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八幡原の死闘

 【30//2012】

八幡原の死闘

永禄四年(1561年)九月九日 夕刻
妻女山に本陣を置く上杉弾正少弼政虎は、遠方に見える海津城の異変を見逃さなかった。
いつもより早い刻限に海津城内から多くの炊煙が立ち昇っているのを見た政虎は、
直江大和守景綱甘粕近江守景持の両将を呼び寄せ、
「明日、必ずや信玄は戦いを挑んでくる。擦れば今宵の内に夜襲を仕掛けてくるは必定である。我らを山より引きずり下ろし、八幡原に布陣した本隊と共に挟撃して殲滅する作戦であろう。我らは篝火、旗はそのままに残し、密かに山を下り、八幡原に布陣した信玄本隊と一戦を交え、明日越後に帰陣致す。敵が我が軍の進行を阻めばこれを打ち破りて進むべし」と命じた。

直江景綱(なおえ かげつな)
山東郡(三島郡)与板城城主。
長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の3代にわたって仕えた宿老で、奉行職を務め主に内政・外交面で活躍した。
また七手組大将の一人として軍事面で活躍することもあった。

甘粕景持(あまかすかげもち)
越後国飯塚灰毛城主。
柿崎景家と並ぶ武勇を誇り、第四次川中島の戦いに於いては殿軍を務め、その勇猛な戦いぶりや引き方の鮮やかさで敵方の武田信玄も「殿軍に謙信がいるのか」と賞賛したと言う逸話も残っている。


直江、甘粕の両将はすぐさま本陣を辞し、全軍に下知し出撃の準備に取り掛かった。
両雄がともに智謀の限りをつくし、肚のさぐり合いをしていた。
九月十日 子の刻(午前1時頃)
妻女山に夜襲を仕掛ける為、高坂弾正忠昌信ら別働隊が海津城を出陣。

九月十日 丑の刻(午前2時頃)
政虎ら上杉勢は、妻女山を密かに下山し、信玄本隊が布陣するであろう八幡原に向かい出陣。

九月十日 寅の刻(午前4時頃)
頃合を計り、武田徳栄軒信玄が率いる本隊が八幡原に向かうべく海津城を出陣。

九月十日 卯の刻(午前6時頃)
夜襲を仕掛けた信玄にとって予想もしなかった事態が発生する。
「霧の名所」といわれるほど霧の発生が多い場所である八幡原に布陣した信玄は、備えを固めるべく、
各諸将らに細かく下知していた。
そこに馬蹄の音が響き渡り、朝霧の中から突如、政虎の軍旗である「毘の一字旗」が現れたのである。
奇襲を仕掛けたはずの武田勢が、逆に奇襲を受ける形となった。
一万以上の軍勢を有する上杉勢に対し、武田勢は八千余りの軍勢であり、しかも不意を突かれる形となった。
「車懸り(くるまがかり)の陣」で突撃を仕掛ける上杉勢に、武田勢は動揺し混乱し始めた。
この危機を乗り切るため、武田左馬助信繁とその一隊が真っ先に上杉勢に向かって突撃していく。
玉砕覚悟の突撃であった。

迎え撃つのは、上杉家中でも勇猛をもって知られる柿崎和泉守景家率いる千余の軍勢。
武田信繁隊と柿崎景家隊との激突は凄まじく、戦いの雄叫びは山野に轟き、山も崩れんばかりであったという。
しかしさすがの武田勢も、不意を突かれた上に、備えも固まらぬうちの上杉軍の猛攻に、次第に打ち負け、
討ち死にする者が相次いだ。
信繁は、敵と戦うこと二度、三度、味方は次第に討ち死にし、とても敵勢を押さえきれない状況であった。
死を覚悟した信繁は、信玄の元へ「御覧のごとく、越後勢の攻撃を某(それがし)が受け留めておりますが、
多勢に無勢、今の内に勝利の工夫をなされますように」
と使いを送ったという。

すでに死を覚悟していた信繁であったが、信玄直筆の法華経陀羅尼を金文字で書かれた母衣(ほろ)だけは敵手に渡したくなかった。

法華経(ほけきょう、ほっけきょうとも)
大乗仏教の経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र)」(「正しい教えである白い蓮の花」の意)の漢訳での総称。
経の字をはずすと「法華」になるが、これは一般に「ほっけ」と発音する。
それぞれの意味はsad=「正しい」「不思議な」「優れた」など、dharma=「教え」「真理」、puṇḍarīka=「因果倶時・清浄な白蓮華」、sūtra=「仏の説いた経典」。

陀羅尼(だらに) 梵名ダーラニー (धारणी [dhaaraNii])
仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。
通常は訳さず(不翻)サンスクリット語原文を漢字に音写したものを唱える。
意訳して総持、能持、能遮等ともいう。
ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指した。
やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした。
「能遮」という意訳は雑念妄想を「能く遮る」という意味である。

そこで信繁は、鬢(びん・耳の上あたりの髪)の乱れ髪を切り、
「この黒髪と、母衣を父の形見としてせがれ信豊に渡せ」と家臣の春日源之丞に申しつけた。
主人の覚悟を察した源之丞は、「冥途のご案内を仕りとうござります」と涙を流し拒んだという。
しかし信繁は、「せがれ信豊が立派に成長するまで、源之丞が補佐せよ」と叱咤(しった)し、戦場を離れさせたという。
後年、武田左馬之助信豊は父の形見の母衣をかけて、長篠の合戦に出陣している。

信繁は再び敵中に駆け入り、上杉勢を斬りまくり奮闘するものの、上杉の勇猛無双の将として名を轟かす、
宇佐美駿河守定満との一騎打ちに破れ、討死している。
一説には、宇佐美の郎党の鉄砲による最期だったが、大将を鉄砲で討ち死にさせたとあっては畏れであると、定満が槍で絶命させたという。
信玄の弟信繁とともに上杉勢に突入して奮戦していた、室住豊後守虎定もまた「信繁討死」を知ると、
「我もお供仕ろうぞ」と、敵中に駆け入り上杉勢を斬りまくり討死している。

信繁、虎定の討死を知った山本道鬼斎勘助は、己の献策した奇襲作戦の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に嘆き苦しみ、死を決意して敵中に突入し、満身創痍になりながらも大太刀を振るって獅子奮迅の働きをするが、上杉家の猛将柿崎和泉守景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを
坂木磯八に首を取られ討死している。
この様子を見ていた原隼人正正種が、「主君の大事は今日だけではござらぬ。早まってはならぬ」と声をかけるが、勘助は、「過ぎ往く時は流れのごとし。九思下愚にあたらずの習い」と最期の言葉を言い捨て、
敵勢の中へと消えていった。
信玄の弟信繁が討ち死にし、室住虎定が討たれ、軍師山本勘助までもが壮絶な戦死をした第四次川中島の戦いは最大の激戦であった事が伺える。

武田信繁(たけだのぶしげ)
武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、
後世「古典厩」と記される。
武田二十四将においては武田の副大将として位置づけられている。

室住虎光(もろずみとらみつ)
甲斐の戦国大名武田氏の譜代家臣。豊後守。
姓は諸角(両角)とする記録も多いが、近年では自筆史料に見られる「室住」が採用されている。
諱に関しても虎定あるいは昌清とする説もあるが、確実な同時代文書(「安道寺文書」)によれば「虎光」とされる。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Genre: 学問・文化・芸術

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武田、上杉両家の御使衆

 【29//2012】

武田、上杉両家の御使衆

永禄四年(1561年)八月二十四日
千曲川を越え、善光寺平南部の妻女山に軍を進め本陣を置いた上杉弾正少弼政虎に対し、
武田徳栄軒信玄は、善光寺平西方の茶臼山に本陣を置き、海津城と共に妻女山を包囲する布陣を採った。

善光寺平(ぜんこうじだいら)
長野県長野市を中心とした長野盆地。
県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。

妻女山(さいじょさん)
長野県長野市松代町と千曲市土口が境を接する山。

茶臼山(ちゃうすやま)
形状が茶の湯のてん茶を抹茶に挽く茶臼に似ているとされる富士山のような末広がりの形の山のことである。
茶磨山(ちゃすりやま)とも呼ばれる。
山の名前としては、通称を含め全国に200以上あるという。
かつて戦で縁起を担ぐ武将に好まれ陣が張られた場所が多い。


茶臼山に布陣した信玄は、直ちに諸将に陣触れを発し、敵勢の補給路を寸断させている。
兵糧不足に追い込む事で上杉軍の動きを抑制し、妻女山から下山した所を海津勢と挟撃して上杉軍を叩く作戦であった。
しかし妻女山の政虎は、動かなかった。
信玄有利な状況にも関わらず、上杉軍の異様な沈黙に、武田軍の諸将に苛立ちと焦りが表れ始めた。
政虎の思惑が読み取れない信玄は、苛立ちから政虎宛に使者を出している。

この時代の合戦では、双方が思惑を探り合うため、「御使衆」と云われる馬上の侍が、相手方に自軍の御大将からの「口上」を伝えに駆けつけるという慣わしがあった。
御使衆は、鎧の背中に「使番指物」を指して駆けつける為、敵方も使者であることが認識出来、
弓、鉄砲を射かけてはならないというルールがあった。

信玄の使者として妻女山に訪れた初鹿野伝右衛門直茂(はじかのでんえもんなおしげ)は、
「貴殿は千曲川を越えて妻女山に御陣を取られた為、某(それがし)も茶臼山に陣取りをいたしたが、貴殿は海津城を攻撃なされるおつもりなのか、それとも他の事をなされるおつもりなのか」と信玄の口上を申し伝えた。
なぜ山に籠もったまま動かないのか。
攻めてくるなら早く攻めて来い。
という内容の口上であった。
口上を聞いた政虎は、こちらの戦意を探るための使者である事を察知し、
「仰せの趣ごもっともである。しかしながらここは武田領であり、某(それがし)は客人である。いかほどにもご馳走は、亭主である貴殿よりお始めくださいませ。我らにご心配はご無用。ご用意の献立をお待ちいたしております。」と、
信玄の攻撃をいつでも受けて立つ旨を返答している。
まったく粋な戦国時代を代表する両雄のやり取りである。
しかしこの睨み合いはその後、十七日間続く事になる。


粋な大将の下には、これまた粋な部下が揃うものである。
武田家の御使衆として口上を述べた初鹿野伝右衛門直茂は、
武田家の中でも剛勇を誇る人物であったという。
逸話ではあるが、初鹿野伝右衛門について面白い話がある。
「武田信玄公の御内には、お使い武者十二人あり。
指物(さしもの)がいずれも白き白半に黒百足(くろむかで)を描きたる指物なり。
然るにその中に、初鹿野伝右衛門という武者は百足無しの白き四半をさして出る。
信玄公御覧あって、十二人の使い番の中に白き指物はいかなる者とお尋ねあるに、初鹿野伝右衛門と申し上ぐる。
信玄公ご立腹あって、何とて軍法を背くとある時、伝右衛門申しあぐるは、御軍法はかつて背き申さず候。
指物の乳の脇に一寸百足を付け申すとて御目にかくる。
それは何としたることと仰せらるれば、伝右衛門申しあぐる。
人並みに百足を付け候らえば、当座において武者ぶり、余人に紛れ候ゆえ、かくのごとくしてと申しあぐれば、
信玄公御笑いなさるることなり。」
とある。

また、関八州古戦録によると、
初鹿野伝衛門は、背に「香車」と書いた陣羽織を好み着用していたという。
信玄が、「自ら「香車」と名乗るとは思い上がった男だ。」と彼を咎めたこともあるというが、
猪突猛進する伝衛門の働きは正にその異名に恥じないものであった。

また「香車は成らずんば帰らぬ印にて候」と信玄が申すと、伝衛門は、「私とて覚悟あることなり」と陣羽織を裏返し、
「成金」と書かれた陣羽織を見せたという。
「武功を挙げ、金を稼いで戻って参ります」と信玄に宣言したのである。


上杉家の御使衆も負けてはいない。
越後十七将の一人に数えられる猛将小島弥太郎一忠である。
別名「鬼小島」とも呼ばれ、兜の前立や、指物に「鬼」のモチーフが使われていたという。
川中島の戦いの際、政虎からの使者として、今度は小島弥太郎が信玄の陣所へ訪れた時の逸話である。
使者として訪れた弥太郎への嫌がらせに、信玄は甲斐の猛犬を陣所内に放ったところ、放たれた猛犬は、
上杉家の御使衆として口上を述べる弥太郎の足に噛み付いたという。
しかし、弥太郎は顔色一つ変えずに政虎から預かって来た口上を述べ、最後に足に噛み付いた猛犬を撲殺し、
何事も無かったかの様に涼しい顔で引き上げたという。
まさに「鬼」であった。

