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あくまでも幕府の足軽衆

 【22//2012】

あくまでも幕府の足軽衆

「明智軍記」信憑性に欠ける資料として位置づけされている。
明智十兵衛光秀が初めて信憑性の高い資料に出てきたのはいつなのか。
それは「信長公記」の永禄十二年の記事からである。
「三好勢返す  六条合戦の事」
永禄十二年(1569年)正月四日
三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興長井道利主従ら南方の諸浪人
糾合(きゅうごう)し、薬師寺九郎左衛門を先懸けに、公方様御座所六条本圀寺(ほんこくじ)に攻め寄せた。
上洛した足利義昭を三好一族が襲撃した事件である。
このとき義昭を守って本圀寺に立て籠もり戦った人物名の中に明智十兵衛光秀の名がある。

本圀寺(ほんこくじ)
京都府京都市山科区にある、日蓮宗の大本山(霊跡寺院)であり六条門流の祖山。
山号は大光山。
日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に法華堂を構えたことから始まると伝えられる。


通説では、「光秀が信長の家臣となり、その後義昭を信長に引き合わせた」とされてきたが、
光秀はあくまで幕臣として、信長より扶持を受けていたのみであり、一般の家臣とは少し違う。
会社で言う「顧問」「相談役」的な立ち位置で織田家に関与し、扶持(ふち)を受けていたのではないだろうか。

幕臣(ばくしん)
幕府の長である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のこと。

扶持(ふち)
援助するの意から転じて、武士が米などを支給して家来や奉公人を抱え置くこと、またはその支給する米をいう。

権大納言山科言継(やましなときつぐ)が記した言継卿記(ときつぐきょうき)にも、六条合戦についての記述がある。
そこには「武家御足軽衆以下二十余人討死」と記されている。
ここで言う「武家」とは「幕府」のことを指し、幕府足軽衆が二十余人討死した事を記している。
「信長公記」には本圀寺で戦った人物として、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・
津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らの名が記されている。
この十名の武将の中に「野村越中守」の名前が記されている。
野村越中守は「永禄六年諸役人附」の足軽衆に名前を連ねる人物である。
という事は、信長公記に「本圀寺で戦った」として名を記されている人物が全て、「信長の家臣」という訳ではない事が解る。
また、「永禄六年諸役人附」の後半部には「明智」の名もしっかりと記されている事から、光秀は幕府の人間であった事が窺い知れる。
では、「知行五百貫文で、越前一乗谷の朝倉左衛門督義景に仕えた」
「永禄三年から九年まで越前国にいて朝倉義景に仕え、その後、美濃国へ行って信長に仕えた」という明智軍記の記述はどうなのか・・・・・・・・。
「明智家再興を胸に、流浪の身となった明智十兵衛光秀は、兵法・軍法などを身につける為、諸国を放浪し、東国の伊達氏、西国の宇喜田氏や毛利氏の軍法を見て学んだ」ということも、
中国の毛利元就に仕官を求めた際に、元就が「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。」と言い断ったという逸話も果たしてどうなのか。

明智軍記(あけちぐんき)
江戸時代の元禄年間に書かれたといわれる明智光秀の伝記。著者不明。
明智光秀の美濃脱出から、山崎の戦いの後、光秀が小栗栖の竹藪で殺されるところまで書かれている。
しかし著者不明のうえ、光秀の死後100年ほど経った頃に書かれた史料のため、誤謬が多く、
一般的に史料価値は低いとされている。


興福寺多聞院英俊(こうふくじたもんいんえいしゅん)「多聞院日記」では、
「光秀は細川兵部太夫の中間(ちゅうげん)だったのを信長に引き立てられた」と記されている。
中間(ちゅうげん)とは、
足軽と小者(雑用・使い走り)の中間の者を指す。
光秀は細川兵部大輔藤孝の中間として、藤孝と共に足利義昭の流浪の旅に付き従い、
そして義昭の足軽衆へと取り立てられたのではないのだろうか。

イエズス会宣教師ルイス・フロイス「日本史: Historia de Iapam」で、
「彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、将軍の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していた」と同じ様なことを記している。
また、耶蘇会日本年報(やそかいにほんねんぽう)でも、「光秀はいやしい歩卒であった」との記述がある。

多聞院日記(たもんいんにっき)
奈良興福寺の塔頭多聞院において、文明10年(1478年)から元和4年(1618年)にかけて140年もの間、
僧の英俊を始め、三代の筆者によって延々と書き継がれた日記。

日本史(にほんし)、ポルトガル語:Historia de Iapam
戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。

耶蘇会日本年報(やそかいにほんねんぽう)
在日イエズス(耶蘇)会宣教師がローマ本部に提出した日本の国内事情、布教状況に関する報告書。
1579年それまでの個別的報告(耶蘇会士日本通信)を一本化して年報としたもので、1626年まで続いた。


光秀は、最初から最後まで幕府の足軽衆でしかなく、足利義昭の申次(もうしつぎ)として、
信長との間を取り持った事で、信長の政権下において出世したに過ぎない。
通説では、光秀は信長の家臣であったかの様に考えられてきたが、光秀は信長の家臣ではなく、あくまで光秀は、「幕府の足軽衆」なのである。

申次(もうしつぎ)
奏者(そうじゃ/そうしゃ)とも呼ばれ、主君に奏事伝達を行う役目を担った役職、あるいは奏事伝達行為そのものを「申次」と呼ぶ。


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光秀の仕官の謎

 【21//2012】

光秀の仕官の謎

永禄十一年(1568年)六月五日
朝倉左衛門督義景の嫡男である阿若丸(くまわかまる)が急逝している。
細川家記(綿考輯録)に
「義景嫡子阿若丸俄ニ病テ死ス 義景愁傷深ク出陳大ニ延引ス」とある。
義景の愁傷は深く、永禄十一年(1568年)六月十八日の出陣は頓挫(とんざ)してしまった。
細川兵部大輔藤孝は数度にわたって出陣を勧めたが、義景は悲しみのあまり対面もせず、
次第に疎遠となり、上洛は難しいと足利義昭は悩むようになった。

永禄十一年(1568年)六月二十三日
義昭は、織田尾張守信長のもとへ藤孝を使者として向かわせている。
「義昭ヨリ藤孝并上野清信ヲ両使トシテ濃洲岐阜ニ遣ハサル明智十兵衛光秀ヲ紹介トシテ織田上総介信長ニ謁シ足利興復ノ事依頼シケレハ信長武臣ノ面目ナリト領掌シテ先ツ當國ニ座ヲ移サルへシト答フ」
細川兵部大輔藤孝上野中務少輔清信(うえのきよのぶ)は、義昭の使者として
美濃国岐阜城へ赴き、明智十兵衛光秀の紹介で信長に謁見している。

上野 清信(うえの きよのぶ)
戦国時代の武将。本姓は源氏。従五位下、中務少輔。
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の傍流上野氏。
父は幕臣にて備中国鬼邑山城主上野信孝。


「足利将軍家再興の助力」を懇願する藤孝らに対し、信長は「武臣の面目なり」と承諾し、
岐阜に起こし下さいと答えたという。
藤孝より報せを受けた義昭は大いに喜んだ。
信長を頼る事が決まると早速義昭は、嫡子阿若丸の急死で深く傷ついている義景に、
「當時マテノ忠節甚以テ祝着ナリ」と藤孝に挨拶させている。
また細川家記(綿考輯録)には次のような事も記されている。
「阿若丸死去ノ後悲嘆(ひたん)ノ餘リ鬱色アリ此時節治兵ノ催促アラン事心ナキ二似タリ」
「足利義昭」という人物を藤孝がどう思っているかがなんとなく解る一文である。

永禄十一年(1568年)七月十六日
織田信長を頼り義昭ら一行は一乗谷を後にする。

永禄十一年(1568年)七月二十五日
足利義昭が岐阜に到着する。

織田信長への「二度目の上洛要請」は、トントン拍子で進んだようだが、一つ気にかかる事がある。
「明智十兵衛光秀ヲ紹介トシテ織田上総介信長ニ謁シ」
いきなりの光秀登場である。
明智十兵衛光秀の前半生は「謎」であり、詳細はよく解らないのが通説である。
通説では斎藤治部大輔義龍に明智城を攻められ一族が離散した後、母方の若狭武田氏を頼り、
のち越前国の朝倉左衛門督義景に仕えたという。
その後、越前に亡命してきた足利義昭の接待役を義景に命じられた事がきっかけとなり、
光秀は義昭と接触を持つことになる。
義昭は「上洛」を懇願するが一向に義景が動かなかった為、たまりかねた義昭は、
織田信長に自分を征夷大将軍につけるよう、光秀を通じて要請している。
光秀が信長の正室である濃姫と従兄妹であった為、その縁を頼ったものといわれている。

また、イエズス会宣教師ルイス・フロイス「日本史: Historia de Iapam」や、
興福寺多聞院英俊(こうふくじたもんいんえいしゅん)「多聞院日記」では、
もとは細川藤孝に仕える足軽・中間であったと記されている。
「信長公記」では光秀自身の出自に、朝廷と深い関わりがあったと記している。

明智光秀の伝記とされる「明智軍記」(あけちぐんき)では、
朝倉義景に仕えていた光秀は、鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶたいふつぐとも)の讒言(ざんげん)により、
永禄八年(1565年)の冬以降、出仕(しゅっし)が叶わなくなったと記されている。

鞍谷氏(くらたにし)
室町時代に北陸の越前で勢力を持った公方の一つ。鞍谷公方または越前公方ともいう。
本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門。
足利将軍家の連枝にあたる。
「鞍谷殿」と呼ばれたため便宜上鞍谷氏と呼ぶが、名字は足利氏である。
後に斯波氏からの養子によって継承された。


鞍谷嗣知は光秀をこう評していた。
「光秀は勇敢で、知謀才覚は人に勝り、弁舌も巧みだが、その野心は果てしなく、後々には主君をも欺くであろう。」
イエズス会宣教師ルイス・フロイスも「光秀は裏切りや密会を好む」「計略と策略の達人」などと記している。
また逆に、光秀の言葉として残っているのが、「仏のうそは方便といい、武士のうそは武略という」である。
光秀は「油断のならない人物」として人々の目に映っていたのかもしれない。

「明智軍記」にはこのような記述もある。
義景に出仕が叶わなくなった光秀の下に、織田信長から密かに書簡が送られてきた。
「明智というのは元来斎藤山城守家の臣として、濃州の郡司であった家である。
時に光秀の叔父宗宿入道は、主君義竜の為に忠義を全うし死んでいった者であれば、この信長としても常に其恩に報なければならないと神明に誓って思っていた処に、怨敵竜興を追い出して、会稽の恥辱を雪めて本望を達した。
私は、山城守と意を同じくしているので、光秀も旧里に帰って、再度家を起して、世上に名を知らしめてはどうか。」

