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天下泰平を望む信長の強い意思

 【11//2013】

天下泰平を望む信長の強い意思


永禄十年(1567年)十一月九日
居城を岐阜城に移した織田尾張守信長に、
正親町天皇(おおぎまちてんのう)より綸旨(りんじ)が下された。

尾張と美濃両国にある天皇家の領地、「御料所を回復せよ」という内容のものであった。
「今度、国々本意に属すの由、武勇の長上(ちょうじょう)、天道に感応(かんのう)す、古今無双の名将、いよいよこれ乗り勝つられべく条、勿論たり。就中、両国御料所、且は、御目録を出ださるるの条、厳重に申しつけらるれば神妙たるべきの旨、綸命かくの如し。
これを悉すに状を以ってす。」

尾張と美濃を平定したのはその武勇と天の導きであり、その両方を兼ね備える信長こそが「古今無双の名将」であると褒め称え、上洛を勧めた。
当時の概念で言うと「天下」とは、「天下人」と称される足利将軍や天皇を指していた。
その伝統的な権威である天皇が信長を認めたのである。

正親町天皇(おおぎまちてんのう)
第106代天皇。後奈良天皇の第2皇子。母は藤原栄子(吉徳門院)。
弘治3年父後奈良天皇の死で践祚(せんそ)したが、即位式は毛利元就らの献金により3年後におこなわれた。
織田信長、豊臣秀吉らの援助で宿願だった皇居の修理、伊勢神宮の造営や遷宮、朝儀の復興などにつくした。

綸旨(りんじ)
「綸言の旨」の略であり、天皇の意そのものを指していたが、平安時代中期以後は天皇の口宣を元にして蔵人が作成・発給した
公文書の要素を持った奉書。
御綸旨(ごりんじ・ごりんし)とも呼ぶ。

御料所(ごりょうしょ)
天皇(皇室)及び幕府などのいわゆる「公儀」と称される公権力が直接支配した土地(直轄地)。


「武力」では得る事が出来ない勝利も、「権威を掌中に収める事」で武力を使わずに手に入れる事が出来るのである。
「権威を掌中に収める」とは、「天下人」と称される足利将軍や天皇を「掌中に収める」事を意味していた。
しかしそれは日本の中央である京都にいてこそ機能するのである。
そこで信長は、再度「義昭を擁して上洛する」という構想を練り始めた。
この頃から信長は、「天下布武」の印判を使用し始めるようになる。

「天下布武」とは「天下に武を布(し)く」、武力を持って天下を統一するという事である。
しかし、越後国の上杉弾正少弼輝虎や、甲斐国の武田徳栄軒信玄を警戒している信長が、
「武力を持って天下を統一する」などと豪語するのには少し時期が早すぎる様な気がする。


この「天下布武」には異説もある。
「武」とは、「武力」ではなく正しくは「戈(ほこ)を止(と)める」という。
「武器を手にしての戦いを止める」という事を意味している。
「天下布武」とは「七徳の武」をもって天下を治めるという春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)を引用した言葉である。
武の七つの徳「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」を全て兼ね揃えた者が天下を治めるに相応しいという。
また、「天下」とは、「日本全土」という意味ではなく、「天の下」、この世の中、という意味であるという。
この「天下布武」の思想を信長に授けたのも臨済宗妙心寺派の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)であるとされている。
異説の方がしっくり来る。

春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)
孔子の編纂と伝えられる歴史書「春秋」の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。
通称「左伝」(さでん)。「春秋左伝」、「左氏伝」ともいう。
現存する他の注釈書として「春秋公羊伝」、「春秋穀梁伝」とあわせて春秋三伝と呼ばれている。

沢彦宗恩(たくげんそうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国周の故事にならい沢彦の挙げた
「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。


また信長は、「天下泰平」を強く望んでいたとも言われており、岐阜城下の繁栄を願った「楽市楽座」の制札に、天下泰平の世にしか姿を見せないと言われる古代中国の空想上の動物、麒麟(きりん)「麟」の字をかたどった花押を使用している。
この花押が意味することは、自らの政権の基盤を強化し、乱れた天下を泰平に導こうとする信長の強い意思表示が込められている。

天下泰平(てんかたいへい)
争い事や揉め事が起こらず、良い治安、安定した秩序がある状態。

麒麟(きりん)
中国神話の伝説上の動物。鳥類の長である鳳凰と並び獣類の長とされる。
神聖な幻の動物と考えられており、1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。
王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物(=瑞獣)であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。


政権基盤の強化を図る信長は、荒廃した岐阜城下の加納地域の復興につとめ、
その施策として楽市楽座の制札を発給している。
加納楽市場の「定」は、主に以下の三箇条からなる。
一、当市場越居之者、分国往還不可有煩、并借銭・借米・地子・諸役令免許訖、雖為譜代相伝之者、不可有違乱之事
一、不可押買・狼藉・喧嘩・口論事
一、不可理不尽之使入、執宿非分不可懸申事
右条々、於違犯之輩者、速可処厳科者也、仍下知如件、
                       永禄十年十月日     (信長)

