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将来の収益基盤確保を目的に積極的に展開

 【27//2014】

織田信秀が勝ち旗に込めた意味


天文元年(1532年)
織田弾正忠信定は嫡男三郎信秀に家督と尾張勝幡城を譲り、自らは尾張木ノ下城にて隠居する。

信定は凡庸(ぼんよう)な人物ではなく尾張八郡の内、中島郡海西郡に勢力を広げ、
伊勢湾交易の要港津島湊を手中に収めていた。
この津島から得た経済力が、戦国大名としての織田弾正忠家発展の基礎となったと言われている。



戦国Check✓

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。

津島(つしま)
鎌倉時代から、尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。
全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町として、尾張一の豊かな町として知られた。
織田信定がこの地を押さえて以降、信長までの織田氏三代の経済的基盤が築かれた。




津島
当時津島湊堺湊よりも強大な経済基盤を持っていたと言われ、
尾張、美濃、伊勢、三河の主要な特産物が集散し、麻苧(あさお)、紙、木綿、陶器、塩、油草、海苔、荒布(あらめ)、
佐勢布、曲物(まげもの)、魚鳥など、多様な商品が売買され、甲冑、弓矢などの、武具職人の店も軒を連ねていた。

大永六年(1526年)
駿河今川家の外交顧問であり連歌師でもある宗長が尾張津島を訪れた際、
湊の広さは五、六町、寺々家々が数千軒もあったと日記に記している。



戦国Check✓

麻苧(あさお)
麻の繊維を原料として作った糸。麻糸。

荒布(あらめ)
古くは大宝律令や正倉院の文書にも登場し、現在でも薬品原料、肥料、食料品などとして用いられている。
日本では主に本州太平洋沿岸北中部に分布する。

曲物(まげもの・わげもの)
檜、杉などの薄く削り取った材を円形に曲げ、合せ目を樺、桜の皮などで綴じて作った容器。
曲物を作る職人を曲物師、特に曲げ職人を曲師という。

宗長(そうちょう)
室町時代後期の連歌師。号は柴屋軒。駿河今川家臣。
宗祇に師事して連歌を学び連歌界の指導者となる。
有力な武将や公家との交際も広く、三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能とも交流を持ち、
今川氏の外交顧問であったとも言われている。
「急がば回れ」を唱えた人物としても有名。


懐柔
織田弾正忠信定は津島の富力を財源として掌握する事を目論み津島を制圧するが、
武力で押さえ込むよりも織田弾正忠家の武力を見せ付けた上で和睦し、経済基盤を得るほうが得策と考えた
次期当主三郎信秀は、津島南朝十五党の党首大橋清兵衛重一の嫡子清兵衛重長へ娘を嫁がせ、
津島の懐柔に成功している。
当時、武士が商人と縁を結ぶ事は異例であった。

津島は全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町であり、
木曽三川を渡って尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として、発展した。
津島は特定の領主が支配することはなく町人の自治組織「惣」による都市として栄えた。
その中心となったのが「四家七苗字四姓」の土豪より構成された津島南朝十五党で、
その筆頭にいたのが尾張大橋家であった。



戦国Check✓

大橋重一(おおはししげかず)
戦国時代の武将。津島南朝十五党党首。尾張国津島の商人、豪族。
織田信秀は、重一の恵まれた経済力を後ろ楯に、主家に匹敵するまでに勢力を伸張させた。

大中臣氏(おおなかとみし)
日本古代の中央政権において祭祀をつかさどった貴族。
中臣鎌足の甥 中臣意美麻呂の息子である清麻呂が、神護景雲(じんごけいうん)三年六月「大中臣朝臣」を賜姓され、
以後その子孫は「大中臣氏」と称した。

尾張勝幡城(おわりしょばたじょう)
尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にあった城。


天文元年(1532年)
信定は嫡男である三郎信秀に家督と尾張勝幡城を譲り自らは隠居することになる。


勝ち旗
この地は元々塩畑(しおばた)と呼ばれていたが、縁起が悪いということで「勝ち旗」の意味を込めて「勝幡」と改名する。
勝幡村古城絵図によると、
勝幡城は、二重の堀で囲まれていた館城であり、三宅川が外堀の役目を果たしていた。
本丸は東西29間(約52.78m)、南北43間(約78.26m)、幅3間(約5.46m)の方形土塁と記されている。

天文二年(1533年)
権大納言山科言継が勝幡城に招かれた際、その規模と出来栄えに驚き日記に記している。
このことから、津島を商業地として支配下に置いた織田弾正忠家の経済力の凄さが窺える。



戦国Check✓

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの
多彩な才能の持ち主で、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。




次回 第三話 庶子と嫡子の戦国時代




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親密な関係性の中にひそむ・・・・

 【24//2014】

斎藤義龍が恐れた織田・明智の親密な関係


明智家臣
織田弾正忠家 と 土田家、明智家、生駒家のつながりは、古くから絡み合っていて深いものがある。

織田上総介信長の生母である土田御前は、美濃国可児郡土田城主土田下総守政久の娘とされている。

土田氏はもともと南近江守護六角氏の家臣として仕えていた根井氏が発祥と言われ、
文明年間(1469年~1486年)に、近江国蒲生郡から美濃国可児郡の土田村に移住し、土田姓を名乗り土豪となった。

政久の祖父 土田近江守秀定の代になると次第に頭角を現すようになり、
美濃国可児郡明智城主明智十郎頼秀に仕え明智家臣となる。

明智氏の家臣として所領を安堵された秀定は、更に勢力を拡げていき、
明応年間(1487年~1501年)に美濃土田城を築いたとされている。

戦国Check✓

土田 政久(どた まさひさ)
戦国時代の武将。官位は下総守。生駒親重と同一人物とも言われている。
美濃国可児郡土田(どた)の豪族とも、尾張国海東郡土田(つちだ)の豪族とも言われる。
織田信長の生母 土田御前の父。

六角氏(ろっかくし)
家系は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に栄えた。
近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。
また足利将軍家の管領代となり、近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、
伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされる。

美濃明智城(みのあけちじょう)
美濃国可児郡明智庄(現在の岐阜県可児市瀬田長山)にあった城。

美濃土田城(みのどたじょう)
美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)にあった城。



養子
土田近江守秀定の後継として家督を継承した治郎左衛門秀久は、
父と同様に明智家に仕え、以前から親交のあった尾張小折郡の土豪生駒左京進家広の娘を正室に迎える。
秀久は長男源左衛門泰久、次男甚助政久と子宝に恵まれるが、次第に両家は対立するようになり、
その事が原因で家広の娘は離縁され生駒家に返されている。

秀久に離縁さえ実家に戻された娘は、秀久の子を身籠っていてその時誕生したのが政久であり、
初代土田生駒家当主生駒甚助親重と同一人物であるという諸説もある。
また他説では、土田政久の子甚助親重を、尾張生駒家第二代当主であった生駒加賀守豊政が養子に迎え入れ、土田生駒家として分家させたという説もある。

因みに豊政の実子である生駒八右衛門家宗尾張生駒家の家督を継承している。

なぜ土田家の家督は、源左衛門泰久の子である弥平次が継承せず甚助政久が継承したのか

なぜ政久は後継者である甚助親重尾張生駒家へ養子に出したのか

なぜ生駒豊政は甚助親重を養子として迎え入れ土田生駒家として分家させたのか

正確なところは不明である。

戦国Check✓

生駒 家広(いこま いえひろ)
戦国時代の武将。尾張小折城主。尾張生駒宗家初代当主。
生駒氏は藤原忠仁の子孫で、大和国を本貫としていたが、応仁の乱の戦禍を逃れるため、家広は尾張国小折に移住する。
岩倉街道などが通る交通の要所であったことから家広は馬借として財を成し、
織田氏と関わりで勢力を拡大するようになった。
最大時には飛騨から東三河にまで商圏を拡大していた。

土田+生駒




美濃明智城落城時、尾張犬山城主織田十郎左衛門信清の援軍を待てず、
単騎にて明智兵庫頭光安勢に合流し奮戦した土田甚助とは、甚助政久の子である土田甚助親重を指し、
その後、生駒豊政の養子に入り生駒甚助親重と名を改めている。

親重と共に奮戦した土田弥平次は、土田源左衛門泰久の子とされ、土田家嫡流であったが、
明智城での戦いで討死し、甚助政久の次男源太夫も主家である明智家と共に明智城で討ち死にしている。

なぜ美濃土田家の男子が悉く討ち死にしている中で後継者である甚助親重
尾張生駒家へ養子に出されたのか・・・謎である。

戦国Check✓

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。

明智 光安(あけち みつやす)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は兵庫頭。明智光継の次男。明智光秀の叔父。
美濃国明智城主の家督を継いでいた兄光綱が若くして亡くなると、その子光秀がまだ幼かったため、
隠居していた父光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。
一説には光秀が家督を固辞したとも言う。


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仲の悪い兄弟っていったいどんな感じ

 【22//2014】

家督争い勃発・弟の謀反



織田上総介信長の同母弟である二歳違いの勘十郎信行は、「うつけ者」と呼ばれた兄に比べて
優秀な弟として家臣より認められる存在であった。

特に母親である土田御前は、同じ実子ながらも、嫡子であるがゆえに共に暮らすことを許されなかった信長に比べ
常に共に暮らしてきた弟信行に一辺倒の愛情を注いでいた。

そして、信長に替わって信行を織田弾正忠家の当主に立てたいと考えるようになっていた。
しかも、筆頭家老である林佐渡守秀貞もまた、信長を廃し、信行に織田弾正忠家の家督を譲らせようと企んでいた。


戦国Check✓

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。



土田御前(どたごぜん)
織田弾正忠信秀継室(織田大和守達勝息女が最初の正室であるが離縁)。
実名は不詳。別称は花屋夫人。法名は報春院花屋寿永大禅尼。

三郎信長勘十郎信行喜六郎秀孝の生母と言われているが
土田御前の出自については正確なところは不明である。

「土田」という呼び名であるが、
美濃可児郡の土田であれば「どた」
尾張国海東郡の土田であれば「つちだ」となる。

定説では美濃国可児郡土田の豪族土田下総守政久の息女とされているため、
「どた」が正しいとされているが異説もある。

織田と土田

「津島大橋記」「干城録」によれば、
三郎信長の生母は、美濃国厚見郡薮田の豪族小嶋日向守信房の息女とされている。
もしこの人物が土田御前以前の信秀継室である場合、土田御前は小嶋信房息女に続く三番目の継室となる。

織田達勝息女小嶋信房息女土田御前という訳だ。

小嶋信房と織田弾正忠家との関係は深いものがある。
「津島大橋記」によると、

而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女,大橋清兵衛重長ニ入輿ス

この一文には一部誤りがある。

大永年間に織田信長はまだ生まれておらず仮に信秀の娘としても信秀はまだ十四歳であり、相当無理が有る。
大橋家に嫁いだ御蔵の方は信定の娘ということでなければ辻褄(つじつま)があわない。

大永年間(1521年~1527年)初頭より津島衆織田弾正忠家との間では諍(いさか)いが絶えず行なわれていた。

織田弾正忠信定は津島を武力制圧し、支配下に入れるが、
武力で押さえこむよりも織田の武力を見せつけた上で和睦し、経済基盤を得るほうが得策と考えた信秀は、
生駒因幡守家宗の仲介により津島南朝十五党の党首大橋清兵衛重長御蔵の方を輿入れさせて
津島との繋がりを強固なものとした。

これにより織田弾正忠家は津島の経済力を元に主家である織田大和守家をも上回る力を手に入れるのである。

この輿入れの際、御蔵の方は小嶋信房の養女として輿入れしており、信房と織田弾正忠家の関係の深さが伺える。

また、三七郎信孝が伊勢国河曲郡の神戸氏の家督を相続した際、
山路弾正種常に代わり伊勢高岡城主に任命された小嶋兵部少輔は、小嶋信房の縁者という説がある。

もし土田御前と呼ばれる人物そのものが、本来は小嶋信房息女と同一人物であり、
その娘が土田政久の養女となり織田信秀に嫁ぐことになったという事はないのだろうか・・・・


戦国Check✓

織田 達勝(おだ みちかつ)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第七代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。

土田 政久(どた まさひさ)
戦国時代の武将。官位は下総守。生駒親重と同一人物とも言われている。
美濃国可児郡土田(どた)の豪族とも、尾張国海東郡土田(つちだ)の豪族とも言われる。
父土田秀久は尾張小折郡の土豪生駒家広の娘を嫁に迎えたが、後に離縁して実家の生駒家に返した。
しかし娘は既に子を身籠もっており、尾張の生駒家で産まれたのが政久であるという説もある。

大橋 重長(おおはし しげなが)
戦国時代の武将。織田弾正忠家家臣。通称は清兵衛。
織田信秀の娘婿で織田信長の姉婿に当たる。
大橋家は尾張津島の有力な豪族で織田家と親密な関係に早くからあり、
そのため重長の時代には信秀の娘を正室に迎えて信秀・信長に仕えた。

織田 信孝(おだ のぶたか)
安土桃山時代の武将。官位は従五位下侍従。織田信長の三男。神戸織田家初代当主。
信長の命で伊勢の神戸具盛の養子となる。
天正十年本能寺の変の際は四国攻めの総大将であったが、羽柴(豊臣)秀吉と合流し、明智光秀を討つ。
清洲会議後、美濃岐阜城主。
のち秀吉と対立し、柴田勝家と共に挙兵するが賤ケ岳の戦いで勝家が敗れたため岐阜を開城、天正十一年五月二日自害。



廃嫡
三郎信長土田御前は本当に血の繋がった母子なのだろうか・・・・

共に暮らすことを許されなかった信長に愛情を注ぐことは土田御前にはできなかった。
そしてなにより信長の狂気を受け入れることができなかった。

尾張清洲城乗っ取りに功のあった叔父孫三郎信光を謀殺することもあえてやってのける
信長の狂気に恐れた土田御前は、最愛の勘十郎信行に助けを求めるようになっていたのかもしれない。

信長公記によると、

さる程に、信長公の一おとな林佐渡守、其の弟林美作守・柴田権六申し合せ、三人として、

勘十郎殿を守り立て侯はんとて、既に逆心に及ぶの由、風説執々なり
とある。


宿老の林佐渡守秀貞、弟の林美作守通具柴田権六勝家とが結び、
上総介信長に叛いて勘十郎信行を立てるべく画策しているとの風聞が取沙汰されるようになった。


林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。こめのゝ城、大脇の城、清洲となご屋の間にあり。

是れも、林与力にて候間、一味に御敵仕り候



林秀貞を寄親としていた尾張荒子城主前田縫殿助利春が敵方となり、米野城・大脇城とつぎつぎと敵方にまわり、信長の敵対勢力が次第に大きくなり兄弟の仲は次第に険悪なものになっていった。


戦国Check✓

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

寄親(よりおや)
主従関係などを結んでいる者を親子関係に擬して、その主をいう語。
特に、戦国大名は有力な武将を寄親とし、在地土豪などを寄子(よりこ)として軍事組織を編制した。

尾張荒子城(おわりあらこじょう)
尾張国海東郡荒子(現在の愛知県名古屋市中川区荒子町)にあった城。

前田 利春(まえだ としはる)
戦国時代から安土桃山時代の武将。尾張国荒子城主。別名利昌。官位は蔵人、縫殿助。
子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。
尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、二千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。




弘治二年(1556年)八月

林兄弟が才覚にて、御兄弟の御仲不和となるなり。

信長御台所入りの御知行、篠木三郷押領。


秀貞に担がれた勘十郎信行は、
三郎信長の直轄地である篠木三郷を押領(おうりょう)して砦を構えた事により、
兄弟の間に決定的な亀裂が入ることになった。





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畿内と東国をむすぶ交通の要地 尾張を学ぶ

 【21//2014】

尾張国


天文二十年(1551年)三月三日

織田弾正忠信秀 急死

織田三郎信長が家督を継いだのは、十八歳の時であった。


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織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。



陪臣
尾張国は、東海道の西部に位置し、現在の愛知県西部に相当する。

信長公記によると、

さる程に尾張国は八郡なり。

上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。

半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随え、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、

大和守も城中に候て、守り立て申すなり



織田家は、斯波武衛家の家臣の家柄であり、発祥は越前国織田庄であると云われている。

室町時代、幕府の管領家で越前国や尾張国の守護を務める三管領 斯波武衛家の被官となり、
斯波武衛家と共に分国尾張へ移住し、尾張守護代を務めた。

斯波武衛家と織田家が尾張へ移住することになったのには、朝倉氏との因縁があった。
越前の戦国大名である朝倉家と、織田家には数代前にまでさかのぼる根深い因縁があった。
元々、両氏は、尾張、越前両国の守護斯波武衛家の被官であった。

ところが朝倉氏は、応仁の乱で幕府の為に奮戦し、功績を挙げ、
時の将軍足利義政より越前守護に任ぜられる事になる。

斯波氏に従い、尾張に移住する事となった織田氏は、
主家である斯波氏に取って代わった朝倉氏を、逆臣と罵り(ののしり)、
朝倉氏は依然として斯波氏の被官である織田氏を、陪臣(ばいしん)とさげすみ、両氏の対立は
信長の時代に至るまで続いていた。




戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

武衛家(ぶえいけ)
斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。
武衛とは兵衛府の唐名で、室町時代以降の斯波氏当主が代々左兵衛督や左兵衛佐に任ぜられたことに由来する。

織田庄(おだのしょう)
越前国丹生郡織田(現在の福井県丹生郡越前町)辺りの地。

管領(かんれい)
室町幕府における将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
足利氏一門の斯波氏、細川氏、畠山氏の三家が交代で就任し、「三管領」「三職」と称された。
これと侍所頭人(所司)に任じられた四職(赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)を合わせて「三管四職」と呼ばれる。

被官(ひかん)
上級の武士に隷属する武士をいう。主に守護に従属する国人領主をいった。

守護代(しゅごだい)
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職。
守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。
これが守護代である。
守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。

朝倉氏(あさくらし)
家系は開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする説と、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるとする説の二つに分類される。
はじめ日下部氏を名乗るが、平安末期に但馬国養父郡朝倉に移住したことから朝倉氏を名乗るようになる。
その後、越前に移住し、南北朝時代に越前国守護斯波氏に仕えた朝倉広景を祖としている。
越前朝倉氏は、甲斐氏、織田氏と共に斯波三守護代の第二席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。
後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになった。

応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

足利 義政(あしかが よしまさ)
室町時代中期から戦国時代初期の武将。幼名は三寅、三春。官位は右馬寮御監、内大臣、右近衛大将、左大臣、贈太政大臣。
室町幕府第八代征夷大将軍。
幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎み、幕政を正室の日野富子や細川勝元・山名宗全らの有力守護大名に委ねて、
自らは東山文化を築くなど、もっぱら数奇の道を探求した文化人であった。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

陪臣(ばいしん)
武家の主従関係において家臣の家臣を指した呼称。「またもの」、「また家来」とも呼ばれた。

失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎 
失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎 
ヴァルハラ 本多忠勝伝 (ガンガンコミックスIXA) 真壁 太陽 (著)
英雄にっぽん (角川文庫) 池波 正太郎 (著)
描かれた戦国の京都―洛中洛外図屏風を読む 小島 道裕 (著)



系図
織田家は系図の上では、平資盛の子、平親真を祖とする桓武平氏流を自称しているが、
越前国織田庄の織田劔神社の神官の出自であるとされている。

織田劔神社にある藤原信昌 兵庫助弘置文の古文書によると、
鎮守府将軍 藤原利仁の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広父子が、
越前織田家の先祖に関連がある人物と伝えられている。


戦国Check✓

平 資盛(たいら の すけもり)
平安時代末期の平家一門の武将。尊称は小松新三位中将、持明院三位中将。官位は右近衛権中将、蔵人頭。
平家棟梁平重盛の次男。
治承四年の源氏挙兵以来、各地で源氏勢力と戦い、寿永二年従三位となって新三位中将と呼ばれた。
その後、平家一門と都落ちを共にし、元暦二年三月二十四日、壇ノ浦の戦いで戦死。
建礼門院右京大夫(うきょうのだいぶ)との恋愛でも知られる。

平 親真(たいら の ちかざね)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。通称は三郎。官位は権大夫。
織田氏、津田氏の祖とされ、織田 親真とも呼ばれる。
平家滅亡に際して、平資盛は子を身ごもっていた愛妾を近江蒲生郡津田庄の土豪に預け、親真を出産させたと云われる。
その後、親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、剃髪して、覚盛と号し神職についたとされる。

桓武平氏(かんむへいし)
桓武天皇の子孫で、平(たいら)の姓を賜った家系。
中でも葛原(かつらばら)親王の孫高望王(たかもちおう)の流れが有名で、
伊勢平氏や北条氏・畠山・千葉・三浦・梶原などの諸氏を輩出。

劔神社(つるぎじんじゃ)
越前国羽生郡織田(現在の福井県丹生郡越前町織田)にある神社。別名織田明神(おたみょうじん)。
垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命が作らせた神剣を御神体として奉り、神功皇后摂政の頃に、
第十四代仲哀天皇の第二皇子忍熊王が譲り受け、この神剣を御霊代とし祀ったことに始まると伝えられる。
奈良時代より祈願の霊場と尊ばれ、朝廷をはじめ多くの人々から厚い信仰を受け、
中世以降は、朝倉氏を始めとする多くの武将の崇敬も厚く、特に織田信長による格別の信仰をもって、神領は保護されていた。

藤原 信昌(ふじわら の ぶまさ)
南北朝時代の武将。
明徳四年(1393年)六月一七日に越前国の劔神社宝前に置文を奉納した人物。

鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)
日本の奈良時代から平安時代にかけて北辺の防衛のためにおかれた令外官の官職の将軍。

藤原 利仁(ふじわら の としひと)
平安時代中期の武将。従四位下鎮守府将軍。
伝説的な人物として知られ、『今昔物語集』には、「心猛クシテ其ノ道(武勇)ニ達セル者」とあり、
新羅征討を命じられたが、かの地にいた円珍に調伏された話を記す。


尾張国
信長が家督を継承したころの尾張国は、大小二百を越す土豪が乱立していた。

尾張守護代家の織田家は、
尾張岩倉城を居城とし、丹羽、葉栗、中島、春日井の上四郡を領有する織田伊勢守信安と、
尾張清洲城を居城とし、海東・海西・愛知・知多の下四郡を領する織田大和守信友とに分かれていた。
尾張

上郡と下郡とは川で隔てられており、下郡の織田大和守家は、
清洲城で武衛様[斯波義統]を保護しており、その下に清洲三奉行として、
織田因幡守家織田藤左衛門家織田弾正忠家があった。
織田家

三郎信長の生まれた織田弾正忠家は、
守護代であった織田大和守家に仕える清洲三奉行のひとつにすぎなかった。
地方行政のために室町幕府は各地に守護(大名)を任命し、守護の下には守護代が、守護代の下には奉行がいた。