という内容の書状であった。
光秀は、永禄九年(1566年)十月九日、越前から濃州岐阜へと参ったと記されている。
信長は光秀に濃州安八郡四千二百貫の所領を授けたとも記されている。
しかし、信長が稲葉山城を攻め落としたのは、永禄十年(1567年)九月初日である。
「光秀の仕官」「信長の稲葉山城攻略」に誤差がある。
やっぱりよく解らない。「謎」だらけである。


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朝倉左衛門督義景上洛

 【20//2012】

朝倉左衛門督義景上洛

永禄十一年(1568年)二月八日
三好三人衆の推挙により、足利義栄(あしかがよしひで)に朝廷から「将軍宣下」がなされ、
義栄は室町幕府第十四代征夷大将軍に就任する。

将軍宣下(しょうぐんせんげ)
天皇が武家政権の長である者に日本国の統治大権を行使する征夷大将軍位を与える儀式のこと。


この報を聞いた義秋の焦りはどの様なものだったのか概ね検討がつく。
その焦りから義景の母広徳院を従二位の尼に任じ、御礼として義秋は義景に、
「上洛」を催促したのである。

永禄十一年(1568年)四月十五日
足利義秋は越前国一乗谷朝倉館において元服し、名を「義昭」と改名している。
義秋は還俗(げんぞく)したものの、まだ武士としての元服の儀式を済ませていなかった。
そこで京都から前関白二条晴良(にじょうはるよし)を招き、烏帽子親には朝倉左衛門督義景を当て、
元服式を執り行なっている。

足利将軍家での烏帽子親は、斯波家、畠山家、細川家など時の管領が務めるのが慣例とされており、
管領家以外のものが烏帽子親(加冠の役)を務めたのは、第十三代将軍足利義輝の元服の際、
六角弾正少弼定頼(ろっかくさだより)が務めて以来であった。
この時定頼は特別に従四位下・弾正少弼に任ぜられたが、義景の場合、もともと従四位下・左衛門督であった事から、烏帽子親として不足は無かった。

六角 定頼(ろっかく さだより)
戦国時代の武将、守護大名。室町幕府管領代、近江守護。
先進的な手法で、内政にも手腕を発揮し、日本の文献上では初めてという家臣団を本拠である観音寺城に集めるための城割を命じている。
これは後世の一国一城令の基になったと言われている。
また楽市楽座を創始したのも定頼であるとされ、経済発展のために楽市令を出して商人を城下に集め、観音寺を
一大商業都市にまで成長させた。
信長は後にこれを踏襲して、楽市を拡大したと言われている。


元服の儀式を済ませ、「花押はじめの儀」が行なわれた際、義昭は自ら「征夷大将軍」を宣言し、
署名している。
また義景も「管領代」(将軍補佐代理)として連署している。

花押はじめの儀/判始(はんはじめ)
室町時代、将軍が就任して初めて御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)に花押を署した儀式。

管領代(かんれいだい)
室町幕府の職名。
戦国時代には実質上管領家は細川氏のみであったため、管領は将軍の就位儀式時以外は補任されず、
その時管領に故障があった場合、管領代が指定されて管領の職務を代行した。


管領代となった義景もまた、「天下」を意識し始めるのである。
細川家記(綿考輯録)によると、
「藤考の進めにて義景上洛定める」とある。
「藤孝ハ頻ニ義景ニ勧メテ義昭歸洛(帰洛:きらく)ノ事ヲ評議ス 義景則兵ヲ招クニ近江國ハ多ク朝倉ノ旗下ナル故浅井三田村等ハ千餘(余)、和爾堅田朽木高嶋等五百餘(余)、武田義頼三千餘(余)各催促ニ應ス 総勢貮萬三千餘(二万三千余)ニテ六月十八日出陳ト定ム」
「義昭帰洛」を切々と嘆願する細川兵部大輔藤孝の熱意と、「天下」を意識し始めていた義景は
「上洛」を決意する。

義景は評議の上、浅井・三田村:兵八千、和爾・堅田・朽木・高嶋等:兵五千、武田義頼:兵三千、朝倉:兵七千、
総勢二万三千余の大軍を率いて永禄十一年(1568年)六月十八日に出陣と定めた。

しかしこの時、加賀・能登・越中一向一揆の留守中蜂起の情報が入った。
「初テ加賀能登越中ノ本願寺門徒等代々朝倉家ト兵ヲ構フ 於是(ここにおいて)一揆ノ巨魁(きょかい:頭目)下妻筑前守(下間頼秀:しもつまらいしゅう)義景ノ留守ヲ窺(うかが)ヒ三洲道場ノ弟子并(あわせて)檀那(だんな)トモ八萬餘人(八万余人)ヲ集メ所々口々ヨリ攻入ラント議ス」
加賀、能登、越中の本願寺門徒衆が、朝倉義景の留守を狙い下間筑前守頼秀を総大将に蜂起すると言う報が入った。
総勢八万余人という大規模な一向一揆であるという。

下間 頼秀(しもつま らいしゅう)
本願寺坊官。下間頼玄の長男。官位は筑前守、法名は実恵、実英。

檀那(だんな)
本来仏教の用語で、「布施」を意味する梵語「ダーナ、(दान)」の訳語である。
日本では、後に特定の寺院に属してその経営を助ける人「布施をする人(梵語、ダナパティ。」をも意味するようになって「檀越(だんおつ、だんえつ)」とも称された。


「義景聞テ大ニ驚キ進發ヲ遅滞ス 藤孝以為ラク此事鎮ランスハ大舉ノ計決シ難シト潜ニ大坂ニ至リ本願寺顕如ニ逢テ朝倉ト和睦ヲ諭シ義景ノ娘ヲ以テ顕如ノ長子教如へ妻スノ約ヲナス 」
この状況を沈静させなければ、「義昭の上洛はない」と考えた藤孝は、本願寺顕如に会い、
義景との和睦を諭し、義景の娘を顕如の長子教如の嫁に入れる約束をまとめた。
この藤孝の活躍により、「義昭の上洛」は決定的なものとなった。

本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)
戦国時代から安土桃山時代の浄土真宗の僧。諱は光佐。院号は信樂院。本願寺第十一世。
顕如の時代、本願寺教団は、父の時代以来進めてきた門徒による一向一揆の掌握に務める一方、管領の細川家や京の公家衆との縁戚関係を深めており、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになり、教団は最盛期を迎えた。


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必死の懇願

 【19//2012】

必死の懇願

永禄九年(1566年)九月
足利義秋は、若狭国から越前国の朝倉左衛門督義景(あさくらさえもんのかみよしかげ)を頼り、
敦賀金ヶ崎に身を移している。
「永禄九年丙寅(ひのえとら)九月晦日(みそか)
義昭公若狭より朝倉九郎左衛門景紀入道伊册が敦賀城へぞ御座を移されける。」

越前敦賀郡司(つるがぐんじ)朝倉九郎左衛門景紀(あさくらくろうざえもんかげとし)が治める敦賀金ヶ崎城(つるがかねがさきじょう)に身を移した義秋ら一行は、一年以上もこの地に滞在している。

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)
律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。

朝倉 景紀(あさくら かげとし)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏の家臣。
朝倉貞景(第九代当主)の四男。越前敦賀郡司。
永禄三年(1560年)に一乗谷で行われた連歌会の興行担当や、永禄五年(1562年)の曲水宴の歌会にも参加する
など、義父宗滴と同じく和歌・連歌などにも造詣が深い文武両道の人物であったとされる。


朝倉始末記(あさくらしまつき)によると、
義昭公下向越前事
「斯(かくし)て早々一乗へ御座を移され度思召れけれども、例年よりも寒気甚しく、荒血山木の目峠、莫大の深雪にて、人馬の通路絶へければ、九郎左衛門申しけるは今冬は是非当地にて御越年成され、来春雪消て後御遷座宜かるべしと頻(しきり)に奉(たてまつ)レ留に依て、義昭公其意に任給ふ處(ところ)に、永禄十年の三月、又不慮(ふりょ)に加州(かしゅう:加賀国)の一揆等堀江中務丞景忠を語ひ蜂起する由にて、国中騒動不レ斜(なのめならず)間事静て後、一乗の谷へ入御(じゅぎょ)可レ有るとて、同年十月まで其儘(そのまま)敦賀の城にぞましける。」


朝倉始末記(あさくらしまつき)
越前の戦国大名朝倉氏の興亡を記した軍記物語。
朝倉氏と加賀一向一揆との抗争を記した「賀越闘諍記」と、織田信長の越前征服を記す「越州軍記」とを合本したものが原型と考えられ、天正五年(1577)ころ朝倉氏の旧臣によって成立したと考えられる。

敦賀金ヶ崎城は敦賀市北東部、敦賀湾に突き出した海抜八十六メートルの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城であり、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられている。

永禄十年(1567年)十月二十一日
敦賀を発った義秋一行は、朝倉中務丞景恒(あさくらなかつかさのじょうかげつね)に迎えられ、ようやく一乗谷の安養寺に入った。
「斯(かくし)て義昭公一乗の谷へ入御可レ被レ成とて、永禄十年十月廿一日敦賀を御出有、府中龍門寺へ入給ひ、暫御休息ましまして、其日の亥(い)の刻(午後10時頃)、一乗安養寺に着御なり。朝倉中務丞景恒路次まで御迎に出つ。同廿三日、義景御禮(おんれい)に被レ参、其體誠に京都全盛の時、管領出仕の儀式にも劣るまじく聞えける。」

朝倉 景恒(あさくら かげつね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。朝倉氏の家臣。朝倉景紀の次男。
義秋を迎え入れた越前国主 朝倉義景は、幕府全盛期の管領出仕の儀式にも劣らない盛大な遊宴を催したという。

永禄十一年(1568年)三月八日
「義昭公義景の母儀を奬(すすめ)て二位の尼に任ぜらる。」
義秋は義景の母広徳院を女性としては最高位である従二位の尼に任じている。

従二位(じゅにい)
日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。
律令制下において従二位は、主に内大臣や蔵人別当の位とされ、大臣の正室などもこの位が贈られた。
著名な人物としては平清盛の正室である平時子であり従二位に叙せられ、二位尼と称されている。
従二位は公卿の位階としても高位であり、武士の間では鎌倉時代から室町時代にかけては、北条政子以来、
将軍の正室である御台所に与えられることはあっても、将軍の一門ですら叙せられることはなかった。
足利将軍家の一門たる鎌倉公方も従三位であり、たとえ室町幕府管領の職にある者であっても最高位は
三位どまりであったとされている。