一、加納に移り住む者には、信長が治める領地内の通行は自由とし、借金、借米、借地料その他諸税負担は一切免除する。
   織田家譜代家臣といえども制札にそむいてはならない。(商人に圧力を掛けてはいけない。)
一、権力を使っての売買行為、狼藉、喧嘩、口論は禁じる
一、不法な用件の使者(身元不明者)を市場に入れての横暴、宿泊を禁じる

信長は市場を「座」の制度から開放し、自由な取引を行なわせ、
商業の繁栄による経済政策を行なったのである。

平安の時代より寺社や公卿が独占販売権、非課税権、不入権などの特権を有していた為、商売を行なおうとする者は、
寺社や公卿の許可を得て「座」と呼ばれる組織に入り、商いの権利を与えてもらう代わりに「座銭」というものを
寺社や公卿に納める必要があった。
その為、当時の経済的利益のほとんどが寺社や公卿によって独占され既得権化していたのである。
そこで信長は座の制度を排除し、絶対的な領主権の確立を目指すとともに、
税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図ったと言われている。
しかし信長は領内のすべての市場を楽市場とした訳ではなく、「特例」として加納市場のみに限定している。
それは戦火を逃れ四散した町人の復帰と、灰燼に帰した岐阜城下町の復旧を迅速に行なう為の「特例」であった。

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは日本史に、
「岐阜城下は、八千ないし一万の人口を数え、取引や用務で往来する人々の数はおびただしく、塩を積んだ多くの馬や、反物、その他の品物を携えた商人たちが諸国から集まっており、世界文化の中心として栄えた古代都市バビロンの繁栄を思わせるほどであった。」と当時の岐阜城下の繁栄を記している。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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天下取りの意思を天下に知らしめるための改名

 【10//2013】

天下取りの意思を天下に知らしめるための改名


永禄十年(1567年)八月十五日
稲葉山城(井口城)を攻略した織田尾張守信長は、
「井口」「岐阜」と改め居城を移している。
通説では、「岐阜」という地名の由来は、
「周の文王(ぶんのう)が岐山より起り、天下を定む」という中国の古事や、
孔子の誕生地が「曲阜(きょくふ)であったことから、その名がついたとされている。

文王(ぶんのう、ぶんおう)
中国周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。周王朝の創始者である武王の父。
賢者を敬い、太公望などの名臣を集め、周囲の諸族を征服し、陝西に力を振るった。

孔子(こうし)
中国春秋時代の思想家、政治家、指導者。
魯の大臣になり、のち諸国を巡歴し理想の道を説いた。
再び魯に戻り、子弟の教育にあたりながら、経書を編集、仁を理想の徳として、実生活にも生かそうとした。
漢以後もその教えは国教とされた。

曲阜(きょくふ)
周・春秋時代の魯国の故地であるほか、孔子の生地として世界に知られている。
曲阜は中国政府の「国家歴史文化名城」(歴史都市)の称号が真先にあたえられたほか、1994年にユネスコの世界遺産にも登録されている。


江戸時代中期の尾張藩の記録「安土創業録」や、
宝暦六年(1758年)に尾張藩儒学者松平君山(まつだいらくんざん)が編纂した「濃陽志略」にも信長命名とある。
また「安土創業録」の記述を引用して記されたとされる、
明治十八年(1885年)に長瀬寛二が編纂した「岐阜志略」にも、
「岐阜は織田信長始て名付られしとぞ創業録に曰信長は井ノ口の城手に入けれは澤彦和尚へ使者を以て爰に来り給へ宣ふ澤彦井ノ口に到る信長兼て小侍従と云者に宿を仰付らる信長澤彦に対面せられ井ノ口は城の名悪し名を易給へと澤彦老師岐山岐陽岐阜此内御好次第にしかるべしと信長曰諸人云よき岐阜然るべしと祝語も候哉と澤彦曰周文王起岐山定天下語あり此を以て岐阜と名付候無程天下を知召候はんと信長感悦不斜額の名盆に黄金を積て賜り此盆は豊後の屋形より来る秘蔵有へしと仰せける」
信長が初めて「岐阜」と命名したと記されている。


「井口」という名が気に入らなかった信長は、政治顧問ともいうべき臨済宗妙心寺派の禅僧である
沢彦宗恩(たくげんそうおん)に改名を指示する。
そこで沢彦が、「天下取りの意思を天下に知らしめるための名」として、
「岐山」「岐陽」「岐阜」を候補に挙げ、その中から発音しやすい「岐阜」が選ばれたとされている。
その際沢彦が「祝語」として「周の文王の古事」を述べ、その古事を聞き喜んだ信長が沢彦に黄金を与えたと云う。

沢彦宗恩(たくげんそうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、中国周の故事にならい沢彦の挙げた
「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。


しかし、「岐阜」という名は「信長命名」以前から使われていたという異説もある。
大正四年(1915年)に岐阜市教育会が編集した「岐阜市案内」では、
「一説には、古来、岐府、岐陽、岐山、岐下と書き、明応永正の頃より旧記に岐阜と見えたれば、信長の命名にあらず」と記されている。
また、編者不明で江戸時代(年代不詳)に編纂されたとされる「美濃国諸旧記」によると、
「山を岐山といひ、里を岐阜といふ事、昔明応の頃より、永正の頃迄の旧記に、岐阜・今泉・桑田・中節・井ノ口といひけるを、信長公御入城の後、沓井・吉田をあはせ、加納と号し、中節・井ノ口・今泉・桑田を合せて岐阜と定めらるる。」と記されている。
明応(めいおう)は、1492年から1501年までの期間を指し、永正(えいしょう)は、1504年から1520年までの期間を指す。
という事は、永禄十年(1567年)に信長が美濃を攻略する七十五年も前から「岐阜」の名は使われていたという事になる。



