の次男大畑定頼の次男・定近が一族を連れて美濃を離れて寺内町として著名な近江国野洲郡金森に居住し、「金森采女」を称した事に始まるとされている。

蜂屋 頼隆(はちや よりたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
美濃国加茂郡蜂屋に生まれ、はじめ土岐氏、次いで斎藤氏に仕えた。
斎藤道三が孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)へ家督を譲ることを考えると、美濃蜂屋氏の一族は道三と共に斎藤義龍に反旗を翻す計画を立てたが、加治田衆を直ちに引き連れた佐藤忠能により鎮圧された。
その後、蜂屋一族は美濃国を去ったと言われている。


翌朝、金森長近は兵蔵を伴って小池吉内らのいる二条蛸薬師の宿に赴いた。
吉内ら美濃衆は、長近と面識のある者達であった。
長近は一行に対面すると「夕べ貴殿方御上洛のこと、あるじ上総介も存じてござるによって、このように挨拶にまかり越した次第でござる。ついては貴殿方も上総介へ返礼し候え」と申し述べた。
「上総介存知」と聞き、一行は仰天した。

翌日、吉内ら美濃衆は小川表の管領屋敷に参上し信長と対面している。
対面の席で信長は、
「汝らは上総介の討手に上りたるとな。若輩の分限で我を狙うとはこれ蟷螂の斧と申すものよ。
出来るものか。それともここで試して見るか」と大音声で問いただした。
信長のあまりの迫力に吉内ら美濃衆は言葉に窮して、ただ俯くばかりだったと言う。

数日後、信長は京を後にし、近江から八風峠を越えて尾張に帰った。


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信長 上洛

 【20//2012】

信長 上洛

上洛(じょうらく)
京都に入ることを意味する語。
京の都が漢の古都になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれたことから。

永禄二年(1559年)二月二日
尾張全土をほぼ統一した織田上総介信長は、上洛し室町幕府第十三代将軍足利義輝に謁見している。

足利 義輝(あしかが よしてる)
室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。
室町幕府歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。
その政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいて、その努力は評価に値する。
また、上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられている。

謁見(えっけん)
平安時代より見られる用語で、目下の者が目上の者のもとへ参上して対面すること。

信長公記には、
「俄に仰せ出され」とあるが、信長にしてみれば予定通りの行動であった。
信長が危険を犯してまで行う上洛の目的は、尾張統一を報告すると共に、守護職を拝命するつもりであったものと思われる。
尾張統一を成し得た信長は、領国経営を行う上で権威が必要と考えた為では無いだろうか。
時の将軍に正式に守護として認められれば、自らの正当性を主張できると考えた為である。

守護(しゅご)
日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。


上洛の多くは、将軍の命によるものだという。
不安定な地位に置かれていた将軍が、自己の地位を守るために、有力な戦国大名に上洛を促し、
よしみを通じる為である。
また戦国大名にとっては、将軍を支えることで、領国支配に有利な地位を得ることを目的としていた。
戦国大名にとって将軍家は、領国支配の正統性を保持するための権威であった。
将軍家は常に有力大名の後ろ盾を必要としており、さらに困窮していた天皇家も多くの大名の援助
必要としていた。

大名家が上洛するということは、
天下統一するためというよりも、領国支配に正統性を与えてくれる将軍家を支え、さらにそれに権威を与えてくれる天皇家に、さまざまな財政援助をすることで、領国支配基盤を確保することだったのである。


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川中島の戦い

 【19//2012】

川中島の戦い

天文十九年(1550年)七月十五日
武田大膳大夫晴信の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護小笠原信濃守長時(おがさわらしなののかみながとき)は、
長尾弾正少弼影虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)を頼り越後国へ亡命。

天文二十一年(1552年)一月
関東管領上杉兵部少輔憲政(うえすぎひょうぶしょうゆうのりまさ)もまた、相模国の北条左京大夫氏康(ほうじょうさきょうのだいぶうじやす)に、
領国である上野国を攻められ、長尾弾正少弼影虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)を頼り越後国へ亡命している。

さらに
天文二十二年(1553年)四月
村上左近衛少将義清(むらかみさこんえのしょうしょうよしきよ)が晴信との信濃での抗争に敗れ、越後国へ亡命。
この義清の影虎への援軍要請を期に川中島の戦いが始まる。
武田晴信三十二歳・長尾影虎二十四歳 戦国史上、屈指のライバルの誕生である。

小笠原 長時(おがさわら ながとき)
信濃国守護。信濃小笠原氏当主。信濃林城主。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族。
武家社会で有職故実の中心的存在となり、幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家当主。上杉謙信の養父。
甲陽軍鑑では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。
また北条氏康の上野侵攻の際、佐竹義昭に関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたが、これを拒否されたという。

村上 義清(むらかみ よしきよ)
北信濃の戦国大名。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。
実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。


天文二十二年(1553年)四月二十二日
影虎の援軍を得た義清は、旧領を奪還する為出陣し、葛尾城を奪還。
天文二十二年(1553年)七月二十五日
義清に破れ、一端兵を引き甲斐に戻った晴信は、軍備を整え、1万の軍勢を従えて再度信濃へ侵攻。
天文二十二年(1553年)八月五日
晴信は、小県郡塩田城に篭る村上義清を攻撃し、塩田城の攻略に成功。
義清は再び越後国へ逃亡する事になる。


影虎出陣
再び義清から援軍要請を受けた影虎は、晴信討伐を決意し、
天文二十二年(1553年)八月三十日
八千の軍勢を従えて信濃に出陣し、更級郡布施で武田軍の先鋒を撃破する。
天文二十二年(1553年)九月一日
勢いに乗る長尾軍は、更級郡八幡原でも武田軍に圧勝し、武田家支城を次々と攻め落としていく。
情勢の不利を悟った晴信は、勢いに乗る影虎との決戦を避け、甲斐に引き上げた。
晴信の信濃撤退を確認した影虎は、晴信を追撃せず越後へ引き上げている。
これが第一次川中島の戦いである。

長尾影虎の出現により、信濃攻略の厳しさを痛感した晴信は、後顧の憂い(こうこのうれい)を絶つため、
天文二十三年(1554年)
太原崇孚雪斎の協力により甲相同盟を結ぶ事になる。
晴信は、北条氏康の嫡男北条新九郎氏政(ほうじょうしんくろううじまさ)に、愛娘である黄梅院(おうばいいん)を嫁がせている。
また嫡男である武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)の正室に、今川治部大輔義元の娘嶺松院(れいしょういん)を迎え入れ、
甲駿同盟の強化にも勤めた。