義秋の義景への期待が大きかった事がよく解る資料ではあるが、実際将軍でもない義秋にそこまでの権限があったのかどうかは疑問視される。
真の叙任ではなく、名目であった可能性が高いと思われる。
その御礼として義景は義秋を一乗谷南陽寺に招き、桜観の祝宴を開いたという。
その時に近臣と共に詠われた和歌が残っている。
もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば 源義昭
私と一緒に見た月(上洛)を忘れずにいて欲しい。
桜が長く枝垂れるように、長い年月にわたる契り(約束)だと思うなら。

君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき今日の言の葉 朝倉義景
義景は義秋と同じ気持ちであると返詩を詠んでいる。
義景もまた、「義秋を補佐し上洛する」という強い意思を持っていた。


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すりあけ物の奈良刀

 【18//2012】

すりあけ物の奈良刀

永禄八年十二月五日
覚慶より出兵の要請を請けた織田尾張守信長は、
「上意次第」即時「御供奉」する意思を表明した請書を細川兵部大輔藤孝宛に返信している。

この頃信長は、上総介から尾張守を称する様になっていた。
室町幕府の幕臣、公家衆は、上杉弾正少弼輝虎織田尾張守信長に特別な好意を抱いていた。
輝虎は天文二十二年(1553年)永禄二年(1559年)
信長は永禄二年(1559年)に上洛し、将軍義輝に拝謁した実績が買われてのことであった。
「天下」を意識し始めていた信長にとって、覚慶よりの御内書は、より一層「天下」を意識させるものであった。

御内書(ごないしょ)
室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。
室町期に足利将軍家によって創始され、形式そのものは差出人が文面に表記される私信と同じものであるが、
将軍自身による花押・署判(署名・捺印)が加えられており、将軍個人の私的性の強い命令書でありながら、
幕府の公式な命令書と同様の法的効力がある。


将軍家の補佐役として、松永ら逆賊討伐の大義名分を得て上洛し、
その勢いで天下統一を行なおうと考え始めていた信長は、
永禄九年(1566年)正月
大軍を発して美濃へ一気に攻め込み、斎藤右兵衛大夫龍興討滅の段取りを進め始めた。
「天下」を意識し始めた信長にとって「美濃攻略」は絶対条件であった。

永禄九年(1566年)二月十七日
各諸将に御内書を発給し、「将軍」となる事を表明した覚慶は、「正統な血筋」による将軍家を再興するため、還俗(げんぞく)して足利義秋と名乗りを改めた。

各諸将に御内書を発給し、上洛の機会を窺っていた義秋を皮肉ったこんな落首が残されている。
「こよこよと すりあけ物の奈良刀 みのながいとて 頼まれもせず」(「松平記」)
「こよこよと」:出兵を要請する御内書。
「すりあけ物」:剃髪者のことで、大和(奈良)興福寺一乗院から脱出し還俗した義秋のこと。
「奈良刀」:奈良で作られた刀、粗悪品が多く鈍刀の代名詞とされている。
「みのながいとて」:美濃長井つまり斎藤氏の前姓
「頼まれもせず」:頼んでもいない

義秋からの出兵要請を承諾した信長は、藤孝宛に請書を返信している。
しかし斎藤龍興との激しい戦闘を続けていた信長には、「今すぐ上洛」という訳にはいかなかった。
そこで斎藤龍興と織田信長を和睦させることが先決であると考えた義秋は、両国に細川藤孝や和田惟政らを派遣し、美濃・尾張両国の和睦を成立させている。
しかし義秋に対抗して足利義栄の擁立を図る三好三人衆が、斎藤龍興に対して濃尾和睦の破棄を働きかけ、さらに近江の六角氏にも調略の手をのばし、六角氏を離反させている。
このような一連の妨害工作を警戒した信長は、軍勢の出兵をためらうようになり、さらに一旦は講和を了承した斎藤龍興とは再び戦闘を交える事となった。
義秋の上洛計画は挫折を余儀なくされ、天下の嘲笑の的となった。

永禄九年(1566年)四月二十一日
義秋は次期将軍が就く官職とされていた従五位下左馬頭に叙位・任官し、足利将軍家を再興するため、
三管領畠山修理亮高政
関東管領上杉弾正少弼輝虎
能登守護畠山修理大夫義綱らと親密に連絡を取り合い、しきりに上洛の機会を窺っていた。

しかし永禄九年(1566年)八月三日
諸国の有力大名に尽力を求め、しきりに御内書を発給する義秋の策動を快く思わない
松永弾正少弼久秀三好三人衆が三千余の兵で近江矢島へ攻め寄せた。
危険が迫った義秋は、細川藤孝に護衛され、一旦妹の婿である武田大膳大夫義統を頼り、
若狭国へ下向している。

その後、永禄九年(1566年)九月
若狭から越前国の朝倉左衛門督義景を頼り、敦賀金ヶ崎に身を移している。
なお、朝倉家滞在中の永禄十一年(1568年)四月十五日
「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白二条晴良(にじょう はるよし)を招き、
元服式を行い「義昭」と改名している。

若狭国(わかさのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。
北陸道に位置する。別称は若州(じゃくしゅう)。
領域は現在の福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分にあたる。

武田 義統(たけだ よしずみ)
若狭国守護。若狭武田氏当主。
室町幕府12代将軍・足利義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)を正室とする。
足利義輝が義輝の弟である義昭が自身の将軍就任への協力を求めて若狭を訪れた。
若狭武田氏は偏諱や婚姻などを通じて交流するなど、足利将軍家から格別な信頼を受けていたが、義統はこの頃内乱のために若狭から出兵することができなかった。

越前国(えちぜんのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。
別称は越中国・越後国とあわせて、または単独で越州(えつしゅう)。
領域は現在の福井県嶺北地方及び敦賀市にあたるが、創設時には石川県全域をも含んだ。

朝倉 義景(あさくら よしかげ)
戦国時代の武将。越前国の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)当主。
義昭が自身の将軍就任への協力を求めて越前を訪れた際、上洛を促されるが義景はこの機会を活かせず、義昭に見限られる。その後、義昭を奉じて上洛した尾張織田氏と対立するが、盟友北近江浅井氏の来援に助けられ危機は逃れた。しかし、織田方との決戦である姉川の合戦においては、数に劣る三河・徳川軍相手に敗走し、最期は一族景鏡、重臣魚住景固らに迫られ、自害して果てた。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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Genre: 学問・文化・芸術

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松平姓から徳川姓へ

 【15//2012】

松平姓から徳川姓へ

三河一向一揆鎮圧後わずか数カ月のうちに、松平蔵人佐家康
東三河までも制圧することに成功していた。
永禄七年(1564年)
渥美郡二連木城主戸田主殿助重貞(とだしげさだ)松平家従属を皮切りに、
東三河国人衆が概ね松平氏に転属。
この情勢への対応に迫られた宝飯郡牛久保城主牧野右馬允成定(まきのなりさだ)は、
永禄七年(1564年)五月九日
岡崎城で家康の謁見(えっけん)を受け、判物(はんもつ)の給付により所領安堵され牛久保城を開城、松平家の威に服した。
牧野氏の従属・牛久保開城により松平蔵人佐家康の東三河併合は決定的となり、
残すは東三河における今川方最重要戦略拠点である渥美郡吉田城(今橋城)を残すのみとなった。

二連木城(にれんぎじょう)
朝倉川南岸の三河国渥美郡の北の端に有った戦国時代の城。
「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。
明応2年(1493年)、戸田氏中興の祖戸田宗光が築城したとされる城。

戸田 重貞(とだ しげさだ)
戦国時代の武将。戸田氏宗家の15代当主。
通称は主殿助。松平姓を賜ったとされ、松平主殿助、松平丹波守とも。

牛久保城(うしくぼじょう)
三河国宝飯郡牛久保にあった戦国時代の城。
三河国聞書・三河国ニ葉松によると、牧野出羽守保成の築城とされる。

牧野 成定(まきの なりさだ)
三河国宝飯郡牛久保城の城主。牧野貞成の養子となり、牛久保城主となる。
初代の越後長岡藩主・牧野忠成の祖父にあたる。
通称(仮名)は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという。

判物(はんもつ)
室町時代から江戸時代にかけて出された武家文書の一つで、上位の立場にある者が発給した文書のうち、
差出人の花押が付されたものを指す。
特に公的性質の強い文書に用いられ、家臣に対する所領の給付や安堵、感状など主従関係において
重要性・永続性が必要とされる文書に対して用いられた。


北の豊川対岸の下地(しもじ)や東の二連木城(にれんぎじょう)、南の喜見寺砦(きげんじとりで)を松平勢に押さえられ、
孤立してしまった吉田城代大原肥前守鎮実(おはらしずざね)は、松平軍からの和議案を受け入れ、開城退去。
今川方の三河拠点は完全に消失し、家康は念願であった「三河平定」を成し遂げたのである。
しかし以後、松平家の快進撃は影を潜める事になる。

小原 鎮実(おはら しずざね)
戦国時代の武将。今川氏の家臣。官途は肥前守を称す。
三河国吉田城、遠江国宇津山城、駿河国花沢城の城代。
また、大原 資良(おおはらすけよし)と同一人物ともされる。


永禄八年(1565年)十一月十三日
家康にとって思いもよらなかった事態が勃発する。
それは織田上総介信長と、甲斐の武田徳栄軒信玄との同盟であった。(甲尾同盟
家康にとって同盟者である信長が、甲相駿三国同盟で今川家と同盟を結ぶ武田家と同盟を結ぶことによって、
家康は今川領に兵を進める事が出来なくなり、動きが取れなくなってしまったのである。
以降三年間、家康は遠江国に兵を進めることができず、領国経営に力を入れることになる。


三河の領国経営に着手した家康は、「三河国の完全なる支配者」となる為、
永禄九年(1566年)十二月二十九日
従五位下、三河守に任ぜられ、松平姓を「徳川」と改めている。
家康は、自身の家系を「松平一族中で別格の存在である」
内外に認知させることが必要であると考えていた。
そもそも、三河国には松平姓の豪族が盤距(ばんきょ)しており、松平清康系統である家康の松平家が宗家とされているが、その支配権は絶対的なものではなかった。
そこで家康は、「清和源氏系得川氏の末裔」であるとする、限りなく黒に近い濃い目のグレー色をした家系図を作成し、関白左大臣近衛前久(このえさきひさ)に働きかけ、勅許(ちょっきょ)を得て、
遠祖の姓である「得川」の字を「徳川」と改め姓とした。