「岐阜という地名は昔からあった」
元々使われていたが、支配者が変わり使われなくなった「岐阜」という名を信長が復活させたのではないか。
「岐阜改名」は単に支配者が替わった事を世に知らしめる目的での改名なのでは・・・・。
これから将軍候補者である足利義昭を担ぎ、上洛して天下に号令を掛けようと目論む信長が、
「天下取りの意思を天下に知らしめるため」の改名を果たしてするだろうか。
また越後国の上杉弾正少弼輝虎や、甲斐国の武田徳栄軒信玄を警戒している信長が、
「美濃を制するものは天下を制す」と称される美濃の地で
「天下取りの意思を天下に知らしめるための改名」を行なえばどうなるのか、信長が「天才」でなくても解るものである。
「天下取りの意思」を示すにはまだ時期が早すぎるのである。


「天下取りの意思を出来るだけ悟られないことが肝心である」と考えていた信長は、改名にも細心の注意を払っていた。
そこで信長の真意を良く理解していた沢彦が、旧名である「岐山」、「岐陽」、「岐阜」を候補に挙げ、
「祝語」として「周の文王の古事」を述べた。
喜んだ信長は沢彦に、黄金を与えた。
という事が一番しっくりくるのではないだろうか・・・・・・。




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美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-②

 【05//2013】

美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-②


いよいよ稲葉山城攻略であるが、「信長公記」には、落城したのが何年であるかは記載されていない。
信長公記 稲葉山御取り侯事の項によると、
「八月朔日(さくじつ)、美濃三人衆稲葉伊予守、氏家卜全、安東伊賀守申し合せ侯て、信長公へ御身方に参ずべく侯間、人質を御請取り侯へと、申し越し侯。然る間、村井民部丞・島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず侯に、俄かに御人数出だされ、口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ侯。」

永禄十年(1567年)八月一日
美濃斎藤家において重要な立場を占めていた美濃三人衆が投降してきた為、信長はすぐさま
村井民部丞貞勝(むらいさだかつ)島田所之助秀順(しまだひでより)を人質受取の使者として西美濃へ派遣。
美濃三人衆の内応を確認すると、信長は人質の到着を待たずして出陣。
稲葉山と峰続きの瑞龍寺山(ずいりょうじさん)に駆け上り陣を構えた。


美濃三人衆
稲葉 良通 / 稲葉 一鉄(いなば よしみち / いなば いってつ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国曽根城主。
安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。
土岐氏、斎藤氏三代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。
号は一鉄(いってつ)。これが「一徹」という言葉の語源である説が有力。

安藤 守就(あんどう もりなり)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方城主。
稲葉一鉄、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。
土岐氏、斎藤氏三代、織田信長に仕える。
天正8年(1580年)8月、武田勝頼と内通したという理由により織田家より追放。
佐久間信盛・林秀貞・丹羽氏勝という他の重臣も、別々な理由により追放されている。

氏家 直元(うじいえ なおもと)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国大垣城主。
稲葉一鉄、安藤守就と併せて西美濃三人衆と併称される。
出家後に名乗った「卜全」(ぼくぜん)の号が著名であり、一般的には氏家卜全として知られている。
最盛期には美濃国の三分の一を領し、三人衆の中では最大の勢力を有していたとされる。


「敵か味方かと申すところに、早、町に火をかけ、即時に生か城になされ侯。其の日、以外に風吹き侯。翌日御普請くぱり仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまはし、取り籠めをかせられ侯。左侯ところへ美濃三人衆も参り、肝をひやし、
御礼申し上げられ侯。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ侯なり。」

瑞龍寺山に陣を構えた信長は、すぐさま稲葉山城下の井口まで攻め入りこの町を焼き討ちし、
稲葉山城を裸城にしてしまう。
永禄十年(1567年)八月二日
信長は、稲葉山城を隔離する為、城の周囲に鹿垣(しがき)を作る土木工事を着手する。
そこへ美濃三人衆が挨拶に来て、驚愕する。
信長に投降してわずか数日の間に、稲葉山城は完全に信長軍に包囲されていたのである。

鹿垣(しがき)
枝のついた木や竹で作った垣。田畑に鹿(しか)や猪(いのしし)などの侵入するのを防ぐもの。
砦(とりで)の周りに設けて防御用にした垣。鹿砦(ろくさい)。


「八月十五日、色々降参侯て飛騨川のつゞきにて侯間、舟にて川内長島へ、龍興退散。
さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。
井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、明くる年の事。」