太原 雪斎 / 太原 崇孚(たいげん せっさい / たいげん そうふ)
臨済宗の僧侶(禅僧)で今川氏の家臣。諱は崇孚。
今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから、「もし雪斎が1560年の桶狭間の戦いまで存命していたならば、義元が織田信長に討たれるようなことは決してなかった」「今川氏の衰退は雪斎の死によって始まった」等と評する文献も少なくない。

甲相同盟(こうそうどうめい)
戦国時代に甲斐国武田氏と相模国北条氏との間で結ばれた軍事同盟。

甲駿同盟(こうすんどうめい)
戦国時代に甲斐国武田氏と駿河国今川氏との間で結ばれた軍事同盟。


そしてより一層同盟関係を強固にするために太原崇孚雪斎は、
天文二十三年(1554年)三月
氏康の娘早川殿と、義元の嫡男今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)との婚姻を実現させている。
ここに、甲斐の武田晴信、相模の北条氏康、駿河の今川義元による甲相駿三国同盟が完成する。

後顧の憂い(こうこのうれい)を絶つ事に成功した晴信の敵は、長尾影虎ただ一人となったのである。


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信濃制圧

 【18//2012】

信濃制圧

甲斐武田家は、武田信虎の時代に国内が統一され、山内・扇谷両上杉家や駿河今川家、信濃諏訪家との
和睦を成立させ、信濃佐久群や小県郡への侵攻を開始していた。


天文十一年(1542年)
家督を継承した武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)は、信虎の北進政策による信濃佐久群への侵攻を見直し、
より実りの大きい信濃諏訪郡への侵攻を画策するようになる。
武田家の北進政策による信濃佐久群は、晴信が治める甲府盆地とは八ヶ岳によって隔てられていたが、
諏訪湖を中心に広がる諏訪盆地は甲府から平坦な道が繋がっていた。
国力を上げる上では、統治する事が困難とされる信濃佐久群へ侵攻するよりも、統治しやすい信濃諏訪郡への
侵攻の方がより実りが大きい事は明らかであった。
また、信濃国で生き神として君臨する諏訪の血が、晴信の信濃侵攻にとって必要不可欠であった事も大きな要因の一つであったと思われる。
諏訪四朗勝頼の誕生は、晴信にとってとても大きな事であったのは言うまでもない。
現に勝頼が誕生するまでは、思慮をめぐらし謀殺した諏訪刑部大輔頼重(すわぎょうぶのだゆうよりしげ)の嫡子である寅王丸諏訪惣領家の当主として、武田家で養育していたからである。

諏訪 頼重(すわ よりしげ)
戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。刑部大輔。上原城城主。
諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。

諏訪郡を制圧した晴信は、信濃侵攻を本格化させる為、相模国の北条家と同盟を締結。
これは武田家の外交方針を180度転換する事になった。
それまで友好関係にあった関東管領山内上杉家は、関東において北条家と敵対していた為、武田家と北条家との同盟は許しがたい行為であった。
また、晴信の本格的な信濃侵攻に危機感を抱いていた信濃国人衆が、山内上杉家に庇護を求める様になり、
山内上杉家と武田家は敵対関係となっていった。
諏訪惣領家の後見役となった晴信は、旧領回復を大義名分に掲げ、高遠家・藤沢家・大井家などの信濃国人衆を次々と攻略、調略し、信濃の領国化を進めていった。

後北条氏(ごほうじょうし、旧字体:後北條氏)
関東の戦国大名。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる伊勢盛時(北条早雲)をその祖とする。
正式にはただ「北条氏」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになった。
また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏(おだわらほうじょうし)とも呼ばれる。

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、
鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。

天文十六年(1547年)閏七月二十四日
晴信は、諏訪氏の一族であった信濃国人衆笠原新三郎清繁(かさはらしんざぶろうきよしげ)の居城志賀城(しがじょう)を攻め、
援軍に来た関東管領上杉兵部少輔憲政(うえすぎひょうぶしょうゆうのりまさ)小田井原の戦いで撃破するなど武田家の快進撃は続いた。
しかし、天文十七年(1548年)二月十四日
信濃制圧を目指し連勝を続けていた晴信は、村上左近衛少将義清(むらかみさこんえのしょうしょうよしきよ)上田原の合戦で敗れ、重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫している。
村上氏は、清和源氏の流れをくむ北信濃の名族であり、当主義清は、猛将として知られ、
天白山の居城葛尾城を本拠に埴科郡、高井郡、小県郡、水内郡を勢力下におさめ、村上氏の全盛期を築き上げた人物であった。

小田井原の戦い(おたいはらのたたかい)
天文16年(1547年)閏7月から8月にかけて甲斐守護武田晴信と関東管領上杉憲政、信濃国志賀城主笠原清繁との間で行われた合戦と攻城戦。
武田晴信は、信濃国佐久郡に侵攻し志賀城を包囲。
関東管領上杉憲政は、志賀城救援の軍勢を派遣するが、小田井原で武田軍に迎撃され潰走。
救援の望みを失った志賀城は落城し、武田氏は佐久郡の制圧を完了する。

上田原の戦い(うえだはらのたたかい)
天文17年2月14日(1548年3月23日)に信濃国上田原で行なわれた、甲斐国の戦国大名武田晴信と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。
家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信は、この合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫した。

上田原の合戦で武田家は、板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)
才間河内守信綱(さいまかわちのかみのぶつな)初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)ら多くの諸将を失った。
武田軍の敗北を知った信濃国人衆は、信濃守護小笠原氏を中心に結束して反撃を開始。
また諏訪郡でも、諏訪郡代板垣信方が戦死したことにより反乱が起り、武田家の信濃支配は、危機的状況に陥ることになる。

小笠原氏(おがさわら)
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。
室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり、家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも
礼典や武芸の事柄においては重用された。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。