越後十七将(えちごじゅうしちしょう)
戦国時代越後の上杉家中の武将達を指す。
当時の呼称ではなく、江戸時代に列挙して作られたものであるといわれている。



双方睨み合いが続く中、士気の低下を恐れた武田家の軍師山本道鬼斎勘助は、上杉軍撃滅の作戦として大規模な別働隊の編成を信玄に献策する。
別働隊に妻女山の上杉軍を強襲させ、下山して来た上杉軍を平野部の八幡原に陣した本隊が待ち伏せし、
別働隊と挟撃して殲滅する作戦である。
この奇襲作戦は、啄木鳥(きつつき)が嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて飛び出した虫を喰らうことに似ていることから、「啄木鳥戦法」と名づけられたという。
采配を委ねられた勘助は、自軍二万余の兵を二手に分けて、一万二千を別働隊として上杉勢が籠もる妻女山へ向かわせた。
奇襲を受ければ、さすがの政虎も山を下りるであろう。
そこを本隊の八千余りの軍勢で叩けば、武田の勝利は間違いないと勘助は確信していた。

永禄四年(1561年)九月十日 子の刻(午前1時頃)
業を煮やした武田軍が動き出す事になる。
一万二千の別働隊を率い妻女山へ向かったのは、海津城代の高坂弾正忠昌信を筆頭に、
飯富兵部少輔虎昌、馬場民部少輔信房、小山田備中守虎満、甘利左衛門尉信忠、小山田左兵衛尉信茂、
真田一徳斎幸隆、相木能登守昌朝、芦田下野守幸成、小幡尾張守信定ら数十名の諸将達であった。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
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第四次川中島の戦い

 【28//2012】

第四次川中島の戦い

北条討伐から帰還した上杉弾正少弼政虎は、
永禄四年(1561年)八月十四日
一万八千の兵を率いて川中島へ出陣し、武田軍との大決戦で、
武田左馬助信繁、山本道鬼斎勘助、室住豊後守虎定、初鹿野源五郎、三枝新十郎守直ら多くの敵将を討ち取り、総大将の武田徳栄軒信玄をも負傷させ、武田軍に大打撃を与えている。

川中島(かわなかじま)
長野県長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名。

この頃の武田大膳大夫晴信は、長禅寺住職の岐秀元伯(ぎしゅうげんぱく)を導師に出家し、
武田大膳大夫晴信入道法性院徳栄軒信玄と号していた。

岐秀元伯(ぎしゅう げんぱく)
戦国時代の臨済宗妙心寺派の禅僧。
甲斐国甲府の長禅寺住持。

長禅寺(ちょうぜんじ)
山梨県甲府市にある臨済宗系の単立寺院。
東光寺、能成寺、円光院、法泉寺とともに甲府五山のひとつ。

出家(しゅっけ、pravrajyaa、प्रव्रज्या (sanskrit))
師僧から正しい戒律を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨てて仏門に入ることである。
落飾(らくしょく)ともいう。

この第四次川中島の戦いを機に、北信をめぐる武田・上杉間の抗争は収束し、
永禄後年には武田・上杉間をはじめ、東国や畿内の外交情勢は大きく変動していく。
関東制圧を目指す政虎にとって、信越国境を固めることは急務であった。
そのため、武田家の前線基地となる海津城(かいづじょう)を攻略して、武田軍の侵攻を妨げる必要があると考えていた。
信濃に侵攻した政虎は、一万八千余の軍勢を従え、千曲川(ちくまがわ)を越え、妻女山(さいじょさん)に軍を進めた。
一方、政虎出陣の報せを受けた武田方信州衆諸将は、海津城にて上杉軍の攻撃に備えた。
海津城代を務める高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのちゅうまさのぶ)は、上杉軍迎撃策を進める各諸将を抑え、
信玄本隊の到着を待つ篭城策を採った。
妻女山は展望もよく、川中島平野一帯を見渡せ、武田方の海津城の動静をうかがうには絶好の場所であった。

妻女山に布陣を構えた政虎は、脇備えに平賀志摩守山吉玄蕃頭隊を配置し、厳重な陣立てを設けた。
一番隊
直江大和守景綱(なおえやまとのかみかげつな)
新発田尾張守長敦(しばたおわりのかみながあつ)
小嶋弥太郎一忠(こじまやたろうかずただ)
新津丹波守勝資(にいつたんばのかみかつすけ)
二番隊
甘粕近江守景持(あまかすおうみのかみかげもち)
北条安芸守高広(きたじょうあきのかみたかひろ)
杉原壱岐守憲家(すいばらいきのかみのりいえ)
本庄越前守繁長(ほんじょうえちぜんのかみしげなが)
三番隊
宇佐美駿河守定満(うさみするがのかみさだみつ)
桃井讃岐守直光(ももいさぬきのかみなおみつ)
長尾左衛門尉憲景(ながおさえもんのじょうのりかげ)
松川大隅守元長(まつかわおおすみのかみもとなが)
四番隊
柿崎和泉守景家(かきざきいずみのかみかげいえ)
柏崎日向守(かしわざきひゅうがのかみ)
毛利上総介広俊(もうりかずさのすけひろとし)
須賀但馬守(すがたじまのかみ)
五番隊
村上左近衛少将義清(むらかみさこんえのしょうしょうよしきよ)
高梨摂津守政頼(たかなしせっつのかみまさより)
井上備後守清政(いのうえびんごのかみきよまさ)
綿内内匠頭満行(わたうちたくみのかみみつゆき)
須田相模守満親(すださがみのかみみつちか)


永禄四年(1561年)八月十六日
上杉軍出陣の報せを受けた徳栄軒信玄は、
武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)
武田左馬助信繁(たけださまのすけのぶしげ)
武田逍遙軒信綱(たけだしょうようけんのぶつな)
長坂長閑斎光堅(ながさかちょうかんさいみつかた)
穴山梅雪斎信君(あなやまばいせつさいのぶただ)
飯富兵部少輔虎昌(おぶひょうぶしょうゆうとらまさ)
山県三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうべえまさかげ)
内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)
原隼人正正種(はらはやとのかみまさたね)
山本道鬼斎勘助(やまもとどうきさいかんすけ)
室住豊後守虎定(もろずみぶんごのかみとらみつ)
馬場民部少輔信房(ばばみんぶのしょうのぶふさ)
甘利左衛門尉信忠(あまりさえもんのじょうのぶただ)
小山田備中守虎満(おやまだびっちゅうのかみとらみつ)
小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)
小幡尾張守信定(おばたおわりのかみのぶさだ)
真田一徳斎幸隆(さなだいっとくさいゆきたか)
跡部大炊之助勝資(あとべおおいのすけかつすけ)
浅利式部少輔信種(あさりしきぶのしょうのぶたね)
小笠原若狭守長詮(おがさわらわかさのかみながあき)
相木能登守昌朝(あいきのとのかみまさとも)
芦田下野守幸成(あしだしもつけのかみゆきなり)
望月三郎信頼(もちづきさぶろうのぶより)
今福丹後守虎孝(いまふくたんごのかみとらたか)ら総勢二万余人を率い躑躅ヶ館を出陣している。
第一次から第五次にわたる川中島の戦いの中で、唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した
第四次川中島の合戦が今、始まろうとしていた。


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毘沙門天の転生

 【27//2012】

毘沙門天の転生


古志郡司として栃尾城主となった長尾平三景虎(ながおかげとら)は、
天文十三年(1544年)春
謀反を鎮圧することで初陣を飾っている。(栃尾城の戦い

越後国守護代長尾左衛門尉晴景(ながおはるかげ)を侮って謀反を起こした越後の豪族を、
兄晴景に代り鎮圧している。
十五歳の景虎を若輩と軽んじ栃尾城に攻めよせた豪族を、景虎は少数の城兵を二手に分け、
一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させ、混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させ、
敵勢を壊滅させることに成功している。
その後も数回にわたり起る謀反を、景虎は兄に代り悉く鎮圧することになる。

天文十四年(1545年)十月
越後国守護上杉兵庫頭定実(うえすぎさだざね)の老臣、黒滝城主黒田和泉守秀忠(くろだひでただ)が長尾氏に対して謀反を起こした。
秀忠は、守護代長尾晴景の居城春日山城にまで攻め込み、景虎の兄長尾景康長尾景房らを殺害し、その後黒滝城に立て籠もった。
景虎は、兄晴景から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させている。(黒滝城の戦い)
しかし翌天文十五年(1546年)二月
秀忠が再び兵を挙げるに及んだ為、景虎は再び黒滝城を攻め寄せて猛攻を加え、
二度は許さず黒田氏を滅ぼしている。


景虎の快進撃は尚も続き、晴景に敵対する勢力を悉く鎮圧し、影虎の武名は越後国内に鳴り響いた。
この景虎にいち早く注目したのが、守護派として晴景と対立していた
中条弾正左衛門尉藤資(なかじょうふじすけ)であった。
藤資は、長尾為景の没後、伊達左京大夫稙宗の子時宗丸(伊達実元)を定実の養子に迎え入れ、伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図った主犯格であった。

しかし、天文一七年(1548年)九月
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(あしかがよしてる)からの停戦命令を受けた伊達稙宗は、
嫡男晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。
越後守護上杉定実が、嗣子(後継者)として伊達稙宗の三男時宗丸(伊達実元)を迎えようとしたことに端を発する争乱は、稙宗・晴宗が和睦したことで終息を迎え、時宗丸の入嗣は履行されることは無かった。
この争乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱化する事になる。
伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏相馬氏最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長している。


時宗丸の入嗣が頓挫(とんざ)し、守護権力復活の目論見が失敗に終わった藤資は、
今度は晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようと画策し始めたのである。
藤資は、まず景虎の叔父にあたる北信濃中野城主高梨摂津守政頼(たかなしまさより)と結び、越後国人衆たちの調略を裏で進め始めた。
景虎の補佐役である本庄新左衛門尉実乃(ほんじょうさねより)を始め、景虎の母虎御前(とらごぜん)の実家である
栖吉城主長尾豊前守景信(ながおかげのぶ)、箕冠城主大熊備前守朝秀(おおくまともひで)
与板城主直江大和守実綱(なおえかげつな)、三条城主山吉行盛(やまよしゆきもり)らが加わり景虎派を形成。
この動きに対し、坂戸城主長尾越前守政景(ながおまさかげ)や、
藤資と対立する同族の黒川城主黒川備前守清実(くろかわきよざね)らは晴景派につき、武力抗争となった。

しかし同年天文一七年(1548年)十二月三十日
この事態を憂いた守護上杉定実の調停によって和議が結ばれ、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲り隠居する事になる。
景虎は春日山城に入り、十九歳で守護代長尾家の家督を相続し、長尾家の当主となった。

その二年後の天文十九年(1550年)二月二十六日
定実が後継者を遺さずに死去したため、同月、守護代長尾景虎は将軍足利義輝から「白傘袋」(しろかさぶくろ)
「毛氈の鞍覆」(もうせんくらおおい)の使用を許され、越後国主として認められることとなる。
影虎擁立に成功した藤資は、以後景虎の重臣として一門に次ぐ待遇を受けたという。

越後国主として認められた影虎は、のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と名を改め、上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。
更に将軍足利義輝より偏諱を受け、最終的には上杉輝虎(うえすぎてるとら)と名乗った。
「謙信」は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させ、他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、四十九年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、
能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。
特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世物語として描かれており、よく知られている。
さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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上杉 謙信

 【26//2012】

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
戦国時代 越後国(えちごのくに)の武将、戦国大名。

享禄(きょうろく)三年(1530年)一月二十一日
越後守護代長尾信濃守為景(ながおためかげ)の四男(または次男、三男とも)として春日山城で誕生する。
幼名虎千代


越後国(えちごのくに)
かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。
別称は越前国・越中国とあわせて、または単独で越州(えつしゅう)。
領域は現在の新潟県本州部分にあたる。『延喜式』での格は上国、遠国。

春日山城(かすがやまじょう)
新潟県上越市にあった中世の山城。
主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。
春日山城跡は国の史跡に指定されている。


天文五年(1536年)
守護上杉民部大輔房能(うえすぎふさよし)を殺し、上杉一族の上杉兵庫頭定実(うえすぎさだざね)を傀儡(かいらい)守護にたて、
実質的な越後国主として君臨していた父為景が、家督を嫡子長尾左衛門尉晴景(ながお はるかげ)に継承させ、隠居する事になる。
この時期為景は、重い病を患っていた様で、同年死去している。

二十四歳という若さで嫡子晴景に家督を継承させる事に一抹の不安を覚えた為景は、内乱を避ける為、
幼少の虎千代を曹洞宗(そうとうしゅう)の古刹(こさつ) 林泉寺(りんせんじ)天室光育(てんしつこういく)に預け、
僧侶となる道を歩ませている。
嫡子以外の後継者候補者が内乱を避ける為、仏門に入る事は戦国の世では至極当然の事であった。