勅許(ちょっきょ)
天皇の許可。勅命による許可。

今まで好きに改名していた家康が何故、今回は改名するのに朝廷の許可を求めたのか。
それは朝廷からの許しを得て「徳川」と名乗るという事は、
朝廷が家康を「源氏の末裔」と認めたという事になるからである。
朝廷に認められ、「清和源氏系得川氏の末裔」となった家康は、同時に従五位下・三河守に叙任されている。
家康の「徳川」改名は、「三河守任官」の為でもあった。
三河国の「国司」としての権威が家康には必要だったのである。
また、「徳川姓」「松平宗家」のみが名乗り、その他「十八松平」庶家は「松平姓」に留めている。
家康は、「徳川」と「松平」を区別する事により、十八松平庶家を「親族」では無く、
「譜代家臣」と位置付けしたかったのである。
祖父清康、父広忠が「宗家と庶家」の間での紛争で命を落とした事からの教訓であった。


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義信謀反事件

 【14//2012】

義信謀反事件

永禄八年(1565年)十一月十三日
織田上総介信長は、甲斐の武田徳栄軒信玄と同盟を結ぶため、
美濃国苗木城主遠山勘太郎直廉の娘を信長養女として、諏訪四郎勝頼に嫁がせている。
これは上杉弾正少弼輝虎によって、これまでの北進政策事業が途中で遂行できなくなった信玄が、
次に目を向けるのが「美濃」であることが予測できた為に行われた婚姻同盟であった。(甲尾同盟

遠山 直廉(とおやま なおかど)
戦国時代の武将。美濃国東部恵那郡国衆、苗木城主。
尾張国を統一した織田信長の妹を正室として迎える。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いに苗木勘太郎の名乗りで織田方として参戦。
永禄8年(1565年)信玄庶子の諏訪勝頼(武田勝頼)の室として、娘(遠山夫人)を信長の養女として嫁がせている。


また信玄にとっても織田家との同盟は意味のあるものであった。
この頃の関東はめまぐるしい情勢の変化で、各諸大名の間に緊張が生じていた。
五度に渡る川中島合戦や、今川治部大輔義元が討死した桶狭間合戦を契機とした対外情勢の変化に、
武田家と今川家の同盟関係にも亀裂が生じ始めていた。
それは、三河国岡崎城主松平蔵人佐家康による今川氏領国への侵攻が大きな原因であった。
家康の動きに危機感をつのらせていた信玄は、家康の動きを抑制する為、
「駿河国今川氏領国への侵攻」を模索し始めていた。
信玄が信長と同盟を結ぶ最大の理由は、「家康の動きを抑制」する事も少なからずあったと思われるが、「嫡男武田太郎義信の廃嫡」が最も大きな要因であったものと思われる。

永禄八年十月十五日
甲斐武田家中を震撼させるある大事件が起こる。
武田信玄の嫡男武田太郎義信 廃嫡

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)によると、
永禄七年(1564年)七月
義信の傅役である飯富兵部少輔虎昌(おぶとらまさ)、側近の長坂源五郎昌国(ながさかげんごろうまさくに)
曽根周防守昌清(そねまさきよ)らが信玄暗殺の密談をしていたが、計画は事前に虎昌の実弟である
山県三郎兵衛尉昌景(やまがたまさかげ)の密書により露見する。

永禄八年(1565年)一月
飯富虎昌以下は、謀反の首謀者として処刑され、八十騎の家臣団は追放処分となった。
さらに、嫡男義信も同罪として同年十月に甲府東光寺に幽閉され、今川義元の娘嶺松院(れいしょういん)
強制的離縁の上、後継者としての地位を失う。
世にいう「義信事件」は甲斐武田家を二分する可能性を秘めた大事件であった。
未遂に終わったとは言え、先代信虎の代からの功臣である飯富虎昌を始め、義信に連座して八十名以上の者が
切腹・追放となった。

永禄十年(1567年)十月十九日
義信は幽閉先の甲府東光寺にて死去。享年三十歳。
義信の死因については色々と諸説があり、病死との説や、信玄が切腹を命じたという説もある。
また幽閉生活と廃嫡を絶望した義信が自ら命を断ったとの説もある。
余談ではあるが義信が切腹(死去)した十月十九日は、彼の師傅である飯富虎昌が切腹した日と同日である。

飯富 虎昌(おぶ とらまさ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。
武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃佐久郡内山城を領した。
「甲山の猛虎」と呼ばれ、敵味方から恐れられたほどの猛将であり、武田二十四将の一人に挙げられる。
虎昌の部隊は全員が赤い軍装で揃えられ、武田の赤備えとして、精強武田軍団の代名詞ともなった。
のちに弟の山県昌景をはじめ、井伊直政や真田信繁(幸村)等が赤備えを受け継いでいる。

長坂 昌国(ながさか まさくに)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。源五郎。左衛門尉。筑後守。奥近習六人衆。
永禄8年6月に「義信事件」に関与して処刑されたとあるが、処刑されたのは従弟の清四郎勝繁であるとされ、
実際は1582年の天目山の合戦時に自害したとされる。

曽根 昌清(そね まさきよ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。奥近習六人衆の一人。
信玄の嫡男武田義信の乳人子であり義信に仕えた。
永禄8年6月、「義信事件」に関与したことで切腹を命じられる。

山県 昌景(やまがた まさかげ)
戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で、武田四天王の一人。旧名 飯富源四郎。
飯富虎昌の弟とされているが、甥であるとも言われている。
血族である虎昌が関与している事を承知の上で「義信事件」を信玄に訴えたという功績から、虎昌の赤備え部隊を引き継ぐとともに、飯富の姓から信玄の父・武田信虎の代に断絶していた山県の名跡を与えられて山県昌景と名を改めたといわれている。


また、この事件には色々と諸説がある。
義信謀反の計画を弟昌景に伝わるように虎昌自身が画策し、義信をかばって首謀者として断罪されたともされる一方で、信玄の信濃経略や、上杉謙信との度重なる抗争に反対することが多く、また、武田家中で大きな勢力を誇っていた飯富虎昌を、義信謀反を契機として信玄自らが粛清に及んだとする説もある。
虎昌と同じく、穴山彦六郎信君の弟・信邦も連座して切腹していることから、親今川派国人衆の反発という側面も指摘されている。

事件後の永禄十年(1567年)八月七日
小県郡生島足島神社において、甲斐領国内の家臣団に信玄への忠誠を誓わせた起請文が奉納されている。
これは事件後に生じた家臣団の動揺を鎮める為でもあったとされる。


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一乗院覚慶

 【12//2012】

一乗院覚慶

永禄八年(1565年)五月十九日
松永弾正少弼久秀(まつながだんじょうしょうひつひさひで)と、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)が、
主君三好左京大夫義継(みよしさきょうのだいぶよしつぐ)とともに、将軍義輝の従兄弟に当たる
足利左馬頭義栄(あしかがさまのかみよしひで)を奉じて謀叛を起こし、京都二条御所を襲撃。
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝を殺害する。(永禄の変)。

同時刻、義輝の二人の弟にも危機が迫っていた。
幼い頃から仏門に入り、相国寺(しょうこくじ)の塔頭(たっちゅう) 鹿苑院(ろくおんいん)の院主になっていた
十二代将軍足利義晴の末子 周暠(しゅうこう)は、久秀から命を受けた平田和泉守率いる軍勢に、殺害されている。
この時、周暠の若衆であった美濃屋小四郎(みのやこしろう)が、刺客の平田和泉守の首をおとし、
主君の仇を討ち、その場で自らも自害したという。ときに十六歳であった。

そしてもう一人、周暠同様に、幼い頃から仏門に入り、南都興福寺一乗院の門跡になっていた
足利義晴の次男 覚慶(かくけい)は、興福寺が大和の守護大名でもあった為、久秀ら三好勢は興福寺を敵に回すことを恐れ、覚慶を幽閉にとどめた。
しかし、永禄八年(1565年)七月二十八日
足利将軍家再興を誓い合った義輝の側近
一色式部少輔藤長、和田伊賀守惟政、仁木近江守義政、三淵弾正左衛門尉藤英、細川兵部大輔藤孝および
大覚寺門跡義俊(近衛尚通の子)らによって覚慶は助け出され、
近江の和田惟政の館で足利将軍家の当主になる事を宣言する。
後に織田上総介信長と対立し、室町幕府を滅亡に追い込んだ
室町幕府第十五代征夷大将軍足利義昭である。

和田 惟政(わだ これまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。室町幕府末期の幕臣。

細川 幽斎 / 細川 藤孝(ほそかわ ゆうさい / ほそかわ ふじたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名、歌人。号は幽斎玄旨。
13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、
後に織田信長に従い丹後宮津11万石の大名となる。
後に豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名・肥後細川氏の祖となった。

その後、覚慶は和田惟政、細川藤孝に護られ、伊賀・甲賀路を下り、六角左京大夫義賢を頼る事になる。
義賢は快く覚慶一行を迎え入れ、野洲郡矢島に二町四方の規模で二重の水堀で囲まれた矢島御所を覚慶の為に新築している。

永禄九年(1566年)二月十七日
覚慶は、矢島御所において還俗し、足利義秋と名乗りを改めた。
以後義秋は、矢島御所において三管領家の畠山高政・関東管領の上杉輝虎・能登守護の畠山義綱らと親密に連絡を取り合い、しきりに上洛の機会を窺っていた。
しかし、矢島御所のある南近江の領主六角義治三好三人衆と密かに内通しているという情報を掴んだため、
妹婿である武田義統を頼り、若狭国へと下ることになる。
ここから流亡将軍の苦難の道が始まるのである。

かつては応仁の乱東軍の副将として隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や
重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。
そこで義秋一行は、足利将軍家に対し恩がある越前国の朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。
もともと越前朝倉家は、国主の地位ではなかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に、
足利将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられ、一国の支配を認められていた。
しかしその朝倉家では、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」足利嗣知(足利義嗣の子孫)を擁護しており、
十分に足利将軍家を補佐していると自負していた。
義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったのも、そのような経緯からであったものと思われる。




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剣聖将軍

 【11//2012】

剣聖将軍

永禄七年(1564年)七月
三好修理大夫長慶が病死。
影の絶対的権力者であった長慶の死によって、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝は、
これを好機と捉え、幕府権力の復活に向け、さらなる政治活動を行い始めた。
しかし、長慶の死後、幕政を牛耳ろうと目論んでいた松永弾正忠久秀三好三人衆にとって、
将軍義輝は邪魔な存在でしかなかった。
そこで久秀と三好三人衆は、室町幕府第十代将軍であった足利義稙の養子・足利左馬頭義維と手を組み、義輝を排除して、義維の嫡男・足利義栄(義輝の従兄弟)を新将軍の候補として擁立する動きを見せ始めた。
久秀と三好三人衆は、ただ闇雲に新将軍擁立に動いていた訳ではなく、義輝が頼みとする近江六角氏が、
永禄六年(1563年)
観音寺騒動以降、領国の近江国を離れられなくなっていた情勢を踏まえた上での行動であった。