天文十七年(1548年)七月十九日
信濃守護小笠原信濃守長時(おがさわらしなののかみながとき)が、信濃国人衆を率い混乱する諏訪郡へ侵攻するが、晴信率いる武田軍に撃退されている。
天文十九年(1550年)七月十五日
晴信は、諏訪郡の地盤回復後、信濃の小笠原領の筑摩郡に侵攻を開始し、長時の居城・林城を攻略。
当主小笠原長時は何とか落ち延び、居城を捨て逃亡。
これにより信濃中南部の大半を制圧した晴信は、信濃北部・東部へ進軍を開始する。
しかし、天文十九年(1550年)九月十一日
上田原の戦いの雪辱を果たすべく、村上氏の支城の砥石城を包囲するが、村上義清の反撃を受けて再び大敗。

妙法寺記(みょうほうじき)では、
兵力において圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦し、
葛尾城から本隊を率いて援軍に駆けつけた村上義清勢に挟撃される形となった。
戦況不利と判断した晴信は撤退を決断するが、義清の追撃は激しく、千人近い死傷者を出したと記されている。
晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで記されている。

俗に言う「戸石崩れ」で、二度も武田軍に敗北を味あわせ勢いを得た村上軍は、小諸(こもろ)へ進軍し、さらに佐久郡野沢へと軍を進めた。
このような絶体絶命の状況のなか、「智将」として歴史の表舞台に現れたのが、真田家である。
天文二十年(1551年)五月二十六日
信濃先方衆真田源太左衛門幸隆(さなだげんたざえもんゆきたか)の調略により、堅城と謳われた砥石城はわずか一日で陥落。

砥石崩れ(といしくずれ、戸石崩れ)
天文19年(1550年)9月、甲斐の戦国大名武田晴信と、北信濃の戦国大名村上義清との間に勃発した
砥石城(戸石城)攻防戦。
崩れとは、
最終的に勝利した側(この場合は武田氏)が、その戦いでは大敗北を喫した場合などに使われる用語である。

真田 幸隆(さなだ ゆきたか)
戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

天文二十二年(1553年)
その後も続く執拗な武田軍の攻撃の前に成す術を失った義清は、居城・葛尾城を捨て、長尾影虎に援助を請う為、越後国へ亡命している。
晴信は十一年という歳月をかけ、ようやく信濃国のほぼ全域を支配する事になった。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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戦国期最強の軍団を作り上げた軍師との出会い

 【16//2012】

戦国期最強の軍団を作り上げた軍師との出会い

山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)という武田家の名軍師の名は、誰もが一度は聞いた事のある名だと思うが、
武田信玄こと武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)との出会いは勘助が四十四歳の時である。
幸若舞(こうわかまい)の演目のひとつである、敦盛(あつもり)「人間五十年」という一節から考えるとかなりの高齢である。


幸若舞(こうわかまい)
室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。
福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。
能や歌舞伎の原型といわれ、700年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。


勘助は、山本弾正貞幸(やまもとだんじょうさだゆき)の四男として明応九年(1500年)に生まれたというが、
諸説が色々とあり確かな事は解らない。
若い頃に諸国を遍歴して兵法を会得しており、その際城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めたという。

山本 貞幸(やまもと さだゆき)
駿河国富士郡山本村(静岡県富士宮市山本)の武士で、山本浪人と称して諸国を遍歴している。
武芸軍略に優れ、武田氏・今川氏に仕えた。
「吉野家系図」では貞幸が、子山本勘助の軍略の師範となっている。
当初、前妻との間に貞継を儲けたが、妻と死別したため大橋入道の娘・安を後妻とした。
この安との間に生まれたのが山本勘助と伝わる(勘助の諱を貞幸とする説もある)。


天文五年(1536年)
三十七歳になっていた勘助は、駿河国の太守今川治部大輔義元(いまがわじぶだゆうよしもと)に仕官する為、
駿河国庵原城主庵原安房守忠胤(いはらあわのかみただたね)を頼り今川家への仕官を願い出ている。
しかし義元は、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。
小者一人も連れぬ貧しい牢人で兵を率いたこともない勘助が、兵法を極めたなど、
大言壮語(たいげんそうご)の法螺(ほら)であるとして、義元には相手にもされなかった。
仕官が叶わなかった勘助は、牢人の身のまま七年間も駿河に留まり、兵法家として名を上げる事が出来ない
鬱々(うつうつ)とした日々を過ごすことになる。

庵原 忠胤(いはら ただたね)
戦国時代の武将。通称、安房守。駿河国庵原城主。
今川義元の軍師として有名な太原雪斎は、義叔父にあたる。

大言壮語(たいげんそうご)
おおげさに言うこと。できそうにもないことや威勢のいいことを言うこと。
口では大きなことを言っても実行が伴わないこと。
「壮語」は威勢のよい言葉の意。


天文十二年(1543年)
四十四歳となっていた勘助に、転機が訪れた。
駿河国に稀代の兵法家が牢人していると聞きつけた武田家の重臣板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)が、
「知行百貫で、勘助を召抱えたい」と申し入れて来たのである。
銭一貫文で米一石、というのが中世の基準的な相場であったといわれており、単純計算でも百貫文は百石という事になる。
米一石というのは大人一人が、一年間に消費する米の量であり、百年分の米を貰える事になる。
また北条家の小田原衆所領役帳によると、
七貫に一人の軍役となっており、百貫と言う事は約十四人の軍役が課せられる事になる。
牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であったという事が解る。

板垣 信方(いたがき のぶかた)
武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた武将。武田二十四将、武田四天王の一人。
家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。

小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)
相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。全1巻。
永正17年(1520年)から弘治元年(1555年)にかけて領国内における数度の検地を実施しており、
それに基づいて分限帳が作成されたと考えられている。
小田原衆をはじめ馬廻衆、玉縄衆など家臣団を12の衆別560人の役高が貫文で記され、所有する郷村名も併記された。
後北条氏の家臣に対する軍役や知行役など諸役賦課の体制の究明には必須史料である。

板垣信方の申し入れを受け入れた勘助は、すぐさま甲斐国守護武田氏の居館・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に赴き、
武田晴信と対面する事になる。
晴信は、城取り(築城術)や陣取り(戦法)・兵法などを語る勘助のその知識の深さに感心し、
知行百貫で召抱えようとしていた勘助をその倍の知行二百貫で召抱えている。
容貌が醜く異形の姿をした勘助を、晴信は快く受け入れたのである。
「我が人を使うは、人を使わず、その業を使うなり」という言葉を残した武田晴信らしい人事採用術である。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた
山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または城)。
甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。