いわば織田弾正忠家の家督を継いだ信長は、地方の弱小田舎領主でしかなかったといえる。
しかしすでに下克上の世となっていたこのころには、守護は守護代に、守護代は奉行に、その座を脅かされていた。

身分の上下など、もはや問題ではない。
力のある者だけが生き残ることができる時代であった。

下克上の世を反映して勢力を伸ばしていった信秀の急死は、尾張の勢力図を一挙に書き換えるのに
十分な出来事であった。

信秀在命中にはおとなしくしていた者が、牙を剥き出しにして様子を伺っている。
敵は尾張の中に留まらず、当時、強大な勢力を誇っていた駿河今川氏からの脅威にもさらされていた。


戦国Check✓

土豪(どごう)
その土地に勢力がある豪族のこと。
一般的には有力な豪族の傘下にあるか、あるいは独立した在地の数村を支配する小さな勢力の豪族のことを指す。

尾張岩倉城(おわりいわくらじょう)
尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城。

織田 信安(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は三郎、七兵衛尉。官位は伊勢守。織田伊勢守家第五代当主。
別称は岩倉織田氏。尾張上四郡守護代。尾張岩倉城主。
尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)の出身者とされる。
一説によると父 織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主なるが、まだ幼かったため、
織田大和守家の家臣筋「清洲三奉行」の一家 織田弾正忠家当主織田信秀の弟 犬山城主織田信康の補佐を受けた。
信長とはその父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、
幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

武衛家(ぶえいけ)
斯波氏の嫡流、すなわち室町幕府の管領をつとめた家柄をいう。
武衛とは兵衛府の唐名で、室町時代以降の斯波氏当主が代々左兵衛督や左兵衛佐に任ぜられたことに由来する。

斯波 義統(しば よしむね)
戦国時代の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十四代当主。尾張国守護。
父斯波義達が今川氏親に敗れたあと尾張守護となり、守護代織田信友に擁立されて清洲城にはいる。
信友の専権をおさえるため、密かに織田信長に内通するが、それが信友の知るところとなり、
天文二十三年七月十二日、信友の家臣 坂井大膳により殺害される。

今川氏(いまがわし)
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門であり、吉良家の分家にあたる。
吉良氏は足利将軍家の連枝としての家格を有し、その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、
吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで言われ、足利将軍家の血脈が絶えた際には、足利宗家の家督を継承することが許された一門。
吉良家を興した吉良長氏の二男である国氏が、吉良氏の所領から三河幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、
現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる。



次回 第四十六話 社長と会長 ⇒




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中小企業を取り巻く経済、経営環境とは

 【21//2014】

伊勢湾商業圏の争奪戦



伊勢湾交易織田弾正忠家の生命線これを断てば織田弾正忠家は滅亡

当時の織田弾正忠家は、尾張守護代であった織田大和守家に仕える清洲三奉行の一つに過ぎず、
いわば地方の弱小田舎領主でしかなかった。

織田家

しかし、信長の祖父織田弾正忠信定が、尾張八郡の内、中島郡 海西郡にまで勢力を広げ、
伊勢湾交易の要港津島湊を手中に収めたことにより、織田弾正忠家は主家大和守家をも凌ぐ勢力と化した。



戦国Check✓

織田氏(おだし)
家系は平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称しているが、
越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるとも云われている。
幕府の三管領の斯波武衛家の守護代であり、室町時代には尾張国の守護代を務める。
戦国時代には一族同士の争いの結果、弾正忠家の織田信長が勢力を大きく広げた。

織田大和守家(おだやまとのかみけ)
尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。
尾張八郡の内、下四郡を支配する守護代。別称は清洲織田氏。
元々は尾張守護代の「織田伊勢守家」の分家にてその代官である又守護代の地位にあったという。

清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)
清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ、尾張下四郡を支配下に治めていた尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)
に仕える奉行三家のこと。
因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家がある。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。

津島(つしま)
鎌倉時代から、尾張と伊勢を結ぶ要衝「津島湊」として発展した。
全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町として、尾張一の豊かな町として知られた。
織田信定がこの地を押さえて以降、信長までの織田氏三代の経済的基盤が築かれた。




織田弾正忠家が津島を支配することにより、津島湊は、東海海運業の拠点として発展していく。

貿易都市 商業都市として栄えた津島は、工業が発展し、それに伴い人口の増大、市場の拡大、交通の発達など、
急速に発展していき、東海一の文化 先進都市を誇ったと言われている。




武功夜話に、
尾張国丹羽郡小折村の生駒八右衛門家長という豪商の事が記されている。

尾張はいうに及ばず、遠く、飛騨・美濃・三河・伊勢・駿河方面にまで灰(肥料)や油(燈油)を商う大豪商であり、
伊勢湾交易の拠点津島湊の権益を背景に、織田三郎信長の雄飛を支えたともいえる人物である。



戦国Check✓

武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
三巻本、二十一巻本などいくつかの異本が存在している。

小折村(こおりむら)
尾張国丹羽郡小折村(現在の愛知県江南市)辺りの地。

生駒 家長(いこま いえなが)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒宗家第三代当主。
灰(染料用)と油を扱い、馬借としての商いで財を蓄えた武家商人。
はじめ犬山城主 織田信清の配下であったが、妹の吉乃(類)が織田信長に見初められ側室に迎えられ、
縁戚関係を結んだため、父ともに信長の家臣となり馬廻りとして仕えた。


武功夜話―前野家文書 吉田 蒼生雄(著)
青銭大名 東郷 隆(著)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹(著)
織田信長のマネー革命 (ソフトバンク新書) 武田 知弘 (著)
戦国武将 起死回生の逆転戦術 榎本 秋 (著)
その歴史常識にはウラがある! 歴史の謎研究会 




尾張生駒家は津島の有力な豪商で弾正忠家と親密な関係に早くからあった。

織田弾正忠信定がそれまで自治都市として繁栄していた津島を武力により支配した後、
津島商人の怒りを抑えるため弾正忠家の家督を継承した信秀は、
生駒因幡守家宗の薦めによって津島南朝十五党の党首大橋清兵衛重長御蔵の方を輿入れさせ、
津島との繋がりを強固なものとしていた。



戦国Check✓




交易遮断
伊勢湾交易が織田弾正忠家の生命線であったことは確かである。
その生命線の切り崩しを図ろうとしたのが今川冶部大輔義元であった。

天文十五年(1546年)十一月十五日
織田弾正忠家と誼(よしみ)を通じる、三河今橋城主戸田金七郎宣成の討伐に、
義元は太原崇孚雪斎を派遣する。

この今川義元による戸田宣成討伐は、
三河渥美郡の要部(現在の豊橋市)をほぼ制圧した戸田氏の勢力に不安を感じた為の討伐であったとも言われている。

義元は、伊勢湾交易の最大の要衝とされる、津島⇔渥美半島間の海上ルートの遮断に乗り出した。
通説では、今川義元は愚将のレッテルを貼られているが、決して愚将などではなかった。

三河今橋城攻略に成功した雪斎は、そのまま城代として入城。
これにより、津島⇔渥美半島間の海運業を押さえられた信秀は、経済的ダメージを受けることになる。


戦国Check✓

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

三河今橋城(みかわいまばしじょう)
三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内)にあった城。

戸田 宣成(とだ のぶなり)
戦国時代の武将。通称は金七郎、橘七郎、三郎兵衛尉。三河今橋城主。
三河国渥美郡大崎郷を領した、渥美郡田原城主 戸田弾正忠憲光の次男。
天文六年 今橋城主牧野田兵衛尉成敏を退けて宣成が城主となる。
これにより、戸田氏は渥美郡に田原城、二連木城を有していたものに宣成の今橋城を加えて、
渥美郡の要部(現在の豊橋市)を天文十年までにはほぼ制圧した。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

軍師(ぐんし)
軍中において、軍を指揮する君主や将軍の戦略指揮を助ける職務を務める者。
知将、策士などとも言われる。

太原雪斎と今川義元 (PHP文庫) 江宮 隆之 (著)
今川氏家臣団の研究 小和田 哲男 (著)
今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く 小和田 哲男 (著)
日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 新人物往来社
戦国大名 格付け 綜合図書



方向転換
駿河、遠江の太守今川冶部大輔義元と渡り合うには、
伊勢湾交易の最大の要衝である津島⇔渥美半島間の海上ルートを取り戻し、
国を豊かにする事が必定と考えていた信秀には、三河今橋城の奪取が最重要課題となった。
しかし、今橋城奪還を無理に進めれば、三河岡崎城の松平二郎三郎広忠に後ろを突かれる心配がある。

そして今川義元が本格的に動き出したことにより、いよいよ駿河今川家との全面戦争は避けられなくなった。

美濃の斎藤新九郎利政にも隙は見せれない状況であった信秀は、
三河安祥城陥落の際やむ終えず織田家に従属することとなった松平広忠の同族松平三左衛門忠倫に近づき、


松平家は今川家より独立するべき時が来た

織田、松平ともに闘い、三河より今川を追い払うべきであり、

松平家の元凶である愚将広忠を今こそ討つべきである


言葉巧みに忠倫を挑発するのである。


天文十六年(1547年)十月十九日
松平三左衛門忠倫 松平宗家に対し謀反を起こした。



戦国Check✓

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

松平 忠倫(まつだいら ただとも)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。松平清康の弟。松平広忠の叔父。三河佐々木城主。
松平宗家に反抗し続けた人物ではあるが資料が残されておらず、謎の多い人物。

謀反(むほん)
「謀叛」とも表記し、君主、主君にそむくこと。
特に武力、軍事力を動員して反乱を起こすことを指すことが多いが、少人数で君主、主君を暗殺する行為を謀反ということもある。



次回 第二十六話 忠義の証 ⇒




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まるで倒産寸前のようだ・・・・

 【19//2014】

松平家の結束


天文十一年(1542年)十二月二六日
松平次郎三郎広忠の嫡子竹千代が誕生したことにより、松平家中がにわかに活気付き、
分裂していた松平党が一つにまとまりはじめていた。

当時の松平家は、駿河国の今川冶部大輔義元が東三河にまで進出し、
西は尾張国の織田弾正忠信秀によって脅かされる状況にあったため、
今川氏との間で従属的な同盟関係を結ぶ事でどうにか家命を保っていた。

また広忠は、織田氏への備えとして、尾張との国境に近い西三河刈谷城主水野右衛門大夫忠政の娘
於大を正室として迎えていた。
これは水野氏との姻戚関係を築くことで国境を接する織田氏に備えようとする政略結婚であった。
その於大との間に、松平家の希望の星ともいえる嫡子が誕生する。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安倍郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

三河刈谷城(みかわかりやじょう)
三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市城町)にあった城。

水野 忠政(みずの ただまさ)
戦国時代の武将。通称は藤七郎。官位は右衛門大夫、下野守。
尾張緒川城を拠点として知多半島北部をその支配下においていたが、
天文二年(1533年)、三河刈谷に新城刈谷城を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせ
領土の保全を図った。

於大の方(おだいのかた)
戦国時代の女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。
尾張国知多郡の豪族 水野忠政とその夫人 於富との間に生まれる。
三河松平家との関係を強化するため、松平広忠の正室となり、長男竹千代(のちの徳川家康)を出産する。
しかし忠政の死後、水野家を継いだ兄 水野信元が今川家と絶縁して織田家に従ったため、
於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の三河国刈谷城に返された。



改正三河後風土記には、
三河岡崎城内で竹千代が産声をあげると同時に、鳳来寺に安置されていた真逹羅大将像が、
どこへともなく消え失せてしまったという不思議な事が記されている。

また、誕生の瞬間、城の上空に瑞雲が顕われ金鱗の龍が躍ったとも伝えられている。

こうした世継ぎ誕生秘話が、今川家の属国となり、さらに織田方にも領土を侵されようとする苦しい状況の中、
広忠や三河譜代衆の胸に新たな希望の光を灯させることになった。

また竹千代懐妊時の逸話であるが、於大の夢枕に薬師如来が立ち、
「わが十二神将のうち、真逹羅大将(普賢菩薩)をもってそなたに授けよう」との
託宣(たくせん)を得たとの逸話もある。

こうした言い伝えが生まれたのは、
於大の方が部下に命じてさまざまな奇瑞(きずい)を演出したからとする説が有力で、
於大の方が機知に富んだ女性であったという話に結びつく言い伝えである。


戦国Check✓

改正三河後風土記(みかわごふどき)
天保三年(1832年)に、徳川家斉の命により、
成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、
序文・首巻が付けられた全四十二巻からなる歴史書。
徳川氏創業史の一つで、徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。
江戸幕府の編纂物の一つ。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

鳳来寺(ほうらいじ)
三河国設楽郡黒瀬(現在の愛知県新城市)にある真言宗五智教団寺院。山号は煙巌山。
大宝二年(702年)に利修仙人が開山したと伝えられる。
文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、
鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。

薬師如来(やくしにょらい)
西方極楽浄土の阿弥陀如来に対する東方浄瑠璃界の教主。
正式名は「薬師瑠璃光如来」、「大医王仏(だいいおうぶつ)」とも呼ばれる。
医薬を司り、人々の病気を治し、安楽を与える。
そのため仏像は左手に薬壺を持っていることが多い。

真逹羅大将(しんだらたいしょう)
薬師如来を十二の方角から守護するとされる十二神将(じゅうにしんしょう)のうち、十番目(寅神)を司り、
化身前の本来の姿は、普賢菩薩(ふげんぼさつ)であるとされている。
世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕して人々を救う賢者。「普く賢い者」。

普賢菩薩(ふげんぼさつ)
大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。四七日の仏とされる。
「全てにわたって賢い者」という意味で、あらゆるところに現れ命ある者を救う菩薩。
文殊菩薩と共に釈迦如来の右脇侍として三尊で並ぶことが多い。
文殊菩薩の智慧とともに修行を司る菩薩として、明晰な智慧で掴み取った仏道の教えを実践していく役割を果たす。

瑞雲(ずいうん)
仏教などで、めでたい兆しとして出現する、紫色や五色の珍しい雲。

譜代(ふだい)
父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、
その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。
また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。

託宣(たくせん)
神託(しんたく)。神のお告げ。神の意志を伝えること。
人が神に教えを乞うもの、神が人に祭事などを求めて予告するものなどがあり、そのときの状態を神がかりといった。
神が乗り移る対象の多くは、女性、小児であり、また男性神職のことも歴史上よくみられる。

奇端(きずい)
めでたいことの前兆として起こる不思議な現象。


希望
言い伝えがどうこうという話は別にして、竹千代が松平の希望の星として誕生したことは間違いないだろう。
竹千代誕生を期に、広忠自身に松平家再興の野心が芽生えはじめていくことになる。

がしかし、
天文十四年(1545年)九月二十日

第二次安城合戦での敗北によって、松平家の地位は完全に地に落ち、
駿河今川家への依存はますます強くなることになる。


戦国Check✓

第二次安城合戦(あんじょうかっせん)
天文十四年(1545年)九月、三河国碧海郡安城縄手で行なわれた合戦。
安祥城奪還を目論む松平広忠が、織田信秀に挟撃を受け、軍勢を二つに分断され、退路を完全に断たれた際、
重臣本多忠豊が広忠の身代わりとなって敵本陣に突撃し、広忠を窮地から救った。
しかし、身代わりとなった本多忠豊は討死。

松平家の謎 「歴史読本」編集部
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ 嶋津 義忠 (著)
わが子に教えたい日本の心 石 平(著)
歴史雑学BOOK 図解 戦国ミステリー 合戦と武将50の謎 綜合図書





今川冶部大輔義元はこの時を待っていた。

義元は、伊勢国へ亡命していた広忠の三河岡崎城復帰の後押しをし、そのまま広忠に三河国を治めさせていた。
それは、裏で今川家がそれを操る傀儡政権を目論んでいたからである。

義元にとって、松平宗家の継承問題で弱体化した松平家を攻め滅ぼし、
三河国を奪い取る事はさほど難しい事ではなかった。

しかし、英雄松平二郎三郎清康の嫡子広忠への民の服従ぶりには深いものがあり、また世継ぎである
竹千代の誕生により、領民たちはより一層、松平宗家を慕うようになっていた。

今ここで三河国へ侵攻し、新領主として義元が三河国を経営する事になれば、
領内が乱れることは目に見えてわかっていた。

そこで義元は、駿河・遠江の太守として松平家を支援(同盟)する事を選んだ。

裏で広忠を操る方が三河国の民を抑えるのに都合が良いと考えていたからである。


戦国Check✓

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。

傀儡政権(かいらいせいけん)
事実上の支配者を他の権力者が、背後から管理・統制・指揮している政権である。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

ホントはどうなの?戦国武将への大質問 歴史の謎研究会
今川氏家臣団の研究 小和田 哲男 (著)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹(著)



安城合戦で、松平勢が大敗を喫したという報せを受けた義元は、大いに喜んだに違いない。
これを期に今川冶部大輔義元による松平家に対する外交政策がはじまることになる。



次回 第二十五話 伊勢湾商業圏の争奪戦 ⇒




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短気でキレやすい性格で何が悪い。世は乱世ぞ!

 【18//2014】

第二次安城合戦




天文十四年(1545年)
三河岡崎城主松平次郎三郎広忠が、三河安祥城奪還のため出陣。

三河安祥城の守りを任されていたのが、織田弾正忠信秀の庶長子織田三郎五郎信広であった。
庶長子とはいえ、三河侵攻の最重要拠点である三河安祥城を任されていたことからも、
織田弾正忠家での期待度は高かったものと思われる。


戦国Check✓

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

青銭大名 東郷 隆(著)
いくさの子 織田三郎信長伝 (ゼノンコミックス) 原哲夫(漫画) 北原星望(原作)
桶狭間戦記 (講談社) 宮下 英樹(著)
織田三代記 羽生 道英(著)
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ 嶋津 義忠(著)



天文十四年(1545年)九月
織田・松平両軍は、安祥城近辺の清縄手で激突する。

三河勢の一歩も引かぬ奮戦により、三河安祥城の織田信広勢が劣勢に傾きかけた時、
援軍に駆けつけた織田弾正忠信秀が、三河勢の背後から攻撃する。
三河勢もこれを迎え撃とうとするが、その隙を突いて安祥城から三郎五郎信広が自ら城を打って出て来た為、
松平次郎三郎広忠は、挟撃を受ける形となった。

退路を断たれることを恐れた松平家臣たちは、致命的打撃を受ける前に退却する様に進言するが、
広忠はそれを聞き入れず突撃を敢行する。

家臣の進言を聞き入れず、突撃を敢行した広忠は、自己の安全も絶望視される状態を作り上げてしまう。

広忠は討死を覚悟するが、重臣の本多吉右衛門忠豊(本多平八郎忠勝の祖父)が、
広忠の馬印を奪い取り、広忠の身代わりとなって織田信秀本陣深く突撃。

本多忠豊は織田勢の注意を引く事に成功し、広忠や生き残った松平勢は三河岡崎城への退却に成功する。

しかし身代わりとなり突撃した本多忠豊は討死することになった。


戦国Check✓

縄手(なわて)
三河国碧海郡安城縄手(現在の愛知県安城市安城町)辺りの地。

挟撃(きょうげき)
両方からはさみ撃ちにすること。

本多 忠豊(ほんだ ただとよ)
戦国時代の武将。通称は平八郎、吉右衛門。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第九代当主。

馬印(うまじるし)
戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。




短気でキレやすい松平宗家
享禄二年(1529年)
三河今橋城主牧野伝蔵信成を攻めた下地合戦での父松平二郎三郎清康にしろ、

元亀三年(1573年)
武田軍の西上作戦の過程で行われた三方ヶ原の戦いでの息子徳川蔵人佐家康にしろ、

松平宗家の歴代当主は皆、怒りで我を忘れ、死地を臨む傾向がある。
松平宗家の人々は「カッ」となりやすい短気でキレやすい性格なのかもしれない。


戦国Check✓

牧野 信成(まきの のぶしげ)
戦国時代の武将。通称は伝蔵・田三・田三郎。三河今橋城主(吉田城)。
享禄二年(1529年)、松平清康の進攻を受けて居城今橋城落城。信成は一族郎党七十余名と共に討死。
異説ではあるが、下地合戦、今橋落城を天文元年(1532年)とする説が存在する。

下地合戦(しもじかっせん)
享禄二年(1529年)五月二十七日に三河国下地で行われた合戦。
東三河に侵攻する猛将松平清康とそれを迎え撃つ三河今橋城主牧野信成との合戦。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
元亀三年(1573年)十二月二十二日に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった、
武田信玄軍二万七千人と徳川家康軍一万千人(うち織田信長からの援軍三千人)との間で行われた戦い。
徳川家康が大敗したことで有名な戦。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。




次回 第二十三話 大馬印由来諸説 ⇒




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執拗に迫り来る 毒蛇の攻撃

 【18//2014】

下克上の最終段階


天文二年(1533年)
長井藤左衛門長弘を殺害した西村勘九郎正利は、長井新九郎規秀と名乗りを改め、
長井宗家の名跡を手に入れ、居城を美濃稲葉山城に移し、城の大改修工事を行なうと同時に、
城下に楽市令を布き、巨大な要塞都市を作りはじめた。



天文七年(1538年)
守護代斎藤新四郎利良が死去し、斎藤宗家が断絶する。
ここにも新九郎規秀の策謀があった可能性がある。

美濃小守護代長井宗家の名跡を手に入れた新九郎規秀の次のターゲットは、
その上の美濃守護代斎藤宗家の名跡を手に入れることであった。

美濃国における守護代家斎藤宗家の重要性を、得意の弁舌で力説した新九郎規秀
美濃守護土岐左京大夫頼芸より、斎藤宗家の家督を継ぐことを命じられ、斎藤新九郎利政と名乗りを改め、美濃守護代の地位につく。

美濃の最大権力者となった新九郎利政は、最後の仕上げに動き出すことになる。


戦国Check✓

長井 長弘(ながい ながひろ)
戦国時代の武将。通称は藤左衛門、弥二郎。官位は越中守。美濃小守護代。美濃関城主。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、政房の嫡男頼武と次男頼芸が対立。
頼芸を実質的な守護の座に就かせる為、斎藤道三と共に頼芸を擁立し、頼武を越前に追放する。
事に成功した長弘は、守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。
しかし、「不行跡の罪」或いは「頼武と内通した」として上意討ちの名目で斎藤道三に殺される。

美濃加納城(みのかのうじょう)
美濃国厚見郡加納(現在の岐阜県岐阜市加納)にあった城。

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

斎藤 利良(さいとう としなが)
戦国時代の武将。通称は新四郎。美濃守護代。美濃斎藤家持是院家第六代当主。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

戦国大戦 斎藤道三
猛き黄金の国 斎藤道三 本宮 ひろ志(著)
兵は詭道なり 斎藤道三 岩井 三四二(著)



天文十年(1541年)
守護土岐氏の弱体化を狙う新九郎利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となり、
頼芸と利政との対立抗争が開始する。

土岐一族や譜代の重臣達は、ここに来てようやく新九郎利政の野望を知り、
頼芸を中心に結束して利政追放に向け兵を収集するが、
美濃国はすでに新九郎利政を中心に動き始めていた。

天文十一年(1542年)
利政は、頼芸勢の先手を打って頼芸の居城美濃大桑城を急襲し陥落させている。
利政勢に捕らえられた頼芸と嫡子二郎頼次は、尾張国へ国外追放されることになる。


戦国Check✓

土岐 頼満(とき よりみつ)
戦国時代の武将。美濃土岐家第十五代当主土岐 頼芸の弟。
美濃国主の座を狙う斎藤道三により毒殺される。

譜代(ふだい)
父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、
その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。
また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。

美濃大桑城(みのおおがじょう)
美濃国山県郡大桑(現在の岐阜県山県市大桑)にあった城。

土岐 頼次(とき よりつぐ)
戦国時代の武将。通称は二郎、左馬助。美濃土岐家第十五代当主土岐頼芸の次男。
兄・土岐頼栄が父頼芸によって廃嫡されたため、土岐氏の後継者に選ばれた。
父とともに斎藤道三によって美濃を追われた後は、大和の松永久秀を頼った。
その後、豊臣秀吉に馬廻として仕え、1587年に河内古市郡内に五百石を与えられた。
さらに、徳川家康に仕え、関ヶ原の合戦では東軍に属し、本領を安堵されて、旗本になる。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。



あやしい天守閣 (イカロス・ムック) かみゆ歴史編集部 (著)
廃城をゆく (イカロス・ムック) かみゆ歴史編集部 (著)
悪人がつくった日本の歴史 (中経の文庫) 小和田 哲男 (著)
名将名城伝 津本 陽 (著)



二十五年という歳月をかけようやく斎藤新九郎利政は、美濃国主となった。





次回 第二十二話 第二次安城合戦 ⇒




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斎藤道三 その所業の数々は真っ赤な「嘘」?