足利 義稙(あしかが よしたね)
室町幕府第10代将軍。足利義政の弟義視の嫡男。母は日野政光の娘。
9代将軍足利義尚(よしひさ)の死後、伯母日野富子らに擁立されて将軍職をつぐ。
その後、細川政元の反乱で将軍を廃されたが、大内義興(よしおき)、細川高国の支援で復した。
のち高国と対立し、京都をのがれて淡路(あわじ)(兵庫県)、阿波(あわ)(徳島県)へと移り、将軍職を追われて諸国を流浪した経緯から、「流れ公方」「島の公方」と称された。

足利 義維(あしかが よしつな)
室町幕府第11代将軍・足利義澄の次男。第10代将軍・足利義稙の養子。
三好元長に擁立され、和泉(いずみ)堺(さかい)にうつり、畿内の実権をにぎるが、
享禄5年元長が敗死したため阿波平島(ひらじま)に戻る。
「平島公方」「阿波公方」と称された。

足利 義栄(あしかが よしひで)
室町幕府第14代将軍。
従兄の13代将軍足利義輝が松永久秀らに暗殺されたのち、三好長逸(ながゆき)らに擁立され、
永禄11年 第14代征夷大将軍となる。
まもなく義輝の弟義昭(よしあき)も織田信長に奉じられて京都にはいったため、阿波(あわ)(徳島県)にのがれ、
永禄11年9月病死。在職7ヵ月。法号は光徳院。

観音寺騒動(かんのんじそうどう)
永禄6年(1563年)に、南近江の戦国大名・六角氏の家中で起こった御家騒動。


久秀と三好三人衆は、主君三好左京大夫義継とともに足利義栄を奉じて謀叛を起こし、
二条御所を襲撃している。
「公方(将軍)様に引退を勧告」
永禄八年(1565年)五月十八日
久秀は、居城信貴山城を出陣し、京都二条御所へ進軍。

翌、永禄八年(1565年)五月十九日、早朝
異様な殺気に包まれた二条御所で鉄砲の一斉射撃が始まった。
この時、御所の警備は三十名足らずであったと言われている。
謀反を知った義輝は、鎧を纏(まとい)、腰に愛用していた童子切安綱(どうじぎりやすつな)の刀を差し、その他足利家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。
日本刀は思うほど頑丈なものではなく、甲冑や人間の肉、骨を斬れば刃こぼれが起こり、
また人の脂によって切れ味が悪くなってしまうものなのである。
そこで、義輝はあらかじめスペアの刀を用意し、とっかえひっかえ取り替えて襲い来る敵兵に対し剣を振るった。
足利季世記(あしかがきせいき)に、
「扨(さて)公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし。」と記されている。
義輝は、塚原ト伝(つかはらぼくでん)に剣術指南を受けたおり、
免許皆伝と秘儀「一ノ太刀」を伝えられていた剣豪であった。
「足利尊氏公から伝わる足利将軍家の重宝・童子切安綱の太刀。予の首を取った者に授けよう。」
童子切安綱の太刀を構え、殺到する三好勢に斬りかかる義輝に、数百の兵達はただ逃げるのみであったという。

しかし、いかに剣聖将軍と謳われた義輝であっても、多勢に無勢では限界が来る。
「然るに三好方池田丹後守が子、こさかしきやからにて、戸の脇にかくれて御足をなぎてければ、ころび給ふ上に、障子を倒しかけ奉り、上より鑓にて突き奉る。其の時奥より火をかけ、もえ出でければ、御首をば給はらず。
御年卅歳と聞えし。」

戸の脇に隠れていた池田丹後守の子に足を払われ、転んだ義輝は、上から障子を倒し掛けられ、
動けなくなった所を、障子ごと上から鑓(やり)で突き刺され絶命したと記されている。
享年三十歳であった。

童子切安綱(どうじぎりやすつな)
大原安綱の大傑作で天下五剣の一つ。
伝説の鬼、酒呑童子(しゅてんどうじ)の首を切って退治したことからこの名前が付いた。
江戸時代、6人の罪人の死体を積み重ねて6つの死体を切断した後、刃が土台まで届くほど
すさまじい切れ味を誇ったと伝えられている。
信長、秀吉、家康と時の権力者の手に渡った後、現在は国宝として東京国立博物館に眠る。

塚原ト伝(つかはらぼくでん)
日本の戦国時代の剣豪、兵法家。諱は高幹(たかもと)。号は卜傳。
父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた人物。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
室町幕府の初代征夷大将軍。足利将軍家の祖。

足利季世記(あしかがきせいき)
1487‐1571年の畿内の合戦記。作者、成立年代ともに不明。
足利義尚や畠山政長の死に筆を起こし、1493年(明応2)細川政元が将軍を廃立した事件や、
政元の死後細川氏が分裂・衰退してゆく過程、これに代わり三好氏や松永氏が実権を掌握し京都を支配、
1568年(永禄11)織田信長が足利義昭を奉じて入京する経緯を、所々に文書を織り込んで説明している。





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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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長慶の最後

 【10//2012】

長慶の最後

畿内を全て支配下に置き、絶対的権力者となっていた三好修理大夫長慶であったが、
永禄四年(1561年)
六角左京大夫義賢と結んだ畠山修理亮高政が、長慶との間に戦端(せんたん)を開くと、
それまで大人しくしていた反三好勢力が、一斉に反撃に転じたのである。

畠山 高政(はたけやま たかまさ)
戦国時代の紀伊・河内の守護大名・戦国大名。畠山尾州家(畠山政長流)の当主。
紀伊と河内を支配する戦国大名だったが教興寺の戦いなどで敗れ、河内における支配権を失い、紀伊に後退。
その後も失地回復を試みたが果たせなかった。


長慶は一族や被官らの率いる阿波・淡路の兵を岸和田に集結し、畠山軍を迎撃するが、
戦いは畠山勢の有利に展開し、両軍の対陣は翌五年に至った。
永禄五年(1562年)三月
和泉の久米田に陣を布いていた長慶の弟三好豊前守義賢が、畠山高政率いる根来衆らの攻撃により、
討ち取られてしまう。
義賢を討ち取った畠山軍は、勢いに乗じそのまま長慶の本陣である飯盛城に攻め寄せた。
これに対し三好勢は、長慶の嫡男三好筑前守義興松永弾正忠久秀らが河内国教興寺表に進軍し、久秀の謀略が効を奏して三好軍はかろうじて勝利を得た。

三好 義賢(みよし よしかた)
戦国時代の武将。三好長慶の弟にあたる。
長慶の上洛以来、義賢は長慶に代り四国を統治しており、長慶の信頼を得ていた優秀な武将であったと思われる。
義賢はかなりの教養人であったようで、茶の湯に対しても造詣が深く、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗達、
北向道陳らと茶会を行っている記録が残されている。
また、茶器好きとしても知られており、約50点もの茶器を所持していたとも言われている。
明から輸入された唐物や「三日月茶壺(唐物三日月)」という茶壷に対して、
3,000貫文もの金をつぎ込んだという逸話も残されている。


畠山高政との戦いで長慶の活躍を支えてきた義賢が戦死し、前年の永禄四年には、
猛将と謳われた十河讃岐守一存も病死しており、三好政権の要となる人物が相次いでこの世を去った。
それもあってか、長慶は政治への意欲を失い、その指導力も低下していったという。
さらに追い討ちをかけるかのように、
永禄六年(1563年)
将来を嘱望(しょくぼう)していた嫡男の義興が急死してしまう。
義興の死は、三好氏の実権を掌握しようと目論む松永久秀が、その聡明を嫌って毒殺したとする説もある。
また、一存が死んだ時にも久秀が傍にいたことから、当時京都では久秀による暗殺説が伝聞として流れていた。
さらに、翌永禄七年(1564年)五月
松永久秀の讒言(ざんげん)を信じ、長慶はもうひとりの弟安宅摂津守冬康を殺害する愚行をなした。
一説ではこの頃の長慶は、弟や最愛の息子の死などの不幸が重なり、心身に異常をきたし、
精神状態が不安定(うつ病)であったとされている。

十河 一存(そごう かずまさ /かずなが)
戦国時代の武将。三好長慶の弟にあたる。
一存は、「鬼十河」(鬼十川)と呼ばれて敵に恐れられ、その武勇から家臣たちからも信望が厚く、
「十河額」と呼ばれていた一存の髪型を真似する家臣も多かったという。

三好 義興(みよし よしおき)
戦国時代の武将。三好長慶の嫡男。
続応仁後記において、義興の器量は父祖に劣らず優れており、天下の乱を治める人であったと記されている。
また義興は、将軍足利義輝と年齢が近く、教養も武勇もあったためか、義輝と厚い親交があったと言われている。

安宅 冬康(あたぎ ふゆやす)
戦国時代の武将。三好長慶の弟にあたる。
冬康は、平素は穏健かつ心優しい性格で、血気に逸って戦で殺戮を繰り返し傲慢になっていた兄長慶に対し鈴虫を贈り、「夏虫でもよく飼えば冬まで生きる(または鈴虫でさえ大事に育てれば長生きする)。まして人間はなおさらである」と無用な殺生を諌めたという逸話が残っている。


「南海治乱記」には、
「三好長慶は智謀勇才を兼て天下を制すべき器なり、豊前入道実休は国家を謀るべき謀将なり、
十河左衛門督一存は大敵を挫くべき勇将なり、安宅摂津守冬康は国家を懐くべき仁将なり」
と記されている。
それから二ヶ月後の
永禄七年(1564年)七月
一世の英雄三好修理大夫長慶 死去。
長慶の死後、養子の義継(一存の子)が家督を継承するが、
既に重臣の松永久秀や、三好三人衆が主家を凌駕(りょうが)する実力を保持しており、
義継は彼らの傀儡(かいらい)に過ぎなかった。


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畿内に一大政権を築き上げた長慶

 【09//2012】

畿内に一大政権を築き上げた長慶

江口の戦いで三好修理大夫長慶に敗れ、三好越後守政長を討ち取られた
管領 細川右京大夫晴元は、室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝と前将軍の義晴父子を伴い
近江坂本に逃亡している。
これにより長慶は、畿内の実力者として絶頂を極めていくことになる。