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鈴木日向守と山本勘助

 【15//2012】

鈴木日向守と山本勘助


桶狭間の合戦の前哨戦の一つとも言われる寺部城合戦で、寺部城と共に討死した
鈴木日向守重辰(すずきひゅうがのかみしげたつ)には面白い逸話が残されている。

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田氏第十九代当主武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)には、
山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)という武田二十四将の一人に数えられる程の名軍師がいた。


甲斐源氏(かいげんじ)
甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち、武田氏をはじめとする甲斐を発祥とする諸氏族の総称。
同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や、平賀氏(信濃源氏)とは同族。
また加賀美氏流の小笠原氏系統は、早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。

武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)
武田信玄に仕えた武将のうち、一般的な評価が特に高い24人。


勘助は三河国牛久保の出身で、諸国を放浪し城取り(築城)を極めた後、最初は今川家に仕えようとするが、
その醜い容貌から今川家に仕官する事が出来ず、武田晴信に仕え頭角を現した武将である。
一説によると、勘助が師として兵法を学んだのが寺部城主鈴木重辰といわれている。
しかし、史実の上での山本勘助については資料がほとんど残されておらず、情報が乏しいため想像の粋を超えられないのが現実である。


軍師としての山本勘助は、江戸時代に書かれた武田家の軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」の記述をもとに、
後世の軍談の作者による創作であると考えられている。
甲陽軍鑑(こうようぐんかん)とは、
甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。
武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。


勘助が鈴木重辰から学んだものがどのようなものであったのかを記す資料は残されてはいないが、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけ建武の新政の立役者として、足利尊氏(あしかがたかうじ)らと共に活躍した
楠木正成(くすのきまさしげ)の流れを汲む寺部鈴木氏に受け継がれている正成の兵法の極意が、
山本勘助に伝えられ、そして甲斐武田家に伝わった可能性があると考えると大変興味深い逸話である。


建武の新政(けんむのしんせい)
鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に、後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年(建武3年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
室町幕府の初代征夷大将軍。足利将軍家の祖。

楠木 正成(くすのき まさしげ)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。


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今川義元の感状

 【14//2012】

今川義元の感状

永禄元年(1558年)四月
今川治部大輔義元が、松平蔵人佐元康の家臣足立右馬助に感状を与えている。
元康の初陣となった三河寺部城合戦で討死した、右馬助の弟足立甚尉の忠節を称えたものであった。

この寺部城合戦は、二年後に起こる桶狭間の合戦の前哨戦の一つともいえる合戦とされているが、
これまで「織田方に寝返った寺部城主鈴木日向守重辰を、義元の命により元康が攻め、見事初陣を飾った。」とした経緯が記されている程度の資料しかなく、その詳細を伝える文書はほとんど残されていなかった。
この感状の発見は、当時を知る上でとても貴重な発見であった事は言うまでもない。


平成十九年(2007年)五月十五日
様々なお宝を専門家が鑑定し、値段付けを行う人気テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」で、
「桶狭間の戦いの新事実が茨城で発見された」として紹介されている。
歴史的に貴重な発見であるとして、鑑定額はなんと700万円もの高額が付いたお宝である。
ちなみにこの感状は、水戸徳川家にゆかりのある豪商から譲られた多くの骨董品の中に入っていたという。
その豪商から譲られた多くの骨董品の中には、他にはどんなお宝が眠っているのかも興味があるところだ。


「開運!なんでも鑑定団」(かいうん!なんでもかんていだん)
1994年4月19日からテレビ東京系列で毎週火曜日20:54 - 21:54(JST)に放送されている鑑定バラエティ番組。
字幕放送(一部地域のみ。テレビ東京などは再放送でも実施)。
通称は「鑑定団」「なんでも鑑定団」。
過去に当番組は、民放連賞優秀賞受賞、橋田寿賀子賞受賞している。




去廿四日寺部へ相動之刻、広瀬人数為寺部合力馳合之處岡崎并上野人数及一戦砌、弟甚尉最前ニ入鑓、
粉骨無比類之處、當鐡炮令討死、因茲各重合鑓、遂粉骨之間、即敵令敗北之条、甚以忠節之至也、彼者事者、
去辰年上野属味方刻、勝正同前ニ従岡崎上野城ヘ相退砌も、既盡粉骨之上、彼城赦免之儀相調之間、
彼比以忠功令感悦者也、仍如件、
永禄元年
四月廿六日義元
足立右馬助殿

この感状で最も注目されることは、寺部城合戦について記されていることである。
四月二十六日付けの本文書では、足立甚尉が討死したことを去二十四日とし、即敵令敗北と記している。
このことから寺部城合戦は、四月末に元康勢の勝利で決着した事が判明する。
また広瀬人数為寺部合力馳合之處から、
広瀬人数(広瀬城主三宅高清勢)が、鈴木重辰方に加勢したのに対し、
元康側には岡崎并上野人数及一戦砌から、
岡崎衆の他に上野人数(上野城主酒井忠尚勢)が、加勢した事が確認できる。

すごい事である
書状一枚でこの当時の合戦背景がうっすらと浮かび上がってきた。
私たちが今、伝え聞いている歴史の見えない部分が時代を重ねると逆に見えてくるのである。
不思議といえば不思議な事かも知れない。
しかしそこに、歴史の面白さがあるのかも知れない。



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松平元康の初陣

 【13//2012】

松平元康の初陣


永禄元年(1558年)二月
今川治部大輔義元は、三河広瀬城主三宅右衛門尉高清(みやけうえもんのじょうたかきよ)と結び、
織田方に寝返った三河寺部城主鈴木日向守重辰(すずきひゅうがのかみしげたつ)の討伐を松平蔵人佐元康に命じている。

十七歳になっていた元康にとっては、初陣となる合戦であった。
通常初陣とは、子供の将来の安寧(あんねい)を願い必ず勝てる戦いを選び、儀式として参加させる傾向があったが、
人質として扱われていた元康にとっては儀式として参加させる合戦などは用意されていなかった。
元康は総大将として、今まで今川家の捨て石的な扱いを受けていた三河衆を率いて戦う事になる。
しかし、元康初陣の報せを聞いた三河衆は大いに喜んだという。