林泉寺(りんせんじ)
越後国守護代長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺として知られる曹洞宗の寺院。
山号は春日山(かすがさん)。
長尾氏の居城春日山城の山麓に、明応6年(1497年)、越後守護代長尾能景が亡父の17回忌供養のため
曇英恵応を開山に拝招して創建建立させたとされる。
以後、能景とその子・為景の保護を受けて守護代長尾氏の菩提寺として発展する。

天室光育(てんしつこういく)
戦国時代の越後曹洞宗の僧侶。林泉寺六代住職。上杉謙信の師父。
永禄6年(1563年)に病没(享年93)。
上杉謙信に織田信長と信を通じた事を咎められて自裁したという説もあるが、当時、上杉家と織田家は
直接敵対関係になかったことから信憑性は薄いと考えられる。


為景の死後、越後国内では各地で長尾一族が分立対抗し内戦が行なわれ、父為景に代って守護代として国政を司った兄晴景は、為政者(いせいしゃ)として無能と評されていた。

為政者(いせいしゃ)
政治を行う者。為政家。

しかし、晴景は決して無能な人物では無く、政治的手腕に長けたやり手の人物であったようだ。
晴景は守護代に就任すると、父為景と異なる穏健(おんけん)な政策をとり、領内の国人衆との融和を図り、越後領国における内戦を鎮めることにある程度成功している。
また、同族でありながら犬猿の仲であった上田長尾氏の嫡男長尾越前守政景に妹仙桃院を嫁がせ縁戚関係を結び、彼らを取り込むことにも成功している。

長尾 政景(ながお まさかげ)
戦国時代の武将。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。

仙桃院 / 仙洞院(せんとういん)
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。長尾為景の娘。
上杉謙信の同母姉にあたる。
長尾政景の正室であり、2人の間には2男2女がいる。
長男の義景は10歳で早世したが、次男景勝は後に謙信の養子になり、実子のなかった謙信の跡を継ぎ、現在まで上杉氏として子孫が続いている。


父為景の跡を継ぎ、越後の領国経営を進める晴景に思いもよらない大事件が勃発する。
天文八年(1539年)
長尾為景に傀儡(かいらい)守護として擁立されていた上杉定実が、実権回復を謀り嗣子(後継者)として奥羽の大名伊達左京大夫稙宗(だてたねむね)の三男・時宗丸(伊達実元)を迎えようとしたことから始まった。
この縁組は同年十一月、晴景の猛反対で一旦は消滅するものの翌年には再び持ち上がり、
越後国内は上杉定実派長尾晴景派に分裂し、「援軍」を名目とした伊達家の軍事介入を招く事になる一連の紛争へと発展していく事になる。

守護復権を目論み、国政を牛耳る程にまで成長していた上杉定実ら守護派に対し、晴景は
反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)揚北衆を制圧することが急務と考え、
末弟の虎千代を古志郡司として栃尾城に派遣している。
天文十二年(1543年)八月十五日
兄晴景の命により還俗した虎千代は、元服を済ませ長尾平三景虎(ながおかげとら)と名乗りを改めた。


また、伊達家内部でも稙宗が時宗丸入嗣を強行させようとしたことを発端に、稙宗と嫡男伊達晴宗が対立し、伊達氏天文の乱(洞の乱:うつろのらん)が勃発する。
伊達氏第十四代当主伊達稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、
家督相続からの三十年間で十郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上・相馬・
蘆名・大崎・葛西
ら南奥羽の諸大名を従属させるに至り、奥羽に一大勢力圏を築き上げていた。


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戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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新たな関東の統治者

 【18//2012】

新たな関東の統治者


永禄七年(1564年)八月
尾張犬山城への織田上総介信長の総攻撃が始まる。
総勢六千余の軍勢が、織田下野守信清の居城犬山城へ襲いかかった。

武功夜話によると、
黒煙が天を覆い、鉄砲の音が鳴り響いていたと記されている。
犬山城には、信清の手勢が立て篭もっていたが、大沢次郎左衛門正秀の援軍もむなしく、
丹羽五郎左衛門尉長秀、柴田権六勝家、佐久間右衛門尉信盛ら諸将の執拗な猛攻に成す術も無く、
わずか二刻半(五時間)余りで、陥落している。
信清は、犬山城陥落の際に僅かな供回りと共に城を抜け出し、美濃領国へ逃亡。
その後甲斐国へ逃れ、犬山鉄斎と称し武田家家臣団(御とぎ衆)に名を連ねている。


武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜。
ただし、偽書説を唱える研究者も存在し、成立年代や史料的価値には諸説ある。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料であり、三巻本、二十一巻本など、
いくつかの異本が存在している。


信長は、犬山城を陥落させたのち、直ちに丹羽五郎左衛門に、猿啄城(さるばみじょう)攻略を下知し、
陥落させている。

猿啄城(さるばみじょう)
現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山にある標高275.3mの山頂付近にある城。
別名猿飛城、勝山城。
岐阜県と愛知県の境の木曽川の北に位置し、飛騨国、美濃国、尾張国への重要な地点となる。


信長は、犬山城が陥落し、丹羽長秀が猿啄城攻略を成功させ、木下藤吉郎が伊木城の調略に成功している今、
鵜沼城は完全に孤立してしまっており、大沢次郎左衛門は放っておいても降伏せざるをえないと読んでいた。
信長の読み通り間もなく、大沢次郎左衛門正秀降伏している。
織田上総介信長の東美濃侵入は成功した。
伊木、鵜沼、猿啄、その他美濃方の諸砦を撃破し、木曽川から北方一里の各務野(かがみの)まで、
信長軍は兵を進めたのである。


信長が美濃攻略を着実に進めていた頃、関東でも新たな混乱が生まれ始めていた。
永禄三年(1560年)五月
長尾弾正少弼景虎が、関東管領上杉兵部少輔憲政の失地回復という大義名分を掲げ、
北条左京大夫氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣。
小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など、北条方の諸城を次々に攻略し快進撃を続ける長尾景虎は、関東諸将に対して北条討伐の号令を発し、
北条の圧迫に苦しんでいた諸将などを取り込み、その数は数万に達していた。

翌永禄四年(1561年)三月
小田原城の戦いが勃発する。
景虎は、関東管領上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、
太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする十万余の大軍団で、小田原城をはじめとする
北条方諸城を包囲し、攻撃を開始する。

「関八州古戦録」等の軍伝に於いては、上杉軍の太田源五郎資正(おおたげんごろうすけまさ)隊が、小田原城の蓮池門(はすいけもん)へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は、各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦、
この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられている。
しかし同時代史料の上杉家文書では、城下への放火等は記されているものの詳細は明らかになっておらず、甲斐武田家と対峙している信濃国境を放置しておくわけにはいかない景虎の動きから考えると、包囲自体は1週間から10日間ほどであったという説もある。


関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)
江戸時代の軍記物。享保十一年(1726年)に成立。全二十巻。著者は槙島昭武
「関東古戦録」とも呼ばれる。
戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており、天文十五年の河越夜戦から、天正十八年の後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている。
関東各地に埋もれている戦記類をたんねんに集めたもので、その他の軍記物に比すると、語りものの調子を避け、歴史をそのままに伝えようとしている姿勢が強い。
同書は実証的戦国時代史研究において、原資料に基づいた良質な内容も認められるが、その他軍記物類の影響も見られるので、近世・近代に比べて古文書・日記などの同時代史料の少ない戦国時代の研究において、史料批判を行なった上で使用されている。

上杉家文書(うえすぎけもんじょ)
旧米沢藩主上杉家に伝えられた鎌倉時代から江戸時代までの古文書群。
二千十八通、四帖、二十六冊が、平成十三年(2001年)に武家文書として初めて国宝に指定。
近世に米沢藩となった上杉氏は、もともと越後国の守護代であった長尾氏の系譜を引く氏族であり、戦国期に長尾景虎(上杉謙信)が関東管領山内上杉氏の名跡を継いで以降上杉氏を称したという経緯があり、上杉家文書には謙信期以降の戦国大名や近世大名としての上杉家文書に加え、関東を拠点とした山内上杉氏、越後長尾氏に伝わる文書群含まれている。
近代まで上杉家の子孫家が所持していたが、平成元年(1989年)に上杉家より米沢市に寄贈され、現在は米沢市上杉博物館が保管している。


難攻不落と謳われた小田原城の防衛は堅く、景虎率いる十万余の大軍団の攻撃に耐え、
また玉縄城、滝山城、河越城、江戸城などの北条方支城も大軍団の攻勢を耐え凌いでいる。
信濃国境での甲斐武田氏の不穏な動きに警戒し、小田原城からの撤退を余儀なくされ、鎌倉に兵を引き上げた
景虎は、
永禄四年(1561年)閏三月十六日
上杉憲政の要請もあって、鎌倉府の鶴岡八幡宮において、山内上杉家の家督と、関東管領職を相続し、
名を上杉弾正少弼政虎(うえすぎだんじょうしょうひつまさとら)と改めた。
長尾影虎が、関東の統治者となったことを宣言した瞬間であった。


鎌倉府(かまくらふ)
南北朝時代から室町時代にかけて、室町幕府が関東を統治するために設置した政庁。
後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子成良親王を奉じて鎌倉へ下向させて創設した
鎌倉将軍府が起源で、幼い親王に代わって実権は足利直義に握られ、やがて室町幕府の関東の出先機関となる。
観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来基氏の子孫が
鎌倉府の長官(鎌倉公方)となり、関東管領として上杉氏が代々補佐した。

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)
神奈川県鎌倉市にある神社。相模国一宮。別称鎌倉八幡宮
宇佐神宮・石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一社であり、武家源氏、鎌倉武士の守護神とされている。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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藤吉郎の誠意

 【17//2012】

藤吉郎の誠意


永禄七年(1564年)
織田上総介信長は、美濃の斎藤右兵衛大夫龍興と結んで抵抗していた、尾張犬山城主織田下野守信清を攻略することで中濃への侵攻を開始する。
信長はすでに小牧山城へ本拠を移しており、この時点で尾張全体を完全に統一すると同時に、美濃の中央部
(中濃)に楔(くさび)を打ち込むこみ、東西を分断し、斎藤龍興の勢力をそぐ作戦を開始していたのである。

孫子の兵法
「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」
という言葉がある。
「戦わずに勝つ」ことが戦での上策とする孫子の考えである。


孫子(そんし)
中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書。
後に武経七書の一つに数えられ、古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。
孫子の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。
しかし孫武は、戦争には「勝った理由」「負けた理由」が必ずあり得ることを分析し、兵法書として記している。


戦国時代の武将の評価基準は、どれだけ名のある武将の首を獲ったかが重要であった。
しかし、信長の評価基準は違っていた。
孫子の兵法にあるような、「兵を損なわずに敵を倒す」という合理的な思考をしていた。
織田家臣団を表す小歌に「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間と言うへり」というものがある。
藤吉は木綿のごとく丈夫で便利であり、五郎左は米のごとくなくてはならない存在、柴田勝家は攻めが強い、
佐久間信盛は撤退戦が得意といった意味で、各々の得意分野が歌われている。
家臣の能力の特徴を良く把握し、うまく使いこなしていたことがうかがえる小歌である。

そこで信長は、木下藤吉郎秀吉に、犬山城対岸にある伊木山の頂に山城を構える
美濃斎藤方の土豪、伊木清兵衛忠次の調略を命じている。
伊木忠次が、蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)たち川並衆と年来昵懇(じっこん)の間柄であった為である。


川並衆(かわなみしゅう)
美濃尾張国境に流れる木曽川周辺に勢力を持つ国人衆。
水運、治水、漁業管理、船の護衛といった仕事を請負い、あくまで独立勢力として活動。
また地理的な知識や人脈を用いあらゆる情報に精通していたとも言われている。


伊木忠次を味方に引き入れないまま、犬山城攻撃の足懸りは無いと考えていた信長は、
藤吉郎に小六を使わせ、調略を果たさせようと考えていた。
また、東美濃へ乱入するためには、まず伊木城を攻略する事が正攻法でもあった。
当時、足軽大将にまで出世していた藤吉郎は、舎弟小一郎秀長、義父浅野又右衛門、林孫兵衛、木下源助らを
従え、黒革尾張胴具足に五徳兜を付け、信長より拝領の黒鹿毛の馬に跨り、鉄砲六十挺、槍六十、
合わせて百二十人の足軽を率い、小牧山城を出陣する。


足軽大将(あしがるたいしょう)
戦国大名のもとで足軽隊を率いた部将及びその職のことをいう。
足軽頭(あしがるがしら)ともいう。
応仁の乱以降、戦国時代にかけて合戦の集団戦化が進み、戦闘規模も大きくなった。
訓練された槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され主力軍として活躍するようになった。
足軽大将は配下である足軽小頭(足軽組頭)をはじめとする足軽を率いた。
基本石高は300石から200石とされている。