しかし、将軍不在の状態では、幕府は機能せず、京の治安は乱れるばかりであった。
天文二十一年(1552年)二月二十六日
京の治安回復には、幕府の権威将軍の威光が必要であるとし、長慶は近江坂本に逃亡していた
将軍義輝との和睦交渉を進め、義輝を京都二条御所に迎え入れ威に服した。
その際、長慶は幕府御供衆となり、細川家被官から将軍家直臣(じきしん)となった。
幕府御供衆となった長慶は、晴元に代る管領として、細川右京大夫氏綱を擁立し、
幕政改革に着手し始めることになる。
幕府は、第十三代将軍の足利義輝、管領 細川氏綱、そして裏で実権を握る実力者 三好長慶という構図となり、
新たな三好政権が成立することとなった。

近江坂本(おうみさかもと)
滋賀県大津市。延暦寺および日吉大社の門前町として古くから栄えた町。

御供衆(おともしゅう)
将軍の出行に供奉するものであり、御相伴衆のように幕府における身分・格式を示す一種の称号。
その格式は、御相伴衆・国持衆・準国主・外様衆に次ぐものであったが、将軍の出行に供奉するという点で、
将軍に最も親近な名誉的な職であったと推測されている。

直臣(じきしん)
中・近世武家社会における直属の家臣の称。主君の直接支配下に属する家臣のこと。

細川 氏綱(ほそかわ うじつな)
室町幕府最後の管領。
細川尹賢の子で、細川高国の養子。摂津守護。山城淀城主。
管領に任じられるが、三好長慶の傀儡でしかなく、実権は全く無かった。
氏綱の死後、後任の管領が任じられることはなかった。


天文二十二年(1553年)閏一月
幕府内での実権を握り、絶頂を極めたかに見えた長慶であったが、自身の権力基盤を強化することを優先し、
実権と将軍専制に固執した将軍義輝は、長慶とその側近である松永弾正忠久秀の傀儡(かいらい)となる事を拒み、長慶との和約を破棄し、近江坂本で亡命中であった前管領細川右京大夫晴元と密かに通じ、
長慶討伐の御内書(ごないしょ)を発している。

天文二十二年(1553年)七月
将軍義輝から討伐を命じられた細川晴元は、京奪回及び細川政権の復活を目論み、
軍備を整え入京するが、松永弾正率いる軍勢に破れ敗走。
晴元敗走の報せを受けた義輝は、わずかな随伴者(ずいはんしゃ)と共に近江朽木に逃れた。
以降五年間をこの地で過ごした義輝は、
永禄元年(1558年)十一月
六角左京大夫義賢の仲介により、長慶との間に和議を成立させ、再入洛を実現させ、
足利幕府政治を再開している。
しかし将軍不在の五年間に、長慶は丹波八上城の波多野氏を攻め、さらに芥川城を陥落させ、
居城を芥川城として摂津国人衆を勢力下に置くまでに成長していた。
摂津を含む畿内は全て長慶の支配下となり、長慶は三好氏の全盛期を創出していたのである。
永禄年間初期までにおける長慶の勢力圏は、
摂津を中心にして山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨・河内・大和など10カ国に及び、
他に近江・伊賀・若狭などにも影響力を持っていたと言われている。
当時、長慶の勢力に匹敵する大名は他にはなく、長慶の強大な勢力の前に多くの諸大名が誼(よしみ)を通じていた。

御内書(ごないしょ)
室町幕府の将軍が発給した私的な書状の形式を取った公文書。
室町期に足利将軍家によって創始され、形式そのものは差出人が文面に表記される私信と同じものであるが、
将軍自身による花押・署判(署名・捺印)が加えられており、将軍個人の私的性の強い命令書でありながら、
御教書に準じるものとして幕府の公式な命令書と同様の法的効力があった。

六角 義賢 / 六角 承禎(ろっかく よしかた / ろっかく しょうてい)
近江六角氏第13代当主。
姉が管領細川晴元正室であったことから、流亡する将軍足利義晴、義輝を助け摂津・三好氏と度々戦い、
また北近江・浅井氏とも争い一時は臣従させる。
しかし、家臣団との内紛があって統率力は弱まっていたため、奈良から脱出してきた足利義昭を庇護しきれず、
後に、義昭を奉じて上洛する尾張・織田氏に反抗して敗れた。
その後も、浅井、本願寺勢らと結んで信長に抵抗するが、制圧され1570年降伏した。
その後、甲賀、伊賀方面でゲリラ活動を展開するがかなわず、本願寺に身を寄せたとも。宇治田原にて病死する。日置流弓術の奥義を修得した腕を持っている。


義輝の帰京以降も長慶の権勢は続いたが、義輝は幕府権力将軍権威の復活を目指し、
諸国の戦国大名との修好に尽力している。
伊達晴宗と稙宗、武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久、毛利元就と大友宗麟、
上杉輝虎と北条氏政と武田晴信など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、
将軍の威信を世に知らしめた。
また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義興父子と松永久秀には桐紋使用を許した。
さらに自らの名の「輝」の字を偏諱として、毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎などの諸大名や足利一門の足利輝氏などに与えている。
また島津義久、武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。
その政治的手腕は、「天下を治むべき器用有」と評された。
このような経緯を経て、義輝は次第に諸大名から、将軍として認められるようになっていくのである。


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細川右京大夫晴元への讒言

 【08//2012】

細川右京大夫晴元への讒言

大永二年(1522年)二月十三日
三好修理大夫長慶は、三好氏歴代の居館地と伝わる阿波三好郡芝生、現在の徳島県三好市で誕生。
長慶の父三好筑前守元長は、主家細川氏の有力な重臣であり、
主君細川右京大夫晴元(ほそかわうきょうのだいぶはるもと)の仇敵であった細川右京大夫高国を滅ぼし、
晴元を管領職に就けた最大の功労者であった。
しかし、本国の阿波国だけでなく山城国にも勢力を誇っていた元長の勢威を恐れた晴元は、
策謀で蜂起させた一向一揆によって、享禄五年(1532年)六月に元長を殺害している。
当時十歳の長慶(幼名:千熊丸)は、河内守護代であった木沢左京亮長政の仲介や、幼少であるという理由から難を逃れ晴元に従うことになる。

細川 晴元(ほそかわ はるもと)
細川氏宗家 京兆家当主。
武田信玄や本願寺法主顕如の義兄に当たる人物。
畿内で内乱状態にあった細川氏を纏(まと)め、管領に就任したが家臣の三好長慶の反乱で没落、
勢威を取り戻せないまま没した。
実権を持っていた管領としては最後の管領である。

細川 高国(ほそかわ たかくに)
室町幕府管領、摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護。
細川氏一門・野州家の細川政春を実父とし、やがて細川氏嫡流 京兆家の管領細川政元の養子に迎えられ、
11代将軍足利義澄より諱を与えられ、「高国」と名乗った。
細川氏庶流である野州家の生まれであったが、本家を追い落とし、自ら権力を握った人物。

木沢 長政(きざわ ながまさ)
河内、山城南部の守護代。官位は従五位下左京亮。河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。
畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていたが、細川氏嫡流 京兆家へ鞍替えし、
自らの地位向上に努め、やがては主家を牛耳るほどの勢力を一代で築き上げ、畿内にその名を轟かせた名将。

管領(かんれい)
室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職。
足利氏一門の斯波氏・細川氏・畠山氏の3家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称された。
これと侍所頭人に任じられた四職(赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏)を合わせて「三管四職」と呼ばれる。


天文二年(1533年)六月二十日
晴元が元長を殺害するため策謀で蜂起させた、一向一揆の勢力が次第に強大化していき、
享禄・天文の乱(きょうろく・てんぶんのらん)が勃発する。
「本福寺明宗跡書」では、
「三好仙熊に扱(=和睦)をまかせて」とあり、当時十二歳に過ぎない千熊丸が、細川晴元と一向一揆勢を煽る
本願寺教団との和睦を斡旋(あっせん)したという記事が残されている。
歴史に名を残す人物は、幼少時より我々とは何か違うものを持っている様だ。

明宗(みょうそう)
戦国時代の浄土真宗の僧。近江堅田本福寺第5世住持。

その後、千熊丸は元服して孫次郎利長と名乗り、伊賀守を称することになる。
天文十七年(1548年)
二十七歳になっていた孫次郎利長は、名を筑前守長慶と改めている。
長慶は、父元長が任命されていた幕府御料所である河内十七箇所の代官職を自らに与えるように晴元に訴えるが、同族の三好越後守政長が任命されていたので聞き入れられずにいた。
政長は晴元からの信任が特に厚く、何かに付け優遇されていた人物であった。
そんな折、遊佐河内守長教から「晴元に讒言(ざんげん)して一向一揆を起こさせ、元長を殺害したのは、
裏で暗躍していた同族の三好政長である」
と聞きつけた長慶は、「宗三(政長)父子の曲事」として、
一族の三好政長を討とうと、晴元に政長父子の追討を願い出た。
しかし長慶のこの訴えは受け入れられず、逆に「三好筑前守(長慶)謀反」とされ、
細川晴元、三好政長らと対立することになる。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。
料所(りょうしょ)・料(りょう)・御料(ごりょう)・料地(りょうち)・御料地(ごりょうち)等とも呼ばれる。
「王位に付属する領地、すなわち、国王の私有の領地や土地」と定義されている。

河内十七箇所(かわちじゅうななかしょ)
鎌倉時代から江戸時代初期に河内国茨田郡西部、現在の寝屋川市西部、門真市、守口市、
大阪市鶴見区中・東部に存在した17箇所の荘園群。
単に十七ケとも言う。

遊佐 長教(ゆさ ながのり)
河内畠山氏の重臣で河内守護代。若江城主。

讒言(ざんげん)
事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。


天文十八年(1548年)六月二十四日
両勢は摂津中島の江口で激突。
長慶は宿敵政長ら主だった者八百余名を討ち取って大勝している。(江口の戦い)。
この合戦により、長年に渡って幕政を担ってきた細川政権は崩壊し、消滅することになる。
余談ではあるが、
後に今川義元や織田信長が所持した名刀左文字は、
元々は政長(宗三)の所有物だったので宗三左文字とも呼ばれている。
宗三左文字の名刀はその後、甲斐の武田信虎の手に渡り、信虎から今川義元の手に渡る。
そして桶狭間の戦い後に織田信長の手に渡たる事になる。
本能寺の変により焼失した宗三左文字は、後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、
豊臣秀頼から徳川家康に伝わり現在に至るという。