永禄元年(1558年)二月五日
鈴木重辰討伐の総大将を任された元康は、岡崎に戻り岡崎衆を率いて出陣する。

東照宮御実紀によると、
「この軍中にて君古老の諸將をめされ御指揮ありしは、敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を斷べしとて城下を放火し引とり給ふ。」とある。

元康は、譜代の家臣を集め軍議を開き、
「敵はこの一城というわけではない。周りの敵城よりもし後詰めでもあれば、大変な状態となる。まずは枝葉を討ち払ってから本根を断つべきである」といい、譜代の諸将を驚かせたという。
若干十七歳にして、しかも初陣という気持ちが浮つく状態でのこの采配に、譜代の諸将達は皆、
亡き英雄松平二郎三郎清康の面影を見たのである。
また清康、広忠の二代に仕え、竹千代(元康)が人質として駿府に送られた際には、行動を共にしていた
酒井雅樂助正親(さかいうたのすけまさちか)や、主君不在の岡崎に残り鳥居伊賀守忠吉(とりいいがのかみただよし)と共に西三河における政務を取仕切っていた石川安芸守清兼(いしかわあきのかみきよかね)などの譜代の重臣は、主君元康の立派に成長した姿に涙を流し感嘆(かんたん)したという。


徳川実紀(とくがわじっき)
19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。国史大系に収録されている。
正確には、歴代将軍の諡号を冠して、それぞれの将軍に関する記録を「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
徳川家康から10代将軍徳川家治(天明期、1786年)までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化6年(1809年)に起稿、嘉永2年(1849年)12代徳川家慶に献じられた。

松平 清康(まつだいら きよやす)
三河松平氏の第7代当主。徳川家康の祖父。三河国安祥城城主および岡崎城主。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

酒井 正親(さかい まさちか)
松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の3代に仕えた。
家康が人質として駿府に送られた際には、行動を共にし、家康の初陣に付き従い、その働きを感嘆している。
三河西尾城主。

鳥居 忠吉(とりい ただよし)
松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の3代に仕えた。
貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた「三河武士」その忠誠心は、家康を想う忠吉によって植えつけられたと言われている。

石川 清兼(いしかわ きよかね)
松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・広忠・徳川家康の3代に仕えた。
三河国碧海郡小川に拠った石川氏の一族の惣領。
1543年(天文12年)家康誕生の際には「蟇目の役」を務めたとされる。


この寺部合戦は、同年四月末まで続く長期戦となった。
広瀬城の三宅高清勢が、鈴木重辰勢に加勢したのに対し、元康勢には上野城の酒井将監忠尚(さかいしょうげんただなお)の勢力が加勢するなどし、大規模な合戦へと変化していく。
この合戦で、元康の大将としての器に魅せられた松平衆の奮戦は凄まじく、梅ヶ坪城、挙母城、伊保城と次々に周囲の城を攻め落としていく事になる。
最終的に寺部城を包囲した元康は、寺部城の外曲輪を押し破り、一気に城内になだれ込み、
鈴木重辰の討伐を成功させている。
他に類を見ない華々しい初陣であった。
元康の類い稀な采配に、家臣一同が「正に清康公の再来」と涙を流して喜んだという。



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斯波武衛家の最後

 【07//2012】

斯波武衛家の最後


尾張下四郡を支配し、弟である勘十郎信行を謀反の罪で謀殺した、織田上総介信長は尾張国での勢力を
着実に拡大させつつあった。

それを快く思わない人物がいた。
尾張守護斯波武衛家十五代当主斯波治部大輔義銀(しばじぶだゆうよしかね)である。
義銀は、斯波氏の権勢を取り戻そうと、三河国の吉良義昭と結んで信長の追放を画策するようになる。


吉良 義昭(きら よしあき)
戦国時代の武将。三河西条吉良氏当主。西条城を有した吉良義堯の三男。
今川氏真(うじざね)により次兄吉良義安にかわって東条城主となる。
永禄4年、松平元康(徳川家康)とたたかい降伏している。
永禄6年、三河一向一揆の主将に推されふたたび家康とたたかい、摂津芥川で戦死し、西条吉良氏はたえた。


信長の庇護を受け、斯波武衛家の当主となった義銀は、信長の画策により、
三河吉良氏と守護同士の盟約を結ぶなど、義銀は信長の傀儡(かいらい)として利用され続けていた。
しかし義銀自身は、吉良義昭との盟約に「守護」としての自分の立場を強く意識し始めていた。
その義銀の心の隙間を巧みに揺さぶっていたのが、駿河・遠江の太守今川治部大輔義元であった。


斯波氏(しばし)
本姓は源氏。家系は清和天皇の血をひく清和源氏の一つ、河内源氏の棟梁鎮守府将軍源義家の子、
義国を祖とする足利氏の有力一門
室町時代に幕府の三管領筆頭となった一族であり、越前・若狭・越中・山城・能登・遠江・信濃・尾張・加賀・安房
佐渡などを領した守護大名・戦国大名。
また一門は、奥州探題・羽州探題を代々歴任し、一時は九州探題・関東管領にも任じられていた。

武衛家(ぶえいけ)
斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。
武衛とは兵衛府の唐名で、斯波氏当主が代々左兵衛督や、左兵衛佐に任ぜられたことに由来する。

守護(しゅご)
日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。


義元の命を受けた服部左京助友定(はっとりさきょうのすけともさだ)は、
「尾張守護とは言え、所詮形だけのものであり、いずれ尾張国は信長に乗っ取られる事に違いない。
そうなる前に、同じ足利氏一門として今川家が、義銀様を名実共に相応しい尾張守護の地位にお就けいたします。」

「守護」として自問自答する義銀に近づき、友定は謀反をほのめかすのである。
義銀の心は大きく揺らぎ苦しんだ事は言うまでもなかった。


服部友定(はっとり ともさだ)
尾張国荷ノ上の土豪・服部党当主。
今川義元に与すなど、織田信長に対し抵抗した。


信長公記によれば、
吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事
「尾張国端海手へ付いて石橋殿御座所あり。河内の服部左京助、駿河衆を海上より引入れ、吉良・石橋・武衛様仰談らはれ、御謀叛半の刻、家臣の内より漏れ聞え、即御両三人御国追出し申され候なり。」とある。