永禄十年(1567年)八月十五日
信長軍に完全に包囲された美濃勢は、「もはやこれまで」と我先に降参し始めた。
信長の勢いに成す術を失った(戦意喪失した)斎藤右兵衛大夫龍興は、船で飛騨川を下り伊勢国長島へと逃れた。
美濃斎藤家滅亡
かくして念願であった美濃国を掌中に収めた信長は、尾張小牧山から美濃稲葉山へと居城を移すし、
この地を「井口」から「岐阜」へと改めた。

信長公記に記された「稲葉山御取り侯事」の記述であるが、
稲葉山城攻略が余りにも簡単にまとめられている為、詳細がよく解らない。
ルイス・フロイスが記した日本史には、
「信長は策略を用いた」と記されている。
信長は決戦前夜、自軍の半分ほどの兵を一旦後退させ、別働隊を編成し、密かに斎藤勢の背後に廻り込ませた。
その際信長は、別働隊にあらかじめ用意しておいた斎藤家の旗印を掲げさせたという。
翌朝立ち並ぶ斎藤家の旗印を目の当たりにした龍興は、「自軍が優勢」と錯覚し、対峙する織田勢と正面から激突。
しかし、織田方の別働隊に背後を衝かれた斎藤勢は、総崩れとなった。
斎藤勢を壊滅寸前にまで追い込んだ信長は、そのまま稲葉山城へ総攻撃を仕掛け、陥落させている。
龍興は数人の家臣と供に騎馬で脱出し、京へ逃れ、その後堺へ移ったという。
「信長公記」「日本史」では内容が異なるのである。
しかしどちらにしろ、美濃三人衆の調略の他にも、信長の色々な策略の末、「稲葉山城攻略」を成功させた事は事実である。


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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-①

 【04//2013】

美濃斎藤家滅亡・稲葉山御取り侯事-①


稲葉山城攻略に関する時期が未だはっきりとしていないという。
「美濃明細記」、「土岐累代記」、「土岐斎藤軍記」、「豊鑑」等によれば、
稲葉山落城は永禄七年(1564年)としている。
「信長公記」にも稲葉山城攻略に関する記述はあるのだが、落城したのが何年であるかが記載されていない。
永禄七年(1564年)九月十五日付常在寺寄進状が、信長の書状として残されている。
寄進状とは、領地や財物などを神社や仏寺に寄付するとき、その趣旨を記した文書である。
その寄進状が鷲林山常在寺(しゅうりんざんじょうざいじ)に残されている。
常在寺は斎藤山城守道三長井新左衛門尉が二代にわたり美濃国を制する拠点とした寺であり、道三以降、斎藤氏三代の菩提寺とされている。
信長は美濃攻略後、舅である道三の菩提寺を手厚く保護したのかも知れない。
また、永禄七年(1564年)九月九日付で、信長が上杉家家老直江大和守景綱に送った書状に、
美濃を攻めたことが記されている。



信長の稲葉山城攻略は、永禄七年(1564年)説が正しいのか。
それは違う。
永禄七年(1564年)から永禄十年(1567年)に信長が岐阜領域に出した公的文書類は、
常在寺寄進状以外にはひとつも存在していないのである。
もし仮に永禄七年(1564年)の段階で信長が稲葉山城を攻略していれば、信長の書状や禁制が多く発給されているはずであるが、実際に岐阜領域内で発給された信長の書状、禁制は、永禄十年(1567年)九月、十月、十一月に集中している。
また、美濃国内の御料所回復を信長に命じた正親町天皇の綸旨永禄十年(1567年)十一月九日付とされている。
ダラダラと矛盾点を記したが、「永禄七年(1564年)説」では無い最も簡単で決定的な証拠がある。
それは、閏八月十八日付で、斎藤龍興に宛てた斎藤家四家老の連判状が存在している事である。
連判状とは、志を同じくする人々が、誓約のしるしとして自署し、判を押した書状である。
斎藤家四家老が主君龍興に宛て提出している連判状に記された日付が、最も簡単で決定的な証拠なのである。
(こよみ)では閏八月があるのは永禄九年(1566年)となる。
この事からも、永禄七年(1564年)説は成り立たない事が解る。



信長公記 稲葉山御取り侯事の項によると、
「四月上句、木曾川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野に御人数立てられ、御敵、井口より、龍興人数罷出で、
新加納の村を拘え、人数を備へ侯。其の間、節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣侯ひしなり。」

※何年であるかが記載されていない。
永禄十年(1567年)四月上旬
木曽川を越え美濃国加賀見野(かがみの)に出陣した信長は、新加納(しんかのう)で守備陣を構える
斎藤右兵衛大夫龍興率いる美濃勢と対陣するが、足場が悪く、馬を駆け回すことが難しいとして帰陣。
この戦で「信長が唯一恐れた神社」として後世に語り継がれている逸話がある。
寺社勢力に対し容赦ない攻撃で臨んでいた信長が唯一恐れた手力雄神社(てぢからおおじんじゃ)が加賀見野の地に今も存在している。
木曽川を越え美濃国加賀見野に進軍した信長は、手力雄神社に陣を構え、周囲の村を焼き払わせた。
すると辺りに霧が立ち込め、体の自由が利かなくなった信長は、呼吸もままならない状況に陥ったと云う。
これを「神罰」と恐れた信長は、手力雄神社と周辺の村々を手厚く保護し、稲葉山城攻めの戦勝祈願を行なったと云われている。
稲葉山城攻略後、信長は広大な社領を手力雄神社に寄進し、神社境内における濫坊狼藉(らんぼうろうぜき)、陣執(じんどり)、放火、竹木伐採を禁じる禁制を永禄十年(1567年)十月六日付で出している。「信長公禁制」
また、手力雄神社には信長が寄進した「信長公宝弓」なども保管されているという。