松倉へ着陣した藤吉郎は、川並衆頭領蜂須賀小六前野将右衛門長康(まえのしょうえもんながやす)らと合流し、伊木清兵衛調略の評定を開いた。
松倉城に着陣した藤吉郎は、手抜かり無く戦支度を整え、人数を二つに分け出陣する。
蜂須賀小六率いる前野将右衛門、聟大炊介(稲田種元)、松原内匠頭、草井長兵衛船頭衆を加えた総勢二百七十人の蜂須賀衆には、松倉城から川伝いに伊木山へ向かわせ、
藤吉郎率いる坪内利定、坪内玄蕃勝定、川筋衆青山新七郎、日々野六太夫、前野勘兵衛ら
総勢二百八十余人は、魔免戸口(現各務原市前渡)より中之道へ進み、
鵜沼城(うぬまじょう)の西方十五町(約1600m)の巾上(羽場)に陣を構えた。
一方、伊木城の軍勢は、逆茂木(さかもぎ)、竹束を連ね、応戦の構えを示していた。

蜂須賀小六、前野将右衛門、伊木清兵衛とは、かねてより昵懇の間柄であった為、小六は使者を遣わし、一戦構えるのは意味がないことを伝え、清兵衛とよく話し合いたい旨を伝えたところ、清兵衛が両人を城内へ迎え入れ、談合となった。
「われらがこのたび、御大将木下藤吉郎秀吉に従い罷(まか)り越したのは、清兵衛殿が
御味方してくれなければ、犬山城攻撃の足懸りは無いと考えているからだ。」
小六は、清兵衛への説得を試みた。
事実、伊木清兵衛を味方に引き入れないまま、犬山城を攻撃すれば、峰伝いに位置する鵜沼城主
大沢次郎左衛門正秀(おおさわじろうざえもんまさひで)の加勢も加わり、無理をすれば大敗する恐れがあった為である。
また、伊木城を押さえれば、鵜沼城の大沢勢は退路を断たれる事にもなり、今後の東美濃侵攻を優位に進める事が出来た。
「清兵衛殿が御味方してくれれば、大沢次郎左衛門殿の調略もきっと成功するであろう。」
「また、藤吉郎殿が大沢の助命は、我が一命に替えても、引き受けると申している。」と付け加え、
ついに清兵衛を説得に応じさせたのである。

清兵衛は、斎藤山城守道三の代より仕えてきたが、義龍亡き後、家督を継承した
斎藤右兵衛大夫龍興に遠ざけられ、主離れ同然の状態であった。
また、同朋の大沢次郎左衛門が織田信清と結び、信長に敵対する事になった為、やむなく清兵衛もそれに従う形となった。
しかし、清兵衛は、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家に楯突く愚を知っていたのである。

小六は、内通に応じた伊木清兵衛と共に、藤吉郎の陣所へ赴いた。
清兵衛合力の委細を小六より聞いた藤吉郎は、清兵衛の手を取り、握り締め、「私はいまだ無冠の小心者ですが、信長様にこの大役を仰せつかり、清兵衛殿の合力を得て、私の初戦の命運は開けました。しかし、私には清兵衛殿の合力に酬いるだけの恩賞を与える事は出来ません。ですが私は一命に替えてでも必ず清兵衛殿の忠節を信長様に言上し、然る可き(しかるべき)恩賞を与えて下さる様、酬(むく)いたいと思います。」
清兵衛は、藤吉郎の言葉にあふれる誠意を感じ取り、藤吉郎の勧誘を受け入れるのである。


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稲葉山城乗っ取り

 【16//2012】

稲葉山城乗っ取り


美濃斎藤家を周辺諸国から孤立させる作戦にでた織田上総介信長は、
永禄七年(1564年)
近江北三郡を領し、守護京極家の執権職から独立し戦国大名となった浅井家当主、
浅井備前守長政(あざいびぜんのかみながまさ)と、婚姻による攻守同盟締結(ていけつ)
実際、信長の妹、お市の方が長政に嫁ぐのは、永禄十年(1567年)の事である。


京極氏(きょうごくし)
日本の武家の1つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家。
鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱が、四人の息子に近江を分けて継がせたことから始まる。
このうち、江北(北近江)にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡と、
京都の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が、後に京極氏と呼ばれるようになる。
なお、この時に江南(南近江)を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となっている。
長男の重綱と次男の高信も、それぞれ坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続し、祖となる。
足利尊氏に仕えた佐々木導誉(京極高氏)の活躍により、京極氏は室町時代に出雲・隠岐・飛騨の守護を代々務め、四職(侍所所司になれる家)の一つとして繁栄した。
応仁の乱の後は、家督争いや浅井氏の台頭により衰退したが、京極高次・高知兄弟が戦国時代に
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えて家を再興し、外様大名として若狭国主、丹後国主となった。
各家ともに分封、転封、改易はあったが、ともに明治維新を迎え、華族に列せられている。

浅井氏(あざいし、あざいうじ)旧字体:淺井氏
京極家の家臣。近江国(滋賀県)の国人、戦国時代の近江北部で勢力を持った戦国大名。
正親町三条家(嵯峨家)の支族で本姓を藤原氏とするが、近江国浅井郡に居を構える古代豪族浅井氏があり、
近江の在地豪族、郡司クラスの末裔に公家の庶子が入り婿したという説が有力である。
京極氏の譜代家臣として京極家中では中堅的位置にあった。
「江北記」には京極氏の根本被官として今井、河毛、赤尾、安養寺、三田村氏ら十二氏のうちの一つとして列記されている。


信長が着々と美濃攻略の布石を打っている頃、美濃稲葉山城で、ある事件が起こった。
斎藤家家臣竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)と、安藤伊賀守守就(あんどういがのかみもりなり)が反逆し、
稲葉山城を乗っ取ったのである。

竹中半兵衛重治(たけなかはんべえしげはる)
天文十三年(1544年)
美濃斎藤氏家臣美濃国大野郡大御堂城主竹中遠江守重元(たけなかとおとうみのかみしげちか/しげもと)の嫡子として生まれる。
永禄三年(1560年)
父重元の死去により、僅か十六歳で家督を継承し、菩提山城主となり、美濃国主斎藤義龍に仕えた。
永禄四年(1561年)
義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える。


斎藤家当主斎藤右兵衛大夫龍興は、愚将(ぐしょう)との評判が高い人物であった。
愚将(ぐしょう)おろかな将。無能な将。
日々酒色に溺れ、政務を顧みようとせず、尾張織田家との緊迫したこの状況下にあっても評定すら行わない龍興に、美濃斎藤家譜代の家臣は、危惧を覚え始めていた。
また龍興は、一部の側近だけを寵愛し、譜代家臣を政務から遠ざけるようになった為、斎藤家の将来に不安を感じた家臣や国人衆の離反が目立ちはじめていた。
斎藤家滅亡の危機に瀕しているとして、西美濃三人衆の稲葉氏、安藤氏、氏家氏が連名で、龍興に諌言(かんげん)するものの状況は日増しに悪くなっていた。


西美濃三人衆(にしみのさんにんしゅう)
戦国時代に美濃斎藤氏の有力な家臣だった稲葉良通、安藤守就、氏家直元を指した総称。
単に美濃三人衆ともいう。


その後も再三、安藤ら三人衆は諌言するが龍興の態度は変わらず、我慢の限界を迎えた安藤守就は、娘婿である竹中重治と共にクーデターを起こすことになる。
永禄七年(1564年)二月
安藤守就は、竹中重治、その弟竹中彦作重矩(たけなかひこさくしげのり)とともに、龍興の居城稲葉山城を十六人の部下と共に、わずか一日で奪取してしまう。
「主君を諌めんがため」として城を乗っ取ったのである。

竹中重治は、城勤めの弟重矩の見舞いとの名目で十五人の供の者と登城し、長持の中に隠し持っていた武器を使って、龍興の寵臣斎藤飛騨守など数人を斬り殺し、稲葉山城を占拠。
重治の稲葉山城占拠の報せを受けた守就は、直ちに兵二千余りで稲葉山城下を制圧し、一帯を占領する電光石火の稲葉山城乗っ取りであった。
信長が長期に渡り攻め続け、未だ攻略出来ない難攻不落の稲葉山城を、たった十六人で奪取した
重治の武勇は、尾張にも届いていた。

信長は直ちに稲葉山城へ使者を遣わし、重治に美濃半国と引き換えに城を譲り渡すよう要求するが、重治はこれを拒絶し、半年後、龍興に稲葉山城を返還している。
その後重治は、斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として東浅井郡草野に三千貫の禄を賜るが、約一年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲(いんせい)することになる。

この竹中半兵衛重治は、戦国期を代表する名軍師としても知られ、後に羽柴秀吉の参謀として活躍し、
黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。
多くの軍功に関する逸話や美談を残しているが、現在では後世の創作によるものとみられているエピソードも数多く、史実上の活躍の実態が不明瞭な人物でもある。

また、この稲葉山城乗っ取りのクーデターは、斎藤龍興や斎藤飛騨守らに侮辱された意趣返しとも言われている。


意趣返し(いしゅがえし)
恨みを返すこと。しかえし。復讐。


「太閤記」「常山紀談」などによると、
重治は、体が弱く見た目は痩身で女性のようであり、容貌が婦人のようであったことから、
主君の龍興をはじめとする斎藤家臣団から侮られ、龍興の寵臣である斎藤飛騨守に櫓の上から馬鹿にされ、小便を顔にかけられたことがあったとの逸話もある。
要するにイジメられていたのである。
この逸話によると、
数日後、飛騨守が龍興居室の宿直を務めていたとき、我慢できないほど激怒していた重治は、
稲葉山城に詰めていた弟・重矩の看病のためと称して武具を隠した数箱などをもって入城し、
重矩の居室で武装して、宿直部屋に居た飛騨守を惨殺して稲葉山城を乗っ取ったとされている。


太閤記(たいこうき)
広義には太閤・豊臣秀吉の生涯を綴った伝記の総称。
狭義には、そのうち最も有名な儒学者・小瀬甫庵による「太閤記」を指し、作者の名をとって
甫庵太閤記(ほあんたいこうき)ともいう。

常山紀談(じょうざんきだん)
江戸時代中期に成立した逸話集。
簡潔な和文で書かれており、本文二十五巻、拾遺四巻、それと同じ内容を持った付録というべき
「雨夜燈」一巻よりなっている。
著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山(ゆあさじょうざん)


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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三河国は一向宗禁制の地!!

 【15//2012】

三河国は一向宗禁制の地!!

永禄七年(1564年)
武装蜂起した一向宗派との死闘は、年が明けると松平蔵人佐家康側に有利な形勢へと変化していく。
野場砦の守将夏目次郎左衛門吉信が、松平又八郎伊忠により生け捕りにされ、家康勢有利の方向へと変わっていく。

援軍として駆けつけた乙部八兵衛が、松平伊忠に内通し、野場砦が陥落したためである。
捕らえられた夏目吉信は、松平伊忠の助命の嘆願により、家康に許され帰参を果たしている。
後年、家康に恩義を感じた吉信は、のちのちまで家康に忠義を尽くし、
元亀三年(1573年)、三方ヶ原の戦いで、死を覚悟した家康を叱咤激励(しったげきれい)し、家康の兜と馬を以って武田勢に突入し、家康の身代わりとなって戦死している。


三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
元亀三年(1573年)十二月二十二日、
遠江国敷知郡の三方ヶ原、現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺で起こった、
武田信玄軍二万七千人と、徳川家康軍一万一千人との間で行われた戦い。
信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康が大敗したことで有名な戦。


三河一向一揆討伐戦で勝機を得た家康は、刈谷城主水野下野守信元に援軍を要請し、
自ら二千余の兵を率い岡崎城を出陣。
家康勢は矢作川を渡り、南下して一向宗派に加担した吉良義昭の庶流、荒川甲斐守義広(あらかわかいのかみよしひろ)が籠もる八ッ面城を、水野信元勢と共に三方から攻めかけ陥落させている。
これにより、荒川義広は河内国へ亡命することになる。
勝利をあげた家康はそのまま小川に進軍し、一揆勢を率いる本證寺空誓との決戦に挑み、
一揆勢を悉(ことごと)く討ち取っている。
この小川合戦の勝利により、三河一向一揆討伐戦は終焉を迎える事になる。
合戦に敗れた一向宗派側は、急ぎ家康に和議を申し入れ、上和田の浄珠院(じょうしゅいん)にて
和睦交渉がおこなわれている。


和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。

和議(わぎ)
係争、戦時の際に和睦のためになされる協議。


家康は和睦の条件として、一揆の首謀者を処刑することを提示。
しかし大久保新八郎忠俊は、ようやく終焉を迎えつつある騒動が再発する事を恐れ、
一向一揆の首謀者も許してやるのが肝要であると家康に説いたという。