 【18//2014】

謎を呼ぶ2つの資料


土岐左京大夫頼芸の信任篤い西村勘九郎正利は、同じく頼芸の信任を得ていた
長井藤左衛門長弘が、「国を盗る」為に邪魔な存在になると考え、除去を画策しはじめるのである。


戦国Check✓

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

長井 長弘(ながい ながひろ)
戦国時代の武将。通称は藤左衛門、弥二郎。官位は越中守。美濃小守護代。美濃関城主。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、政房の嫡男頼武と次男頼芸が対立。
頼芸を実質的な守護の座に就かせる為、斎藤道三と共に頼芸を擁立し、頼武を越前に追放する。
事に成功した長弘は、守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。
しかし、「不行跡の罪」或いは「頼武と内通した」として上意討ちの名目で斎藤道三に殺される。



美濃国諸家系譜によれば、
天文二年(1533年)
勘九郎正利は、越前国に追放された土岐修理大夫頼武と内通しているとの謀反の疑いをかけ、
上意討ちの名目で、長井長弘を殺害し、長井氏を乗っ取り相続している。

そして名を、長井新九郎規秀と改めるのであるが、
「六角承禎条書写」には、
新九郎規秀は、長井新左衛門尉の子とする文書が残されている。


戦国Check✓

美濃国諸家系譜(みののくにしょかけいふ)
戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の武家の系図を記した書物とされている。
斎藤一族、林一族の系図や土岐支族蜂屋支流の系図など、中世武家系図としてはかなり貴重な系図を収録している。

土岐 頼武(とき よりたけ)
戦国時代の武将。通称は次郎。官位は修理大夫。美濃守護。美濃土岐家第十四代当主。
斎藤道三に擁立された、弟土岐頼芸により越前に追放され、美濃守護職と土岐家の家督を奪われる。
奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷から許可された五名の内の一人。

上意討ち(じょういうち)
主君の命を受けて、罪人を討つこと。


六角承禎条書写とは、
近江国守護六角左京大夫義賢(承禎)が、
家臣である平井右兵衛尉定武蒲生左兵衛大夫定秀らに宛てた
全文十四ヶ条から成る書状であり、義賢が嫡男の六角右衛門督義治
斎藤治部大輔義龍の娘との縁組を阻止することを家臣に命じた内要のものである。


戦国Check✓

六角承禎条書写(ろっかくじょうていじょうしょうつし)
「岐阜県史」編纂の過程で発見された古文書。
永禄三年(1560年)近江国守護、六角承禎が家臣に宛てた書状。

長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)
戦国時代の武将。山崎の油売りを経て土岐家臣長井長弘に仕える。
大永五年、長井長弘と共に土岐頼武に謀反する。天文二年没。斎藤道三の父とされる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

六角 義賢(ろっかく よしかた)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は四郎。官位は左京大夫。近江守護。宇多源氏佐々木氏流六角家第十五代当主。
足利義晴、義輝らを庇護して三好長慶らとたたかい、近江では江北の戦国大名浅井氏と戦闘を繰り返すなど、
南近江で圧倒的な勢力を誇ったが、観音寺騒動により六角家家臣たちの忠誠心は急速に薄れ、
上洛を目指す織田信長の近江進撃によって滅亡。

平井 定武(ひらい さだたけ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は右兵衛尉、加賀守。近江六角家臣。近江平井城主。
後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、
近江国栗太郡平井に拠点を構えたとされる。

蒲生 定秀(がもう さだひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は藤十郎。官位は下野守、左兵衛大夫。近江六角家臣。近江日野城主。
後藤賢豊や蒲生賢秀、三雲成持らと並んで、六角氏の執政を支える六宿老と呼ばれ、
近江国蒲生郡日野に拠点を構えたとされる。

六角 義治(ろっかく よしはる)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は四郎。官位は右衛門督。近江守護。宇多源氏佐々木氏流六角家第十六代当主。
観音寺騒動で家臣団から追われ一時没落するが、その後石部城を拠点に、足利将軍家、上杉氏、武田氏らを動員した
織田信長包囲網の構築を御膳立てするなど再興のために戦った。
晩年は豊臣秀吉の御伽衆として足利義昭や斯波義銀らとともに仕えたとされ、
秀吉の死後は豊臣秀頼の弓矢の師範を務めた。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。




この書状の内容は、油売りから身を起こし、戦国大名に成り上がった斎藤山城守道三を記している
江戸時代の軍記もの「美濃国諸旧記」に記されている内容とまったく違うものであった。


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美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の歴史を記した書物とされている。
著者不明。成立年代不明などの事から歴史的史料価値には諸説ある。





「六角承禎条書写」 [永禄三年(1560年)七月付] によると、

○斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。

○新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。

○新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

○義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、 諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。

○道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

と記されている。



この内容からすると、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、
長井新左衛門と父子二代にわたるものとする見解が有力となってくる。

この書状が記された時期は、桶狭間の戦いが起こり、美濃国が緊迫状況に直面した頃である。

また、道三によって美濃国を追放された土岐頼芸が妹婿であった六角義賢に保護されていたこともあり、
非常に信頼性の高い書状と言えるのではないかとされている。

間違いなく義賢は、頼芸から斎藤道三の人物像や、その所業の数々を聞かされていたはずである。


戦国Check✓

妙覚寺(みょうかくじ)
山城国二条衣棚(現在の京都府京都市上京区)にある日蓮宗本山(由緒寺院)。山号は具足山。
京都ではじめて日蓮宗を布教して洛陽開山と尊称された日像が、元亨元年(1321年)開創。
建武新政から南北朝内乱に至る政局の激動期に巧みに対処し、公武の間にしだいに寺基を安定させた。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。



次回 第二十一話 下克上の最終段階 ⇒




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幼少期の不安や怒りは大人になっても継続する!!

 【18//2014】

確執に悩む少年


大永七年(1527年)七月八日
西村勘九郎正利に嫡男が誕生する。
幼名豊太丸

のちの斎藤新九郎義龍である。
生母は側室である深芳野であった。


戦国Check✓

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

深芳野(みよしの)
斎藤道三の側室。一色右京大夫の女というが不詳。
もとは美濃土岐家の頼芸の側室で、大永六年(1526年)頃から道三の側室になった。
一説に、義龍の生は土岐頼芸の落胤説があるが、これは義龍の生母を深芳野と仮定したことによる俗説である。

猛き黄金の国 斎藤道三 本宮 ひろ志(著)
兵は詭道なり 斎藤道三 岩井 三四二(著)
蝶の紫 コリー・ファルコン スコット(著)





程なくして、実父は利政ではな土岐左京大夫頼芸であるとの噂が流れた。

深芳野が利政の側室となったときにはすでに、頼芸の子を懐妊していたという。

義龍はやがてその噂を知り、実父・頼芸を追放した利政に対して恨みを抱くようになる。

しかしこれは信憑性に乏しく後年の創作とも云われている。


戦国Check✓

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。



また利政は美濃での地盤作りため、東美濃の名門である美濃明智城主明智駿河守光継の娘、
小見の方正室として迎えている。
小見の方は明智十兵衛光秀の伯母とも伝えられている人物である。

この小見の方との間にに生まれた女児が、後に織田三郎信長に嫁ぐ濃姫(帰蝶)である。

また、次男孫四郎龍重、三男喜平次龍定らも、小見の方との間に出来た子であり「正室の子」であった。

家督は義龍が継承することになるのであるが、正室の子である孫四郎・喜平次らを溺愛する利政を見ていると、
いずれ自分は廃嫡され、家督は次男の孫四郎が継承するかもしれないという不安が義龍には常にあった。

義龍は側室の子であり、しかも実父は追放された土岐頼芸なのである。

時は戦国の世であり、相手は梟雄と謳われた「蝮」である。

義龍の利政に対する恨みはますます強くなるのであった。


戦国Check✓

美濃明智城(みのあけちじょう)
美濃国可児郡明智庄(現在の岐阜県可児市瀬田長山)にあった城。

明智 光継(あけち みつつぐ)
戦国時代の武将。官位は兵庫頭、民部少輔、駿河守。土岐氏流明智家当主。東美濃の梟雄。
土岐氏の勢力がいまだ残る美濃において、小勢力ながら素早い情勢判断、情報力、さらには政治力を繰り出し、
外交感覚を頼りに生き延びた。
斎藤道三が台頭するとすかさずこれに属し、まだ幼い娘であった小見の方を道三に人質という形で差し出し、
道三正室となる。

小見の方(おみのかた)
戦国時代の女性。斎藤道三正室。
美濃明智城主 明智駿河守光継の娘で、光秀の伯母とも伝えられる。
信長の正室 濃姫と次男孫四郎の母として知られるが、若くして病没した。

明智 光秀(あけち みつひで)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は十兵衛、惟任。官位は日向守。土岐氏流明智家当主。
戦国大名 織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名な人物。
諸学に通じ、和歌、茶の湯を好んだ文化人であり、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、
現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

斎藤 龍重(さいとう たつしげ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は右京亮、雅楽助。美濃国主 斎藤山城守道三の次男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

斎藤 龍定(さいとう たつさだ)
戦国時代の武将。通称は喜平次。官位は玄蕃。美濃国主 斎藤山城守道三の三男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

廃嫡(はいちゃく)
嫡流を継ぐ相続権を廃する、または廃されること。

梟雄(きょうゆう)
残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。
戦国三大梟雄として、「北条早雲」「斎藤道三」「松永久秀」を主に指す。




次回 第二十話 謎を呼ぶ2つの資料 ⇒




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お気に入りの愛人

 【18//2014】

愛妾 深芳野



大永六年(1526年)十二月
「国を盗る」と志を立ててから数年が経ち、西村勘九郎正利は三四歳になっていた。
事実上の美濃国主となる十六年前である。

この年、
土岐左京大夫頼芸の信任を得ていた勘九郎は、
頼芸の愛妾深芳野を与えられ側室としている。


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斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

深芳野(みよしの)
斎藤道三の側室。一色右京大夫の女というが不詳。
もとは美濃土岐家の頼芸の側室で、大永六年(1526年)頃から道三の側室になった。
一説に、義龍の生は土岐頼芸の落胤説があるが、これは義龍の生母を深芳野と仮定したことによる俗説である。

愛妾(あいしょう)
お気に入りのめかけ。



「襖絵に描かれる虎の瞳を槍で突けたら、望むものをとらす」と言う頼芸の余興に対し、
勘九郎は、「それにかわるものとして殿に美濃一国を差しあげます」と言い放ち、みごと虎の瞳を槍で突き、
頼芸の愛妾深芳野を得た。



大永七年(1527年)七月八日
勘九郎が深芳野を側室とした半年後、男子が誕生する。
幼名豊太丸
後の斎藤新九郎義龍である。
深芳野を得た事により、勘九郎そして美濃の未来が大きくねじれていくこととなる。



戦国Check✓

幼名(ようみょう/ようめい)
幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。
武家では幼名を代々継承する家が多く存在した。
たとえば徳川将軍家の竹千代、尾張徳川家の五郎太、紀州徳川家の長福丸、水戸徳川家の鶴千代、
加賀前田氏の犬千代などがあり、事例に枚挙の暇が無い。
これらはそれぞれの家の初代当主の幼名であり、これらは子孫のうち後を継ぐべき嫡男の幼名にもなり、
代々受け継がれていった。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。


県別戦国武将事典 楠木 誠一郎(著)
実録!!新・戦国時代ミステリー99 跡部 蛮(著)
戦国武将の意外な関係 加賀 康之(著)
猛き黄金の国 斎藤道三 本宮 ひろ志(著)
兵は詭道なり 斎藤道三 岩井 三四二(著)


次回 第十九話 確執に悩む少年 ⇒




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規模が拡大していく、命がけの兄弟喧嘩

 【15//2014】

周辺諸国を巻き込んだ争乱


美濃国守護土岐美濃守政房には嫡男土岐修理大夫頼武がいたが、
次男の土岐左京大夫頼芸を溺愛しており、頼武の廃嫡を考えるようになったことから
美濃とその周辺諸国を巻き込んだ争乱が起こった。


戦国Check✓

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡、
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

土岐 政房(とき まさふさ)
戦国時代の武将。幼名は美伊法師。官位は美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十三代当主。
舞の名手であり、応仁の乱を逃れて美濃の革手城に滞在していた一条兼良は、
日記で美伊法師(政房)の舞いを褒めている。
明応四年、守護代斎藤利国の支援を受け、弟元頼を推す石丸利光を船田合戦で破り、美濃守護となる。
しかし、後年には斎藤利国、利親父子の戦死や、息子の頼純と頼芸の兄弟争いにより、守護家としての勢力は衰えた。

土岐 頼武(とき よりたけ)
戦国時代の武将。通称は次郎。官位は修理大夫。美濃守護。美濃土岐家第十四代当主。
斎藤道三に擁立された、弟土岐頼芸により越前に追放され、美濃守護職と土岐家の家督を奪われる。
奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷から許可された五名の内の一人。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

廃嫡(はいちゃく)
嫡流を継ぐ相続権を廃する、または廃されること。



永正十四年(1517年)十二月二七日
長井藤左衛門長弘西村勘九郎正利は、政房の命により土岐頼芸を擁立し、
政房の跡目を巡る土岐氏の家督争いを引き起こすが、
土岐頼武を擁立した美濃国守護代斎藤新四郎利良との合戦に敗れている。


戦国Check✓

長井 長弘(ながい ながひろ)
戦国時代の武将。通称は藤左衛門、弥二郎。官位は越中守。美濃小守護代。美濃関城主。
美濃守護土岐政房の後継を巡り、政房の嫡男頼武と次男頼芸が対立。
頼芸を実質的な守護の座に就かせる為、斎藤道三と共に頼芸を擁立し、頼武を越前に追放する。
事に成功した長弘は、守護代斎藤氏に替わって、美濃の実権を握った。
しかし、「不行跡の罪」或いは「頼武と内通した」として上意討ちの名目で斎藤道三に殺される。

擁立(ようりつ)
支持し、もりたて、高い地位に就かせようとすること。

守護代(しゅごだい)
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職。
守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。
これが守護代である。
守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。

斎藤 利良(さいとう としなが)
戦国時代の武将。通称は新四郎。美濃守護代。美濃斎藤家持是院家第六代当主。



永正十五年(1518年)八月十日
逆襲を狙う勘九郎正利らは、尾張国に亡命していた斎藤利良の叔父にあたる
前美濃国守護代斎藤彦四郎利隆に援軍を要請し、再び頼武に合戦を挑み、今度は頼芸らが勝利を収め、
頼武を越前国へ追放する。

しかし翌、
永正十六年(1519年)
政房が没し、美濃国守護職が空位となると、頼武は越前国守護朝倉弾正左衛門孝景の援軍を得て、
三千の朝倉勢と共に美濃国へ侵攻

同年九月十四日 正木合戦

同年十月十日  池戸合戦

続けざまに敗北した頼芸らは、北近江へ亡命する事になる。

美濃復帰を成し遂げた頼武は、政房の跡を継ぎ土岐家を継承し美濃国守護職に就任する。
土岐頼武が美濃国守護に就くことで家督争いは決着がついたかと思われた。


戦国Check✓

斎藤 利隆(さいとう としたか)
戦国時代の武将。通称は彦四郎。官位は豊後守。美濃守護代。美濃竹ヶ鼻城主。
斎藤 利良の叔父。

越前国(えちぜんのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は越州(えつしゅう)。
領域はおおむね現在の福井県嶺北地方及び敦賀市にあたる。
敦賀郡 、丹生郡 、今立郡、足羽郡 、大野郡、坂井郡、吉田郡、南条郡の八郡から成る。

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
戦国時代の武将。通称は孫次郎。官位は弾正左衛門尉。越前守護。越前朝倉家第十代当主。
一門の朝倉宗滴の補佐を受け、当時混乱の多かった加賀・美濃・近江・若狭らにしばしば出兵・侵攻し、
各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、
代々対立してきた加賀一向一揆との和睦をも成立させた。
また朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風文化を華開かせた。

猛き黄金の国 斎藤道三 (集英社文庫) 本宮 ひろ志 (著)
兵は詭道なり 斎藤道三 (学研M文庫) 岩井 三四二 (著)
戦国手帳           (2012年版) しのびや.com



しかし八年後
大永七年(1527年)八月
密かに策を講じていた長井長弘と勘九郎正利は、政権奪取を企て再挙兵することになる。

北近江の国人浅井備前守亮政に援軍を要請し、関ヶ原今須付近で土岐頼武軍と激突する。


戦国Check✓

北近江国(きたおうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は江北(こうほく)・湖北(こほく)。
領域はおおむね現在の滋賀県長浜市、米原市、彦根市鳥居本にあたる。
伊香郡、浅井郡、坂田郡の三郡から成る。
室町時代から戦国時代にかけて、近江国は北近江を佐々木源氏庶流の京極氏が治め、
南近江を佐々木源氏嫡流の六角氏が治める事で一国を二分していた。
その為、近江国守護職も京極氏を北近江守護職に、六角氏を南近江守護職と分けている時代もあった。

国人(こくじん)
主に鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代から室町時代にかけて諸国の開発に推進した武士層のこと。
国人領主。国衆(くにしゅう)、国人衆。

浅井 亮政(あざい すけまさ)
戦国時代の武将。通称は新三郎。官位は備前守。北近江の国人浅井家初代当主。
北近江の国人である浅井氏庶流蔵人家直種の子に生まれた亮政は、浅井家嫡流で従兄弟浅井直政の娘蔵屋と結婚し、
浅井宗家を継承。
「浅井三代」の基礎を築いた人物。

関ヶ原今須(せきがはらいます)
美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)辺りの地。


救援要請
頼武は朝倉氏に救援を求め、敦賀郡司朝倉太郎左衛門教景が近江小谷城まで進軍し、六角氏と協力して
浅井亮政を牽制するなど頼武・頼芸の家督相続は大規模な合戦へと発展していく。

この戦は、この年の暮れ迄続く長期戦となるが、勘九郎正利が頼武の居城美濃川手城に急襲をかけ、
総崩れとなった頼武は越前へと再度亡命することとなった。

政権奪取に成功した頼芸は、濃州太守と呼ばれ、実質的な美濃国守護となる。
長井長弘と勘九郎正利は、土岐頼芸の守護補任に大きく貢献したのである。


戦国Check✓

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)
中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官。

朝倉 教景(あさくら のりかげ)
戦国時代の武将。通称は太郎左衛門尉。諡号は宗滴。越前朝倉家一門。
朝倉貞景、朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に仕え、一族の重鎮として各地を転戦し、武名を轟かせた名将。

近江小谷城(おうみおだにじょう)
近江国浅井郡小谷(現在の滋賀県長浜市湖北町)にあった城。

六角氏(ろっかくし)
家系は宇多源氏佐々木氏の流れを汲み、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江南部を中心に栄えた。
近江源氏と呼ばれた佐々木氏の四家に分かれた家のうちの1つで、鎌倉時代より守護として南近江一帯を支配していた。
また足利将軍家の管領代となり、近江蒲生郡観音寺城を本拠として近江一帯に一大勢力を築き上げ、
伊賀や伊勢の一部までにも影響力をおよぼしたとされる。

美濃川手城(みのかわてじょう)
美濃国厚見郡革手(現在の岐阜県岐阜市正法寺町)にあった城。




次回 第十八話 愛妾 深芳野 ⇒




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大軍を相手に籠城の日々 そして落城へ

 【15//2014】

明智城落城



土岐氏流明智一族の討伐に動き出した斎藤新九郎義龍は、

弘治二年(1556年)八月
織田弾正忠家宿老林佐渡守秀貞と、その弟の林美作守通具に近づき、
父斎藤山城守道三譲りの謀略で尾張国内を混乱させるのである。

弘治二年(1556年)八月二十二日
織田上総介信長の同母弟織田勘十郎信行が秀貞に担がれ謀反の姿勢を見せた。

同年八月二十四日
上総介信長と勘十郎信行は稲生の原で激突する事になる。
稲生の原の合戦は、信長勢の大勝利という形で幕を閉じたが、未だ尾張国では不安定な状態が続いていた。


戦国Check✓

明智家(あけちけ)
摂津源氏の流れを汲む土岐氏の一族で、南北朝時代の美濃国守護土岐頼貞の九男であった
土岐九郎頼基の子 明智彦九郎頼重の後裔とされる。
代々可児郡長山の明智城に拠ったとされており、戦国時代には明智光秀が出たことで著名となる。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

謀略(ぼうりゃく)
人を陥れるためのはかりごと。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

稲生の戦い(いのうのたたかい)
弘治二年(1556年)八月二十四日に、現在の名古屋市西区で起きた戦い。
尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟織田信行との家督争いから起きた戦い。
稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。