手力雄神社(てぢからおおじんじゃ)
岐阜県各務原市那加にある神社。
各務原市那加地区の産土神で、各務原市内金幣五社の一社。
6世紀末期ごろ中里を支配していた豪族により、山の中腹に磐座を祀ったのが始まり。
元々は真幣明神(みてぐらみょうじん)という名の神社であったという。
壬申の乱で功績を挙げた村国氏、各務氏、また承久の乱以降守護家として繁栄した土岐氏、
土岐氏家来筋にあたる薄田(すすきだ)氏、佐良木氏などの手厚い保護を受けた。
信長が戦勝祈願したことから、今日では、勝運・開運の神としてスポーツ関係等各種団体の勝運・必勝祈願の参拝者で賑わう。

天手力雄神(てじからおおみかみ)
日本神話に登場する神。
「古事記」では天手力男神と表記される。
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、それにより世界に明るさが戻ったと伝わる。


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美濃斎藤家滅亡・プレハブ工法と割り普請

 【03//2013】

美濃斎藤家滅亡・プレハブ工法と割り普請


通説によると、木下藤吉郎秀吉は、蜂須賀小六正勝前野将右衛門長康らと共に
総兵力二千百四十余人を従えて洲股(墨俣)の地に侵攻し、敵の攻撃を防ぎながら数日間で砦を築いたとされる。
事前に「安全な場所で建築資材を調達・加工し、数千本という大量の材木を木曽川に流し(運搬)、
洲股(墨俣)の地(現場)で組み立てる」
という現代でいうプレハブ工法を採用している。

プレハブ工法(プレハブこうほう prefabrication method)
あらかじめ部材を工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法のこと。


この秀吉が採用したプレハブ工法だが、決して工期短縮という訳ではない。
確かに現場での作業時間は短縮されるが、事前に入念な検討や計画が必要となる。
現代のような機械があるはずも無い為、実際半年以上は準備に費やしていると思われる。
織田尾張守信長は、木下藤吉郎秀吉に、ある重大な密命を与えていた。
それは「過去に捨てた洲股(墨俣)の砦を美濃勢より奪還し、堅固な砦として修繕せよ」というものであった。
秀吉は春先より、蜂須賀正勝や前野長康ら川並衆と共に、夜を日についで働き、洲股(墨俣)侵攻の支度に急いでいたに違いない。

甫庵太閤記(ほあんたいこうき)によると、
「永禄九年九月朔日、北方の渡りより上において筏に組下さんと、悉く城具を川際へ持はこばせ積置しかば、
山の如くに見えけり。川に近き在々所々、加様之事に意得たる者を呼び衆め、筏に組せ給ふ。」


永禄九年(1566年)九月一日
工場での刻み、墨付け作業を終えた秀吉率いる尾張大工衆は、木曽川の川岸の至る所に、山のように積み上げた建築資材を筏(いかだ)に組み、いよいよ洲股(墨俣)に侵攻を開始する準備を整えていた。
洲股(墨俣)築塁には「迅速な行動」が必要とされていた。
万一事前に行動が斎藤勢に露見すれば、数万の兵をもってしも築塁は不可能であると秀吉は解っていた。
「然ば国中之人数三分にして、一分は、敵を抑え、二分は城之普請作事に掛候べし。」
秀吉は隊を三手に分け、その内蜂須賀党の細作らを遊軍として宵のうちに先発させ、警護に当たらせていた。
「九月四日、小牧山へ勢を衆められ、五日之未明に北川之川上に着陣し、美濃の地へ相越先城所に柵を付廻し、
ひたひたと城を拵むとし給ふに、井口より八千余騎之軍勢を段々に押し出し、城之普請をおさへんとせしを、
信長卿見給、敵は多勢なるぞ。柵より外へ出べからず。弓鉄砲にて能く防ぎ候へ。」


永禄九年(1566年)九月四日
小牧山に軍兵、大工、人扶らが集められた。
秀吉は「洲股(墨俣)築塁には迅速な行動が必要である」と説き、各担当を割り振り、
「早く仕事を仕上げた組には莫大な褒美を与える」と約束した。
これは「割り普請」といい、組と組とを競わせ、全体の作業スピードを上げる秀吉が最も得意とした手法である。
まだ秀吉が信長の小者頭に過ぎなかった頃、清洲城の石垣修理の仕事を請負い、瞬く間に完成させて人々を驚かせた秀吉の常套手段であった。