悩み苦しんだ末、義銀は斯波氏一門の石橋氏、吉良氏、今川氏、服部氏と通じ、今川の軍勢を海上から尾張国へ引き入れようとしたのである。
しかし、この密議は信長の知るところとなり、義銀は尾張を追放され、守護大名としての斯波武衛家は滅びることになる。

斯波義銀の補佐役としての「大義名分」の下、尾張国内での反対勢力を一掃し、残すは、尾張上四郡を支配していた織田伊勢守家ただ一つとなっていた信長にとって、「守護」としての自我が芽生えだした義銀は邪魔な存在でしかなかったのではないだろうか。

戦国大名として名乗りを挙げた信長にとって、「守護」とは旧勢力との外交に使う名ばかりの権威としてしか見ていなかったのである。
信長にとっては「守護」の補佐役としての「大義名分」が、尾張国の支配を進める上で必要であっただけで、
「守護職」などという旧体制の役職などは、最初から必要なかった。

結局、「守護」を意識しすぎた義銀は、信長に対し謀反を企てたとされ、追放されてしまう。
これは明らかに信長の謀略であると思われるが、力を持たない名ばかりの守護であった義銀にはどうする事も出来なかった。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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永禄記-その他①

 【06//2012】

永禄記 目次-その他①

第百六話 斯波武衛家の最後
斯波武衛家の権勢を取り戻そうと画策する斯波義銀
2012.10.07

第百七話 織田伊勢守家の内紛
家督騒動の末、国外追放となった織田伊勢守信安
2012.10.08

第百八話 浮野合戦の事
織田信長による尾張統一の最終段階
2012.10.09

第百九話 信長の色小姓
若き主君の性欲の処理にあてがわれた少年
2012.10.10

第百十話 槍の又左
「尾張で敵無し」と恐れられた「かぶき者」
2012.10.11

第百十一話 黒と赤の直属精鋭部隊
ライバル心を煽るという信長らしい部下教育方針
2012.10.12

第百十二話 松平元康の初陣
亡き英雄・松平二郎三郎清康の面影
2012.10.13

第百十三話 今川義元の感状
うっすらと浮かび上がる歴史の真実
2012.10.14

第百十四話 鈴木日向守と山本勘助
甲斐武田家の名軍師の逸話
2012.10.15

第百十五話 戦国期最強の軍団を作り上げた軍師との出会い
醜い姿をした稀代の兵法家
2012.10.16

第百十六話 諏訪の姫
怨むべき仇へ側室として仕える事になった姫
2012.10.17

第百十七話 信濃制圧
川中島の合戦への経緯
2012.10.18

第百十八話 川中島の戦い
宿敵、毘沙門天の登場
2012.10.19

第百十九話 信長 上洛
領国経営を行う上で必要となる権威
2012.10.20

第百二十話 美濃の暗殺者
斎藤治部大輔義龍からの大事な用事
2012.10.21

第百二十一話 松平宗家を襲う因縁
松平宗家(徳川宗家)を襲う呪われた妖刀「村正」
2012.10.22

第百二十二話 利家出奔
主君の裁きに異を唱え、追放処分となった「傾き者」
2012.10.23

第百二十三話 桶狭間合戦の通説
桶狭間の戦いは、奇襲攻撃の成功にあった
2012.10.24

第百二十四話 大日本帝国陸軍参謀本部による桶狭間の合戦
軍事の専門家によって作られた桶狭間の合戦
2012.10.25

第百二十五話 今川義元の真意
今川義元は「上洛」するきなどなかった
2012.10.26

第百二十六話 総動員可能兵力数
戦国時代の兵力はどのようにして算出するのか
2012.10.27

第百二十七話 決戦前夜
通説では情報収集の末での決断とされているが果たして
2012.10.28

第百二十八話 義元に油断は無かった
今川義元は、織田信長の行動を全て把握していた。
2012.10.29

第百二十九話 奇跡ともいえる奇襲攻撃
織田勢の来襲は、奇襲というよりむしろ強襲だった。
2012.10.30

第百三十話 東海の覇者・今川治部大輔義元の最後 
志半ばにして桶狭間で最後を遂げた東海の覇者
2012.10.31

第百三十一話 乱妨取り
甲陽軍鑑に記された桶狭間の戦い
2012.11.01

第百三十二話 悲願であった岡崎城主
岡崎で城を拾った松平元康
2012.11.02

第百三十三話 松平元康 独立
旧領三河の支配権を取り戻す為の闘い
2012.11.03

第百三十四話 元康から家康への改名の由来
清和源氏系を称していた松平氏
2012.11.04

第百三十五話 清洲同盟
尾張国織田氏と三河国松平氏との間で締結された攻守同盟
2012.11.05

第百三十六話 義龍急死
美濃侵攻の好機到来
2012.11.06

第百三十七話 十郎左衛門信清 謀反
一門の要として十分な役割を果たしていた信清
2012.11.07

第百三十八話 信長の棋風
確実に活路を拓く、信長の堅実な戦略
2012.11.08

第百三十九話 小牧山へ移城
美濃斎藤家孤立作戦のための布石
2012.11.09

第百四十話 犬山両家老の内通
織田信清が最も頼りとしいた二人の家老の裏切
2012.11.10

永禄記 目次-その他②

Category: 信長奮闘記

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弘治年間年表

 【05//2012】

弘治年間(1555-1557)

弘治(こうじ)期は、1555年から1557年までの3年間を指す。
天文二十四年(1555年)十月二十三日
戦乱などの災異の為、室町幕府第十三代将軍 足利義輝の申請により、天文から弘治と改元される。
この時代の天皇は後奈良天皇、正親町天皇。



弘治元年(1555年)
○今川義元が織田家支城 蟹江城を攻略する。
○松平竹千代が元服し、名を松平次郎三郎元信と改める。
○斎藤道三の嫡男、斎藤義龍が謀反
○今川家の政治・軍事・外交で今川義元を補佐した太原崇孚雪斎が死去。
○長尾政景の次男、卯松(上杉景勝)が誕生。