討伐
上総介信長の弟勘十郎信行を影で誘導し、謀反を起こさせた新九郎義龍は、

弘治二年(1556年)九月二十三日
先代山城守道三の死後、義龍に味方せずに中立的立場をとる明智一族を討伐するべく、

長井隼人正道利を総大将として、
長井忠右衛門道勝
国枝大和守正則
二階堂出雲守行俊
大沢次郎左衛門為泰
遠山主殿助友行
船木大学頭義久
山田次郎兵衛
岩田茂太夫


総勢三千七百の大軍で美濃明智城を包囲させた。


戦国Check✓

長井 道利(ながい みちとし)
美濃斎藤氏家臣。美濃関城主。通称は隼人佐、法名は徳翁。
出自は長井長広の子(美濃国諸旧記)、長井利隆の子(美濃明細記)、斎藤道三の弟(武家事記)と諸説あり、
はっきりしない。
道三の若いころの子で、義龍が生まれてから庶子扱いになったとも言う(横山住雄「斎藤道三」)
斎藤道三・義龍・龍興の斎藤家三代に仕えた重臣で、美濃可児郡・中美濃に勢力を築き、対織田戦で活躍した武将。

長井 道勝(ながい みちかつ)
美濃斎藤氏の家臣。通称は忠右衛門尉。
はじめ、父の道利とともに斎藤道三に仕え、弘治二年(1556年)、長良川の戦いでは父とともに斎藤義龍側に付いた。
道三・義龍・龍興と三代に仕えるが、斎藤氏滅亡後は、井上姓に改め、豊臣秀吉に仕えた。
のち弟の頼次とともに黄母衣衆に加わったというが定かではない。

国枝 正則(くにえだ まさのり)
美濃斎藤氏の家臣。通称は弥三郎・八郎兵衛。官位は大和守。西美濃十八将のひとり。
美濃本郷城主。

二階堂 行俊(にかいどう ゆきとし)
美濃斎藤氏の家臣。通称は出雲守。

大沢 基康(おおさわ もとやす)
美濃斎藤氏の家臣。通称は次郎左衛門。美濃鵜沼(宇留摩)城主。

遠山 友行(おおさわ もとやす)
美濃斎藤氏の家臣。通称は主殿助。美濃鵜沼(宇留摩)城主。


武功夜話によると、

土田甚助信正土田弥平次上総介信長へこの危急を報告し援軍を要請するが、
新九郎義龍の思惑通り「信行謀反」の影響で織田弾正忠家自体が危険な状態であった信長は、
美濃明智城救援の援軍を出す余裕がなく、尾張犬山城主織田十郎左衛門信清の手勢を救援に向かわせた。

また甚助信正、弥平次も前野党五十騎、生駒党四十騎等を従えて美濃明智城救援に駆けつけている。


戦国Check✓

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。

生駒 親重(いこま ちかしげ)
戦国時代からの安土桃山時代にかけての武将。通称は土田甚助、出羽守。号は道寿。諱は信正とも。土田生駒氏当主。
土田政久の子、あるいは政久と同一人物ともいわれ、生駒豊政の養子になる。
はじめ織田信康に仕え、後にその甥織田信長に仕える。子に生駒親正がいる。


滅亡
美濃斎藤勢三千七百の大軍に包囲された美濃明智城で籠城する明智勢は、
城代明智兵庫頭光安
明智次右衛門光久
溝尾庄左衛門
三宅式部大輔秀朝
藤田藤次郎
肥田玄蕃頭家澄
池田織部正輝家
奥田宮内少輔景綱
可児才右衛門
森勘解由
一族郎党合わせても僅か八百七十であった。

兵庫頭光安ら明智勢は、「思いのまま戦って屍を大手の城門にさらし本丸に墳墓を残すべし」と、
悲壮な覚悟とその心意気を示したという。

弘治二年(1556年)九月二十五日
二日に及ぶ篭城戦の末、覚悟を決めた光安は、「これより敵中へ討って出る。皆、我に続け!」
斎藤勢三千七百の大軍に光安は決死の覚悟で突撃を敢行するが、数で劣る明智勢は壊滅する。

明智城落城時に戦死した明智七武将を葬った「七つ塚」が今も城内に残されている。

またこのとき明智十兵衛光秀はというと、
叔父兵庫頭光安と次右衛門光久の幼子である左馬助秀満と、次右衛門光忠の将来、
そして「土岐氏流明智家の再興」を託され、
池田織部正輝家奥田宮内少輔景綱三宅式部大輔秀朝肥田玄蕃家澄らを付き従え
突撃前夜に城を脱出している。

美濃明智城の落城によって土岐氏流明智氏は滅亡し、十兵衛光秀は流浪の身となった。


戦国Check✓

明智 光安(あけち みつやす)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は兵庫頭。明智光継の次男。明智光秀の叔父。
美濃国明智城主の家督を継いでいた兄光綱が若くして亡くなると、その子光秀がまだ幼かったため、
隠居していた父光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。
一説には光秀が家督を固辞したとも言う。

明智 光久(あけち みつひさ)
戦国時代の武将。通称は次右衛門。明智光継の三男。明智光秀の叔父。

明智 秀満(あけち ひでみつ)
戦国時代からの安土桃山時代にかけての武将。幼名は岩千代。通称は左馬助。丹波福知山城代。
「明智軍記」などの物語にのみ登場する人物。
光秀が織田信長に仕えると、光秀に従って各地を転戦し武功を立てて丹波国に五万石を与えられた。
光秀が織田信長を討った本能寺の変では先鋒となって京都の本能寺を襲撃。
羽柴秀吉との山崎の戦いで光秀が敗死すると坂本城に移って自害したとされる。
琵琶湖の湖上を馬で越えたという「明智左馬助の湖水渡り」伝説が残されている。

明智 光忠(あけち みつただ)
戦国時代からの安土桃山時代にかけての武将。通称は次右衛門、治右衛門、二郎四郎。丹波八上城主。
光秀の叔父にあたる明智光久(または明智光安)の子。
妻は光秀の娘。娘は細川忠興の側室。
本能寺の変では、信長の子の織田信忠らが篭る二条御所を攻撃した。
その際に鉄砲で撃たれ重傷を負い知恩院で療養していたが、
同年山崎の戦いで、光秀が羽柴秀吉に敗れ討ち死にした事を知ると、自害して果てた。


おススメの本
経営者平清盛の失敗
剣豪将軍義輝
県別戦国武将事典
下天は夢か
現代語訳 信長公記
考証戦国おもしろ史談
古代日本 ユダヤ人渡来伝説
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この一冊で「戦国武将」101人がわかる!
―ひとり3分!すぐ読める「エピソード」集
こんな城もあったんだ~日本名城・奇城ガイド~





次回 第九十五話 光秀と煕子 ⇒



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将来にわたる禍根を断つという観点から考える

 【09//2014】

明智一族


弘治二年(1556年)四月二十日
斎藤山城守道三を討ち果たし、名実共に美濃国主となった斎藤新九郎義龍は、

弘治二年(1556年)九月二十五日
明智十兵衛光秀の出生の地とされている、美濃国明智荘長山の美濃明智城(別名:長山明智城)を三千七百の軍で攻め落としている。


戦国Check✓

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

明智 光秀(あけち みつひで)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は十兵衛、惟任。官位は日向守。土岐氏流明智家第九代当主。
戦国大名 織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名な人物。
諸学に通じ、和歌、茶の湯を好んだ文化人であり、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、
現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。

美濃明智城(みのあけちじょう)
美濃国可児郡明智庄(現在の岐阜県可児市瀬田長山)にあった城。



明智
土岐系図によると、
鎌倉時代末期 土岐氏中興の祖で、足利尊氏に従って軍功を挙げた土岐伯耆守頼貞の九男 九郎頼基が、
明智氏の祖とされている。
頼基は、美濃国恵那郡明智荘の地頭となり、荘名をもって姓としたと伝えられる。

しかし土岐系図 続群書類従では、
明智氏の祖とされていた土岐九郎頼基の子 彦久郎頼重明智氏の祖としている。

また、美濃国諸旧記によると、
美濃明智城は可児郡明智庄長山城のことであり、
土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐明智民部大輔頼清の二男、土岐明智二郎下野守頼兼
康永元年(1342年)三月
美濃国可児郡明智庄長山に始めて明智城を築城し、光秀の代まで居城したとある。

土岐氏流明智家のルーツは未だハッキリしないが・・・
東美濃の統治のかなめとして、土岐総領家より明智荘を与えられ分家して明智氏を称した事は解る。
その人物が築城した明智城こそが、以後二百十四年間の長きに渡り東美濃明智宗家の本拠となった城である。


戦国Check✓

土岐 頼貞(とき よりさだ)
鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。官位は伯耆守。初代美濃守護。美濃土岐家第四代当主。
鎌倉末期に北条得宗家との結び付きを強めて勢力を拡大し、建武新政時には足利尊氏に属す。
尊氏から「御一家の次、諸家の頭」、「土岐絶えば足利絶ゆべし」とまで信任されたという。
土岐氏で初めての美濃守護となり、以後の土岐氏発展の基礎を築いた。
諸系図には「歌人、弓馬上手」とあり、勅撰集にも多くの和歌を残している。

明智 頼重(あけち よりしげ)
南北朝時代の武将。通称は彦久郎。美濃守護土岐頼貞の九男頼基の子。土岐氏流明智家初代当主。

土岐 光衡(とき みつひら)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。官位は従五位下、蔵人、左衛門尉。鎌倉幕府御家人。美濃土岐家初代当主。
治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。
平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となり、建久四年(1193年)に源頼朝が富士裾野へ夏狩に出掛けた際、
これに随行した「土岐三郎」は光衡であると推定されている。
美濃国土岐郡一日市場館を本拠として「土岐」を号したとされることから、実質的な土岐氏の祖とされる場合が多い。


光秀
享禄元年(1528年)
明智十兵衛光秀がこの地に誕生する。
幼名は桃丸

光秀の幼少期は、謎に包まれており、生年や生まれた場所、父親の名前など数多くの諸説が存在するが、
最近の研究により少しずつ解き明かされてきている。

天文七年(1538年)
病弱であった父明智安芸守光綱が急死すると、幼少であった桃丸に代わり、
叔父である明智兵庫頭光安が明智城代を勤め、桃丸自身は寺に入り武術や学問の修行をおこなった。

天文十二年(1543年)
十五歳になった桃丸は、元服し明智十兵衛光秀と名乗りを改め斎藤山城守道三に仕える。

この頃の明智家は美濃斎藤家と縁戚関係にあった。
土岐家から美濃国を奪い取った斎藤山城守道三は、東美濃の土岐一族への懐柔策として、
明智光継の娘小見の方を正室に迎えていたからだ。

小見の方の甥であった光秀は道三の近習として仕え、道三から兵法だけでなく諸国の兵器や軍備についても学び、
その知略才覚で次第に頭角をあらわす様になる。

しかし弘治二年(1556年)
長良川の合戦で父道三を討ち取り美濃国主となった新九郎義龍は、
道三と深い血縁関係で結ばれていた明智一族の討伐に動き出すことになる。


戦国Check✓

明智 光綱(あけち みつつな)
戦国時代の武将。別名は光国、光隆。土岐氏流明智家第八代当主。
斎藤道三に仕え、のち義龍による美濃明智城攻めで討死したといわれるが、評細は不明。
「明智軍記」などによると、光綱について明智光秀の父との記述が見られる。

明智 光安(あけち みつやす)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は兵庫頭。明智光継の三男。明智光秀の叔父。
美濃国明智城主の家督を継いでいた兄光綱が若くして亡くなると、その子光秀がまだ幼かったため、
隠居していた父光継に光秀の後見を命じられ、後に光秀が元服した後も明智家の家政を担った。
一説には光秀が家督を固辞したとも言う。

小見の方(おみのかた)
戦国時代の女性。斎藤道三正室。
美濃明智城主 明智駿河守光継の娘で、光秀の伯母とも伝えられる。
信長の正室 濃姫と次男孫四郎の母として知られるが、若くして病没した。


血筋
新九郎義龍にとって、同じ土岐氏の血筋である明智一族は邪魔な存在でしかなかった。
東美濃の土岐一族を統治していたのが明智一族であり、しかも明智家は織田弾正忠家と親しい間柄でもあった。

敵対関係にある織田弾正忠家に明智家が付く様な事になれば、東美濃勢もそれに従うであろう事は予測ができたからだ。
それを恐れた義龍は、明智家に再三服従するよう要請するが、
その要請に従う気配のない明智家に業を煮やした義龍は、

弘治二年(1556年)九月二十五日
明智城に攻め掛かり、明智家を滅亡に追い込んだのである。







次回 第九十四話 明智城落城 ⇒



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織田弾正忠家で起きた家督争い

 【05//2014】

稲生の原の戦い



弘治二年(1556年)八月二十二日
三郎信長の直轄地である篠木に砦を築き謀反の姿勢を見せた勘十郎信行に対し、
信長は於多井川(現在の庄内川)対岸に名塚砦を築き、佐久間大学盛重を守将として入れ防衛拠点としている。


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織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

佐久間 盛重(さくま もりしげ)
戦国時代の武将。大学允、大学助。織田氏の家臣。
はじめ、信長の弟信行付きの家老で、信秀の葬儀では信行に供奉している(『信長公記』)。
信長と信行とが対立し、家臣の多くが信行方に走った時には、盛重は信行付きの家老という立場ながら
同族の佐久間信盛らとともに信長方に味方する。
信長が信行方の柴田勝家や林秀貞と合戦(稲生の戦い)を行った際は名塚砦を堅持した。
その際、信行方の橋本十蔵を討ち取っている。



戦闘
そしてついに兄弟は衝突することになる。

弘治二年(1556年)八月二十四日
戦いは柴田権六勝家林美作守通具率いる信行勢による名塚砦の攻撃で幕を開けた。
報せを聞いて信長も尾張清洲城より出陣し、両軍は稲生(いのう)の原で激突する。

信長の軍は七百、それに引き換え信行の軍は、柴田隊千と林隊七百を合わせて総勢千七百
信長軍は敵軍の半分にも満たなかったのである。

信長はまず南東の柴田軍と激突し、信長方の武将 山田治部左衛門が討死している。
また十七歳にして小豆坂の戦いで功名をあげ、小豆坂七本槍の一人に数えられた程の猛将佐々孫介
討死している。


戦国Check✓

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で二度にわたって繰り広げられた戦い。

小豆坂七本槍(あずきざかしちほんやり)
小豆坂の戦いの際に活躍した織田氏の勇士七人を顕彰した呼称。
織田信光、織田信房、岡田重能、佐々政次、佐々孫介、中野一安、下方貞清の七名。

佐々 孫介(さっさ まごすけ)
戦国時代の武将。諱は不明。織田家臣。
織田信秀に仕え、小豆坂の戦いで兄政次と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられる。
弘治元年(1556年)、信長の命により織田信光を討った坂井孫八郎を成敗する。
弘治二年(1557年)、稲生の戦いで武者大将として出陣し奮戦するも討死を遂げた。



鬼柴田

其の外究竟の者どもうたれ、信長の御前へ逃げかゝり、其の時、上総介殿御手前には、

織田勝左衛門、織田造酒丞、森三左衛門、御鑓持の御中間衆四十計りこれあり


鬼柴田と呼ばれ恐れられた、柴田権六勝家の突撃の前では、数で劣る信長勢には成す術が無かった。

屈強のものたちも次々と討たれ、信長の馬前まで敵が押し寄せたとあり、
織田勝左衛門  織田造酒丞信房  森三左衛門可成らの奮闘はあったものの、
信長は絶体絶命の危機を迎えることになる。

武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれた勝家は、
戦場における突進力では織田家随一の猛将という意味でかかれ柴田とも評されている。

イエズス会宣教師ルイス・フロイスは著書「日本史: Historia de Iapam」
勝家のことを「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」と評している。

また「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」
「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」などと記された書簡も残されている。


戦国Check✓

織田 信房(おだ のぶふさ)
戦国時代の武将。通称は造酒丞。織田弾正忠家家臣。
織田の名字を名乗るが、織田一族ではなく、信房の祖父である岸蔵坊が織田姓を賜ったと伝えられる。
織田信秀に仕え、小豆坂の戦いでは戦闘中に負傷しつつも奮戦した。
信秀死後は、嫡男信長に仕えており、信長が弟信行と戦った稲生の戦いでは、柴田勝家によって佐々孫介が討たれ、
危機に陥った際に森可成とともに奮戦し、勝利に導いている。
桶狭間の戦いに参陣した記録を最後に記録が絶えることから、桶狭間の戦いで討死したとされることもあるが、
詳細は不明であり、没年もわからない。

森 可成(もり よしなり)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。美濃 金山城主。
清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁鎮守府将軍八幡太郎義家の七男、陸奥七郎義隆の子孫にあたる。
同じ織田氏家中には同族で毛利広盛がいる。
森氏は美濃国の守護大名である土岐氏に代々仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、尾張国で織田信長に仕えた。
可成は槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手であり、武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
また、指が一本欠けており、手足の指が合わせて十九本であったため「十九」という蔑称で呼ばれる事もあった。

イエズス会(いえずすかい)
カトリック教会内の司祭修道会の一つ。耶蘇会(やそかい)。
1534年宗教改革に対抗してイグナティウス=デ=ロヨラらによって結成。
同会士ザビエルは日本へ初めてキリスト教を伝えるなど,アジアや新大陸をはじめとして世界各地で布教活動を行う。

ルイス・フロイス(Luís Fróis)
ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。
イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。
戦国時代研究の貴重な資料となる「日本史」を記したことでも有名。



阿修羅

爰にて上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を、見申し、

さすがに御内の者どもに侯間、御威光に恐れ、立ちとゞまり、終に逃げ崩れ侯ひき


うぉらぁぁぁぁぁぁー
信長は柴田勢に対し激怒し、悪鬼羅刹の如く刀槍をふるい物凄い怒号を上げ、突撃を敢行する。

その様を見た柴田勢の者共は、信長の威光を恐れ、士気が下がり、
ついには散り散りに逃げ柴田勢は総崩れとなった。

東の駿河国では今川治部大輔義元が尾張侵攻を企て、
西の美濃国では斎藤新九郎義龍が、織田伊勢守信安と結託し、織田弾正忠家を虎視眈々と狙っていた。

敵対しているとはいえ、この合戦の場にいる諸将は皆、織田弾正忠家の身内の者である。
それが今、家督を巡り敵味方に別れ、殺し合いをしている。

内部分裂による弾正忠家の弱体化が、何を意味するのかを理解していたのは
信長ただ一人だったのかも知れない。

総崩れとなり逃げ惑う柴田勢を追撃する事もなく、勢いに乗じて信長はそのまま南へ進み林美作守の陣営を強襲。
信長はみずから美作守を突き伏せて首を挙げ、林勢を追い崩した。

主将と兵が一体となった会心の勝利であった。


戦国Check✓

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

おススメの本
織田信長篇Ⅰ 将軍義輝の最期および自由都市堺
織田信長篇Ⅱ 信長とフロイス
織田信長篇Ⅲ 安土城と本能寺の変
豊臣秀吉篇Ⅰ 秀吉の天下統一と高山右近の追放
豊臣秀吉篇Ⅱ 「暴君」秀吉の野望
大友宗麟篇Ⅰ ザビエル来日と初期の布教活動
大友宗麟篇Ⅱ 宗麟の改宗と島津侵攻
大友宗麟篇Ⅲ 宗麟の死と嫡子吉統の背教
大村純忠・有馬晴信篇Ⅰ 島原・五島・天草・長崎布教の苦難
大村純忠・有馬晴信篇Ⅱ 大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗
大村純忠・有馬晴信篇Ⅲ 黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国
大村純忠・有馬晴信篇Ⅳ キリシタン弾圧と信仰の決意
学研まんが伝記シリーズ 戦国の覇王織田信長


次回 第九十二話 内部抗争の決着・勘十郎信行の死 ⇒



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軍事介入ではなく和平交渉を

 【05//2014】

信長と義元の和平会見



弘治元年(1555年)
尾張下四郡の支配者となった織田上総介信長は、尾張清洲城に居城を移している。



清洲
応永十二年(1405年)
越前 尾張 遠江 加賀 信濃守護であった管領の斯波左兵衛佐義重によって尾張守護所である
尾張下津城の別邸として築城されるが、応仁の乱が起こると、
守護代織田氏が斯波氏の家督争いに介入し、二家に分裂して抗争を始めた。

その後、混乱に乗じて守護代織田家の嫡流で元々守護代職を世襲していた「織田伊勢守家」の当主
織田伊勢守敏広が尾張守護所である尾張下津城に入城し、居城としたため、

文明八年(1476年)
斯波武衛家第十代当主斯波左兵衛佐義敏の命で、分家筋の「織田大和守家」の当主
織田大和守敏定が下津城を攻撃し、勝利を収めた。

文明十年(1478年)
下津城が消失した為、守護所が清洲城に移転されると、伊勢守敏広退治に成功した大和守敏定は、

同年九月九日
室町幕府から尾張守護代に任じられ、清洲城に入城する。

以後、尾張清洲城「織田大和守家」の居城となる。
また、下津城を追われた伊勢守敏広は尾張岩倉城を築き「織田伊勢守家」の居城としている。

文明十一年(1479年) 一月十九日
対立していた両者は尾張を分割統治することで和睦し、大和守家は海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡の下四郡を支配する守護代となり、伊勢守家は春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡の上四郡を支配する守護代となった。


戦国Check✓

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

斯波 義重(しばよししげ)
戦国時代前期の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第六代当主。尾張国守護。
管領として長年に亘って室町幕府を支えた斯波義将の嫡男で、自身も幕府の宿老として重んじられた。

尾張下津城(おわりおりづじょう)
尾張国中島郡下津(現在の愛知県稲沢市下津高戸町)にあった城。

応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

織田 敏広(おだ としひろ)
戦国時代の武将。通称は与次郎。官位は兵庫助、伊勢守。織田伊勢守家初代当主。
別称は岩倉織田氏。尾張上四郡守護代。尾張岩倉城主。
斯波氏の被官である織田氏の一族であり、元々は尾張の守護代を世襲する織田総領家の立場にあった。

斯波 義敏(しば よしとし)
戦国時代前期の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十代当主。尾張国守護。
享徳元(1452)年斯波宗家の義健が嗣子のないまま没したため養子に迎えられ、越前(福井県)、尾張(愛知県)、
遠江(静岡県)3カ国の守護職を継ぐが、重臣の朝倉・織田らと合わず、家督を退けられた。
のち、義廉(よしかど)と家督を争い、応仁の乱の一因を作った。

織田 敏定(おだ としさだ)
戦国時代の武将。通称は三郎、五郎。官位は大和守。織田大和守家初代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定(織田信長の祖父)の父とする系図もあるが定かではない。


擁立
その後尾張国守護である斯波武衛家の力が衰えると、現守護代である織田大和守信友
斯波武衛家第十四代当主斯波治部大輔義統傀儡(かいらい)として擁立し、実権を奪い、
国主の様な振舞いをするに様になる。