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第十三代征夷大将軍の死

 【07//2012】

第十三代征夷大将軍の死


永禄八年(1565年)五月十九日
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝は、三十歳の生涯終えた。
松永弾正少弼久秀(まつながだんじょうしょうひつひさひで)三好三人衆(みよしさんにんしゅう)が、
主君三好左京大夫義継(みよしさきょうのだいぶよしつぐ)とともに、将軍義輝の従兄弟に当たる
足利左馬頭義栄(あしかがさまのかみよしひで)を奉じて謀叛を起こし、京都二条御所を襲撃。
将軍足利義輝を殺害している。(永禄の変)。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)
「征夷」とは、東夷を征討するという意味で、征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。
日本海側を進む軍を率いる将軍は、征狄将軍(鎮狄将軍)
九州へ向かう軍隊を率いる将軍は、征西将軍(鎮西将軍)。
これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。
また「征夷大将軍」は「征夷」行為に関して、軍の最高司令官であり天皇の代理人という権能を有していたことから、武人すべての世俗的な最高司令官としての力が備わるようになっていった。
鎌倉中期から明治維新まで、武士が政権を握っていたことから、武士の棟梁としての征夷大将軍は、
事実上の日本の最高権力者であった。
また、天皇によって任命されることから、天皇には世俗的な実力はなくとも、権威は維持することとなった。
源頼朝が征夷大将軍の位を得て鎌倉幕府を開いて後、江戸時代末期まで約675年間にわたって
征夷大将軍を長とする武家政権が続いたが、大政奉還で江戸幕府が消滅し、更に王政復古の大号令を発令した明治新政府によって征夷大将軍の官職は廃止された。

三好三人衆(みよしさんにんしゅう)
三好長慶の死後に、三好政権を支えて畿内で活動した三好長逸・三好政康・岩成友通の3人を指す。
いずれも三好氏の一族・重臣であったためこの名で呼ばれた。

三好 義継(みよし よしつぐ)
三好長慶の実弟・十河一存の子。
長慶の世嗣ぎであった三好義興が早世したため、長慶の養子として迎えられ、三好姓に改めた。
長慶の死後、三好三人衆の支持を受けて家督を継ぎ名実共に三好家の当主となるが、既に重臣の松永久秀や
三好三人衆が主家を凌駕する実力を保持していて、義継は彼らの傀儡に過ぎなかった。

足利 義栄(あしかが よしひで)
室町幕府第十四代将軍。
三好三人衆と松永久秀による完全な傀儡将軍。
室町幕府歴代将軍の中で唯一、本拠地のある京都に一度も足を踏み入れずに終わっている。
日本史上本拠地に入ること無く終わった将軍は、義栄と徳川慶喜の2人しかいない。


ルイス・フロイス(Luís Fróis)著:Historia de Japam(日本史)によると、
事件前日の永禄八年(1565年)五月十八日
謀反を知った将軍義輝は、難を避けるため、いったん御所を脱出している。
しかし、奉公衆ら義輝の近臣は、将軍の権威を失墜させると反対し、義輝とともに討死する覚悟を示して説得を行ったため、義輝も不本意ながら御所に戻ったという。
将軍足利家三好家との確執には、義輝の幕権強化の手段としての方法に問題があった。
実権と将軍専制に固執した義輝の存在は、多くの幕府吏僚にとって煙たい存在であったといえる。
また、自身の権力基盤を強化することを優先した義輝は、将軍家を尊重する姿勢は一貫して崩さなかった三好修理大夫長慶をも排除する姿勢をとった事も、永禄の変を招いた大きな原因であったと考えられている。

フロイス日本史(フロイスにほんし)
正式にはHistoria de Japam
戦国時代末期の日本でキリスト教の布教活動を行ったイエズス会宣教師ルイス・フロイスによる編年体歴史書。


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越後直江景綱宛書状

 【03//2012】

越後直江景綱宛書状

永禄七年(1564年)
織田上総介信長は、上杉弾正少弼輝虎の宿老直江大和守景綱と書簡を交換し、
越後上杉家との交流を開始している。

信長と上杉家との最初の接触は、上杉家からのものであった。
信長の美濃平定が近いと睨んだ輝虎は、信長の情勢を掴むため、景綱に信長との交流を命じている。
輝虎が信長の情勢を掴むために問い合わせた書簡に対する信長の返書が今も残されている。

永禄七年(1564年)六月九日付 越後直江景綱宛書状
「玉章(たまずさ)(たちま)ち到来す、謹(つつし)んで拝閲快然(はいえつかいぜん)に候。
そもそも近年は関東に在って御発向、数度利を得られ、平均(ひらならし)のうえ御帰国の由、珍重(ちんちょう)に存じ候。
(したが)って直和(直江大和守)より別して御懇切(ごこんせつ)の条、示し給(たま)わられ候。本懐(ほんかい)の至りに候。
なおもって音問(いんもん)を達すべく候間、つぶさに能(あた)わず候。この旨ご披露仰するところに候。恐々敬白
                                      信長
六月九日
直江大和守殿      」



玉章(たまずさ)
他人を敬い、その手紙・文章をいう語。

「(直江大和守から)このような手紙を頂き、大変嬉しく拝見させて頂いております。
近年、(上杉家は)関東に出兵され、数回にわたり勝利され、(関東を)平定されたうえでの帰国、
おめでとうございます。
直江大和守殿からこのように親切な手紙を頂き、大変ありがたく思っております。
こちらの状況に関しましては、そのうち改めてこちらから書状を差上げますので、その時に詳細についてはご報告させて頂きます。その旨、(上杉輝虎に)お伝えください。」

信長のこのへりくだった対応には驚かされる。
信長は自己の目的を達成するまでは、障害となりかねない相手には、どのようなへりくだった対応をも平然とこなし、彼らと衝突しないように工作を進めていった。
輝虎が信長との交渉に、「当家の方が、立場が上である」という意を込めて、宿老を代理として用いた事にも平然と対応していた。
また信長は、武田徳栄軒信玄にも誼(よしみ)を通じ、急速に接近する工作を始めていた。

勢力を拡大する過程で、深刻な障害となるであろう越後上杉家甲斐武田家の二大勢力を相手に、
信長は慎重に調略を進めていた。

永禄七年は信長が「天下」を意識し始めた年でもあった。
永禄七年(1564年)九月二十八日
禁裏御蔵職(きんりおくらしき)を勤める立入左京亮宗継(たてりさきょうのすけむねつぐ)が、
正親町(おおぎまち)天皇の勅使(ちょくし)として、応仁の乱以降荒んだ御料所の回復や、京都御所の修繕を依頼する密勅(みっちょく)を受け、尾張に下向している。

禁裏御蔵職(きんりおくらしき)
禁裏の金銭・年貢米などの出納,御物保管,必要金の用立て,酒饌の進献などを行った御用の土倉(御倉)をあずかる職であり、朝廷の金融や信託業務,財宝の保管など禁裏財政を切盛りする台所番である。

勅使(ちょくし)
皇帝・天皇・王など国の元首が出す使者のこと。
上皇の使者は院使(いんし)、皇后の使者は皇后宮使(こうごうぐうし)
中宮の使者は中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使者は皇太后宮使(こうたいごうぐうし)
女院の使者は女院使(にょいんし)と呼ばれる。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)である。

天皇の勅旨を受けた信長は、その年の十二月
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(あしかがよしてる)からも、天下統一を促す御内書を受けている。
永禄七年(1564年)十二月二十日
信長は、幕府内談衆(ないだんしゅう)大館左衛門佐晴光(おおだちさえもんのすけはるみつ)あてに
将軍御内書の請状を出している。

「このたび御内書をなし下され候。かたじけなく存じ奉り候。まことに生前の大事これに過ぐるべからず候。
したがって御馬一匹青毛を進上致し候。かくのごとくに候。御とりなし本望たるべく候。恐惶謹言
                                 織田三介 信長
十二月二十日
大館左衛門佐    人々御中 」


信長はこのとき、自分の目標を美濃占領から、天下統一に切り替えたのかもしれない。
美濃を平定し、さらに天下統一を目指すためには、まずは領国経営に専念し、隙をみて上洛を果たさねばならないと信長は考えていた。
以降、直江景綱宛の信長の書状の内容が、卑屈とも思えるほどの内容に変わる。
信長は、息子を輝虎の養子にして欲しいと懇願し、承諾されると光栄であると礼を述べている。
言い方を変えれば、「人質を出すから受け取って下さい。」という事である。
直江景綱宛の礼状は、次のようなものであった。

元亀三年(1572年)十一月七日付 越後直江景綱宛書状
「追って申し入れ候。そもそも御誓談の条々、かたじけなき次第に候。ことに御養子として愚息を召しおかるるの旨、まことに面目の至りに候。いつにおいても路次より様子を進せ置くべく候。向後いよいよ御指南を得て申し談すべく候。此等の趣、御披露本望たるべく候。恐々敬白
                                      信長
十一月七日
直江大和守殿      」


「追って申し上げます。仰せくださった御誓談の数々、在り難い次第であります。
特に、そちらの御養子に我が愚息を召し下さるとのこと、これは私にとって誉れであります。
これはいつ頃、そちらに送り出すべきでしょうか?今後我らに対しどうぞ御指南をしてやって下さい。
この旨、(上杉謙信に)お伝えください。」

謙信を自分の味方にしておくことに細心の注意を払ったことがよく解る書状である。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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世にも稀なる大将同士の一騎討ち

 【02//2012】

世にも稀なる大将同士の一騎討ち

決戦を急ぐ上杉弾正少弼政虎は、武田徳栄軒信玄の居場所を捜し求めた。

政虎は、紺糸の鎧の上に、萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)を着て、金の星兜(ほしかぶと)の上より白練りの絹で顔を包み隠し、三尺一寸の小豆長光(あずきながみつ)の太刀を抜き、名馬 放生月毛(ほうしょうつきげ)に跨り、敵の状況や地形などを探る為に斥候(せっこう)に出した須賀但馬守山吉玄蕃頭の合図を今や遅しと待っていた。
濃霧にまぎれ、武田軍の本陣へまぎれ込んだ須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、小半町をへだてた先に
二人の信玄を発見する。

二人の信玄は、黒糸の鎧を着て、黄金造りの武田菱・諏訪法性(すわほっしょう)の兜をかぶり、黄金造りの太刀を帯び、
緋の衣の袖を肩にかけ、軍配団扇(うちわ)を持って、床几に悠然と腰をかけている。
信玄と同じ出で立ちで床几に腰をかける影武者は、弟の武田逍遙軒信綱であった。
左右に同じ信玄の姿を見た須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、困惑し、なかなか見極められずにいた。