三河一向一揆和睦の条件は、
一揆に加担した者の本領を安堵する。
一揆の首謀者の一命を助ける。
寺院や道場、その他宗教施設はもとのままにする。
といった一向宗派側に有利な条件のものであった。
しかし、一向一揆の恐ろしさを知った家康は、本願寺派寺院をすべて破却し、禁制を発し、
三河国は一向宗禁制の地としている。


一向宗派に加担した本多弥八郎正信は、主家に叛旗を翻した事を悔やみ、
松平家に帰参せず、大和国の松永弾正少弼久秀(まつながだんじょうしょうひつひさひで)に仕えるが、やがて出奔し諸国を流浪する。
また一説には、加賀門徒衆の中心拠点である加賀尾山御坊(かがおやまごぼう)に籠り、織田軍を相手に戦っていたともいう。
後に大久保七郎右衛門忠世(おおくぼしちろうえもんただよ)のとりなしで、徳川家に帰参し、家康の参謀として重く用いられることになる。


加賀尾山御坊(かがおやまごぼう)
加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院。
寺とはいうものの、大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく、石垣を廻らした城ともよべる要塞。
加賀尾山御坊跡地に、金沢城が築かれ加賀藩主前田氏の居城となる。

松永久秀(まつなが ひさひで)
戦国時代の武将。大和国の戦国大名。
官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。
出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。
父は不明。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に、
第十三代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。
しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。
一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われる。
北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、
連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている。


松平家康の戦後処理の見事さは、一揆側に加担した家臣をいっさい罰せず、すべて許し、元の知行で抱えなおしたことである。
この家康の慈悲深い寛大な処置に、三河武士の家康への忠誠心はさらに高まることになったという。


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死を恐れぬ一向宗一揆勢との死闘

 【14//2012】

死を恐れぬ一向宗一揆勢との死闘


本證寺第十世空誓(くうせい)(蓮如の孫)が中心となって武装蜂起した一向宗派は、
岡崎城を攻撃するために小豆坂に進軍。
これを討伐するため、上和田の大久保新八郎忠俊(おおくぼしんぱちろうただとし)が出撃し、
さらに岡崎城からは松平蔵人佐家康が出陣し合戦となった。


蓮如(れんにょ)
室町時代の浄土真宗の僧。本願寺第八世。本願寺中興の祖。
同宗旨では、「蓮如上人」と尊称される。諱は兼壽。院号は信證院。
明治十五年(1882年)に、明治天皇より「慧燈大師」の諡号を追贈されている。
親鸞の直系とはいえ、蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。
他宗や浄土真宗他派、特に佛光寺教団の興隆に対し、衰退の極みにあった。
その本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた人物。


一方、一揆方の三河上野城主酒井将監忠尚が、松平宗家の菩提寺である大樹寺へ進軍。
忠尚勢が矢作川を渡り、岩津から南下して進軍中との報せを受けた石川日向守家成
本多平八郎忠勝らは、矢作川東岸に兵を伏せ、酒井忠尚勢に急襲を仕掛け大打撃を与えている。
この時、十六歳であった本多忠勝は、家康から拝領したといわれる長槍「蜻蛉(とんぼ)切り」を振り回して活躍し、
「蜻蛉切りの平八郎」と呼ばれ恐れられたという。
また、同じ本多一族である弥八郎系の本多弥八郎正信は、酒井忠尚の上野城に入って一向一揆勢に協力している。


大樹寺(だいじゅじ、またはだいじゅうじ)
愛知県岡崎市にある浄土宗の寺院。山号は成道山。
正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。
松平氏(徳川氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。
文明七年(1475年)、松平氏宗家当主の松平親忠が戦死者供養のため、勢誉愚底を開山として創建した。
永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川軍は敗走し、松平元康はここに逃げ帰り、先祖の墓前で自害しようとしたが、住職の登誉に諭されて思い留まったという逸話もある。

本多一族
藤原氏北家兼通流の二条家綱の後裔。
家綱の孫と自称する右馬允秀豊が、豊後国の本多郷を領したことから本多氏と称し、やがて三河国に移住したのが定説。
実際の本多氏は、古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系である。
本多氏の大名家は、大きく分けて六家に分類することができ、いずれも譜代大名である。
ただし、そのうち二家は改易されている。

本多平八郎家(ほんだやはちろうけ)
「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」とまで賞賛された本多忠勝の家系。

本多彦八郎家(ほんだひこはちろうけ)
徳川四天王筆頭・酒井忠次の次男本多康俊の家系。

本多作左衛門家(ほんださくざえもんけ)
三河三奉行の一人で、勇猛果敢で剛毅な性格から「鬼作左」と称された本多重次の家系。

本多弥八郎家(ほんだやはちろうけ)
徳川家康の参謀として知られる本多正信の家系。

本多彦次郎家(ほんだひこじろうけ)
古くからの松平家譜代家臣である、本多康重の家系。

本多三弥左衛門家(ほんだやざえもんけ)
剛勇かつ槍の名手で、織田信長に「海道一の勇士」と評された本多正重の家系。


南方では、一揆方の夏目次郎左衛門吉信が、野場に新たな砦を築き、本證寺から
応援に駆けつけた大津半右衛門吉明、弟の大津土左衛門宗常乙部八兵衛久留正勝らと共に、
松平又八郎伊忠(深溝松平家)(まつだいらまたはちろうこれただ)と攻防戦をおこなっていた。


深溝松平家(ふこうず まつだいらけ、もしくはふこうぞ まつだいらけ)
松平忠定を祖とする松平氏の分枝。
十八松平の一つ。
先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。


三河一向一揆は、国内の政治的権力を争うために起こった内戦ではなく、宗教的衝突から起った内戦であった為、極めて奇妙な武力闘争であった。
神仏の為に死ぬ事で、極楽浄土への道が約束され、来世への希望が望めると信じていた一向宗門徒にとって、「死」とは特別怖いものでは無かった。
その為、死を恐れぬ一揆勢との死闘は苛烈を極めたのである。
しかし、一向宗派に加担した松平党も、松平家に残った者も、家康配下で苦楽を共にして来た仲間であった。
その為、双方共になかなか決戦には踏み切らず、小競り合いを繰り返す程度であったという。
しかも、一揆勢を家康自らが出撃し、これを迎え撃とうとすると、陣頭で指揮を採る家康に弓を引く事はせず、
潮が引くように一揆勢は逃げ散ってしまうのである。

まだ幼かった竹千代が、今川家の人質として駿府で暮らしていた時代、捨石の様に扱われていた三河武士団にとって、幼い主君竹千代の成長だけを心の拠り所にして、苦汁を舐め、歯を食いしばり、生き続けてきた。
その家康に、弓を引く事など出来るはずも無かった。
三河武士団にとって、「家康」というのはそれだけ特別な存在であった。
しかし、神仏を信仰する心を捨て、家康と共に一向宗派と戦う事が出来ない彼らは、その矛盾の中で悩み苦しんでいた。


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三河一向一揆勃発

 【13//2012】

三河一向一揆勃発


永禄六年(1563年)九月
松平蔵人佐家康の本拠地 岡崎周辺にて、一向一揆が勃発。
桶狭間合戦後、岡崎帰城を果たした家康は、三河の領国経営を着々と進めていった。
しかしそれは、農民や寺院への過酷な収奪(しゅうだつ)となって現れ始め、その過程で三河三ヶ寺の
不入特権(ふにゅうとっけん)が侵害されたとして、一向宗派の国人、土豪、農民、一向門徒などが蜂起したのである。

収奪(しゅうだつ)
奪い取ること。強制的に取り上げること。

十五世紀後半、矢作(やはぎ)川周辺には、浄土真宗本願寺派が、土呂本宗寺(とろほんしゅうじ)や、三河三ヶ寺と
よばれる上宮寺、勝鬘寺、本証寺を中心に、本願寺教団を形成し、寺内町の建設などを通じて、広く地域の流通機構を掌握していった。


寺内町(じないちょう、じないまち)
室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。
濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。
寺内町は、自治特権を主張、または獲得し、経済的に有利な立場を得た。
これらの特権は、石山本願寺が管領細川晴元から「諸公事免除」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされ、各地の寺内町が一揆を起こす理由ともなった。
(注)商業地である門前町とは異なる。


本願寺教団に、先代松平広忠が認めた不入の特権は、
「検断権(逮捕)の拒否」「年貢・諸役の免税」などであった。
教団はこの特権をもとに、寺内町から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、松平家臣や、その他諸豪族に貸付けたりして、巨額の富を得る巨大宗教施設を形成していた。
三河の領国経営を進める家康にとって、無視できない存在であった事は確かである。

定説では、家康の命を受けた菅沼藤十郎定顕(すがぬまとうじゅうろうさだあき)が、佐々木に砦を築き、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことがきっかけとなり、一向宗派が蜂起したという。

大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)が記した三河物語では、
本証寺に侵入した無法者を、西尾城主酒井正親(さかいまさちか)が捕縛したため、
不入の特権を侵害されたとして、一向宗派が蜂起したという。
どちらにしても家康が、不入の特権を持つ本願寺派寺院に介入したため勃発した一揆である。


三河物語(みかわものがたり)
徳川氏と大久保氏の歴史と、功績を交えて、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。
上巻、中巻、下巻の三巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、
下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や、考え方などが記されている。


蜂起した一向宗派の一揆勢は、門徒だけに留まらず、地主、百姓、僧侶、商人、そして「忠実」として知られる
三河武士団にまで広がり、その規模は一万にまでおよぶと言われている。
また、これを再起ととらえた三河東条城主吉良義昭が、今川与党の残党を集め、一向宗と同盟を結び、家康に叛旗を翻し参戦してきたことも大規模となった要因の一つである。

一向宗派に加担したのは義昭だけでは無かった。
本多一族の本多弥八郎正信(ほんだやはちろうまさのぶ)
三河上野城主酒井将監忠尚(さかいしょうげんただなお)
「槍半蔵」の異名で、「鬼半蔵」の服部半蔵正成と並び称された渡辺半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)
徳川十六神将の1人蜂屋半之丞貞次(はちやはんのじょうさだつぐ)
忠義の家臣夏目次郎左衛門吉信(なつめじろうざえもんよしのぶ)など、
三河武士団の半数近くが反乱軍に加わっていた。
また、祖父清康の代より反抗的な態度を取っていた桜井松平家や、大草松平家が、再び宗家転覆を企て反乱軍に加わっている。


桜井松平家(さくらいまつだいらけ)
松平宗家五代松平長忠の次男、松平内膳信定を祖とする松平氏の庶流。
三河国碧海郡桜井を領したことから桜井松平家と称する。
十八松平の一つとされる。

大草松平家(おおくさまつだいらけ)
岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする松平氏の庶流。
三河国額田郡大草郷を領したことから大草松平家と称する。
十四松平・十八松平の一つとされる。


一向宗派の一揆勢と、松平宗家の戦いは苛烈を極めたという。
一揆勢は、松平氏の本城である岡崎城にまで攻め上り、家康自身も窮地に陥ったという。
一揆勢との戦いで窮地に立った家康が、逃げ隠れたと言われる洞窟が、
現在パワースポットとして脚光を浴びている。
追手の兵がこの洞窟を探そうとしたが、中から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は、
「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、「九死に一生」を得た家康は、難をまぬがれたと伝えられている。
その後、この洞窟は山中八幡宮の鳩ヶ窟(はとがくつ)と呼ばれる様になり、
八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになったという。


山中八幡宮(やまなかはちまんぐう)
愛知県岡崎市舞木町宮下にある神社。祭神は応神天皇、比咩大神、息長足姫命。
山中光重という人物が、朱鳥十四年(699年)九月九日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめとされている。
弘治四年(1558年)、十七歳の家康は、初陣となる三河寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり、
当宮にて戦勝祈願をしたと伝えられる。
また、境内には永禄六年(1563年)、三河一向一揆で、門徒たちに追われた家康が身を隠し、
その難を逃れたと伝えられる鳩ヶ窟と呼ばれる洞窟がる。

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家康 人生最大の危機を迎える

 【12//2012】

家康 人生最大の危機を迎える


永禄六年(1563年)
松平蔵人佐元康が、家康と名を改めた途端、人生最大の危機を迎える事になる。

85411では総画数28画となる。
総運:自信家で頭もよく、積極果敢なチャレンジ精神と行動力があり、特に専門的な分野で成功する運をもっている。
また、困難に立ち向かう力があり、経営者や組織のリーダといった人の上に立つ職業も適している。
但し、少し強引なところがあり、周りの反感を買わないように注意することが必要。
対して
851011では総画数34画となり、
総運: 類稀な才能の持ち主ではあるが、性格的な問題から自分を上手く表現することが苦手。
内向的で大人しいことに加え、人目や評判を気にするようなところがあり、悩みを抱える日々が続くことがある。
身体的に弱い一面もあり、行動力は決して高くはない。
体力的な問題から、自分の計画を上手く実行できないこともある。
あまりいい感じではない評価だ。
まあ、家康の人生と姓名判断は何の関係も無いが、一応・・・・・