天文二十二年(1553年)七月十二日
傀儡としての立場に不満を募らせた斯波義統が大和守信友の暗殺を企てるが、それを知った信友が激怒し、
家老坂井大膳とともに守護所に攻め入り義統を殺害する。

天文二十三年(1554年)四月二十日
「主家を討った謀反人」として、信長は叔父織田孫三郎信光と謀り、
信友に腹を切らせて清洲城を乗っ取り、本拠を尾張那古野城から清洲城へ移している。

尾張下四郡の支配者となった信長は、諸国の目を欺くため、斯波義統の嫡男斯波左兵衛佐義銀を国主に据え、
清洲城の本丸を譲り渡し、自らは北の櫓に退き守護斯波武衛家の補佐役として、
尾張国内の反対勢力を一掃していくことになる。
斯波義銀もまた、父義統と同様に傀儡として擁立され利用されるのである。


戦国Check✓

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

斯波 義統(しば よしむね)
戦国時代の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十四代当主。尾張国守護。
父斯波義達が今川氏親に敗れたあと尾張守護となり、守護代織田信友に擁立されて清洲城にはいる。
信友の専権をおさえるため、密かに織田信長に内通するが、それが信友の知るところとなり、
天文二十三年七月十二日、信友の家臣 坂井大膳により殺害される。

傀儡政権(かいらいせいけん)
事実上の支配者を他の権力者が、背後から管理・統制・指揮している政権である。

斯波 義銀(しば よしかね)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は左兵衛佐、治部大輔。斯波武衛家第十五代当主。尾張国守護。
天文二十三年、父斯波義統が、尾張守護代の織田信友に殺害されたあと、織田信長に擁立され、斯波家当主となるが、
三河国の吉良氏、石橋氏とむすんで信長に敵対したため、信長によって尾張国を追放される。



会見
信長公記によると、

弘治二年(1556年)四月上旬
今川治部大輔義元の斡旋により、三河国守護吉良右兵衛佐義昭と、
尾張国守護斯波左兵衛佐義銀の会見が行われた。

吉良義昭を義元が補佐し、斯波義銀を信長が補佐する形で会見は行われている。
実質的には織田信長と今川義元の間で行われた会見である。

尾張国内に敵対勢力を持つ信長と、太原崇孚雪斎死後の軍事体制を整える必要のあった義元とが、
和睦を兼ねた形で行った和平会見である。

この会見で、義銀と義昭は、
互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士であったことから席次を巡って争ったという。


第十一話 名門 吉良家 参照 ⇒

戦国Check✓

吉良 義昭(きら よしあき)
戦国時代の武将。通称は左兵衛佐。三河西条吉良家第十代当主。
天文十八年(1549年)駿河の戦国大名 今川義元が安祥城主織田信広を攻めた際、兄義安は織田家に協力したため、今川軍に捕らえられて駿府へ送られた。
だが、義昭は逆に今川軍に協力したため、今川義元より東条吉良氏も一緒に受け継ぐよう命じられて東西の吉良氏を統一させて今川家に臣従することとなった。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。



締結
同盟締結のため、斯波・吉良両氏の軍勢が約束の地として定めた三河上野原に着陣。
互いに一町(約100m)ほどの距離を置いてものものしく人数を立て備え、義銀と義昭はそれぞれ陣前に床几を据え、
一歩も動かなかったという。

対面の席次のことで争いがあり、双方とも譲らなかったため、対面は相互に十歩程度前へ出て顔を合わせただけで、
格別の挨拶の品もなく終了したという。


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次回 第九十話 家督争い勃発・弟の謀反 ⇒



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改名や改姓の届出には何が必要ですか

 【05//2014】

父殺しの汚名



弘治元年(1555年)十月二十二日

斎藤新九郎義龍は、伯父である長井隼人正道利と共謀し、
父山城守道三が寵愛する弟の孫四郎龍重喜平次龍定を殺害し、父山城守道三と対立する。



翌弘治二年(1556年)四月二十日

新九郎義龍は旧土岐氏の勢力に支えられ、
大軍を率いて蝮の異名を持つ梟雄山城守道三を長良川において討ち果たし、名実共に美濃国主となる。




領国
美濃国主となった義龍は守護領国制の旧体制を廃止し、独立した戦国大名として領国経営に着手する。

義龍は幕府権力による守護使不入地(しゅごしふにゅうち)を全面否定し、
室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、
自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを世に宣言したのであった。

義龍はまず手始めに、貫高制(かんだかせい)に基づいた安堵状(あんどじょう)を発給し、
内乱により混乱した所領問題を処理するなどに努めた。



貫高制(かんだかせい)
土地の収穫高を、通貨単位であるを用いて表した統一的な土地制度税制軍制のことで、
主に戦国時代 織豊期(しょくほうき)の戦国大名の領国において普及し、
統一的な賦課(ふか)基準として知行役軍役諸役賦課体制(しょやくふかたいせい)の基礎となった。

田地の面積は、その田で収穫することのできる平均の米の量を通貨に換算し「貫」を単位として表された。
これを貫高(かんだか)といい、それを税収の基準にする土地制度を貫高制と呼ぶ。
※同じ貫数でも土地の条件などによって実際の面積は異なる。

また、武家の知行高も貫で表し、貫高に基づいて負担する軍役を定めた。
田には1段あたり五百文、畑は1段あたり百五十から二百文を標準として、永楽銭あるいはで納めさせた。

戦国大名の貫高制は国人領主層在地小領主層を知行制により家臣団として編成するのと同時に、
年貢集取による在地支配を行うシステムでもあった。

また、義龍は道三のような独断専行政治を行うのではなく、「宿老」と呼ばれる重臣の意見をよく取り入れ、
家臣団の不満を解消するなど卓越した領国経営を発揮し、新美濃斎藤氏の基盤を築いた


戦国Check✓

守護領国制(しゅごりょうごくせい)
室町時代の守護大名による一円的な領国支配体制を指す歴史概念。
鎌倉幕府の中央集権的体制が崩壊後、室町幕府の守護によってその領国に地域的封建制が形成されたとする形態。

守護使不入(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において、幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、
幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。
幕府直轄領の立ち入り禁止。
守護不入(しゅごふにゅう)ともいう。
しかし、戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が自らの権限として、
これを授け、与えるようになる。

織豊時代(しょくほうじだい)
日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代。
安土桃山時代(あづちももやまじだい)ともいう。

諸役賦課(しょやくふか)
諸種の役目や種々の職に対して、課せられる税金。年貢。

宿老(しゅくろう)
十分に経験を積んだ老人を指す言葉であり、そこから転じて古参の臣や家老など重要な地位に就く者の総称。




改姓
逸話ではあるが道三を討った義龍は、父殺しの汚名を避けるため足利氏の一門である一色氏を称して、
一色左京大夫義龍と名乗っている。

義龍の母深芳野(みよしの)の父が、一色左京大夫義清であるとも言われており、
そこから一色姓を名乗るようになったとも言われるが信憑性にかける逸話である。

また義龍は、土岐氏旧臣である桑原氏・安藤氏・日根野氏・竹腰氏らに一色家重臣の姓を名乗らせている。

安藤日向守守就は  → 伊賀伊賀守守就
桑原三河守直元は  → 氏家常陸介直元
竹越新介尚光は    → 成吉摂津守尚光
日根野備中守弘就は → 延永備中守弘就と名を改めさせている。

理由は解らないが、家臣にまで改姓させている事から義龍の一色氏への改姓は本気だったのかもしれない。
しかしなぜ義龍は土岐氏の後継者として土岐姓を名乗らなかったのか。

義龍は「土岐左京大夫頼芸の忘れ形見」と称し、旧土岐家家臣団の支持を得て大義名分の下、
父山城守道三を討つ事に成功している。

父殺しの汚名を避けるための改姓であるならば、
土岐姓を名乗ったほうが良かったのでは無いかと思うが・・・・よく解らない。


戦国Check✓

深芳野(みよしの)
斎藤道三の側室。一色右京大夫の女というが不詳。
もとは美濃土岐家の頼芸の側室で、大永六年(1526年)頃から道三の側室になった。
一説に、義龍の生は土岐頼芸の落胤説があるが、これは義龍の生母を深芳野と仮定したことによる俗説である。

一色 義清(いっしきよしきよ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は左京大夫。丹後一色家第十二代当主。
丹後の守護を務めたが、若狭武田氏の介入や、守護代延永氏の下克上にあい国内は混乱した。
また、一説には土岐頼芸、次いで斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが詳細不詳。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。


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次回 第八十九話 信長と義元の和平会見 ⇒



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殿軍の将たる人間の在り方

 【05//2014】

殿



瞠目(どうもく)
※驚いたり感心したりして、目をみはること

長良川の合戦は、斎藤山城守道三討死により、斎藤新九郎義龍の勝利に終わった。

勝利に士気が上る義龍勢は、
すぐさま道三の援軍として出兵していた織田上総介信長が陣を構える尾張大良の東蔵坊へ軍勢を差し向けた。

勢いに乗る義龍勢の猛攻に、信長勢は成す術が無く、山口取手介土方彦三郎信治などが相次いで討死。

森三左衛門可成もまた、義龍勢の千石又一と馬上にて渡り合い、膝を斬られ退いている。

「無能」と聞いていた義龍の卓越した戦略戦術を目の当たりにした信長は、
義龍が戦国大名としての器量を充分に備えていた事を知り瞠目する。


戦国Check✓

大良(おおら)
尾張国葉栗郡大良(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)辺りの地。

森 可成(もり よしなり)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。美濃 金山城主。
清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁鎮守府将軍八幡太郎義家の七男、陸奥七郎義隆の子孫にあたる。
同じ織田氏家中には同族で毛利広盛がいる。
森氏は美濃国の守護大名である土岐氏に代々仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後、尾張国で織田信長に仕えた。
可成は槍の名手で、関兼定銘の十文字槍の使い手であり、武勇の誉れ高く「攻めの三左」という異名を誇った。
また、指が一本欠けており、手足の指が合わせて十九本であったため「十九」という蔑称で呼ばれる事もあった。



凶報
信長勢劣勢の状況下で、さらに追い討ちをかける報せが信長の下へ届いた。

「山城守道三、新九郎義龍と一戦を交え、長良川河畔にて討死」

この報せを聞いた諸将は一旦本陣まで兵を引き、信長の指示を仰いだ。
劣勢局面で突如発生した深刻な問題に、諸将は動揺し始めていた。


信長公記によると、

爰にて大河隔つる事に侯間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ、

上総介殿めし侯御舟一艘残し置き、おの貼打ち越え侯ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来なり侯



信長は堂々とした落ち着いた様子で、動揺し慌てる諸将を抑え、下知(げち)を飛ばした。
背後は大河である為、急ぎ足の重い雑人、牛馬を退かせよ、汝らはそのあとにゆるゆると退くべし。
殿(しんがり)は信長が引き受ける為、皆心配は要らぬ

落ち着いた声で下知を飛ばす信長の言葉に、諸将は落ち着きを取り戻し、全軍は退却を始めた。
殿を引き受けた信長は、わずかな供回りを率い、前方より現れた追撃軍の騎馬武者と川端で対峙した。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

下知(げち)
上から下へ指図すること。命令。



殿(しんがり)
後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊を指し、後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう。

殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護(えんご)することを目的とするため、
本隊からの支援援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を食い止めなければならない
最も危険な任務であった。
そのため古来より武芸、人格に優れた武将が務める大役とされてきた。

「掩護」と「援護」
掩護:味方の行動や拠点を敵の攻撃から守ること。転じて、かばって危険から守ること
援護:困っている人をかばい助けること


其の時、信長鉄炮をうたせられ、是れより近貼とは参らず、さて、御舟にめされ、御こしなり


その時、信長は轟然(ごうぜん)と鉄砲を放った
響き渡る轟音に、勢いを呑まれた斎藤勢の騎馬武者は、渡河を躊躇(ちゅうちょ)し、追撃の手を止めた。
川を渡り終えた自軍の兵を確認した信長は、悠然(ゆうぜん)と残しておいた船に乗り退却したという。



敵対
斎藤山城守道三の死美濃国だけでなく、隣接する尾張国の状勢にも変化をもたらした。

尾張上四郡の支配者である織田伊勢守信安が、美濃国主となった斎藤新九郎義龍と結託し、
反信長勢力として敵対行動をとるようになった。

そして信安に呼応(こおう)した反信長勢力は、尾張下四郡でも起こり、
信長に反旗をひるがえす者が相次いだのである。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張上四郡(おわりかみよんぐん)
尾張国春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡に及ぶ範囲。

尾張下四郡(おわりしもよんぐん)
尾張国海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡に及ぶ範囲。

織田 信安(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は三郎、七兵衛尉。官位は伊勢守。織田伊勢守家第五代当主。
別称は岩倉織田氏。尾張上四郡守護代。尾張岩倉城主。
尾張下四郡を支配した「織田大和守家」(清洲織田氏)の出身者とされる。
一説によると父 織田敏信の死後、その跡を受けて岩倉城主なるが、まだ幼かったため、
織田大和守家の家臣筋「清洲三奉行」の一家 織田弾正忠家当主織田信秀の弟 犬山城主織田信康の補佐を受けた。
信長とはその父信秀の時代においては縁戚関係を結んだこともあって比較的友好関係にあり、
幼少の信長とは猿楽などを楽しんだ仲であったという。


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近年、遺産相続手続きへの関心が高まっている

 【05//2014】

遺言書



弘治二年(1556年)四月十八日
斎藤山城守道三は、鷺山(さぎやま)に陣を構えた。
娘婿である織田上総介信長も、道三援軍の為出兵し、木曽川・飛騨川を越えて尾張大良の東蔵坊に陣を構えた。


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鷺山(さぎやま)
美濃国方県郡鷺山(現在の岐阜県岐阜市鷺山)辺りの地。

大良(おおら)
尾張国葉栗郡大良(現在の岐阜県羽島市正木町大浦)辺りの地。



覚悟

弘治二年(1556年)四月十九日
斎藤新九郎義龍の兵力を見た道三は、死を覚悟し、遺言状を残している。

道三が、日蓮宗総本山妙覚寺第十九世 観照院日饒(かんしょういんにちじょう)に宛てた自筆の遺言状によると、


わざわざ申しおくり候意趣は、美濃国大桑において、ついには織田上総介の存分に任すべきの条、

ゆずり状信長に対して渡しつかわす。其の節たらば下口出勢眼前なり。

その方のこと、堅約のごとく、京の妙覚寺へのぼられたるはもっともに候。

一子出家すれば九族天に生ずといえり。かくのごとくととのい候。



「美濃を織田上総介の思うようにしなさい」と婿信長に美濃国譲り渡し状として
美濃国の行く末を任すという旨を示すものであった。

また息子日饒には、京都妙覚寺へ行き仏門に入りなさい。
という内容のものであった。

一子出家すれば九族天に生まる
古来より仏教の教えとして言われており、
高祖・曽祖・祖父・父・己・子・孫・曾孫・玄孫の各九代にわたる親族の内、誰か一人でも仏に仕えれば(出家すれば)、皆極楽浄土へ行けるという内容のものである。


戦国Check✓

日蓮宗(にちれんしゅう)
鎌倉時代中期に日蓮によって興された仏教の宗旨の一つ。法華宗とも称する。
かつては天台法華宗に対し、日蓮法華宗とも称した。
開祖である日蓮の主要著作「立正安国論」のタイトルから、わかるように、
国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る識者は多い。

妙覚寺(みょうかくじ)
山城国二条衣棚(現在の京都府京都市上京区)にある日蓮宗本山(由緒寺院)。山号は具足山。
京都ではじめて日蓮宗を布教して洛陽開山と尊称された日像が、元亨元年(1321年)開創。
建武新政から南北朝内乱に至る政局の激動期に巧みに対処し、公武の間にしだいに寺基を安定させた。

九族(きゅうぞく)
九つの親族。
父方の親族四、母方の親族三、妻方の親族二からなり、その内容には諸説がある。
高祖父母・曽祖父母・祖父母・父母・自分・子・孫・曽孫・玄孫。
また一説に、異姓を含まないで直系の高祖父から玄孫にいたる九代の親族ともいう。

九族生天(きゅうぞくしょうてん)
子が一人出家すれば、その九族が天に生まれかわることができるという仏教の教え。
一子(いっし)出家すれば九族天に生ず。

極楽浄土(ごくらくじょうど)
仏教用語の1つで、あらゆる苦しみから解放され、幸福に満ちている世界のこと。仏国土。



遺言書キット
文具やオフィス家具をはじめとする商品・サービスを提供するコクヨから
「遺言書キット」なるユニークな商品が販売されている。

これさえ読めば遺言書が書けると言う訳だ。

漫画とわかりやすい説明で遺言書作成に必要な要点が網羅されているという。
遺言書専用紙には、コピーするとコピーの文字が浮かび上がる複写防止機能タイプの用紙が使用されていたり、大切な遺言書を美しく保管してくれる、遺言書保管用台紙(遺言書ホルダー)、
一度開封すると元に戻せない特殊な専用封筒が添付されているなど、様々な工夫が盛り込まれている。

ありそうでなかったこのアイデア商品は、発売からわずか4ヶ月で当初の年間売り上げ目標を達成。
不況の暗雲を吹き飛ばすかのようなヒット商品






一筆なみだばかり。

よしそれも夢、斎藤山城ここに至って、法華妙躰のうち、生老病死の苦をば、修羅場において仏果を得る・・・

すでに明日の一戦におよび、五躰不具の成仏うたがいあるべからず。

げにや、捨ててだに、この世のほかは、なきものを、いずくかついの、すみかなりけん



明日の義龍との一戦において、五躰が満足で無い状態となり死んで行くことであろう。
この世で得られた全ての物を捨ててしまって、残った物はこの命だけである。
私の最期の地とはいったい何処になるだろうか。

悲しい遺言である。
遺言書には「一筆なみだばかり」と記されており、道三はこの遺言書をどのような思いで記したのだろうか。

国を盗る事に執着し、謀略謀殺の限りを尽くし、国を奪いとった梟雄の姿はそこには無かった。



消滅
前国主土岐左京大夫頼芸の子新九郎義龍により美濃国は奪い返されようとしていた。
溺愛していた息子達は殺され、居城であった美濃稲葉山城も奪われた。
そして主だった家臣達はみな義龍を支持し、道三に叛旗を翻した

道三が持っていた全てのものが一瞬にして消えていった
遺言書を認(したた)めた、翌二十日、道三は義龍と一戦を交え、長良川河畔にて最後をとげた。


戦国Check✓

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

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歴女




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父子の対立という思いがけない事態が発生

 【05//2014】

新たな蝮・誕生



手段
新九郎、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥侯へき

弘治元年(1555年)十月十三日
斎藤新九郎義龍は、一計を企て、仮病を装い奥に引込み、床に伏せた。

義龍は父 道三から「無能」と評されていたが、戦国大名としての器量は充分に備えており、
道三にも劣らぬ戦国の梟雄であった。


弘治元年(1555年)十月二十二日
義龍重病の報せを聞いた道三は、次男孫四郎龍重に家督を継承させるべく策を練るため、
美濃稲葉山城下の別邸に下りた。

ここで義龍が動く
義龍は伯父である長井隼人正道利を、弟二人のもとへ使者として遣わした。


戦国Check✓

斎藤 龍重(さいとう たつしげ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は右京亮、雅楽助。美濃国主 斎藤山城守道三の次男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

長井 道利(ながい みちとし)
美濃斎藤氏家臣。美濃関城主。通称は隼人佐、法名は徳翁。
出自は長井長広の子(美濃国諸旧記)、長井利隆の子(美濃明細記)、斎藤道三の弟(武家事記)と諸説あり、
はっきりしない。
道三の若いころの子で、義龍が生まれてから庶子扱いになったとも言う(横山住雄「斎藤道三」)
斎藤道三・義龍・龍興の斎藤家三代に仕えた重臣で、美濃可児郡・中美濃に勢力を築き、対織田戦で活躍した武将。



謀殺

「伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、既に重病、時を期する事に侯。

対面候て一言申し度事侯。入来侯へかしと申し送り侯」


義龍は二人の弟に、
「私は既に重病であり、今はただ時を待つのみである。
今後の事について相談したい事がある為、寝所まで来なさい」と申し送った。

孫四郎龍重喜平次龍定は、長井道利と共に兄・義龍のもとを訪れた。



「長井隼人正、次の間に刀を置く。是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀ををく。奥の間へ入るなり。

態と盃をと侯て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、

上座に侯へつる孫四郎を切り臥せ叉、右兵大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち山下にこれある山城道三かたへ、

右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し。」



寝所の前まで来た長井道利は、次室で刀を外し、奥の間へ入って行った。

それを見た孫四郎と喜平次も、道利に習い、その場に刀を置いて対面の席に着いた。

見舞いに来た弟達に、義龍は酒を振舞い、上座に座らせた次男孫四郎に、斎藤家の行く末などを語って聞かせた。

そして盃を重ね酔いが回ってきたところに、日根野備中守弘就が、刀を差したまま現れ、
自慢の太刀を振り回し、上座の孫四郎を斬り伏せ、続け様に喜平次を斬り殺した。


戦国Check✓

斎藤 龍定(さいとう たつさだ)
戦国時代の武将。通称は喜平次。官位は玄蕃。美濃国主 斎藤山城守道三の三男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。


日根野 弘就(ひねの ひろなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は徳太郎、備前守、備中守。美濃斎藤家家臣。美濃本田城主。
斎藤道三・義龍・龍興の美濃斎藤家三代に仕えた重臣であったが、斎藤家滅亡後、遠江国の今川氏真に仕えた。
今川没落後は、浅井長政に仕えた。
その後、織田家、豊臣家に仕え、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に参加するものの、
西軍内通の証拠を隠滅した疑いで自害させられている。




対立
父 道三が得意とした謀略(ぼうりゃく)の末、新九郎義龍美濃斎藤家当主の座を守り抜いたのである。

戦国の梟雄として名乗りを挙げた義龍は、こともあろうに父 道三に、弟殺害の一部始終を報告している。

報せを受けた道三は仰天し、城下を焼き払い、火煙に紛れて稲葉山を脱出している。
稲葉山脱出に成功した道三は、長良川を越えて山県郡美濃大桑城に入り、息子義龍と対峙する事になる。

弘治元年は、両雄動かぬまま年は暮れたが、雪解けとともに情勢は一遍し、
春になってついに両雄は決戦を決意するのである。


戦国Check✓

謀略(ぼうりゃく)
人を陥れるためのはかりごと。

長良川(ながらがわ)
岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流し、伊勢湾に注ぐ木曽川水系の一級河川。
濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川、揖斐川)のひとつ。
なお、下流の一部では愛知県にも面し、岐阜県との県境を成している。