その時、上杉勢に囲まれ、手傷を負い、窮地に追い込まれている嫡男武田太郎義信の姿を見た信玄は、
傍に控えていた旗本衆を義信救援に向かわせた。
その様子を見ていた須賀但馬守、山吉玄蕃頭は、「信玄公確認」の合図を掲げた。
愛馬放生月毛に跨り戦況を見ていた政虎は、乱戦により手薄となった信玄本陣と「毘一字旗」の合図を確認し、旗本数騎を引き連れ信玄の本陣を目指し疾風のごとき進撃を開始する。

信玄めがけて疾風のごとく駆け寄った政虎は、馬上より流星一閃、小豆長光の太刀を振り下ろす。
床几に腰をかけた信玄はそのまま軍配団扇で、政虎の太刀を受け留めた。

しかし続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負ったと言われている。
後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に
三太刀七太刀の跡(みたちななたちのあと)という。

甲陽軍鑑では、
政虎の切っ先は外れたが三太刀切りつける。
信玄は軍配団扇で受け止めた。
あとで見たところ団扇に八ヵ所の刀傷があったと記されている。

甲越信戦録では、
信玄は軍配団扇でしっかりと受け止める。
また切りつけるを受け止め、たたみかけて九太刀である。
七太刀は軍配団扇で受け止めたが、二太刀は受けはずして肩先に傷を受けたと記されている。

この「三」「七」は実数ではなく、何度も何度という副詞的に使われている数字である。
また、音読する場合「三太刀」「七太刀」は語呂合わせがよい。
この点から「三太刀七太刀」と表記したものであろうと考えられている。

手薄となった信玄本陣に切り込んだ政虎の攻撃で窮地に追い込まれた信玄を、
原大隅守虎吉(はらおおすみのかみとらよし)が間一髪、政虎の乗っている馬を槍で突いて退け、信玄の危機を救ったと伝えられる。

一方、夜襲を仕掛ける為、妻女山に向かっていた高坂弾正忠昌信ら別働隊は、政虎に出し抜かれ作戦は失敗に終わった事に気づき、急ぎ妻女山を下り本陣救援に向かった。
しかし、それを待ち構えていた甘粕近江守景持率いる軍勢が、千曲川の対岸から一斉に弓、鉄砲を撃ち立て、武田勢は川を渡れず、戦死者、負傷者が相次いだ。
やむを得ず迂回して千曲川を渡る方法を採った別働隊は、八幡原への出馬が大幅に遅れる事となった。

九月十日 午の刻(午前12時頃)
予定よりかなり遅れて八幡原に到着した別働隊は、本隊と共に上杉軍を挟撃する陣形をとった。
形勢不利を見て取った直江大和守景綱は、総崩れとなる事を恐れ、全軍に撤退を命じ、
甘粕近江守景持と共に殿を勤めた。

九月十日 申の刻(午後4時頃)
武田軍は上杉軍撤退の追撃を止めて八幡原に兵を引き、勝ち鬨を挙げた。
八幡原の戦いは終結する。
この合戦での上杉勢の討ち死には、三千四百七十余人
武田勢の討ち死には、四千六百三十余人であったという。
将兵の流した血潮で千曲川、犀川の水は三日間も紅に染まり、流れは洋々としていても深い谷間の霧を映すことはなかったという。
また、八幡原には死体が山のように野積みされ、腐乱した死体の放つ臭気が数ヶ月もの間鼻を押し通したと言われている。
甲陽軍鑑ではこの戦を、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」としている。
合戦後の書状でも、双方が勝利を主張している。
ただ、武田軍は最高幹部級の副将武田信繁・室住虎光が戦死しているのに対し、上杉軍の幹部に戦死者がいないため、戦術的には上杉軍優勢で終わったとの見方もある。
いずれにせよ、明確な勝敗がついた合戦ではなかった。

永禄四年(1561年)十二月
第四次川中島の合戦で勝利した(自称)政虎は、将軍足利義輝に戦勝報告を行う。
その際、義輝の一字を賜り、名を上杉弾正少弼輝虎(てるとら)と改めている。
天文十六年(1547年)より始まった川中島の合戦は、
永禄七年(1564年)七月
第五次川中島の合戦を最後に、北信をめぐる武田、上杉間の抗争は収束に向かい、
武田、上杉間をはじめとする関東の外交情勢は大きく変動していくことになる。

この時期の関東は甲斐武田相模北条越後上杉による三つ巴の勢力争いが続いていた。
こうした関東の情勢に徐々に影響を及ぼし始めたのが、三河の松平蔵人佐家康であった。
信玄はこれまで北信を巡り、上杉家との厳しい戦いに時間を割いてきた。
ところが永禄三年(1560年)五月十九日
今川治部大輔義元桶狭間にて討死し、今川家が急速に弱体化し始めた。
弱体化する今川家を尻目に、家康は今川家から独立し、宿敵である尾張の織田上総介信長と攻守同盟を結び、義元無き今川領を攻め取り、領土を拡大していき、さらに東へと進軍を開始し始めたのである。
信玄のみならず関東の諸大名は皆、三河松平家の動向に危機感を抱き始めていた。


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今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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八幡原での逸話

 【01//2012】

八幡原での逸話

上杉勢の強襲により、大激戦となった八幡原の死闘は、両勢の諸将の勇名を高める戦でもあった。
武田勢の猛将として名を轟かす山県三郎兵衛昌景は、四尺三寸の大太刀をふりかぶり、鬼神のごとく敵を切り伏せ、敵も味方も「あっぱれ勇士」と誉め讃えたという程の大奮闘をしていた。
また、上杉勢でも「鬼小島」の異名を持つ小島弥太郎一忠が、敵中で獅子奮迅の働きを見せていた。
この両猛将が八幡原で激突している。

第四次川中島の戦いで、上杉弾正少弼政虎武田徳栄軒信玄との一騎打ちは有名な逸話ではあるが、この山県昌景と小島弥太郎の一騎打ちもまた、戦国乱世を彩った「武士」の輝かしい逸話の一つとして甲越信戦録(こうえつしんせんろく)に記されている。
山県昌景と小島弥太郎の一騎打ちは、双方共に激しい技を繰り出すものの中々決着が付かなかった。
その一騎打ちの最中、昌景は上杉勢に囲まれ、手傷を負い、窮地に追い込まれている主君徳栄軒信玄の嫡男
武田太郎義信の姿を見た。
義信の危機を知った昌景は、弥太郎に休戦を申し出るのである。
「主君の御曹司の危機を救いたい為、勝負を預けたい」と願い出る昌景に対し、弥太郎は、
「主君を救うは武士の習い。貴殿の忠義に免じ、この勝負はまたの機会に」と槍を引いて退いたという。
弥太郎が快諾したことに恩義受けた昌景は、
「花も実もある武士(もののふ)よ」と、弥太郎を賞賛したという。
直ちに義信救援に向かった昌景は、義信を援護し、この難を免れたという。

山県昌景(やまがたまさかげ)
甲斐武田氏の家臣で、武田四天王の一人。名は飯富源四郎。
『甲陽軍鑑』に拠ればはじめ武田晴信の近習として仕え、信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、
信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。
その後も数々の軍功を重ね、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われた。
その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となる。

小島弥太郎 / 小島貞興(こじまやたろう / こじまさだおき)
上杉氏家臣。諱は一忠(勝忠)。通称は慶之助。
上杉謙信の幼少期から側近として仕え、強力無双の豪傑で、「鬼小島」と恐れられたと言われる。
しかし弥太郎は、上杉氏の軍役帳や名簿に記載されておらず、実在したかどうかを疑われている人物である。
上杉家中には小島姓を名乗る人物が多く存在するため、そこから創作した人物という説もある。

甲越信戦録(こうえつしんせんろく)
甲越信戦録は,甲陽軍鑑の異本の一つとされている。

その他にもおもしろい逸話がある。
武田信玄の麾下の武将、伊那小笠原氏の一族小笠原若狭守長詮は、
この合戦に伊那小笠原氏重代の太刀 「狐丸」(きつねまる)を帯びて出陣している。
永禄四年(1561年)九月十日
徳栄軒信玄の命により、妻女山から敗走する上杉勢を迎え討つべく八幡原に布陣していた長詮は、
馬蹄の響きと共に獣の咆哮をおもわせる怒号を上げ、朝霧の中から突如現れた、上杉勢に翻弄され、
壊滅寸前となっていた。
「もはやこれまで」と玉砕覚悟で上杉勢への突撃を下知する長詮に、家臣桑山茂見(くわやましげみ)が、
「殿は逃れて再起を」と諭し、主君の鎧甲に身を固めた茂見は、
「われこそは、新羅三郎義光の苗裔、小笠原若狭守長詮なり!」と叫び敵勢に突撃し、長詮の身代わりとなって討ち死にしたという逸話が残されている。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)・源義光(みなもとのよしみつ)
河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。
兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。
近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。
義光の子孫が後に、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏として発展する。

大激戦の末、何とか生き延びた長詮ではあったが、伊那小笠原氏重代の太刀「狐丸」を戦場で無くしていた。
合戦後、主君のために命を捧げた勇士桑山茂見の死を哀れみ、長詮は亡骸と武具を集めて塚を築き、墓を建て
桑山茂見の霊を弔わせた。
すると奇妙な事に毎夜この塚に狐が集まり鳴き騒ぐという噂がたった。
噂を聞きつけ不思議に思った長詮は、里人を集めこの塚を掘り返してみたところ、
人骨に混ざって伊那小笠原氏重代の太刀「狐丸」が出てきたという。
桑山茂見は死して尚、伊那小笠原氏家臣としての誇りを失わなかったという逸話である。
以来、この塚を「狐丸塚」「狐塚」と呼ぶようになったといわれる。

小笠原(おがさわら)
甲斐源氏の嫡流である武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族。
室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、
時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用されていた。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。

また、狐丸の太刀を作刀した京都三条の刀鍛冶三条宗近(さんじょうむねちか)には次のような逸話が伝えられている。
一条天皇の宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられている。
一条天皇より作刀を命じられた宗近は、藤の森稲荷社(京都府伏見区深草藤森神社)に毎日参詣した。
その後、宗近が劔(剣)を打つ時に、一人の童子が来て相槌(あいづち)をした。
宗近は不審に思い、「何れの人ぞ」と尋ねたところ、その童子は、
「我は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の神勅(しんちょく)で参った末社の白狐神(びゃっこしん)である」という。
このようなことから、白狐神が相槌して打ったので、宗近の劔を狐丸と伝えているとされている。
川中島の激戦で、小笠原長詮が危機を遁れることのできたのは、主君の身代わりとなって討死した桑山茂見の忠義はいうまでもないが、名劔の神徳でもあるとも伝えられている。
三条宗近の現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」「三条銘」とがある。
代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」



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