この当時、家康は「三河一向一揆」との戦いに頭を悩ませている。
まさに「悩みを抱える日々が続く」ことになる。
「忠実」として知られる三河武士団の半数近くが、家康から離反し、一向宗派の手足となって、
主君家康に牙をむいたのである。

一向一揆(いっこういっき)
戦国時代に浄土真宗(一向宗)本願寺教団の信徒たちが起こした一揆の総称。
浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的一揆。
本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う士豪的武士や、自治的な惣村に集結する農民が、地域的に強固な信仰組織を
形成していた。

ことの発端は、家康が、松平広忠の代に定められた、一向宗派の三河三ヶ寺の守護不入の特権
破ったことにより、対立が始まったと言う。
「寺の物資を奪った」
「寺の境内に無許可で砦を築いた」
「寺に逃げ込んだ罪人を無許可で押し入って逮捕した」という説があるが、いずれにせよ教団の利権を侵したとして、一向宗派が蜂起するに至ったのである。


三河触頭三ヶ寺
本證寺(ほんしょうじ)
愛知県安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院。山号は雲龍山。野寺御本坊。
上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となる。
こうした経緯から、鼓楼や土塁を備え、水濠に囲まれた城郭寺院(城郭伽藍)となっている。
また、書院は親鸞が泊まった際に、天井裏まで雨漏りがしていたのに、部屋までは漏らなかったという伝承が残されており、「雨もり御殿」とも言われている。

上宮寺(じょうぐうじ)
愛知県岡崎市上佐々木町にある真宗大谷派の寺院。
三河高田派の棟梁寺院のひとつである、桑子の妙源寺に連なる有力寺院であったが、
寛正二年(1461年)、蓮如の教化によって本願寺派に転じた寺。
住持の如光法師は、三河地方の本願寺派坊主衆の中心になって蓮如を支えた一人とされる。

勝鬘寺(しょうまんじ)
愛知県岡崎市針崎町にある真宗大谷派の寺院。
正嘉二年(1258年)、三河最初の真宗道場として赤渋の地に信願房了海によって創建。
九世住持了顕の時に隆盛を極めたが、その後水害の難を避けるために現在地へ移転している。
一向一揆の拠点は、本證寺、上宮寺、勝鬘寺で、勝鬘寺には蜂谷半之亟らが立て籠もったと言われている。


蜂起した一向宗派の一揆勢の中には、のちに十六神将に数えられる、渡辺守綱や蜂屋貞次、懐刀として活躍する本多正信、家康の身代わりとなって戦死する夏目吉信など、錚々(そうそう)たる面々が加わったため、この騒動は鎮圧まで実に半年を要することになる。


徳川十六神将(とくがわじゅうろくしんしょう)
徳川家康に仕えて、江戸幕府の創業に功績を立てた十六人の武将を顕彰した呼称。
江戸時代には、家康と十六神将の姿を描いた図像が東照宮信仰において好まれたという。
「16」の数字が選ばれた理由は明らかではないが、近世には筆頭の酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四名を特に「徳川四天王」と呼ぶことから、東照大権現の神号を持つ家康を仏(権現)に見立て、仏教の四天王・十二神将の数字を合計して「十六神将」とする説がある。

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戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
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永禄記-その他②

 【11//2012】

永禄記 目次-その他②


永禄記 目次-その他①

第百四十一話 家康 人生最大の危機を迎える
三河統一事業 最大の試練
2012.11.12

第百四十二話 三河一向一揆勃発
三河の領国経営を進める家康にとって、無視できない浄土真宗本願寺派教団。
2012.11.13

第百四十三話 死を恐れぬ一向宗一揆勢との死闘
神仏の為に死ぬ事で、極楽浄土への道が約束されると信じていた一向宗衆門徒の闘い。
2012.11.14

第百四十四話 三河国は一向宗禁制の地!!
三河一向一揆和睦の条件。
2012.11.15

第百四十五話 稲葉山城乗っ取り
難攻不落の稲葉山城を、わずか十六人で奪取してしまう半兵衛って?。
2012.11.16

第百四十六話 藤吉郎の誠意
「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間と言うへり」
2012.11.17

第百四十七話 新たな関東の統治者
山内上杉家の家督と関東管領職を相続
2012.11.18

第百四十八話 上杉謙信
混乱する越後国
2012.11.26

第百四十九話 毘沙門天の転生
持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
2012.11.27

第百五十話 第四次川中島の戦い
川中島の戦いの中で唯一大規模な戦いとなり、多くの死傷者を出した戦い
2012.11.28

第百五十一話 武田、上杉両家の御使衆
御大将の「口上」を伝えに戦場を駆ける侍
2012.11.29

第百五十二話 八幡原の死闘
最大の激戦であった八幡原の死闘
2012.11.30

第百五十三話 八幡原での逸話
武士としての誇り
2012.12.01

第百五十四話 世にも稀なる大将同士の一騎討ち
三太刀七太刀の一騎討ち
2012.12.02

第百五十五話 越後直江景綱宛書状
天下を意識し始めた織田信長
2012.12.03

第百五十六話 第十三代征夷大将軍の死
実権と将軍専制に固執した将軍の最後
2012.12.07

第百五十七話  細川右京大夫晴元への讒言
同族・宗三父子の曲事(くせごと)
2012.12.08

第百五十八話 畿内に一大政権を築き上げた長慶
長慶の強大な勢力の前に多くの諸大名が誼を通じていた
2012.12.09

第百五十九話 長慶の最後
智謀勇才を兼て天下を制すべき器 三好長慶
2012.12.10

第百六十話 剣聖将軍
公方(将軍)様に引退を勧告
2012.12.11

第百六十一話 一乗院覚慶
流亡将軍 苦難の道
2012.12.12

第百六十二話 義信謀反事件
甲斐武田家を二分する可能性を秘めた大事件
2012.12.14

第百六十三話 松平姓から徳川姓へ
「一族中で別格の存在である」と内外に認知させることが必要
2012.12.15

第百六十四話 すりあけ物の奈良刀
こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず
2012.12.18

第百六十五話 必死の懇願
もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば
2012.12.19

第百六十六話 朝倉左衛門督義景上洛
「管領代」として上洛
2012.12.20

第百六十七話 光秀の仕官の謎
油断のならない人物・光秀
2012.12.21

第百六十八話 あくまでも幕府の足軽衆
信長政権下において出世した幕臣
2012.12.22

第百六十九話 美濃斎藤家滅亡・序章
完成されつつある信長の策謀
2013.01.01

第百七十話 美濃斎藤家滅亡・墨俣一夜城の真偽
本当は秀吉の墨俣一夜城はなかった
2013.01.02

第百七十一話 美濃斎藤家滅亡・プレハブ工法と割り普請
建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法
2013.01.03

第百七十二話 美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-①
稲葉山落城は永禄七年(1564年)
2013.01.04

第百七十三話 美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-②
信長の策略 「稲葉山城攻略」
2013.01.05

第百七十四話 天下取りの意思を天下に知らしめるため
「岐阜」改名の真相
2013.01.10

第百七十五話 天下泰平を望む信長の強い意思
「七徳の武」をもって天下を治める
2013.01.11

Category: 信長奮闘記

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犬山両家老の内通

 【10//2012】

犬山両家老の内通


小牧山への移城を果たした織田上総介信長は、於久地城への調略を開始する。
尾張犬山城主織田下野守信清には、最も頼りとなる二人の家老がいた。
尾張於久地城主中島豊後守
尾張黒田城主和田新介定利
信長は、中島豊後守、和田新介に調略の手をのばし、離反を誘う作戦に出るのである。

犬山城(いぬやまじょう)
愛知県犬山市に存在する平山城。別名、白帝城。国宝指定四城の一つ。
天文六年(1537年)、織田信長の叔父である織田信康によって築城された、現存する日本最古の木造天守閣
犬山城の天守は、外観三重、内部は四階、地下に踊場を含む二階が付く。
天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、入母屋二重二階の建物の上に、三間×四間の望楼部を載せた望楼型天守である。
また、日本で唯一、かつての城主成瀬家の子孫による個人所有の城としても知られている。

於久地城/小口城(おぐちじょう)
愛知県丹羽郡大口町小口に存在した平城。別名、箭筈城(やはずじょう)
長禄三年(1459年)、織田広近によって築城された。
東西約五十間(約90メートル)・南北約五十八間(約105メートル)の曲輪に、二重の堀と土塁が廻らされた形状であったとされる。
小口城は、木ノ下城や犬山城の支城として残されたが、永禄年間(1558年〜1569年)に廃城。
天正十二年(1584年)、小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方の稲葉良通が布陣した記録がある。

黒田城(くろだじょう)
愛知県一宮市木曽川町黒田字古城に存在した平城。
初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城とされる。
天文初年に、織田伊勢守家家老山内盛豊が城代として入城。
織田伊勢守家が織田弾正忠家に敗れた後、山内家は一豊が豊臣秀吉の下で立身するまで離散することになる。
その後、織田信清の弟広良が城主となるが、軽海の戦いで戦死したため、家老の和田新助が城主となった。


信長公記によると、
「小真木山並びに、御敵城於久地と申し候て、廿町計り隔てこれあり。」
小牧山城から於久地城へは、二十町(約2.1km)ほどの距離しかなかったと記されている。
(ちょう)
尺貫法での長さ(距離)、又は面積の単位。
一町は約109.09m、1kmは約9.1町となる。
(り)
尺貫法での長さ(距離)の単位。
一里は約3.9km、36町里を標準の里とする(1里=36町)。

於久地城から犬山城までは、三里弱(約10km)あり、黒田城から犬山城までは、五里(約20km)の距離があった。
主力部隊ごと本拠地を移してきた、信長勢の真っ只中にいる中島豊後守、和田新介は、必ずや保身のためになびくと、信長は見ていた。
信長はまず、和田新介に調略の手をのばし、味方に引き入れた後、離反をよしとしない侍堅気の中島豊後守の
調略に移る手はずとした。
使者として選ばれた丹羽五郎左衛門尉長秀は、新介に形成の不利を説き、
本領黒田の庄の安堵を約束する条件で、和田新介の勧誘に成功する。
その後すぐに和田新介と共に於久地城へ出向き、中島豊後守に信長への内通を勧めた。
「もはやこれまで」
中島豊後守は降参の潮時であるとして、於久地城を信長に明け渡している。


信長公記に、
「御要害、ひたひたと出来を、見申し候て、御城下の事に候へば、拘(かか)へ難く存知、渡し進上候て、御敵城犬山へ一城に楯籠り候なり。」と記されている。
中島豊後守は、2kmほど先で行われていた小牧山の新城普請の様子を眺めながら、
孤立した状態での防備は無理であると見て、長秀と新介の勧誘にたやすく応じたのである。
これにより、織田信清の勢力は犬山一城となった。
信長は、内通に応じた中島豊後守を手厚く饗応(きょうおう)し、孫六兼元(まごろくかねもと)作の業物の太刀を与えたという。

孫六兼元(まごろくかねもと)
室町後期に美濃国で活動した刀工。
「兼元」の名は、室町時代から江戸時代を経て現代にまで続いているが、そのうち二代目を「孫六兼元」と呼ぶ。
孫六は、兼元家の屋号である。
武田信玄・豊臣秀吉・前田利政・青木一重など多くの武将が佩刀したという。

業物(わざもの)
刀、太刀など、日本刀系列の級品をさす。
分類はそれぞれ、最上大業物(さいじょうおおわざもの)大業物(おおわざもの)良業物(よきわざもの)業物(わざもの)
4段階に分けられる。

於久地城、黒田城はいずれも、攻めれば甚大な被害を覚悟しなければならない、堅固な要害であった。
二大勢力に去られた織田信清は、もはや信長の攻撃を支えるだけの戦力は残っていなかった。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

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小牧山へ移城

 【09//2012】

小牧山へ移城


永禄六年(1563年)
織田上総介信長は、美濃攻略のための布石を打ち始めている。
美濃斎藤家を周辺諸国から孤立させる作戦にでた信長は、愛娘五徳と、松平蔵人佐元康の嫡子竹千代との婚約を成立させ、松平家との結びつきを強固なものとした。
翌永禄七年には、北近江の浅井備前守長政と同盟を結び、更にその翌年には、
養女松姫を甲斐の武田大膳大夫信玄の嫡子武田四郎勝頼に嫁がせるなど、
徹底して美濃斎藤家孤立作戦を実行している。

また、この作戦を確実なものとするため、信長は居城を小牧山へ移している。
稲葉山城の斎藤右兵衛大夫龍興と、不穏な動きを見せる犬山城の
織田十郎左衛門信清を狙い続けるための移城であった。
居城を移すという事は、当時としてかなり思い切ったことである。
しかも清洲は、応永十二年(1405年)、室町幕府管領斯波義重が尾張守護職となって以来、
海道に沿う政治経済の中心地的な城下町として栄え、人口は数万に達していたという。