美濃大桑城(みのおおがじょう)
美濃国山県郡大桑(現在の岐阜県山県市大桑)にあった城。

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現在の状況を未来永劫存続させようとする習い

 【05//2014】

智慧の鏡



天文二十三年(1554年)
斎藤山城守利政は、斎藤新九郎義龍に家督を譲り、自らは隠居して道三入道と称していた。

美濃斎藤家の家督を継承した新九郎義龍は、前国主である土岐左京大夫頼芸の子であるとの噂もあり、
道三と義龍は微妙な間柄であった。

また道三には新九郎義龍の他に、正室の子である次男孫四郎龍重と、三男喜平次龍定という息子もおり、
この事がより一層、道三と義龍を微妙な関係にしていたのである。


戦国Check✓

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

斎藤 義龍(さいとう よしたつ)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家第二代当主。美濃一色家初代当主。
室町幕府相伴衆。
斎藤道三の嫡男だが、美濃守護土岐頼芸の子との説もある。
父道三が家督を弟に譲ろうとしたことから先手をとって弟たちを殺害、さらに道三と長良川に戦いこれを敗死させる。
その後、美濃侵攻をもくろむ信長と戦ったが、病没した。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡、
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

斎藤 龍重(さいとう たつしげ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は右京亮、雅楽助。美濃国主 斎藤山城守道三の次男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。

斎藤 龍定(さいとう たつさだ)
戦国時代の武将。通称は喜平次。官位は玄蕃。美濃国主 斎藤山城守道三の三男。
父斎藤道三から寵愛を受けるが、謀反を起こした兄斎藤義龍により謀殺される。



この頃の道三は以前の梟雄と謳われていた頃の「蝮の道三」では無かった。
信長公記によると、

「惣別、人の総領たる者は、必ずしも心が緩貼として、穏当なるものに侯。道三は智慧の鏡も曇り、

新九郎は耄者と計り心得て、弟二人を利口の者哉と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、

居ながら、官を進められ、ケ様に侯間、弟ども勝ちに乗つて著り、蔑如に持ち扱ひ侯。」



一家の棟梁という者は、次第に心が緩みがちになるものである。
道三もまた例外では無く、智慧(ちえ)の鏡も曇り、事の道理を正しく判断する事が出来なくなっていた。


存続
「智慧」とは、物事の道理を判断し処理していく心の動きや、ものごとをありのままに把握し、
真理を見極める認識力である。

「智慧」というのは「道理に関する知識」を前提としているということになる。

ここで言う「道理」とは、「種(家名)を残すための正しい選択(目的)」のことを指し、
人間は、種の保存のための「知識」を必要とする。

つまり、棟梁と呼ばれた権力者の究極の目的は家名の存続とその繁栄であった。

武家社会における家督相続者は、
先代から受けついだ「家」およびその「家臣」の生活保持と繁栄をめざすとともに、
その「家業」「家産」「家名」「家格」を未来永劫存続させようとする慣習文化を持っていた。

そのために、できうる限りの最善の手を打つことが棟梁には必要なことであったが、
道三は弟二人を溺愛するあまり、嫡子である義龍を愚人(ぐにん)と見誤り、
こともあろうに三男喜平次龍定の官を進め、一色右兵衛太輔と名乗らせている。
この道三の立ち振る舞いにより、二人の弟たちは奢(おご)り、新当主である兄の新九郎義龍を見下すようになっていた。

戦国Check✓

梟雄(きょうゆう)
残忍で強く荒々しいこと。また、その人。悪者などの首領にいう。
戦国三大梟雄として、「北条早雲」「斎藤道三」「松永久秀」を主に指す。

智慧の鏡(ちえのかがみ)
知恵がすぐれて明らかなことを、鏡にたとえていう語。
「知恵の鏡も曇る」の形で、正常な判断ができなくなることをいう。

棟梁(とうりょう)
棟と梁は建物の最も高い部分にあり、かつ重要な部分であるため、転じて国家などの組織の重要な人物を指し、
また「頭領」・「統領」という表記も用いられた。
武家の棟梁(ぶけのとうりょう)とは、武家の統率者のことを指す。



美濃斎藤家第二代当主となった新九郎義龍であったが、先代である父道三は、二人の弟を溺愛し、
またその弟達は兄であり、斎藤家当主である義龍を軽視している。

「この状況を家臣達はどう見ているのか」

「当主である自分はどうするべきなのか」

若き当主 義龍は、悩み苦しみ、そして病にかかり奥に引きこもるのである。



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義を重んじ忠義を貫く男の姿

 【05//2014】

一番の宝


松平次郎三郎元信が祖先の法要と亡き父松平次郎三郎広忠の墓参の為、一時三河岡崎に戻っていた頃、
元信が領内の様子を知るため、鷹狩りを兼ねて領内を巡回していた時の逸話である。




その頃岡崎では、田植えの季節を迎えていた。
元信一行がそこを通りかかった時、慌てて田の土で顔を汚し、元信から避けるように逃げる者がいた。
元信はそれを見つけ「あれは近藤ではないか」と呼び寄せた。

岩淵夜話別集によると、

近藤もやむことを得ず面を洗ひ、田畔に掛置し腰刀をさし、身には渋帷子の破れしに縄を手強にかけ、

おぢゝはひ出し様目も当られぬ様なり



近藤は仕方なく顔を洗い、田の畔に掛けておいた腰刀を帯し、
破れた渋帷子(しぶかたびら)に縄襷(なわだすき)をかけたまま、目も当てられぬ様子でおずおず這い出してきた。
とても武士とは思えない姿であった。
近藤は元信に、武士が田植えをしている姿など恥ずかしくて見られたくなかったのである。

そんな近藤の様子をみて元信は、

そのときわれ所領ともしければ、汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず。

汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る。

さりとは不便の事なれ。

何事も時に従ふ習なれば、今の内は上も下もいかにもわびしくいやしの業なりともつとめて、世を渡るこそ肝要なれ。

憂患に生れて安楽に死すといふ古語もあれば、末長くこの心持うしなふな、いさゝか耻るに及ばず



元信は、十分な所領を持っていない為、家臣たちを養うことが出来ず、
家臣の者達に武家本来の暮らしをさせてやれず、貧しい思いをさせている事を不憫に思い、
「いずれ時が来るまで耐え忍び、決して今のこの姿を恥ることは無い」と、
涙を浮かべ近藤に詫びたという。

近藤もまた平伏したまま泣き顔を上げられなかったという。


戦国Check✓

岩淵夜話(いわぶちやわ)
大道寺重祐が記した、徳川家康の事跡についてをほぼ年代順に記した伝記。
写本は内閣文庫に幾つか保管されており、各説話にはタイトルは無く、一つ書きで書かれ、
巻なども分かれていない写本が多い。 
但し、同文庫の糟粕集(217-0028)に納められた二分冊には巻があり、
最初の一~二巻は、家康の出生から関東入国前までを含む三十一話が記されており、
後の三~五巻は、関東入国から関が原前後、大坂夏の陣の終りまでの説話を含む三十六話で構成されている。
家康の事跡や講話を通して武士道を伝えようとする重祐の意図が良く著わされており、
落穂集追加や駿河土産にある説話と同じものも幾つかある。




その様子を伝え聞いた古老の家臣達は、祖父松平二郎三郎清康によく似ていると涙を流し喜んだという。

後年、元信は関白太政大臣豊臣秀吉
「私にとって一番の宝は、私のために命を賭けてくれる武士五百騎である」
話したという。

家臣に全幅(ぜんぷく)の信頼を寄せていた元信らしい逸話である。
若年でまだまだ未熟な元信と、松平家臣団との心の繋がりが、
後年「一番の宝は家臣である」と言わせたのかもしれない。
若き日の苦労と、この家臣団との結束が、元信を天下一の武将へと成長させていくのである。


人心
「天の時は地の利に如(し)かず地の利は人の和に如(し)かず」

天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばず、地勢の有利さも人心の一致には及ばない。 孟子の言葉である。

主君に命を懸ける家臣と家臣に全幅の信頼をおく主君

「人心の一致」により主従が固い絆で結ばれる三河松平家に天は二百六十五年間に及ぶ
安寧の世を与えたのかも知れない。

幕末の名君の一人とされる薩摩藩第十一代藩主島津左近衛権中将斉彬
「人心の一致一和は政事の要目なり」という言葉を残している。
すべての物事の要、その基盤となるのは人の和である

斉彬は、島津藩主家において唯一徳川家康の血を引く当主であり、
三河松平家に流れる人心の一致の精神を受け継ぐ者であった。

運命とは皮肉なものでその斉彬の身近にあって、強い影響を受けた西郷吉之助隆盛
江戸幕府は滅亡させられている。

戦国Check✓

関白(かんぱく)
天皇の代わりに政治を行う職。
律令に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位であった。敬称は殿下。

太政大臣(だじょうだいじん)
① 律令制で、太政官を総括する官職。
左右大臣の上位に位置するが、適任者がなければ欠官とされるなど、名誉職としての色彩が濃い。
② 明治政府の太政官の最高官職。
天皇を助け、国政全般を統轄する。

孟子(もうし)
戦国時代中国の儒学者。
儒教では孔子に次いで重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。

島津 斉彬(しまづ なりあきら)
江戸時代後期から幕末の外様大名。通称は又三郎。官位は従四位下侍従、兵庫頭、豊後守、左近衛権少将、修理大夫、
薩摩守、従四位上左近衛権中将。薩摩藩第十一代藩主。島津家第二十八代当主。
藩営の工場集成館を設立し、殖産興業、富国強兵策を進める中、養女篤姫(天璋院)を将軍徳川家定の正室にして、
幕府への発言力を強める。
将軍継嗣問題では西郷隆盛らを用いて一橋慶喜擁立運動を進めたが、安政五年七月十六日急死。

西郷 隆盛(さいごう たかもり)
幕末・明治維新期の武士・軍人・政治家。通称は吉之介。維新の十傑の1人。
薩摩藩の盟友、大久保利通や長州藩の木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称される。
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、
当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。
斉彬の急死で失脚し、奄美大島、沖永良部島に流されが、家老小松清廉(帯刀)や大久保の後押しで復帰し、
禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、江戸無血開城を成功させている。



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成功者には決定的な共通点がある

 【05//2014】

誓い



弘治元年(1555年)
駿河今川家の人質となっていた松平竹千代が元服し、松平宗家を継承している。

弘治元年(1555年)四月
今川治部大輔義元烏帽子親(えぼしおや)として、竹千代は元服し、
松平次郎三郎元信と名乗りを改めた。


戦国Check✓

烏帽子親(えぼしおや)
元服儀式の際に加冠を行う者のこと。
中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になって貰い、
当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。
この仮親を烏帽子親と呼ぶ。



松平家当主
元服した事により、松平元信は松平家の正式な当主となり、三河松平宗家第九代当主を継承する。
しかし人質としての立場は変わらず、実質的には今川義元配下の一武将として扱われる状態であった。

当主となった元信は、祖先の法要と亡き父松平二郎三郎広忠の墓参の為、
一時的な三河岡崎への里帰りが許されている。
当時三河岡崎城は、今川家の管理下に置かれ、山田新右衛門尉景隆が城代として入り、
松平党の監視を行っていた。

大道寺孫九郎重祐が記した岩淵夜話(いわぶちやわ)別集によると、
七年振りに岡崎城に戻った元信は、景隆の居る本丸には入らず、二の丸に入ったと記されている。


その岩淵夜話に、

「岡崎は、わが祖先以来の旧城といへども、それがしいまだ年少のことなれば、

これ迄のごとく本城には今川より附置かれし山田新右衛門をその儘(まま)すゑ置れ、

それがしは二の丸に在て、よろづ新右衛門が意見をも受くべきなり」
と記されている。

元信の控えめであるこの様を伝え聞いた義元は、若年でありながら思慮深きことであると感歎(かんたん)した。



熟慮
元信は幼少期の人質生活の中で、
深い考え無しに行動するのではなく、行動することでどのような結果をもたらすのかを十分に熟慮(じゅくりょ)し、確認して行動する癖が自然と身についていた。
これこそが徳川家康を天下人にした由縁である。

仕事をする前に、たとえ数分間でもゴール(目標値)を定め、行動のシナリオを立て実行する。
ゴールの設定実行を計画計画通りに実行

元信は相手の行動に反射的に反応するのではなく、相手はどのような意図で話しているのか、
また行動しているのかをまず考えてから行動に移した。
自己に不利なことが起きても、腹を立てず、思慮深く考え、どうするのが最善なのか、
自己のことよりも相手のことや世の中のことに知恵を働かすことを徹底して行なったのである。


戦国Check✓

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

大道寺 重祐(だいどうじ しげすけ)
江戸時代の武士、兵法家。通称は孫九郎。後北条氏重臣大道寺政繁の曾孫にあたる。
父繁久は松平忠輝に仕えた元越後高田藩士であったが、高田松平家が改易されて以来、重祐は浪人となっていた。
その後重祐は江戸に出て、小幡景憲、北条氏長、山鹿素行らに師事して甲州流軍学を学び、軍学者として身を立てる。
その博識を買われ芸州浅野広島藩、松平会津藩の客分を経て、越前松平福井藩に迎えられ、主に軍学を講じた。
晩年に「武道初心集」「岩淵夜話」「落穂集」などを著す。

岩淵夜話(いわぶちやわ)
大道寺重祐が記した、徳川家康の事跡についてをほぼ年代順に記した伝記。
写本は内閣文庫に幾つか保管されており、各説話にはタイトルは無く、一つ書きで書かれ、
巻なども分かれていない写本が多い。 
但し、同文庫の糟粕集(217-0028)に納められた二分冊には巻があり、
最初の一~二巻は、家康の出生から関東入国前までを含む三十一話が記されており、
後の三~五巻は、関東入国から関が原前後、大坂夏の陣の終りまでの説話を含む三十六話で構成されている。
家康の事跡や講話を通して武士道を伝えようとする重祐の意図が良く著わされており、
落穂集追加や駿河土産にある説話と同じものも幾つかある。



困窮
二の丸に入った元信は、岡崎城留守の大任に当たっていた鳥居伊賀守忠吉から、
松平党が今川家の先鋒として事実上の捨石とされている事や、
収穫期などで得た富の大半は今川家へ献上している為、松平党の日々の暮らしは困窮(こんきゅう)している事を
聞かされた。

鳥居家譜によると、
忠吉はその僅かな収益の中から、元信が戻って来る将来を夢見て、家臣一同倹約蓄財に励み、
今川家に内緒で備蓄していた武具兵糧金銭を元信に見せ、

我が君はやく御帰国ありて御出馬あらば、御家人をもはごくませ給ひ、

軍用にも御事欠まじき為に、かくは備置きぬ。

それがし八十の残喘もて、朝夕神仏にねぎこしかひありて、

今かく生前に再び尊顔を拝み奉ることは、生前の大幸何ぞこれに過ぎむや
と泣き崩れた。

食う物も食わず貧しさに苦しみながら、家臣の者たちが元信に夢を託していたことを知った元信は、
時節の到来するまではあらゆる凌辱(りょうじょく)を耐え忍び
必ずや岡崎に戻ると心に誓い感涙(かんるい)したという。



逆境
成功者には決定的な共通点がある。
「逆境」 それも、大きな逆境である。

逆境や、失敗を成功者は、バネにして向上していく。
逆境は、諦める為にあるのでは無く、バネにする為にあるのである。

「夢」の途中で逆境にぶつかったら、それをバネに頑張ればいい

「逆境での経験こそが人生の財産になる」

自動車会社フォード・モーターの創設者であり、「自動車王」として知られるヘンリー・フォード
富裕層でない人も購入できる車を作るという決意の元、会社を創業するのだがすぐに倒産してしまう。

その後も、再び会社を興すが、またしても倒産しトータルで5回の破産を経験する。
しかし、それでも諦めることなく挑戦を続けた結果、
T型フォードという世界で累計1,500万台以上も生産される自動車を生み出し、
産業と交通に革命をもたらしたのである。


戦国Check✓


鳥居 忠吉(とりい ただよし)
戦国時代の武将。通称は伊賀守。三河国碧海郡渡城主。
三河国松平氏(徳川氏)の家臣で、松平清康・松平広忠・松平元康(後の徳川家康)の三代に渡って仕えた。
生年は不明だが、没した時に八十余歳と伝えられているため、文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定される。


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百年後も「必ず生き残っている」企業

 【05//2014】

甲相駿三国同盟



天文二十一年(1552年)
駿河国の国主 今川治部大輔義元は、
領国経営に力を注ぎ内政を安定させるのと同時に、太原崇孚雪斎に外交戦略を進めてさせていた。



天文二十一年(1552年)十一月
義元は、武田左京大夫信虎の娘定恵院(じょうけいいん)との間に生まれた娘嶺松院(れいしょういん)を、
武田大膳大夫晴信の嫡男 武田太郎義信へ、甲駿同盟強化を考え嫁がせている。



いとこ婚
余談ではあるが日本では、四親等以上離れていれば直系でない限り、血族同士の結婚が認められている。

しかし、いとこ同士の結婚には否定的な見解もある。
イギリスで行った研究によれば、いとこ婚の子供の遺伝的危険度は通常よりも高いと言われており、
遺伝子障害の発生率が、通常の2倍になるとする報告が英医学専門誌に発表された。

また別の研究でも、いとこ婚の子供の10人に1人は幼年期に死ぬ、あるいは重大な障害を起こしているとしている。


戦国Check✓

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

嶺松院(れいしょういん)
生年不詳。
駿河国の戦国大名 今川義元と、正室定恵院の娘であり、甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚する。
今川義元の死後、今川領国への進出を志向する信玄と、甲駿同盟の維持を志向する義信との間に派閥闘争が生じ、
永禄十年、義信は東光寺で自害する(病死とも)。
義信の死後、嶺松院は兄の今川氏真の要請で駿河に送還され、駿河に戻った嶺松院は出家している。

武田 義信(たけだよしのぶ)
戦国時代の武将。甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十九代当主 武田信玄の嫡男。
世継ぎとして将来を期待されるが、父信玄と不和となり、謀反の嫌疑をかけられて投獄され、
永禄十年十月十九日自刃。



天文二十二年(1553年)正月
雪斎は、越後国の長尾弾正少弼景虎と対立していた武田大膳大夫晴信と、
北条左京大夫氏康との同盟を成立させている。

また長尾弾正少弼景虎は、北条氏康により領国の上野国を攻められ、
越後へ亡命してきた関東管領上杉兵部少輔憲政を迎え入れ、氏康討伐を誓い、氏康と敵対関係となっていた。

そこに着目した雪斎は、長尾家武田・北条共通の敵として
武田晴信の娘 黄梅院(おうばいいん)と、北条氏康の嫡男 北条新九郎氏政との婚姻を行わせ
甲相同盟を成立させている。



敵愾心(てきがいしん)
「敵愾心によって外への反発は強まり、内は団結する」

今まで敵対していた者同士には「共通の敵」という心理テクニック
圧倒的なパフォーマンスを発揮することを雪斎は知っていた。

「相手と自分の共通の敵」を作り出す事が出来れば、和睦工作の成功率は飛躍的に上昇する。

こうした心理の根幹は「自己防衛」から起きる心理である。

これを敵愾心(てきがいしん)と言い、内部の不満を外に向けさせる常套手段(じょうとうしゅだん)として、
雪斎が政治的手法に利用した心理テクニックである。



戦国Check✓

越後国(えちごのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は越州(えつしゅう)。
領域はおおむね現在の新潟県本州部分にあたる。
石船郡、三島郡、古志郡、蒲原郡、沼垂郡、魚沼郡、頸城郡の七郡から成る。

上野国(こうずけのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は上州(じょうしゅう)。
領域はおおむね現在の群馬県とほぼ同じだが、群馬県桐生市のうち桐生川以東は含まれない。
碓氷郡、片岡郡、甘楽郡、多胡郡、緑野郡、那波郡、群馬郡、吾妻郡、利根郡、勢多郡、佐位郡、新田郡、山田郡、
邑楽郡の十四郡から成る。

黄梅院(おうばいいん/こうばいいん)
甲斐国の戦国大名 武田信玄と、正室三条の方の娘として生まれ、甲相駿三国同盟の一環として、北条氏政と結婚。
永禄五年(1562年)、嫡男氏直を出産し、八年に氏房、その後直重、直定を産むなど夫婦仲は良好であったが、
永禄十一年(1568年)、信玄の駿河侵攻により、三国同盟は破綻。
信玄の駿河侵攻に激怒した氏康は、黄梅院を甲斐に送り返すが、
その際氏政からは堪忍分として十六貫文余を与えられている。
離縁後は、出家したとも言われ、二十七歳で死去している。

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)
戦国時代の武将。幼名は松千代丸。官位は相模守、左京大夫。後北条家第四代当主。
相模国の戦国大名 北条氏康の次男として生まれ、氏康の死後家督を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、
豊臣秀吉が台頭すると外交策に失敗し、小田原征伐を招く。
数ヶ月の籠城の末に降伏し、弟の氏照とともに切腹。
戦国大名北条氏による関東支配がここに終わる。



天文二十三年(1554年)三月
より一層、駿河今川家を強固にするため雪斎は、
氏康の娘 早川殿と、義元の嫡男 今川五郎氏真との婚姻を実現させ駿相同盟を復活させている。

ここに、甲斐の武田相模の北条駿河の今川による
甲相駿三国同盟が完成する。



百年後の駿河
駿河今川家の基盤をより強固なものとするためには、甲斐に支援を求めるばかりではなく
安全保障に関する更なる努力が必要不可欠である。

その「更なる努力」が駿相同盟の復活であった。

甲駿同盟で義元政権は失策を犯した

武田家との関係は向上したが、北条家はすぐに河東地域に侵攻し、
相模北条家駿河今川家との対立が始まった。

その後和睦はしたものの「駿相間での緊張は継続している」との危険性を危惧していた。
今川家は危機解消のための外交努力をするとともに、いざという時の対応を考えておくべきであった。

駿相は早く「この緊張」を解決しないと、再度軍事衝突に向かうことになる。
雪斎は、「百年後の駿河」の実現に向けた施策の構築及び今川家が今後直面する諸課題への対応を目的として、
施策の充実見直し再構築を進めていくマネジメントサイクルを確立させたかったのである。


戦国Check✓

今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。幼名は龍王丸。通称は五郎。
官位は従四位下、上総介、刑部大輔、治部大輔。今川氏第十二代当主。
駿河国の戦国大名 今川義元の嫡男として生まれ駿河今川家第十代当主となる。
義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれた後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受け、
戦国大名としての今川家は滅亡する。
その相模北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受け江戸幕府のもとで高家として家名を残す。

早川殿/早河殿(はやかわどの)
相模国の戦国大名 北条氏康の娘。
甲相駿三国同盟の一環として今川氏真と結婚するが、永禄元年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻に伴い、
氏真とともに遠江国掛川城へ逃亡する。
この逃避行の際、早川殿のための乗り物(輿)は用意することもできなかったという。
その後、早川殿の実父を頼り氏真らとともに小田原へ移るが、甲相同盟の復活により、氏真とともに小田原を出奔し、
浜松の徳川家康を頼った。
慶長十八年(1613年)、氏真に先立って江戸で死去。
甲相駿三国同盟で成立した三組の夫婦のうち、離別を経なかったのは氏真夫妻のみである。