「プレハブ工法」と「割り普請手法」
「洲股(墨俣)築塁」は秀吉にしか出来ない城普請であった。
永禄九年(1566年)九月五日未明
組み分けが決まった者から、資材諸共筏に乗り、一気に川を下り洲股(墨俣)の地を目指した。
戦場での城普請は合戦さながらである。
一足先に洲股(墨俣)の地に向かっていた秀吉は、資材と共に到着する人扶らを指揮し、休む間もなく、
高さ六尺、横木を四段に取り付け、藤蔓、麻縄で二重にしめつけさせた馬柵の取り付け作業を行なっていた。
以前の砦の空堀や土塁の部分がほぼそのままの状態で残っていた為、作業は思いのほか順調に進み、
二重の馬柵は、早くも二百間ほどが連なっていた。
その時、陣鐘がはげしく打ち鳴らされた。
斎藤軍八千余騎が法螺貝を吹きならし、ときの声をあげ、洲股(墨俣)の砦に殺到して来たのである。

「敵は多勢なるぞ。柵より外へ出べからず。弓鉄砲にて能く防ぎ候へ。」
秀吉は事前に配置しておいた足軽鉄砲隊三百挺余に一斉射撃を命じた。
木下隊を弱兵と侮っていた斎藤勢は、馬柵を薙ぎ倒し突入を試みるも、二重の馬柵が思いのほか頑丈で、
それに手間取るうちに秀吉の号令の下、天地も崩れんばかりの、轟音とともに足軽鉄砲隊三百挺余による
一斉射撃が行なわれ、将棋倒しに撃ち倒された斎藤勢は、やむなく退却する。
二度三度と攻め寄せる斉藤勢の騎馬武者による突撃は、明け方迄繰り返されたが、
その度に木下隊の鉄砲の餌食となった。
「かようの時之手柄は敵をば討ず共、唯要害之普請を出来しぬるが本意なるぞと下知し給ひければ」
「敵がどれほど仕掛けて来ようとも、これに構わず砦造りに専念よせ。」秀吉は徹底していた。
その後も斉藤軍の攻撃は執拗に繰り返されたが、
「普請之人々は夜は日に続て急ぎ、七日八日には、大形城も出来、塀櫓をもし立、其夜にぬり立、長屋に至るまで残る所もなく、いよやかに見えしかば、敵も輿をさましけるぞと聞えし。扨掘普請に悉く急がせ給ひけるに、
是も程なく出来しければ、武具兵糧等入置れ、藤吉郎に番手之士共相添、すえ置給ふ。」

寝る間も惜しみ立ち働き続けた秀吉は、ついに洲股(墨俣)築塁を成し遂げたのである。
昼夜兼行の普請によって七、八日のうちに、堀や馬柵をかため、矢倉をあげ、白壁が塗り上げられ、武者長屋、
馬屋に至るまで、大方城郭としての体裁を整えた。
思いがけない事態の進展に、攻めあぐねるばかりであった斎藤勢は、戦意を喪失し撤退する。
「洲股(墨俣)築塁成功」の報せを受けた信長は、大層喜び銀子百枚、金子五十枚を与え、
佐久間信盛、滝川一益の手勢より八百余人を秀吉の配下に加え、洲股(墨俣)の城主とした。
この破格の待遇に、秀吉は額を地に着け涙を流し喜んだという。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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美濃斎藤家滅亡・墨俣一夜城の真偽

 【02//2013】

美濃斎藤家滅亡・墨俣一夜城の真偽


永禄九年(1566年)九月二十四日
織田家足軽大将木下藤吉郎秀吉が、西美濃洲股(墨俣)の地に砦を築いたとされている。
しかし実際にそのような事が本当にあったのかどうかが疑問視されている。
洲股(墨俣)は西美濃に位置し、東から木曽川、西から犀川(さいかわ)、五六川(ごろくがわ)、糸貫川(いとぬきがわ)
天王川(てんのうがわ)が長良川(ながらがわ)と合流する広大な湿地帯であった。
その洲股(墨俣)に砦を築く事が出来れば、三里(約12km)先にある稲葉山城の喉下を押さえることになる。
稲葉山城を攻略するには、洲股(墨俣)の地に砦が必要である事は誰の眼にも明らかであったが、
見通しのいい広大な洲股(墨俣)の地に兵を出せば、たちまち西方二里(約8km)の大垣城と、北東三里の
稲葉山城から美濃勢が駆けつけ、蹴散らされてしまい、築塁する事は容易ではない事も明らかであった。
これまでにも
佐々内蔵助成政
滝川左近将監一益
柴田権六勝家
佐久間右衛門尉信盛
丹羽五郎左衛門長秀らが洲股(墨俣)の築塁に挑んだが、悉く失敗に終わっていた。
しかし秀吉はその洲股(墨俣)の築塁に成功している。

譜代の重臣が失敗を繰り返す中、足軽大将にしか過ぎない軽輩の秀吉が自ら城普請を志願し、
美濃国境の木曽川周辺に勢力を持つ土豪衆蜂須賀小六正勝前野将右衛門長康らの協力の下見事砦を完成させている。
尾張の土豪、大工等数千人余りを使い、木曽川上流から事前に用意しておいた材木、その他建築資材を筏で流し、洲股(墨俣)の地でそれらを組上げるという現代のプレハブ工法の先駆けともいえる工法を用いて砦を完成させたのである。
余りにも素早いことからその砦は「一夜城」と呼ばれた。