斯波 義重(しば よししげ)
斯波武衛家第六代当主。室町幕府管領。越前、尾張、遠江、加賀、信濃守護。
越前守護として、同国の二宮である織田神社(劔神社)に参拝した折、同社の神官の子息が聡明であったため、
その子息を自身の近習として貰いうけたという。
後に義重は、この近習に、尾張国内の所領を与えた。
近習は織田常昌と名乗り、尾張織田氏の祖になったとされる。
後代、この織田氏は、守護斯波氏を押さえて国内での実権を握り、やがてその一族の中から織田信長を輩出し、
ついに斯波氏は尾張を追われて事実上滅亡することになる。


二宮御こしあるべきの事
「上総介信長公、奇特なる御巧みこれあり。清洲と云う所は国中、真中にて、富貴の地なり。在る時、御内衆悉(ことごと)く召し列れられ、山中高山、二の宮山へ御あがりなされ、此の山にて御要害仰せ付けられ候はんと上意にて、「皆々、家宅引き越し候へ」と御言葉候て、「爰(ここ)の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へ」と、御屋敷下され、其の日御帰り、又、急ぎ御出であって、弥(いよいよ)、右の趣御言葉候。此の山中へ清洲の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、上下迷惑大形ならず。」
ある日信長は、主だった家臣を引き連れ二之宮山に登り、「この地に城を築き、居城とする。」と宣言し、この谷には誰々、あの峰には誰々という具合に、家臣の屋敷割りまで決定してしまう。
住み慣れた清洲を引き払い、二之宮のような山中に移り住むことになった織田家中は、大混乱となった。
また、清洲の町民達にとっても迷惑な話であり、たがいに不満をささやきあったという。
そこで信長は、家臣や領民の不満を和らげるため、二之宮への移城を諦め、移城先を「小牧」に変更している。


信長公記には次のように記されている。
「左候ところ、後に小牧山へ御越し候はんと仰せ出だされ候。小真木山(こまきやま)へは、ふもとまで川つづきにて、資財雑具取り候に自由の地にて候なり。どうと悦んで罷り越し候ひしなり。是れも始めより仰せ出だされ候はば、爰も迷惑同前たるべし。」
清洲から小牧へは、麓(ふもと)まで川続きであり、二之宮と比較すれば、人馬、道具の移動は容易であった。
信長が出した移住地変更の報せに、家臣や領民は大いに喜んだという。
ここに信長の知略があった。
最初に難所の二之宮への移転を表明し、その後で場所を移りやすい小牧に変えたことで、
清洲からの移転そのものに対する不満をやわらげたのである。
信長の居城となった小牧は、清洲城の北東三里、尾張平野の中央に位置する、標高八十五メートルの山であり、
尾張国中を一望に見渡せる要害の地であった。

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信長の棋風

 【08//2012】

信長の棋風
棋風(きふう)
将棋や囲碁、チェスなどのボードゲームにおけるその人の指し方の特徴のこと。

永禄五年(1562年)夏から、永禄六年(1563年)にかけて、尾張美濃国境では主だった合戦もおこらず、
平穏に過ぎていた。
美濃斎藤家当主斎藤右兵衛大夫龍興(さいとううひょうえのたいふたつおき)が家督を継承して後、
斎藤家内部では紛争が多く、尾張へ攻め寄せる余裕が無かったためである。

斎藤龍興(さいとうたつおき)
天文一七年(1548年)
斎藤治部大輔義龍と、近江の方との間に生まれ、幼名は喜太郎
一説では、妾腹であり、庶子として生まれたという説もあるが、真意の程は解らない。
生母の近江の方は、北近江の国人浅井備前守亮政の娘であったという。
永禄四年(1561年)
義龍の死により、十四歳で家督を継承するが、若年の為に祖父や父と比べると凡庸であるとされ、
譜代家臣の信望を得ることができなかったという。



桶狭間の合戦に勝利した織田上総介信長は、以降、再三に渡り美濃に侵攻するが、
(ことごと)く失敗に終わっている。
新当主龍興が愚将であるとはいえ、歴戦の美濃衆の戦力が弱体化するわけではない。
いま我攻めに討って出れば、消耗戦となることは明白であった。
しかし、美濃攻略に成功すれば、上杉家武田家北条家に並ぶ領土を擁する大大名になる。
義龍の急死は、信長にとって美濃攻略の絶好のチャンスであった。
だが下手に動き、消耗戦ともなれば、美濃国境の北近江の浅井家、ならびに武田家が好機とばかりに美濃に
襲い掛かり、そのまま尾張に侵攻し、信長の前途は破滅ということにもなりかねない。

そこで信長は、調略へと方向を転換することになる。
美濃斎藤家を周辺諸国から孤立させるための調略である。
戦国時代の常識を打ち破り、破竹の勢いで天下統一をめざした織田信長は、
美濃侵略に意外なほどに気の長い調略を行っている。
信長の戦略は、堅実であり、敵中に猪突猛進(ちょとつもうしん)して活路を拓くようなことはなく、まずゆっくりと基盤を固め、そののちゆっくりと、確実に活路を拓く、ねばりの戦略であった。



永禄六年(1563年) 三月二日
五徳姫と竹千代 婚約
信長は、愛娘の五徳姫と、松平蔵人佐元康の嫡子竹千代との婚約を、とりきめている。
松平家との結びつきをさらに強いものとするための政略結婚であった。
松平竹千代、織田五徳、共に五歳であったという。
このさき、
近江小谷城主浅井備前守長政
越後国守上杉弾正少弼輝虎
甲斐国守武田大膳大夫信玄とも、婚姻によって同盟を結ばねばならないと、信長は考えていた。

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十郎左衛門信清 謀反

 【07//2012】

織田十郎左衛門信清 謀反

永禄五年(1562年)
尾張犬山城主織田下野守信清(おだしもつけのかみのぶきよ)が、
織田上総介信長に、叛旗を翻す事件が起こった。

反旗(はんき)を翻(ひるがえ)
謀反を起こす。主君に背いて兵を起こす。反逆する。

信清は、織田与次郎信康の嫡男で、信長の従兄弟にあたる人物であった。
また、信長の妹を正室として迎えており、信長とは義理の兄弟でもあった。
守護代織田伊勢守信安信賢親子を破った浮野の戦いや、岩倉城攻略でも信長を支援しており、
その後も美濃攻めに弟・勘解由左衛門信益を送るなど、一門の要として十分な役割を果たしていた。
その信清の謀反である。
伊勢守信安の旧領の分与を巡って、信長との折り合いが悪くなり、離反することになったという。
一説には、美濃斎藤家との戦いで、弟信益を戦死させた恨みからともいう。
信長と信清の不仲を知った斎藤右兵衛大夫龍興は、信清に近づき、信長討伐の策動をさかんに行いだした。
情勢しだいでいつ敵方に寝返るかもしれない、動静さだまらない信清との禍根を今断っておかなくては、
どのような憂慮(ゆうりょ)すべき事態に発展するか、油断ならない状況であると、信長は考えていた。

織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。犬山城築城主。織田信定の子。織田信長の叔父。
通称、与次郎。法名は伯厳又は白厳。
織田弾正忠家当主・織田信定の子として生まれ、兄信秀に従い、今川家との小豆坂の戦い等で戦功を挙げるなど、政戦両面で活躍した。
天文13年、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死。

憂慮(ゆうりょ)
心配すること。思いわずらうこと。

永禄五年(1562年)六月
信長は、信清方の支城である於久地城(小口城)を攻めている。
信清の謀反を知った信長は、犬山城の前衛基地たる於久地城に開城を促すが、
信清の家老である中島豊後守は信長の要求を拒否。
それに怒った信長は、武力行使に出て、於久地城に攻め込んだのである。
於久地城(おぐちじょう)
東西五十間(91m)、南北五十八間(105m)、四方に二重の堀と土塁を巡らした要害であった。


才幹死す  於久地惣構破るるの事
信長公記によると、
「六月下旬、於久地へ御手遣。御小姓衆先懸けにて、惣構をもみ破り、推入つて散々に数刻戦ひ、十人ばかり手負これあり。上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門、こうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜み大方ならず。」とある。
永禄五年(1562年)年六月下旬
信長は、織田信清の於久地城を攻めた。
戦は御小姓衆が先懸けとなって、惣構を押し破り、曲輪内に突入して数刻にわたる激戦となった。
信長は、千余の軍兵を繰りいれ、小曲輪まで侵入したのち頃あいを見はからい撤退している。
我攻めに討って、無駄に兵を損じることを避けたのである。
尾張の侍同士が殺戮(さつりく)しあうことを、出来る限り避けたいと、信長は考えていた。

この戦いで御小姓衆の岩室長門守重休(いわむろながとのかみしげやす)が、敵にこめかみを突かれて討死している。
重休は、桶狭間合戦の際、急に出陣した信長にいちはやく随従した人物であり、隠れなき才人であったという。


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戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
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義龍急死

 【06//2012】

義龍急死


桶狭間の合戦で奇跡的な勝利を挙げた織田上総介信長の前に、またしても大きな幸運が訪れた。

永禄四年(1561年)五月十一日
強敵であった斎藤治部大輔義龍が急死したのである。
享年三十五歳という若さであったという。
あとを継いだのは嫡男右兵衛大夫龍興で、斎藤家を統率するにはまだあどけなさが残る若干十四歳であった。
義龍の急死を好機とみた信長は、
永禄四年(1561年)五月十三日
長良川を越え、西美濃へ侵攻。

森部の地で龍興軍と激突し、斎藤家譜代家臣長井甲斐守衛安日比野清実らを討ち取る事に成功している。
また、この戦いで前田又左衞門利家が、「首取り足立」と呼ばれた猛将足立六兵衛を討ち取る戦功を挙げ、
帰参を許されている。
桶狭間の合戦では三つの首を取りながら、帰参を許されなかっただけに利家は大いに喜んだという。
森部合戦で勝利した信長は、洲の俣(墨俣)の地に砦を築き、美濃侵出への橋頭堡(きょうとうほ)を獲得する。
しかし、

永禄四年(1561年)五月二十三日
反撃にでた斎藤軍は、大軍を率い洲の俣の北東に位置する十四条に布陣。
迎え撃つ織田軍も洲の俣を出陣し、両軍は十四条にて激突する。
この十四条の戦いにて、犬山城主織田十郎左衛門信清の弟勘解由左衛門信益が討たれるなど、
織田軍は苦戦する事になる。
双方陣営を移し、睨み合いが続いたが斎藤軍は夜中のうちに稲葉山へ撤退してしまう。
翌日、織田軍も洲の俣へ撤退。
信長は、洲の俣の地で砦を維持することは困難であると考え、砦を放棄し、全軍に清洲撤退を命じている。


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清洲同盟

 【05//2012】

清洲同盟
戦国時代、尾張国 織田氏三河国 松平氏との間で締結された攻守同盟である。
織徳同盟尾三同盟とも記されている。
信義という言葉が意味を成さない戦国時代において、二十年間も同盟関係が維持されたのは異例のことであった。

信義(しんぎ)
真心をもって約束を守り、相手に対するつとめを果たすこと。

永禄五年(1562年)一月十五日
松平蔵人佐元康が清洲城へ出向き、織田上総介信長と会見し清洲同盟が成立したという。
この時、信長と元康は「今ヨリ水魚ノ思ヲナシ、互ニ是ヲ救ン事聊モ偽リ有ベカラズ」という起請文を交わし、
という字を記した誓紙を三等分に分け、仲介役であった水野下野守信元を加えた三人で飲んだという。
美濃国侵略を目論み、後顧の憂いを断ちたい織田家と、三河国の統一を目指し、対今川家に専念したい松平家との思惑が一致した結果、成立した同盟である。
信長二十九歳、元康二十歳の時であった。

起請文(きしょうもん)
日本でかつて作成されていた、人が契約を交わす際、それを破らないことを神仏に誓う文書である。
起請文は、各地の社寺で頒布される牛王宝印(ごおうほういん)という護符の裏に書くのが通例であった。
特に熊野三山の牛王宝印(熊野牛王符)がよく用いられ、熊野の牛王宝印に書いた起請文の約束を破ると熊野の神使であるカラスが三羽死に地獄に堕ちると信じられ熊野誓紙と言われた。

水野 信元(みずの のぶもとは)
戦国時代の武将。水野忠政の次男。通称は藤四郎。受領名は下野守。
水野宗家当主で、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した。
徳川家康の伯父にあたる人物。

織田家松平家には、これまでに色々と確執があり、松平家内部では酒井将監忠尚ら譜代家臣が、
この同盟に反対する動きを見せるものの、これらの動きを抑えて同盟を成立させた信長と元康の先見の明はまさに英断であったと思わせられる。