同盟締結時、武田晴信、北条氏康、今川義元の三人が駿河善得寺で会談し、
同盟を結んだという逸話が残されていることから、「善得寺の会盟」と呼ばれることもある。
しかし、国主であるこの三名が一同に会する事は考えにくく、これは史実ではないとする説も多い。



的を絞る
甲相駿三国同盟締結は、太原崇孚雪斎の最も大きな功績とされている。

雪斎の外交戦略は「敵を一つに絞る事」であった。

東西にあった敵を、西の織田弾正忠家のみに絞る事ができれば、三河国の領国経営に専念することも出来、
今川家にとっては計り知れない利益をもたらすのである。

これにより今川治部大輔義元は、尾張侵攻に集中する事が出来るようになった。


戦国Check✓

善得寺(ぜんとくじ)
駿河国富士郡瀬古(現在の静岡県富士市今泉)にあった臨済宗妙心寺派の禅寺。
貞治二年、下野国那須(現在の栃木県羽黒町)にあった雲巖寺の大勲策禅師が開山した寺といわれている。
戦国時代には駿東第一の大規模な寺院であったことがわかっており、また、地理的重要性から
城郭(善得寺城)も併設されていたと言われている。
しかし、永禄十二年、駿河国に侵攻した武田軍の手によって善得寺は焼失。その後
再建されることはなかった。



次回 第七十九話 誓い ⇒



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開花宣言を向えた静岡では花々が咲き乱れていた。

 【05//2014】

新たな二十一ケ条



駿河遠江三河という広大な領国を支配する事となった今川治部大輔義元は、

天文二十二年(1553年)二月

今川仮名目録追加二十一条を制定している。

父である今川修理大夫氏親が制定した三十三ケ条からなる分国法 今川仮名目録に、
新たに二十一ケ条を加えたものである。

分国法(ぶんこくほう)とは、
戦国時代に、戦国大名が領国内を統治するために制定した法律規範である。
分国とは、中世における一国単位の知行権を指す語であり、知行国に始まる概念であるが、
室町時代中期以降に守護大名や、国人一揆による一国単位の領国化が進み、分国支配が形成されていき、
そうした分国支配の一環として、領国内の武士・領民を規制するために分国法が定められた。

今川仮名目録には、土地などに関する訴訟の裁判基準などが定められており、
当時としては最も革新的で完成度の高い法律として知られている。
甲斐の戦国大名 武田大膳大夫晴信が制定した甲州法度之次第という分国法にも大きな影響を与えている。


戦国Check✓

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第九代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)
甲斐国の戦国大名である武田晴信(信玄)が、天文十六年(1547年)に定めた分国法で、
甲州法度之次第、信玄家法、甲州法度、甲州式目などともいわれる。
上下二巻から成り、上巻は五十七条、下巻は家訓である。
軍略や家臣団の統制、治安の規定などが中心に定められている。


今川仮名目録甲州法度之次第以外にもいくつかの分国法がある。

室町幕府の権威失墜にともない、戦国大名と呼ばれる新興勢力が各地で台頭し始め、
幕府の管理体制下から独立して、自ら領国を統治するために、分国法と呼ばれる法律を制定しはじめた。

越前 朝倉氏の朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)
周防 大内氏の大内家壁書(おおうちけかべがき)
豊後 大友氏の大友義長条々(おおともよしながじょうじょう)
奥州 伊達氏の塵介集(じんかいしゅう)
近江 六角氏の六角氏式目(ろっかくししきもく)などがある。



今川仮名目録に義元が加えた追加条文には、
家臣統制の規定や新たに領地となった三河国の体制規定が追加されており、今川家領国経営拡大の新体制を表している。

さらにこの追加条文では、
「今川家領国である駿河・遠江・三河の領国経営を行っているのは、

足利将軍家ではなく、今川家である。」


このことを理由に、幕府権力による守護使不入地(しゅごしふにゅうち)を全面否定している。
これは、今川家は既に、室町幕府の権威によって領国を統治する守護大名ではなく、
自らの実力によって領国を統治する戦国大名であることを世に宣言したものでもあった。

ここから義元は、領国経営に天才的な才能を発揮して行くことになる。


戦国Check✓

守護使不入(しゅごしふにゅう)
鎌倉時代・室町時代において、幕府が守護やその役人に対して犯罪者追跡や徴税のために、
幕府によって設定された特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じたこと。
幕府直轄領の立ち入り禁止。
守護不入(しゅごふにゅう)ともいう。
しかし、戦国時代には幕府による権限は否定され、代わりに戦国大名が自らの権限として、
これを授け、与えるようになる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。



主従関係
領国経営に着手した義元は、寄親・寄子制と呼ばれる主従関係を確立させている。
保護する側を寄親保護される側を寄子とし、
原則的には私的な契約関係によるが、実際には半ば強制的なものであった。

義元は主従関係の安定化のため、寄親となった有力武士の権利を保障し、
寄子が濫り(みだり)に寄親を変えることを禁じたり、義元への訴訟(そしょう)は寄親を通じて行うことを命じ、
強制力を持たせる一方、寄親が寄子に恩給を与えなかったり、その他寄子に対する不当な扱いを行った場合には、
寄親を変えさせるなど、寄子を自己の軍事力として確保する政策を取った。

この政策により徴兵はスムーズに行なわれ、軍事力は強化された。



安倍川の金な粉
また海運業による交易や、金山開発にも力を入れ、領国の経済力を飛躍的に上げている。
金山開発は、新田開発とともに戦国大名の軍事行動の基盤となる富国強兵政策の一つである。

義元もまた富士金山安倍金山などで接収された金で対外的軍事行動を支えた。

「今川記」によれば
安倍郡の金鉱は享禄以前から採掘され、幕府や公家へしばしば金を贈っていたと記されている。
今川氏の治下による繁盛を「元栄」、その後徳川氏の治下による繁盛を「中栄」と呼ぶ。

徳川家康が駿府天領としたのにも、義元が築いた安倍郡の金山開発システムに理由があるものと思われる。
余談ではあるが
安倍川岸で、徳川家康が茶店に立ち寄った所、そこの店主が黄な粉を安倍川上流で取れる砂金に見立て、
つき立ての餅にまぶし、「安倍川の金な粉餅」と称して献上した。

家康はこれを大層喜び、安倍川にちなんで安倍川餅と名付けたという伝承がある。



開花
文化面では、公家衆を優遇し、歌道の名門である冷泉家当主権大納言冷泉為和や、
蹴鞠の名門である飛鳥井家当主権大納言飛鳥井雅綱などから公家文化を取り入れ、
越前の朝倉文化、周防の大内文化と並び称される戦国三大文化の一つ、駿府の今川文化を開花させている。


戦国Check✓

富国強兵(ふこくきょうへい)
国家の経済を発展させて軍事力の増強を促す政策。

安倍川餅(あべかわもち)
和菓子の一種。静岡市の名物。
本来はつき立ての餅に黄な粉をまぶし、その上から白砂糖をかけた物

冷泉家(れいぜいけ)
近衛中将に代々任官された羽林家と呼ばれる家柄の公家。
御子左家(二条家)の分家であり、冷泉小路に家名は由来する。
歌道の宗匠家の内の一つで冷泉流歌道を伝承している。

冷泉 為和(れいぜい ためかず)
駿河国・能登国・近江国など各地へ下向し、冷泉流歌道の指導を行っていたという。
中でも今川氏との関係は深く、駿府での生活が最も長かったとも、
今川氏より今川の名字の使用を許されたとも伝えられている。
今川氏の依頼により、相模国の後北条氏や甲斐国の武田氏のもとに滞在し、在地の歌壇を指導するなど、
今川氏の外交使節的立場の人間であったとも考えられている。

飛鳥井家(あすかいけ)
藤原北家師実流(花山院家)の一つである難波家の庶流である。家格は羽林家。

飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)
戦国時代の公家、歌人、蹴鞠家。官位は従一位権大納言。


おススメの本
廃城をゆく
はじめてのお伊勢まいり
はじめての家紋・家系図・名字―ルーツ探しの旅に出かけよう インデックス編集部
バロックの王 織田信長 渡辺 豊和 (著)
ハーバード白熱日本史教室 北川 智子 (著)



慧眼の士の予言者
今川治部大輔義元は桶狭間の敗戦以来「暗愚で軟弱な無能な武将」の酷評がつきまとう。

しかし、毛利元就、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、織田信長、豊臣秀吉とともに
「戦国七雄」に並び称される東海の雄である。

朝倉太郎左衛門尉教景(朝倉宗滴)が残した遺訓「宗滴話記」によると、

「日本に国持人使の上手よき手本と申すべく仁は、

今川殿・甲斐武田殿・三好修理大夫殿・長尾殿・安芸毛利・織田上総介方

関東正木大膳亮方・・・」
と義元の事を評価している。

この一文からも今川義元は武将としても文化人としても超一流で東国有数の大名の一家と目されていた事が解る。



ここで注目すべきなのが織田三郎信長毛利少輔次郎元就だ。

教景が亡くなったのは天文二十四年(1555年)九月八日

後に西国最大の戦国大名になる毛利少輔次郎元就だが、そのきっかけとなった厳島の合戦は、
天文二十四年(1555年)十月一日であり、教景が亡くなった一ヶ月後のことである。
安芸の小規模な国人領主でしかない元就を正しく評価している。


また織田三郎信長に関してもそうである。
天文二十四年(1555年)というと織田弾正忠家を継承した信長が主家である織田大和守家から
尾張清洲城を奪取したばかりの頃で、尾張半国を治めるのに四苦八苦していた頃である。

さらに教景は臨終をむかえた際に信長の台頭を予言したとされている。

「織田上総介方行末ヲ聞届度念望計ノ事」

「織田上総介の行末をもう少しだけ見てみたい」と教景に思わせる程の成長株に見えていたに違いない。


戦国Check✓

朝倉 教景(あさくら のりかげ)
戦国時代の武将。通称は太郎左衛門尉。諡号は宗滴。越前朝倉家一門。
朝倉貞景、朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に仕え、一族の重鎮として各地を転戦し、武名を轟かせた名将。

毛利 元就(もうり もとなり)
室町時代後期から戦国時代の武将。幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。官位は従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、
中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
天文二十四年十月一日(1555年)、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。

安芸国(あきのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に位置する。別称は芸州(げいしゅう)。
領域はおおむね現在の広島市、呉市、尾道市、廿日市市、三原市など広島県西半部にあたる。
沼田郡、賀茂郡、安藝郡、佐伯郡、山縣郡、高宮郡、高田郡、豊田郡の八郡から成る。

国人領主(こくじんりょうしゅ)
直接農民層を支配していた国人。守護と対になる者。
当時、農民層を直接支配していたのは、地頭・荘官などの階層から在地の領主として成長していったのが
国人領主層であり、彼らが守護大名の被官となることでその軍事力を支え、
室町幕府や守護大名の動向を規定していったとするものである。

織田大和守家(おだやまとのかみけ)
尾張守護職・斯波氏の被官である織田氏の一族。
尾張八郡の内、下四郡を支配する守護代。別称は清洲織田氏。
元々は尾張守護代の「織田伊勢守家」の分家にてその代官である又守護代の地位にあったという。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。




次回 第七十八話 三国同盟 ⇒



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暗殺事件関係の資料類の再検証が必要

 【05//2014】

松平広忠暗殺の黒幕



織田弾正忠信秀により、竹千代を奪われた今川治部大輔義元は、

太原崇孚雪斎を総大将とし、副将に朝比奈備中守泰能を付けて、

織田弾正忠家の三河侵攻における戦略拠点である三河安祥城攻略を命じ、約一万もの大軍団を出陣させている。


安祥城
永享十二年(1440年)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)に、
代々この地方をおさめていた領主和田親平が築城したと言われている。

舌状台地(ぜつじょうだいち)の先端に位置し、周囲は森と深田に囲まれており、その内側に土塁や堀がある、
天守を持たない平山城であったという。

文明三年(1471年)
三河松平家第三代当主 松平左京亮信光が、謀略を用いて無血落城させ、
織田信長・徳川家康の「清州同盟」により廃城となるまでの百二十三年間、松平氏四代の居城となる。

この四代の間を、安祥松平氏(松平宗家)と呼ぶ。

安祥松平家は、松平二郎三郎清康(徳川家康の祖父)が、森山崩れで逝去するまで安祥を本拠としており、
清康の死後、松平次郎三郎広忠の代より本拠が三河岡崎城となる。



戦国Check✓

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。

朝比奈 泰能(あさひな やすよし)
戦国時代の武将。通称は弥次郎。官位は左京亮、備中守。駿河今川家臣。遠江掛川城主。
駿河今川家重臣筆頭とされ、父朝比奈泰熙の死後、伯父泰以の補佐を受け、
若くして今川西方の要衝 遠江掛川城主となる。
小豆坂の戦いでは、軍師太原雪斎の副将格として参陣し、尾張織田氏に大勝するなどの活躍を見せるが、
桶狭間の合戦前に没したと思われる。

舌状台地(ぜつじょうだいち)
舌を伸ばしたような細長く突き出た台地のこと

松平 信光(まつだいら のぶみつ)
室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。通称は次郎三郎。官位は左京亮。三河松平家第三代当主。岩津松平家の祖。
「朝野旧聞裒藁」や江戸期の系譜類は第二代当主松平泰親の子とされるが、
「松平由緒書」では初代当主松平親氏の子であるとする。
信光は三河の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。
戦国時代に入ると安祥に進出して西三河に勢力基盤を築いて戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。



迎え打つ織田弾正忠信秀は、松平氏や今川氏などの侵攻に備え、居城を尾張古渡城から末森城へ移し、
実弟織田孫三郎信光が守る尾張守山城や、庶長子である織田三郎五郎信広が守る三河安祥城と合わせて
東方防御線を構成していた。


古渡城
天文三年(1534年)
織田信秀によって、尾張国愛知郡古渡(現在の愛知県名古屋市中区)に東西140m、南北100m、
四方を堀で囲まれた平城が築かれている。
しかしわずか十四年で廃城となる。
現在は、真宗大谷派名古屋別院となっており、
敷地内には、古渡城跡碑と、古渡城の堀跡を利用した下茶屋公園がある。



末森城
天文十七年(1548年)
三河松平氏と駿河今川氏の侵攻に備え、
信秀は古渡から尾張国愛知郡末森(現在の愛知県名古屋市千種区城山町)に居城を移す事になる。
東山丘陵地の末端に位置する標高43mの丘に、東西約200m、南北約160mの規模で築かれた平山城であった。

縁起の良い名ということで「末盛城」とも言われていたそうだ。

「戦略に最適な場所に居城を移すという合理的な考え」は、

「織田信長の独創」ではなく、父である信秀から学んだことであった。

末森村古城図によれば、
東西45m、南北約50mを本丸の縄張とし、周囲は二重堀で囲まれており、内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい
「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。



守山城
大永元年(1521年)
桜井松平家初代当主 松平内膳正信定が、
尾張国春日井郡守山(現在の愛知県名古屋市守山区市場)に東西約58メートル、南北約51メートル、
四方に堀をめぐらせた平山城を築くが、

天文四年(1535年)には、
織田信秀の弟孫三郎信光の居城となっている。(経緯はよく解らない)

世に言う「守山崩れ」の舞台となった城である。

城跡とされる丘には、後に清康のために建立された宝勝寺が存在し、城址碑が建てられている。


戦国Check✓

織田 信光(おだ のぶみつ)
戦国時代の武将。通称は孫三郎、法名は梅岩または梅厳。
織田信秀の弟で、織田信長の叔父にあたる。
武勇に優れ、兄信秀に従い武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
信秀の死後は、家督を継いだ甥の信長をよく補佐した。

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

平山城(ひらやまじろ)
平野の中にある山、丘陵等に築城された城。
戦国時代までは、防御施設として主に山城が築かれていたが、戦国末期には、平城とともに現れ始め、
江戸時代後期までに多数が築かれた。
防御的な機能と政庁の役割を併せ持ち、領国支配における経済の中心的役割も果たした。
江戸城、大阪城、姫路城、仙台城、熊本城などの近世城郭の大多数がこれにあたり、
現在日本100名城に選定されたものの内では、沖縄の首里城も含め51か所ある。

虎口(こぐち)
中世以降の城郭における出入り口のことで、「小口」とも書き、狭い道、狭い口という意味がある。
城内の軍勢にとっての出入口であると同時に、城攻めの際には寄せ手が肉薄する攻防の要所となるため厳重に防御された。

馬出(うまで)
虎口(城の戦闘用出入口)の外側に陣地や屋敷地を築いて防御力を高めたもの。

松平 信定(まつだいら のぶさだ)
戦国時代の武将。通称は与一、内膳正。桜井松平家初代当主。
松平宗家の家督を巡り、兄の松平信忠との対立に始まり、甥の清康・姪孫(てっそん)広忠と宗家三代にわたり反意を示した。

おススメの本
信長の変貌 鯨 統一郎 (著)
信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた 跡部 蛮 (著)
信長ミステリー 天下布武と御馬揃えの秘儀
信長の忍び 重野なおき (著)
信長のシェフ 梶川 卓郎 (著)
信長協奏曲 石井 あゆみ (著)
のぼうの城 和田 竜 (著)



第二次小豆坂の戦
怒涛の勢いで勢力を広げながら進軍する駿河・遠江の太守今川治部大輔義元に信秀は危機感を抱いていた。

天文十七年(1548年)三月十九日
織田軍先鋒織田信広隊と、雪斎率いる駿河衆が、三河国額田郡小豆坂で偶然接触し合戦となる。

雪斎率いる駿河衆の奮戦により、織田信広隊は総崩れとなり、信秀の本陣まで退却している。
以後、何度か小競り合いが行われたが、その都度、織田勢は今川勢に追われる形となり、
織田勢は安祥城に撤退することになる。

この小豆坂の戦で勝利した今川勢は、敗走する織田勢を追撃することはせず、双方睨み合いの状態が約一年程続いた。



暗殺
天文十八年(1549年)三月六日
事態を大きく変える大事件が起こった。

松平次郎三郎広忠が、家臣の岩松八弥に、暗殺されてしまうのである。

八弥は、織田信秀の密命で、広忠暗殺の機会を窺っていた刺客であったと伝えられている。
広忠暗殺事件は、義元にとって予期せぬことであった。


黒幕
義元にとって予期せぬ大事件であったにも関わらず、義元の行動は迅速であった。

松平家当主が殺害され、時期当主である嫡男 竹千代を人質に取られている以上、
松平家が織田弾正忠家へ服属するのは時間の問題であると考えた義元は、

事件後僅か十日で太原崇孚雪斎を城代として三河岡崎城に入城させている。

そして、事件の八ヶ月後には、
三河安祥城主織田三郎五郎信広を生け捕りにし、竹千代との人質交換を成功させている。



松平次郎三郎広忠 暗殺の黒幕は果たして・・・・・・・・・・・



人質
今川家の人質となった竹千代は、そのまま駿府に送られ、十一年間の人質生活を送ることとなり、
結果松平家今川家に従属することになる。

今川治部大輔義元は、三河全域を完全に支配下に置き、
駿河遠江三河という広大な領国を支配する戦国期最大の大大名となった。


戦国Check✓

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

駿河国(するがのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は駿州(すんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県中部と北東部(大井川以東)。
駿河郡、富士郡、庵原郡、安部郡、有渡郡、志太郡、益津郡の七郡から成る。

遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は遠州(えんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県の大井川以西にあたる。
浜名郡、敷智郡、引佐郡、麁玉郡、長上郡、長下郡、磐田郡、山名郡、佐野郡、周智郡、山香郡、城飼郡、
蓁原郡の十三郡から成る。

三河国(みかわのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は三州または参州 (さんしゅう)
領域はおおむね現在の愛知県東部にあたる。
碧海郡、額田郡、渥美郡、八名郡、加茂郡、幡豆郡、宝飯郡、設楽郡の八郡から成る。



宿敵
この二年後、
織田弾正忠信秀が死去しており、義元は、家督を継いだ織田三郎信長と対立していく事になる。

織田三郎信長     十八歳
今川治部大輔義元  三十二歳




次回 第七十七話 新たな二十一ケ条 ⇒



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武智麻呂

 【05//2014】

藤原南家の一族



天文十六年(1547年)十月十九日

松平次郎三郎広忠の嫡男 竹千代は、人質として尾張国 織田弾正忠家の館にいた。

今川家への人質として護送の任に就いていた、三河田原城主 戸田弾正少弼康光が、
こともあろうに宿敵織田弾正忠信秀に、永楽銭千貫文で、竹千代を売り渡してしまったのである。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

三河田原城(みかわたはらじょう)
三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった城。

戸田 康光(とだ やすみつ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は弾正少弼。三河田原城主。
三河国渥美郡大崎郷を領した、渥美郡田原城主 戸田弾正忠憲光の嫡孫。
田原城を根拠に渥美半島、三河湾一帯に勢力を振るった。
初名は渥美半島統一をなした曽祖父宗光にあやかり、宗光と名乗るが、松平清康に従属して、
偏諱を受けて康光と改める。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。


戸田康光の裏切りを知った今川治部大輔義元は、天野安芸守景泰に命じ、三河田原城を攻撃させている。

戸田家は当初、松平家に服属していたが、清康の死後、次期当主となった広忠が、今川家に従属すことになり、
戸田家も松平家に従い今川家に従属していた。

戸田康光は、於大の方と離縁した広忠に、継室として娘真喜姫を嫁がせており、広忠にとっては岳父であった。
その岳父の裏切りを知った広忠は、三河田原城攻撃に参軍し、天野景泰と共に田原城を陥落させている。


戦国Check✓

天野 景泰(あまの かげやす)
戦国時代の武将。官位は安芸守。駿河今川家臣。天野宗家。
今川家随一の猛将と謳われ、その武勇は遠江だけではなく、三河・相模にも知れ渡っていた。
永禄六年に今川氏に背いて所領を没収され、一族の藤秀が相続した。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

於大の方(おだいのかた)
戦国時代の女性。松平広忠の正室で、徳川家康の母。
尾張国知多郡の豪族 水野忠政とその夫人 於富との間に生まれる。
三河松平家との関係を強化するため、松平広忠の正室となり、長男竹千代(のちの徳川家康)を出産する。
しかし忠政の死後、水野家を継いだ兄 水野信元が今川家と絶縁して織田家に従ったため、
於大は今川家との関係を慮った広忠により離縁され、実家水野家の三河国刈谷城に返された。

真喜姫(まきひめ)
戦国時代の女性。松平広忠の継室。戸田康光の娘。
天文十四年 於大の方(伝通院。徳川家康の生母)を離縁した広忠と結婚。
田原御前と称され、広忠没後も三河岡崎にとどまり元亀二年三月二十九日死去。