プレハブ工法(プレハブこうほう prefabrication method)
あらかじめ部材を工場で生産・加工し、建築現場で加工を行わず組み立てる建築工法のこと。


この「墨俣一夜城」は秀吉の出世物語には欠かせない逸話の一つである。
秀吉の一代記である甫庵太閤記(ほあんたいこうき)には、「秀吉軽一命於敵国成要害之主事」として「洲股(墨俣)」の名は無いものの秀吉が蜂須賀正勝や前野長康らの協力で敵地に何らかの拠点を築くことに成功した事が記されている。
しかし、「秀吉の墨俣一夜城はなかった」という説が今は有力視されている。
その根拠はというと、
「永禄四年辛酉五月上句、木曽川飛騨川大河打ち越え、西美濃へ御乱入、在々所々放火にて、其の後、洲股御要害丈夫に仰せ付けられ、御居陣候のところ、・・・・・・(中略)
廿四日朝、洲股へ御帰城なり。洲股御引払ひなさる。」


永禄四年(1561年)五月十三日
森部合戦で勝利した信長は、洲股(墨俣)の地に砦を築き、美濃侵出への橋頭堡(きょうとうほ)を獲得しているが、
この地で砦を維持することは困難であるとし、砦を放棄して清洲に撤退している。
「洲股(墨俣)に砦は存在していた」事になる。
甫庵太閤記でも、「敵地に何らかの拠点を築くことに成功した」事は記されているが、「洲股(墨俣)」という地名は一切記されていないのである。
また、「墨俣一夜城」と地名が出てくるのは、江戸中期に刊行された「絵本太閤記」以降の作品からである。
一説によると、江戸後期に色々と着色が加えられ、明治期に入り現在我々が知る逸話が完成したと言われている。
「墨俣一夜城は実在しなかった」というのが歴史家の先生たちの見解である。
そして決定的とされているのが「信長公記」に洲股築城に関する記述がないことである。
ちなみに「信長公記」で永禄九年(1566年)の記述としては、
稲葉山御取り候事
「四月上句、木曾川の大河を打ち越え、美濃国加賀見野に御人数立てられ、御敵、井口より、龍興人数罷出で、新加納の村を拘え、人数を備へ候。其の間、節所にて馬の懸引きならざる間、其の日、御帰陣候ひしなり。」

永禄九年(1566年)四月上旬
信長は木曽川を渡り、美濃国加賀見野(かがみの)に軍勢を集結させている。
一方龍興は、井口から軍勢を出撃させ、新加納の村に兵を配置して守備についた。
両軍の間は難所続きで馬の足場も悪かった為、信長はその日は何もせず帰陣したと記されている。

甫庵太閤記(ほあんたいこうき)
太閤豊臣秀吉の生涯を綴った伝記。
秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観やそれに基づく史料の解釈、改変も指摘されており、
加賀藩で俸禄を給っている関係からか、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も多く見られる。

繪本太功記(えほん たいこうき)
江戸中期の人形浄瑠璃および歌舞伎の演目。
近松柳・近松湖水軒・近松千葉軒 合作、時代物、全十三段。通称「太功記」。
明智光秀を主人公としており、本能寺の変で織田信長を討ってから、天王山の合戦で秀吉に破れて滅ぼされるまでの、いわゆる光秀の「三日天下」を題材にしている。


しかし天正十二年(1584年)四月に、池田勝三郎恒興の家臣伊木豊後守忠次墨俣城を改修した記録が残されていることや、昭和三十四年(1959年)に発見された前野家古文書「永禄州俣記」
墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されている事などから考えると、秀吉の墨俣一夜城があったとしても不思議ではない。
実際のところは「謎」である。


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1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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美濃斎藤家滅亡・序章

 【01//2013】

美濃斎藤家滅亡・序章


いよいよ信長の「美濃平定」が成就(じょうじゅ)する。
織田尾張守信長 VS 斎藤右兵衛大夫龍興の決戦が始まろうとしていた。
織田家VS斎藤家の戦は、先代より続く因縁的なものであった。
天文十六年(1547年)九月三日
信長の父織田弾正忠信秀は、尾張国中に援軍を要請し、義龍の祖父斎藤新九朗利政(斎藤道三)討伐の兵を挙げ美濃国へ侵攻。
信秀は、総勢約一万とも伝えられている大軍団で大規模な稲葉山城攻めを仕掛けるが、難攻不落の稲葉山城で
篭城策(ろうじょうさく)を採る利政に不意を衝かれ、壊滅寸前にまで追い込まれた。(加納口の戦い、井口の戦い)

その後、天文十八年(1549年)二月二十四日
織田弾正忠家家老平手中務丞政秀(ひらてまさひで)の働きにより、織田家と斎藤家は、
三郎信長帰蝶(濃姫)の婚姻によって和睦同盟を結ぶことになる。

しかし、弘治二年(1556年)四月二十日
斎藤山城守道三が、長良川の戦いで嫡子斎藤治部大輔義龍に討ち取られると再び織田家と
斎藤家の関係は険悪なものとなった。

永禄三年(1560年)五月十九日
桶狭間の戦い今川治部大輔義元を討ち取り、松平蔵人佐元康(徳川家康)と清洲同盟を結び、
東方の憂いを絶った織田上総介信長は、美濃攻略を本格的に着手する。
この頃、斎藤家では、義龍が急死しており、十四歳の斎藤右兵衛大夫龍興が家督を継いでいる。