織田氏と松平氏の間にあった歴史的遺恨を越えて成立したこの清洲同盟により、
織田信長は、同盟成立後、すぐさま斎藤道三亡き後の美濃国侵攻を画策し始めるのである。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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元康から家康への改名の由来

 【04//2012】

元康から家康への改名の由来

三河国を統一し、三河国の支配者となるためには、三河守の官職松平蔵人佐元康にとって
とても必要な官位であった。
しかし、従来三河守受領の為に必要とされる位階は、従五位下と定められており、
位階は無く、官位も蔵人佐(くらんどのすけ)という低い身分であった元康に与えられるような官位ではなかった。
また当時の慣例では、従五位下の位階を与えられる姓の系統は限られていた。
それなりの家系が必要であると考えた元康は、清和源氏系得川氏の末裔を称し、
「元康」から「家康」へと改名することになる。

位階(いかい)
官吏における個人の地位を表す序列・等級。
また、国家に対して勲功・功績のあった者に授与される栄典の一つ。
位(くらい)ともいう。
位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という。

官位(かんい)
人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称。
官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という。

清和源氏系を称してはいたが非常に怪しいものであった。
元々松平元康のルーツは、三河国の在地領主であった松平氏に婿養子に入った時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥という人物から始まる。
徳阿弥は清和源氏系得川氏の末裔であったが、浪人となり時宗の遊行僧として諸国を巡る事となる。
武家の棟梁として名を馳せた源八幡太郎義家の孫に、新田氏の始祖である新田太郎義重という人物がいた。
この義重に、得川氏および世良田氏の始祖である得川四郎義季とうい息子がいた。
のちに元康によって、松平氏の遠祖とみなされた得川氏である。

時宗(じしゅう)
鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(通称遊行寺)。
阿弥陀仏への信仰を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた浄土宗に対し、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。

遊行(ゆぎょう)
僧が布教や修行のために各地を巡り歩くこと。空海、行基、空也、一遍などがその典型的な例。

源 義家(みなもと の よしいえ)
平安時代後期の武将。伊予守源頼義の嫡男。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。
後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏などの祖先に当たること等から後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。

なぜ得川氏の末裔であった徳阿弥が、松平氏の始祖となったのか。
南北朝の争乱期に、新田義貞が足利尊氏に敗れ、尊氏による新田一族の討伐が行われた。
その際、義季から数えて八代目となる得川左京亮有親は難を逃れるため、
得川の姓を捨て、徳阿弥と名を変えて諸国を遊行する事になる。
遊行の末、三河国松平郷に流れ着いた徳阿弥は、和歌に通じた教養と武勇を評価され、松平郷の領主であった
松平太郎左衛門信重に婿養子として迎えられ、還俗して松平次郎三郎親氏と名乗ったという。

源氏である証拠
家康改名には逸話が残されている。
当時、尾張国の安照院光明寺に青井意足という僧侶がいた。
青井意足は八幡太郎義家の軍法を後世に伝える名僧として知られていた。
この軍法を継ぐ者は名前に「義」「家」を継ぐ事になっており、出自が源氏系統の者である必要性があった。
そこに目を付けた元康は、清和源氏系得川氏の末裔と称し安照院光明寺を訪れた。
元康は数日間光明寺に滞在し、青井意足から八幡太郎義家の軍法を授かったという。
元康は、「元」「家」に変え、「家康」を名乗るようになる。
源氏の象徴とも言える、あの八幡太郎義家の「家」を手に入れる事に成功したのである。
元康からすれば八幡太郎義家の軍法よりも、
八幡太郎義家の「家」を手に入れた事のほうが遥かに大きな意味を持っていた。
「康」については以前述べた様に、稀代の英雄として高く評価されていた、
祖父・松平二郎三郎清康からとったものと言われており、勇将となるべく決意を固め付けた文字である。

清和源氏(せいわげんじ)
第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。
姓(カバネ)は朝臣。


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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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松平元康 独立

 【03//2012】

松平元康 独立

岡崎に戻った松平蔵人佐元康は、祖父清康の旧領三河の支配権を取り戻す為、
永禄四年(1561年)
深溝松平家当主・松平又八郎好景に、板倉弾正重定が守る中島城攻略を命じている。
今川家から独立する為の第一歩として三河国の制圧に動き出したのだ。
そのため、今川氏との関係は悪化し、
以後、「三州錯乱」「三州過半の錯乱」などと呼ばれる攻防戦が繰り広げられていく。

深溝松平家(ふこうず まつだいらけ、ふこうぞ まつだいらけ)
松平忠定を祖とする松平氏の分枝。
十八松平の一つ。
先祖を松平信光まで遡ると徳川家康と共通の祖となる家である。

松平 好景(まつだいら よしかげ)
松平忠定を祖とする深溝松平家の2代目。深溝城主。
善明堤の戦いで敵を深追いし、敵方の伏兵に包囲され討死。
子に長篠の戦いで武田信実を討った松平伊忠がいる。

元康ら三河勢は、中島城攻略を皮切りに、西尾城の牧野右馬允成定、東条城の吉良義昭と次々に今川方の諸城を攻略し、ついに西三河を制圧する。
西三河での元康の快進撃により、今川家諸将の動きは怪しくなった。
登屋ヶ根城代であった糟屋善兵衛の離反や、曳馬城主飯尾豊前守連竜の松平家内通など、
三河での今川家の影響力は著しく低下していった。
これに怒った今川上総介氏真は、その報復として吉田城代大原肥前守鎮実に、
今川家を離れた形原松平家の松平薩摩守家広西郷弾正左衛門正勝ら諸将から差し出させていた妻子十一人の処刑を命じている。

今川家との全面戦争はもはや避けられないと思った元康は、尾張国の織田上総介信長への接近を模索し始める。
桶狭間の合戦以降、凄まじい勢いで勢力を拡大していく信長との同盟は、元康にとって必要不可欠なものであった。
元康は石川与七郎数正を交渉役として織田家との外交にあたらせた。

石川 数正(いしかわ かずまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
酒井忠次と共に徳川家康の片腕として活躍したが、小牧・長久手の戦いの後、徳川家を出奔し豊臣秀吉に臣従。
信濃松本藩の初代藩主とすることが通説となっている(三百藩藩主人名事典)。


永禄五年(1562年)一月
松平元康織田信長の和睦が成り、清洲同盟が締結される。
しかし、元康にとって織田家との同盟は、駿府にいる正室築山殿や、嫡子竹千代の命を危険にさらす事でもあった。

永禄五年(1562年)二月四日
清洲同盟が締結されるやいなや、元康は久松佐渡守俊勝松井金四郎忠次に命じ、
三河西郡城主鵜殿長門守長持蔵太郎長照親子を攻め、長照の嫡子氏長と氏次の二人の子を生け捕りにする。
鵜殿長照は、今川治部大輔義元の妹が生母という事で、氏真にとっては従兄弟であった。
長照の子を捕虜とした元康は、石川数正を交渉役として、駿府にいる妻子との人質交換を要請。
駿府にて人質生活を送っていた弱小松平家当主の姿はそこには無かった。
こうして元康は、正室築山殿、嫡子竹千代、長女亀姫の奪還に成功し、完全に今川家からの独立を果たした。
この一連の騒動をきっかけに、今川家に叛旗を翻す諸将の動きが活発化していき、
三州錯乱と呼ばれた大混乱が今川家を襲うのである。
今川家に混乱を持ち込んだ元康は、織田家の後ろ盾を背景に三河国平定を目指し、東三河に侵攻を開始。

永禄六年(1563年)七月六日
元康は、義元からの偏諱を捨て、松平蔵人佐家康と名乗る様になる。


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戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
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悲願であった岡崎城主

 【02//2012】

悲願であった岡崎城主

桶狭間で奇跡的な勝利を治めた織田家とは対照的に、太守今川治部大輔義元を失った今川家は、
壊滅的な大敗では無かったもののその武勇は地に落ちた。

譜代の重臣や有力国人衆を失った今川家は、第十代当主である今川上総介氏真の統治に不安を覚える者や、
義元の死を契機に叛旗を翻す者達が現れだした。
氏真はその者達に安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みるが、絶大なるカリスマ性を持った義元を失った事による諸将の不安は拭い去れなかった。
東海の覇者として君臨していた今川家の衰退は、急速に進む事になる。

今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人。駿河国の戦国大名。
父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。
今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。

安堵状(あんどじょう)
鎌倉時代以降、治天の君、征夷大将軍、守護、大名などの主君が家臣の武士に対して、
所領・所職などの知行の安堵(保証)の際に出された文書。

カリスマ性
人々の心を引きつける強い魅力があること。多くの人から支持されること。


桶狭間の合戦により運命を大きく変える事になった人物がもう一人いる。
永禄三年(1560年)五月十九日 夕刻
「今川義元討死」との報が、大高城にいた松平蔵人佐元康の下に届いた。
三河物語によると、
「義元ハ打死ヲ成サレ候由ヲ承候。其儀二於てハ、爰元ヲ早々御引除せ給ひて御尤之由各々申ケレバ、元康之仰にハ、タトヱバ義元打死有トテモ、其儀、何方よりモ聢トシタル事ヲモ申来タラザルに、城ヲ明ケ退キ、若又、其儀偽ニモ有ナラバ、二度義元に面ヲ向ケラレン哉。其上、人之サゝメキ笑種に成ラバ、命ナガラエテ詮モ無。」
と記されている。

報を受けた元康は「織田方の流言」ではないかと疑い、にわかに信じられずにいた。
仮に義元が討死していたとしても、はっきりした事が解らない今、城を出て退く事は出来なかった。
大高城にてその報が確かなものか判断しかねていた元康の下に、
「義元社打死ナレバ、明日ハ信長、其元え押寄成ラルベシ」との報せが入ってきた。
また、鷲津砦や丸根砦にいた朝比奈備中守泰朝鵜殿長門守長持といった今川勢が引き揚げる様を伝え聞き、「もしや・・・」
元康は絶対的な存在であったはずの義元の死を意識するようになっていた。
そして、情報収集にあたらせていた鳥居彦右衛門元忠の状況報告を受け、ようやく元康は全軍に退却を命じる。


永禄三年(1560年)五月二十日 未明
夜が明けきらぬうちに、元康は全軍を率い岡崎へ退却する事になる。
「大高之城ヲ引迫力せラレ給ひて、岡崎にハ未駿河衆が持テ居タレ共、早渡シて退キタガリ申せ共、氏真にシツケノタメに、御辞退有て請取せラレ給ハズシテ、スグに大樹寺へ御越有て御座候えバ、駿河衆、岡崎之城ヲ明て退キケレバ、其時、捨城ナラバ拾ハント仰有テ、城へ移ラせ給ふ。」
大高城を捨て、岡崎に軍を進めた元康は、岡崎城に程近い松平家の菩提寺・大樹寺に陣を取り、兵を休めた。
その頃、岡崎城に残る山田新右衛門景隆ら駿河勢が、一刻も早く駿河へ撤退したいであろう事をよく理解した上での行動であった。
この時すでに元康は、岡崎での独立を考えていたのかもしれない。
義元亡きいま、混乱した今川家を導く事は氏真では無理であろう、そして今川家からの独立は今しかないとの思惑があったものと思われる。
程なくして山田景隆ら駿河勢が岡崎城から撤退する事になる。


永禄三年(1560年)五月二十三日
「捨城ならば拾わん」
松平蔵人佐元康は悲願であった岡崎城入城を果たしたのである。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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乱妨取り

 【01//2012】

乱妨取り

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)とは、
甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術・軍法・刑法などを記した甲州流軍学の聖典とされる軍学書である。
この軍学書に桶狭間合戦についての記事がある。

「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方のやうに入まじり」云々という記述があり、今川軍兵士の乱取に紛れて接近する信長本隊が記されている。
甲陽軍鑑にある乱取というのは乱妨取り(らんぼうどり)を略して記している。
乱妨取りとは、
戦国時代において兵士が人や物を略奪する行為をいう。
戦場付近の村を襲い農作物を奪い、女子・子供をさらい売り払うか奴隷にする。
また女性を強姦し、抵抗するものを殺すという事もあったという。

桶狭間山にて休息する際、今川治部大輔義元は、兵士に乱取を許していたのかもしれない。
そして最前線基地である中島砦に軍を進めていた織田上総介信長の知るところとなった。
そこで信長は、今川軍兵士の乱取に紛れて軍を義元本陣へ近づける作戦に出た。
「敵方よりさだかに相見え候」からも解るとおり、今川勢にとって織田勢の動きは簡単に捉えることが出来た。
ではなぜ敵から丸見えの状態で桶狭間山まで進軍することが出来たのか。
それは乱取に夢中になっていた今川軍兵士に紛れ行軍していた為である。

そして突然の豪雨に見舞われた今川勢は、完全に織田勢を見失うことになる。


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