弘治二年(1556年)
○藤堂虎高の次男、与吉(藤堂高虎)が誕生。
○今川義元と織田信長が和平会見を行う。
○織田信長が斯波義銀を国主に据え、清洲城を譲り渡す。
○斎藤道三が遺言状で、美濃国を婿信長に譲る旨を認める。
○斎藤道三が長良川で嫡男、斎藤義龍と戦い討ち死にする。
織田信行が謀反
○稲生の合戦において、織田信長が織田信行勢を打ち破る。
○斎藤義龍が明智城を攻撃する。明智家滅亡
○松平元信、祖先の法要と亡き父松平広忠の墓参の為、岡崎に一時帰国する。
○織田信安が斎藤義龍と結び、織田信長に敵対行動を取る。
○織田信長が、生駒家宗の娘生駒吉乃を側室として迎える。
木下藤吉郎が織田家に仕官する。


弘治三年(1557年)
○松平元信が関口親永の娘瀬名姫を正室として迎え、名を松平元康と改める。
○信濃国川中島において、武田晴信と長尾景虎の軍勢が衝突。[第三次川中島の戦い]
○織田信長が、再度謀反を企てた弟の織田信行を清洲城にて殺害する。
○織田信長が、熱田社領を守護使不入とする。
○織田信長の嫡男、奇妙丸(織田信忠)が誕生。
○今川義元の嫡男、今川氏真が今川家の家督を継承する。
○鳴海城主・山口教継、教吉親子が駿府にて切腹する。



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第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。

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今川一門衆

 【04//2012】

今川一門衆


弘治三年(1557年)正月十五日
十六歳を迎えた松平次郎三郎元信(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)は、今川関口家当主関口刑部少輔親永(せきぐちぎょうぶのしょうゆうちかなが)の娘、瀬名姫を正室として迎えている。
瀬名姫の母親は今川治部大輔義元の妹であった為、瀬名姫は義元の姪にあたる人物である。
彼女もまた、戦国乱世の運命に翻弄された悲劇の姫の一人であった。


今川関口家(今川刑部少輔家)(いまがわせきぐちけ)
今川家の祖、今川国氏の子今川経氏に始まる家。
代々刑部少輔に任じられ幕府の奉公衆を勤めた。
走衆にも列せられ将軍家に近侍した、また三河国内にある将軍家の御領所の管理もしていたとされる。

関口 親永(せきぐち ちかなが)
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。駿河国持船城主。
今川義元の妹婿であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
永禄3年の桶狭間の戦い以降、衰退する今川氏を支え続けたが、娘婿の家康が今川氏から独立したため、氏真からその去就を疑われ、永禄5年、駿府尾形町の屋敷にて切腹し果てた。

築山殿(つきやまどの)
徳川家康(松平元康)の正室。本名は瀬名(せな)。別名を鶴姫という。築山御前(つきやまごぜん)とも呼ばれる。
築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
今川家一門、今川刑部少輔家の関口親永の娘。
母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたる。
また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。


瀬名姫を正室として迎えた事により、元信は今川一門衆としての扱いを受ける事になる。
ではなぜ元信が今川一門の姫を正室として迎える事が出来たのか。
それには今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)の家督継承が大きく関係していると思われる。
若くして家督を継承した氏真を、一門衆として十分に補佐してもらいたかったのではないだろうか。
義元に名軍師であった太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)がいたように、雪斎の最後の弟子であった元信に、氏真の軍師としての活躍を期待していたのかも知れない。


今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。
父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。
今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。

太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)
臨済宗の僧侶(禅僧)で今川氏の家臣。諱は崇孚。庵原政盛(左衛門尉)の子、母は興津正信の娘。
父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡県静岡市)周辺を治める一族。
母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。
両家とも今川氏の譜代の重臣。
今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。
また、人質時代の徳川家康の学問の師。


また義元は、自分の名前の一字である「元」の字を与えている事や、雪斎につけ指導を受けさせるなど、
通常の人質とは大きく違た扱いをしてきたのも、当時から今川家の一門格並として、格別の期待を元信に寄せていたのかも知れない。
義元から格別の期待と、扱いを受けてきた元信は、新たな決意を胸に松平蔵人佐元康(まつだいらくらんどのすけもとやす)と名乗りを改めるのである。
一説には、元信の「信」の字が、今川家に敵対する尾張国の織田上総介信長に通じることから、義元への遠慮もあって改めたとも言われている。
また「康」の字を選んだのは、稀代の英雄として高く評価されていた、祖父松平二郎三郎清康(まつだいらじろうさぶろうきよやす)からとったものと言われており、祖父にあやかり勇将となるべく決意を固めた元康の意気込みが感じられる
改名である。


松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。三河松平氏の第7代当主。第6代当主松平信忠の子で松平広忠の父、徳川家康の祖父。
三河国安祥城城主および岡崎城主。
松平家は清康の代に、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。


ちなみに姓名判断によると、
8549総画数26画となり、

総運:才能もあり、独立心が旺盛で行動力もあるので、人の上に立ち成功をおさめることもありますが、26画は波乱を秘めた画数で安定することがありません。
予期せぬ災難やトラブルに見舞われることが多く、家庭崩壊や事業の失敗、事件に巻き込まれることがあります。
とある。

85411では総画数28画となり、

総運:自信家で頭もよく、積極果敢なチャレンジ精神と行動力があるので、特に専門的な分野で成功する運をもっています。
また、困難に立ち向かう力があるので、経営者や組織のリーダといった人の上に立つ職業も適しています。
但し、少し強引なところがあるので、周りの反感を買わないように注意が必要です。
といった結果が出ている。

姓名判断によってその人の核が決まるとは思わないが、一応参考になればと思い記してみた。



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謀反の罪を懸けられた親子

 【03//2012】

謀反の罪を懸けられた親子


尾張国で着実に勢力を拡げる今川治部大輔義元は、ここで一気に織田家を滅ぼし、
その勢いで美濃・近江に侵攻し、「上洛」を意識する様になる。

弘治三年(1557年)
今川家の尾張国内での勢力拡大とともに戸部城主戸部新左衛門政直(とべしんざえもんまさなお)という武将が、
今川家に寝返っている。
山口左馬助教継(やまぐちさまのすけのりつぐ)同様、元々は織田弾正忠家家臣であったが、「今川家有利」を確信するや政直は、今川家に近づき織田弾正忠家の情報を今川家に流すようになっていた。
政直が義元にとって、織田弾正忠家を知る重要な情報源となっていた事は言うまでもない。
しかし、織田上総介信長も中々の策士であった。