義龍の急死を好機とみた信長は、
永禄四年(1561年)五月十三日
長良川を越え、美濃国へ侵攻
森部の地で斎藤勢と激突し、斎藤家譜代家臣長井甲斐守衛安日比野清実らを討ち取り、勝利する。

しかし永禄四年(1561年)五月二十三日
十四条の戦いにて、犬山城主織田十郎左衛門信清の弟勘解由左衛門信益が討たれるなど、
信長軍は苦戦し、清洲に撤退している。

永禄六年(1563年)三月
信長は再度、美濃国へ侵攻するが新加納の戦いで斎藤龍興に敗れ清洲に撤退。
この合戦以降、信長の美濃侵攻が「力攻め」から「調略、策謀」へと変化する。

永禄七年(1564年)二月
斎藤家譜代家臣安藤伊賀守守就(あんどうもりなり)と、竹中半兵衛重治(たけなかしげはる)がクーデターを起こし、稲葉山城を乗っ取るという大事件が勃発する。
重治らは半年ほど稲葉山城を占領した後、これを龍興に返還している。
この時、信長から重治に「城を明け渡すように」と誘いがあったというが、重治はこれを拒否したという。
しかし、このクーデターによって美濃斎藤家の衰退が明らかとなり、家臣らの離反が目立つようになった。

永禄八年(1565年)八月二十八日
美濃加治田城主佐藤紀伊守忠能(さとうただよし)が信長に内応したことにより、鵜沼城(うぬまじょう)、猿啄城(さるばみじょう)が織田軍によって落城。
それに怒った美濃堂洞城主岸佐渡守信周(きしのぶちか)が、鵜沼、猿啄の敗兵を集め堂洞城に篭城し、
織田軍と徹底抗戦するが、
丹羽五郎左衛門尉長秀
河尻与兵衛秀隆
森三左衛門可成
佐藤紀伊守忠能の軍に四方より攻められ落城。堂洞合戦(どうほらがっせん)
その後、岸信周に呼応した関城主長井隼人佐道利(ながいみちとし)も、斎藤道三の末子斎藤新五郎利治(さいとうとしはる)に破れて関城を奪われ、中濃地方が信長の勢力圏に入った。
信長は美濃の中央部(中濃)に楔(くさび)を打ち込み、東西を分断させたのである。

永禄八年(1565年)十二月五日
足利義昭より「上洛」の御内書を受け取った信長は、翌永禄九年(1566年)
義昭の調停により龍興と一旦和議を結ぶものの龍興が一方的に破棄した為、

永禄九年(1566年)閏八月八日
河野島の戦いに発展する。
この戦いで信長は、龍興に大敗を喫するものの美濃斎藤家は風前の灯(ふうぜんのともしび)であった。
それは信長の「調略、策謀」が完成されつつある事を意味していた。

佐藤 忠能(さとう ただよし)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三省。紀伊守。加治田城城主。
美濃国人衆で、藤原秀郷の流れを汲む家系と云わる。
美濃斎藤氏三代に仕え、関城主長井道利、堂洞城主岸信周の三者で盟約を結ぶ。
しかし、尾張織田氏の勢力が拡大するとその盟約を破棄し、いち早く信長に内通する。

岸 信周(きし のぶちか)
戦国時代の武将。通称は孫四郎、勘解由。美濃堂洞城城主。
美濃国人衆で、藤原秀郷から分かれた一族と云わる。
美濃斎藤氏三代に仕え、関城主長井道利、加治田城主佐藤忠能の三者で盟約を結ぶ。
永禄8年(1565年)、関城主長井道利と共に織田信長に寝返った加治田城主佐藤忠能と戦うが、
援軍に来た織田軍に敗れ一族もろとも城を枕に自刃した(堂洞合戦)。

長井 道利(ながい みちとし)
戦国時代の武将。通称は隼人佐、法名は徳翁。美濃関城主。
出自は長井長広の子(美濃国諸旧記)、長井利隆の子(美濃明細記)、斎藤道三の弟(武家事記)とはっきりしない。
道三の若いころの子で、義龍が生まれてから庶子扱いになったとも言う(横山住雄『斎藤道三』)。
美濃斎藤氏三代に仕えた重臣で、美濃可児郡・中美濃に勢力を築いた。
稲葉山城陥落後、斎藤龍興と共に伊勢に逃れ、その後、15代将軍足利義昭に仕えた。
元亀2年(1571年)8月28日、摂津白井河原の戦いで和田惟政の援軍として出陣して討死。

斎藤 利治(さいとう としはる)
戦国時代の武将。斎藤道三の末子といわれる。通称は新五郎、新五。諱は、長龍、長竜、利興ともいわれるが、
『竜福寺文書』『宇津江文書』により利治が正しいとされる。
利治は若くして織田家に寄し、美濃斎藤家跡取りとして織田信長に従軍し、天下統一戦に人生を捧げた。
天正10年(1582年)6月2日、京都二条城において主織田信忠と共に討死。


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戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
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織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。

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