始祖
天野安芸守景泰は、遠江天野家の当主であり、今川家随一の猛将と謳われ、
その武勇は遠江だけではなく、三河・相模にも知れ渡っていた。
また、天野家には一騎当千の武者がそろっていたという。

天野家は、伊豆国天野郷を発祥とし、藤原南家の一族であり名門であった。
始祖 天野民部丞遠景は、源頼朝の懐刀として主に暗殺等に携わっていた人物であり、
頼朝により九州惣追捕使に補任され、律令制度上の鎮西統治機関である大宰府の機構に関与してその実権を握り、九州において一定の基盤を作りあげた人物である。


戦国Check✓

天野(あまの)
伊豆国田方郡天野郷(現在の静岡県伊豆の国市天野)辺りの地。

藤原南家(ふじわら なんけ)
南家、北家、式家、京家と並ぶ藤原四家の一つ。
右大臣藤原不比等の長男 藤原武智麻呂を祖とする家系。
藤原武智麻呂の邸宅が、弟の藤原房前の邸宅よりも南に位置したことがこの名の由来。

天野 遠景(あまの とおかげ)
平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。官位は内舎人、左兵衛尉、民部丞。鎮西奉行人。
藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族である。
伊豆国田方郡天野に住して、その地名を取り天野氏と称した。
治承四年 源頼朝の挙兵に参加し、源範頼に属し平家追討に功をたてた。
文治元年 鎮西奉行として九州へ赴任。
大宰府の実権を掌握し幕府権力を扶植したが、現地での彼に対する反感が高まり建久ごろ解任。

九州惣追捕使(きゅうしゅうそうついぶし)
日本の律令制下の令外官の一つであり、九州地方における警察・軍事的官職。
諸国の惣追捕使が後に、守護と名前を変え発展していく。

大宰府(だざいふだざいふ)
七世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。
和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。

おススメの本
信長と織田軍団 (歴史群像シリーズ―新・歴史群像シリーズ)
信長の凱旋 杉浦 八浪 (著)
信長の血脈―三大英傑因縁譚99 新田 完三 (著)
信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学
信長の棺 加藤廣 (著)



遠江天野氏
遠景の子孫は各国に分散し、遠江国犬居(いぬい)に犬居城を築き居城とした天野周防七郎左衛門経顕の系統が、
遠江天野氏である。



三河天野氏
遠景を祖とする主な天野家として、徳川家康の家臣として活躍した天野三郎兵衛康景の系統が、
三河天野氏である。

康景は、竹千代の小姓としてその側近くに仕え、竹千代が人質になったときには駿府に同行し、行動を共にしている。
三河時代においては、本多作左衛門重次、高力与左衛門清長と共に岡崎三奉行と称され、

「康景は慎重、重次は剛毅、清長は寛大」

「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」と評価されていた。

江戸時代には、徳川将軍家直属の旗本としてその家名を残している。



安芸天野氏
頼山陽(らいさんよう)が刊行した歴史書「日本外史」で、
日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)とされている合戦の一つである厳島の戦いで、
毛利右馬頭元就に従って活躍した天野隆綱の系統が、安芸天野氏である。



能登天野家
天正五年(1577年)、越後国 上杉弾正少弼謙信の侵攻を受けて滅亡した、
能登守護畠山氏の重臣として活動したのが能登天野家である。


戦国Check✓

遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は遠州(えんしゅう)。
領域はおおむね現在の静岡県の大井川以西にあたる。
浜名郡、敷智郡、引佐郡、麁玉郡、長上郡、長下郡、磐田郡、山名郡、佐野郡、周智郡、山香郡、城飼郡、
蓁原郡の十三郡から成る。

遠江犬居城(とおとうみいぬいじょう)
遠江国周智郡犬居(現在の静岡県周智郡春野町)にあった城。

天野 康景(あまの やすかげ)
戦国時代から江戸時代初期の武将。幼名は又五郎。通称は三郎兵衛。
天野遠景の後胤といわれ、祖父遠房の代に家康の祖父松平清康に臣属した三河譜代の家柄である。
康景は家康より五歳の年長で、幼少のころから家康に近侍し辛苦をともにした。
三河三奉行の一人で公平無私な言行から〈どちへん(彼是偏)なしの天野三郎兵衛〉の異称がある。

本多 重次(ほんだ しげつぐ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は作左衛門。
剛毅な性格とふるまいから「鬼作左」と恐れられた。
七歳から松平清康、広忠、徳川家康と三代にわたって仕え、三河三奉行も務めた。
戦場から留守を預かる妻に宛てた「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」という手紙は短文の好例として有名。
天下人となった豊臣秀吉の母大政所を冷遇したということで秀吉の咎めをうけ、
家康の関東移封後は上総古井戸三千石に閉居された。

高力 清長(こうりき きよなが)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は新三、与左衛門。官位は従五位下河内守。島原藩高力家初代。
高力氏は熊谷直実の後胤といわれ、三河国高力郷に居住し家康の祖父清康に臣属した。
清長は家康より十二歳年長で駿府人質時代に随従する。
三河一向一揆後、岡崎の三河三奉行をつとめ、「仏高力」の異称で呼ばれた。
財務にも長じた吏僚的武将で、徳川氏の関東入部後、武蔵国岩槻城二万石を領した。

頼山陽(らいさんよう)
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎。名は襄(のぼる)。字は子成、山陽、三十六峯外史。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
二十一歳で安芸を出奔するが脱藩の罪で自宅幽閉となる。
赦免ののち、京都で開塾し、詩、書に才能を発揮する。
幽閉中に起稿した「日本外史」は、幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。
天保三年九月二十三日死去。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
天文二十四年十月一日(1555年)、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。

毛利 元就(もうり もとなり)
室町時代後期から戦国時代の武将。幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。官位は従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、
中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。




次回 第七十六話 松平広忠暗殺の黒幕は ⇒



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城も領地も・・そして我が子までも・・・・・

 【05//2014】

東三河侵攻



天文十四年(1545年)十月二十四日

北条左京大夫氏康との和睦(わぼく)が成立し、領国を脅かす不安材料が無くなった今川治部大輔義元は、
東三河侵攻を開始する。

義元は、軍師である太原崇孚雪斎に三河の敵対勢力の一掃を命じた。

戦国Check✓

東三河(ひがしみかわ)
令制国の三河国の東半分で、豊川流域および渥美半島で、遠州灘に面する地域である。

太原 崇孚 雪斎(たいげん そうふ せっさい)
戦国時代の武将、軍師、臨済宗僧侶。駿河今川家臣。
今川義元の軍師として緒戦において手腕を発揮する。
また外交面でも、今川氏の政治顧問として駿甲相三国同盟などで活躍し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。



天文十五年(1546年)十一月十五日

太原崇孚雪斎は東三河に侵攻し、戸田金七郎宣成の三河今橋城を攻撃。

今橋城陥落の報せを受けた義元は、東三河侵攻の拠点として雪斎をそのまま城代として入城させた。

同じ頃、尾張国の織田弾正忠信秀もまた、三河の敵対勢力を一掃するべく西三河侵攻を進めていた。


戦国Check✓

戸田 宣成(とだ のぶなり)
戦国時代の武将。通称は金七郎、橘七郎、三郎兵衛尉。三河今橋城主。
三河国渥美郡大崎郷を領した、渥美郡田原城主 戸田弾正忠憲光の次男。
天文六年 今橋城主牧野田兵衛尉成敏を退けて宣成が城主となる。
これにより、戸田氏は渥美郡に田原城、二連木城を有していたものに宣成の今橋城を加えて、
渥美郡の要部(現在の豊橋市)を天文十年までにはほぼ制圧した。

三河今橋城(みかわいまばしじょう)
三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内)にあった城。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

西三河(にしみかわ)
令制国の三河国の西半分で、矢作川流域の碧海郡、幡豆郡、額田郡、加茂郡から成る地方である。


当時、三河国を治めていた松平次郎三郎広忠は、
父・清康が天文四年(1535年)守山崩れにより家臣に斬殺されて以来、同族間の内部抗争が激化し、
織田弾正忠家の三河侵攻に抵抗する力は無く、今川家の庇護がなければ領国を維持することが出来ない状態であった。



天文十六年(1547年)十月十九日

松平三左衛門忠倫謀反の報せを聞いた広忠は、義元に援軍を要請。

援軍要請に了承した義元は、
我ら今川に後詰めを請うのであれば、忠義の証しとして嫡男竹千代を質に寄こすべし
広忠の嫡男竹千代を人質として要求する。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

松平 忠倫(まつだいら ただとも)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。松平清康の弟。松平広忠の叔父。三河佐々木城主。
松平宗家に反抗し続けた人物ではあるが資料が残されておらず、謎の多い人物。


この条件を承諾せざるを得なかった広忠は、岳父である三河田原城の戸田弾正少弼康光に、
竹千代を駿府へ護送するよう命じた。

しかし、護送の任に就いた戸田康光は、事もあろうに敵対している尾張国の織田弾正忠家へ、
永楽銭千貫文で、竹千代を売り渡してしまったのである。

竹千代を人質に取った信秀は、使者を遣わし広忠に織田方へ寝返るよう要求するが、
広忠はそれに屈することはなかった。


戦国Check✓

三河田原城(みかわたはらじょう)
三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった城。

戸田 康光(とだ やすみつ)
戦国時代の武将。通称は孫四郎。官位は弾正少弼。三河田原城主。
三河国渥美郡大崎郷を領した、渥美郡田原城主 戸田弾正忠憲光の嫡孫。
田原城を根拠に渥美半島、三河湾一帯に勢力を振るった。
初名は渥美半島統一をなした曽祖父宗光にあやかり、宗光と名乗るが、松平清康に従属して、
偏諱を受けて康光と改める。

駿府(すんぷ)
駿河国の国府が置かれた都市 駿河国府中(現在の静岡県静岡市駿河区)の略。

永楽銭(えいらくせん)
中国、明朝第三代皇帝・永楽帝の時代に鋳造された銅銭。
表面に「永楽通宝」の文字があり、室町時代に輸入され、江戸初期まで盛んに流通したが、1608年禁止された。


おススメの本
軒猿の月 火坂 雅志 (著)
信長 ―近代日本の曙と資本主義の精神― 
信長が見た戦国京都 
信長軍の司令官―部将たちの出世競争 谷口 克広(著)
信長と家康 清須同盟の実体 谷口 克広 (著)



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覇業への道~英傑乱舞~

 【05//2014】

河越城の戦い


夜襲
天文十五年(1546年)四月二十日

武蔵河越城に到着した北条左京大夫氏康は、
自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を、多目周防守元忠に預け、残りの三隊を率いて、

子の刻(深夜12時から午前2時まで)


「我聞く戦の道は衆といえども必ず勝たず、寡といえども必ず敗れず、

ただ士心の和と不和とにあるのみ、

諺にいわく、小敵といえども侮るべからず、大敵といえども恐るべからず云ふ。

我上杉と数度戦に及びけれども、いつも我一人にて敵十人に当たれり、

寡を以て衆に敵すること、今日に始まりしことにあらず、勝敗の決この一戦にあり。

汝ら心を一にし、力をあわせ、ただ我向かふ所を視よ。」




私が知っている戦というものは、兵を大勢集めたといっても必ず勝つわけでもなく、
兵が少ないといっても必ず負けるわけではない。

ただ、武士としての覚悟があるか否かである。

ことわざにも弱敵だからといって油断することなく、また強敵だからといって恐れてはいけないとある。

私は上杉と数回戦ったが、いつも私は一人で十人の敵を相手にした。
少ない兵数で大勢の敵を相手にしたのは、何も今日に始まったことではない。
全てはこの一戦にかかっている。

汝らは心をひとつにして、ただ、私が敵に向かう姿を見ていろ。」

敵に会えばこれを斬り、敵の首は打ち捨てにし、法螺貝の音が聞こえたらすぐに撤退せよ、
と三箇条を言い渡し、自ら先んじて関東連合軍約八万に突撃を敢行する。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。



河越城が明日にも陥落するかという戦勝ムードが漂う関東連合軍陣屋では、
北条軍の深夜の急襲に、驚き、成す術が無く大混乱に陥った。

断絶
扇谷上杉陣営では、当主上杉修理大夫朝定や、重臣難波田弾正憲重らが討死し、
十三代続いた扇谷上杉家は断絶している。

余談ではあるが、朝定を誰が討ち取ったのかなど、死亡状況を伝える記録が全く存在しないことから、
朝定の実際の死因は病死の可能性も排除できず不明であり、連合軍崩壊の原因は、
北条軍の奇襲ではなく朝定の突然の死に求める説もある。

朝定の河越城奪還の夢は砕かれた


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扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は修理大夫。扇谷上杉家第十三代当主。扇谷上杉家の事実上最後の当主。
天文六年、父朝興の死により家督を継承するが、北条氏綱によって本拠武蔵河越城を追われ松山城を居城とする。
天文十五年、関東管領上杉憲政と結び古河公方足利晴氏をたてて河越城の奪回をはかり攻囲するが、
四月二十日、河越城の戦いで北条氏康に敗れて戦死。
享年二十二歳。
朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。
一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興を図ったが、まもなく後北条氏に屈服している。

難波田 憲重(なんばだ のりしげ)
戦国時代の武将。通称は弾正。扇谷上杉家重臣。
難波田氏は、武蔵七党のひとつ村山党に属していた金子小太郎高範の流れを汲む一族。
古くから入間郡難波田郷(現在の埼玉県富士見市南畑地区付近)に拠点として難波田城を有した。
天文六年、河越城を奪われた主君上杉朝定を松山城に迎え
後北条氏と戦い扇谷上杉家の重臣として家勢の挽回に努めるが、
河越城の戦いにおいて古井戸に落ちて死去したと伝えられる。




亡命
関東管領山内上杉陣営では、当主上杉兵部少輔憲政を逃がす為、重臣本間近江守が奮戦するものの、
北条家重臣大道寺駿河守政繁に討ち取られている。

憲政は、家臣の助けでなんとか居城である上野平井城に逃れ、生きながらえたが、
以後、関東管領としての威信を失った山内上杉家は衰退していき、
最終的には越後国の長尾弾正小弼景虎を頼り亡命している。


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山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の宗家。関東管領。
足利尊氏・直義兄弟の、母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。幼名は孫九郎。官位は駿河守。相模北条家臣。河越衆筆頭。
北条早雲の重臣であった盛昌以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで松枝城を守るが、前田利家・利長軍に攻められ降伏。
秀吉の命で天正十八年七月十九日自害。

上野平井城(うえのひらいじょう)
上野国緑野郡平井郷(現在の群馬県藤岡市西平井)にあった城。



河越城で籠城し耐え凌いでいた北条左衛門大夫綱成は、氏康の奇襲作戦を待っていましたとばかりに城門を開き、
古河公方足利左兵衛督晴氏の軍めがけて突撃し、足利軍を壊滅寸前にまで追い込んでいる。

大勝利
勝機を得た北条軍は、氏康の号令の下、逃げ惑う関東連合軍を執拗に追い、敵陣深く切り込むが、
後方より戦況を見守っていた多目周防守元忠が危険を感じ、独断で退却の法螺貝を吹かせ、
深追いする北条軍を退却させている。

元忠のこの冷静な判断を氏康は賞賛したという。

八万の大軍団に、八千で挑んだ河越城の戦いは、北条軍の大勝利に終わり、
北条左京大夫氏康という名が、関東に鳴り響いた。

この合戦での関東連合軍の死傷者は、一万三千から一万六千人と伝えられている。


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籠城(ろうじょう)
城にこもり敵と戦うこと。敵陣包囲の中、味方が劣勢の場合の重要な戦術。
籠城により敵を攻略するには、何よりも食糧、水などの生活物資の確保が先決であり、
加えて矢、火薬、石などの戦闘用具の準備も必要となる。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
後北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
享徳四年(1455年)、第五代鎌倉公方足利成氏が、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となる。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。
御所は主に古河城。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

足利 晴氏(あしかが はるうじ)
室町時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位 左兵衛督。室町幕府第四代古河公方。
越後長尾氏の援助を得て元服し、将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。
父高基の方針のもと後北条氏と婚姻関係を結び、北条氏の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を
下総国府台(こうのだい)合戦で破った。
その後、後北条氏からの自立を図り河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦うが敗れ、
勢力を後退させた。



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北条軍団随一の猛将

 【05//2014】

地黄八幡の猛将


日本外史
幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた、江戸時代後期の歴史家であり思想家である、頼山陽(らいさんよう)は、
文政十二年(1829年)に刊行した歴史書「日本外史」で、厳島の戦い 桶狭間の戦い 河越城の戦いを、
日本の歴史上特筆すべき戦いとして、日本三大奇襲(にほんさんだいきしゅう)と命名している。


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尊王攘夷(そんのうじょうい)
王を尊び、外敵を撃退しようとする思想。
日本では、江戸時代末期(幕末)に朝廷から一般民衆まで広く論じられ、討幕運動の合言葉として利用された。
尊王攘夷論と呼ばれることもある。

頼山陽(らいさんよう)
江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。幼名は久太郎。名は襄(のぼる)。字は子成、山陽、三十六峯外史。
主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
二十一歳で安芸を出奔するが脱藩の罪で自宅幽閉となる。
赦免ののち、京都で開塾し、詩、書に才能を発揮する。
幽閉中に起稿した「日本外史」は、幕末の尊攘派につよい影響をあたえた。
天保三年九月二十三日死去。

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
天文二十四年十月一日(1555年)、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。

河越城の戦い(かわごえじょうのたたかい)
武蔵国河越城で、北条氏康と上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏ら関東連合軍との間で行われた合戦。


地黄八幡

天文十四年(1545年)九月二十六日

関東管領山内上杉家扇谷上杉家古河公方足利家、その他関東諸大名による、
関東連合軍 約八万の大軍団が北条家の支城武蔵河越城を包囲している。

河越城には、守将として北条左京大夫氏康の信任の厚かった義弟、
北条左衛門大夫綱成が、約三千の兵で守備していた。

綱成は、武勇に秀でた武将であり、常に北条軍の先鋒を勤め、その無類の強さから地黄八幡と称えられ、
関東一帯にその名が鳴り響いていた。
逸話ではあるが、綱成の地黄八幡の旗指物を拾った武田大膳大夫晴信が、
「左衛門大夫の武勇にあやかるように」と、家臣真田源太左衛門幸隆の息子・源次郎に与えたとされている。


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関東管領(かんとうかんれい)
鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置した役職。
当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。
鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の宗家。関東管領。
足利尊氏・直義兄弟の、母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家。

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
戦国時代には武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。

古河公方(こがくぼう)
室町時代後期から戦国時代にかけて、下総国古河(茨城県古河市)を本拠とした関東足利氏。
享徳四年(1455年)、第五代鎌倉公方足利成氏が、鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となる。
その後も政氏・高基・晴氏・義氏へと約130年間引き継がれる。
御所は主に古河城。
古河公方を鎌倉公方の嫡流とみなし、両方をあわせて関東公方と呼ぶこともある。

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
後北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。

地黄八幡(じきはちまん)
北条家五備(五家老)の黄備を担当していた北条綱成の『八幡』と墨書した旗指物。

真田 幸隆(さなだ ゆきたか)
戦国時代の武将。幼名は次郎三郎。通称は源太左衛門、弾正忠。武田二十四将の一人。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
攻め弾正、鬼弾正などの異名を持ち、武田家中でも一目置かれていた存在と言われている。
智将 真田幸村の祖父。


篭城
北条家随一の猛将と謳われた綱成でさえ、八万の大軍団を前には成す術が無く、
城兵共々華々しく討死を覚悟していたという。

綱成の気性がわかる氏康は、「絶対に綱成を死なせてはならぬ」といい、
綱成の弟である、北条刑部少輔綱房を使者として単騎河越城へ向かわせた。

「わが軍勢が到着するまで城外へ討って出てはならぬ。籠城にて耐え凌ぐように」
使者として向かった綱房もまた、兄綱成に劣らぬ猛将であった。
単騎で関東連合軍の包囲網を潜り抜け、河越城に入城すると、兄綱成に氏康の策を伝えた。

その頃氏康は、八千の軍勢を率い、河越城救出に向かっていた。
氏康は、常陸国の小田左近衛中将政治の家臣菅谷隠岐守貞次に、
「城兵を助命してくれれば城は明け渡す」と、和睦(わぼく)の提案を持ち掛けるが、
数に勝る連合軍の総大将上杉兵部少輔憲政や、足利左兵衛督晴氏は、
この和睦の提案を一蹴し、この機に弱腰になっているであろう北条家の息の根を絶とうと意気込んでいた。


戦国Check✓

北条 綱房(ほうじょう つなふさ)
戦国時代の武将。通称は孫二郎。官位は刑部少輔、伊賀守。
今川氏親の家臣福島正成の次男。幼名は福島弁千代と称した。
父の没落後に兄綱成や妹とともに北条家に身を寄せ、北条氏綱からの偏諱を受け綱房と称した。
軍記物などに登場する福島伊賀守勝広は綱房を指しているともいうが、勝広は史料上では登場しない。
北条氏直の代に福島伊賀守賢成という人物がいる。

常陸国(ひたちのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は常州(じょうしゅう)。
領域はおおむね現在の茨城県の大部分にあたる。
筑波郡、河内郡、信太郡、行方郡、鹿島郡、真壁郡、新治郡、茨城郡、那珂郡、久慈郡、多珂郡の十一郡から成る。

小田 政治(おだ まさはる)
戦国時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位上、左近衛中将、左京大夫。常陸小田氏第十四代当主。
堀越公方足利政知の子であり、室町幕府第十一代将軍足利義澄の弟に当たる。
小田氏の中興の祖とよばれ、小田氏を戦国大名化へと導き、最盛期を築いた。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
戦国時代の武将。通称は五郎。官位は兵部少輔。山内上杉家第十五代当主。第二十二代関東管領。
関東管領として関東主要国の広範囲に権限を持ち、扇谷上杉家、駿河今川家と結んで関東中心部へと勢力を拡大していく
相模北条氏に対抗するが、河越城夜戦にて大敗を喫したため、家臣層の離反や内訌を招くこととなり、勢威を失った。
のちに上杉謙信(長尾景虎)を頼って越後国へと落ち延び、鎌倉鶴岡八幡宮で山内上杉氏の家名と関東管領職を謙信に譲った。

足利 晴氏(あしかが はるうじ)
室町時代の武将。幼名は亀若丸。官位は従四位 左兵衛督。室町幕府第四代古河公方。
越後長尾氏の援助を得て元服し、将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。
父高基の方針のもと後北条氏と婚姻関係を結び、北条氏の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を
下総国府台(こうのだい)合戦で破った。
その後、後北条氏からの自立を図り河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦うが敗れ、
勢力を後退させた。


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