今川勢力圏に隣接する戸部城の動向をいち早くから監視させていた信長は、
政直の寝返りをあえて黙認していたのである。
その頃信長は、右筆に半年或いは一年以上掛けて政直の筆跡を真似させていた。
十分に政直の筆跡の真似が出来るようになった時点で信長はある密書を偽造させている。


「次に今川治部大輔義元が尾張国へ侵攻する暁には、兼ねてよりの密約通り、山口左馬助教継と共に
織田上総介信長に呼応し、義元を挟み撃ちにする準備が整った。」
これは戸部政直が、信長に宛てた内通する旨の密書であった。
信長はこの密書を、商人に化けさせた森三左衛門可成(もりさんざえもんよしなり)により、駿府城下へ持ち込ませた。
商人姿の可成は、偶然手に入れたかのように装って今川家にその密書を届けた。

政直直筆の密書を見て裏切りを知った義元は、直ちに政直を駿府城へ呼び寄せ、釈明の余地も与えずに斬り捨ててしまうのである。
また同じような経緯で山口左馬助教継山口九郎次郎教吉も駿府に呼び寄せ、切腹させている。
この事から、戸部新左衛門政直山口左馬助教継ではないかという見解もある。


山口 教継(やまぐち のりつぐ)
戦国時代の武将。尾張鳴海城城主。
尾張国笠寺付近の土豪で、織田信秀(信長の父)に従い、小豆坂の戦いでは当時駿河・遠江・三河を勢力下に収める大名であった今川義元配下の軍勢と戦って戦功を挙げている。
信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張の南東部の備えとなっていたが、信秀の死後、信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返った。

山口 教吉(やまぐち のりよし)
戦国時代の武将。山口教継の子。九郎次郎(九郎二郎)。
織田信秀が死亡して信長がその後を継ぐと、鳴海城城主であった父とともに今川義元に寝返る。



義元の山口親子の謀殺は、その他色々と諸説がある。
東三河での反今川勢力の鎮圧に時間を取られていた義元は、対尾張の最前線基地である鳴海城に、
少なからず不安を抱いていた。
尾張領内での今川勢力圏である鳴海城が孤立に近い状態にある事から、鳴海城主山口教継が、
織田側に再度寝返る事を懸念していたのである。

そこで信頼のおける家臣岡部五郎兵衛元信(おかべごろべえもとのぶ)最前線基地の防備にあたらせる事で、
東三河での反今川勢力を沈静化する事を優位に進められると考えた義元は、
信用がおけない山口親子を謀反の罪で切腹に追い込んだという説である。


岡部 元信(おかべ もとのぶ)
戦国時代の武将、今川氏の家臣。通称は五郎兵衛、官位は丹波守。
祖父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。
元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人であり、尾張の鳴海城在番を勤めた。
今川家譜代の家臣だが、今川氏が衰退してからは武田氏に仕えた。


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異例の家督相続

 【02//2012】

異例の家督相続

弘治三年(1557年)
今川治部大輔義元は、嫡男の今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)に家督を譲り渡し、形式上隠居するのである。
この時、義元はまだ三十八歳であり、異例の家督相続であった。


今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。
父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。
今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。



新領地である三河国の掌握と、尾張国からさらに西方面への軍事行動に専念するため、
氏真に領国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が濃厚である。
もう一つの要因としては、越後国の戦国大名・長尾弾正少弼景虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)の存在であった。

武田家北条家今川家の三大名が結んでいた三国同盟は、長尾景虎を仮想敵としていた。
義元としては、景虎の動きに最大の注意を払いたい時期であったことも、この異例の家督相続に至った要因であると思われる。


上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 長尾 景虎(ながお かげとら)
戦国時代の越後国の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。
上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。
兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。
のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と名を改め、
上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。
謙信は、さらに後に称した法号である。

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)
天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。
締結時に3者が会合したという伝説から善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)とも呼ばれている。



名軍師であった太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)亡き今川家にとって、義元自らが遠征軍の指揮を採る他に道は無かったのである。

一方、義元の尾張への侵攻は、着々と進んでいた。
天文二十一年(1552年)
もとは織田家の部将であった、山口左馬助教継(やまぐちさまのすけのりつぐ)が、織田弾正忠信秀死後、家督を継承した
織田上総介信長「当主の器なし」と見限り、鳴海城主のまま今川家に通じ、謀反を起こしている。

赤塚にて信長勢と対峙するものの、その頃の信長には教継を討伐するほどの力は無く、
引き分けという形で両軍が兵を退いている。
その後、勢いに乗った教継勢は、織田家支城である大高城沓掛城をも攻め落としている。

弘治元年(1555年)八月三日
三河岡崎衆を先鋒に松平和泉守親乗(まつだいらいずみのかみちかのり)大久保新八郎忠勝(おおくぼしんちろうただかつ)らの活躍によって尾張蟹江城(かにえじょう)を攻略している。

この蟹江城の合戦で活躍したのが、
阿部四郎五郎忠政(あべしろうごろうただまさ)
大久保新八郎忠勝(おおくぼしんちろうただかつ)
大久保新十郎忠世(おおくぼしんじゅうろうただよ)
大久保弥八郎忠佐(おおくぼやはちろうただすけ)
大久保甚四郎忠員(おおくぼじんしろうただかず)
杉浦八郎五郎吉貞(すぎうらはちろうごろうよしさだ)
杉浦八郎五郎勝吉(すぎうらはちろうごろうかつよし)
「蟹江七本槍」と呼ばれる松平勢の猛将七人である。

次々と織田家の支城を攻略していく義元の勢力は、伊勢湾の西の海西郡にまで及んでいたという。
そして信長が統治する尾張下四郡のうち二郡が今川家の勢力と化したのである。


山口 教継(やまぐち のりつぐ)
尾張国笠寺付近の土豪。
織田信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張の南東部の備えとなっていたが、
信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返った。

鳴海城(なるみじょう)
現在の愛知県名古屋市緑区に存在した城。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。

松平 親乗(まつだいら ちかのり)
戦国時代の武将。松平乗勝の長男。大給松平家第4代当主。官位は和泉守。通称は源次郎。

蟹江城(かにえじょう)
現在の愛知県海部郡蟹江町にあった中世の平城。
永享年間(1429年 - 1440年)に北条時任(ときとう)が城塞を築いたのがはじめと言われ、戦国時代には、
本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城があったという。



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