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えっ!!現在の貨幣価値で約1億円!!

 【26//2014】

時の権力者による神殿の移動


経済基盤
三河松平氏の重要拠点である三河安祥城を手中に治め、
松平氏の本拠地 三河岡崎城の目前である矢作川のすぐ西までその勢力を伸ばしていた織田弾正忠信秀は、

天文十年(1541年)
伊勢神宮 式年遷宮の際に、材木や銭七百貫文を献上したことより、朝廷より三河守に任命されている。

七百貫文は、現在の貨幣価値に換算すると約1億円程の金額といわれており、
商業都市 津島を支配していた織田弾正忠家の経済力がよく解る。

津島は全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町であり、
尾張と伊勢を結ぶ要衝(ようしょう)「津島湊」として発展した。

当時「津島湊」は「堺湊」よりも強大な経済基盤を持っていたと言われている。


(表)「戊寅年十二月尾張海部評津嶋五十戸」

(裏)「韓人部田根春赤米斗加支各田部金」


飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)発掘調査で出土した木簡(もっかん)の中に、
天武七年(678年) 、尾張国海部郡津島の韓人部田根赤米を収めたという内容の記述がある。

この記述より、
七世紀後半には、津島は伊勢や朝廷へ物資を運ぶ湊として機能し、
以後中央権力とある種の結びつきを持ちながら栄え続けたと考えられている。


戦国Check✓

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

天王信仰(てんのうしんこう)
牛頭(ごず)天王および須佐之男命(すさのおのみこと)に対する信仰。
古くは仏教の守護神である四天王に対する信仰であったが、現在は牛頭天王に対する信仰をさす。

飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
672年から694年にかけての天武、持統両帝の皇居。
明日香村雷(いかずち)と同飛鳥との間に位置したと考えられている。

木簡(もっかん)
墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板。
紙の普及により廃れた。


中世都市共同体の研究 (思文閣史学叢書) 小西 瑞恵 (著)
東海地域文化研究―その歴史と文化
(研究叢書) 名古屋学芸大学短期大学部東海地域文化研究所 (編集)
日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 新人物往来社




神話
また津島は古くから伊勢神宮とのかかわりが深く、伊勢詣でをする人たちは「津島かけねば片詣り」と、伊勢神宮と津島神社をともに参拝するのが古くからの習わしとされていた。

「伊勢神宮」は天照大御神(あまてらすおおみかみ) が祀られ、
「津島神社」は別名「牛頭天王」と言われ、須佐之男命(すさのおのみこと)が祀られ、
共に多くの人々の信仰を集めていた。

古事記によれば、
父である伊邪那岐命(いざなぎのみこと) の怒りを買い天から追放された須佐之男命は、
姉の天照大御神を頼り高天原へ上るが、そこで粗暴な行為を働き、
悲しんだ天照大御神は天の岩屋に隠れてしまった。

追われる様に出雲の国へ逃れた須佐之男命は、
その地を荒らしていた巨大な怪物八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治する。

そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち) を天照大御神に献上し、許しを得た。

その後、須佐之男命の荒御魂(あらみたま)は出雲にとどまり、「須佐神社」で祀られ、
和御魂(にぎみたま)は、尾張津島の「津島神社」で祀られた。

この神話から伊勢神宮と津島神社はともに参拝するのが習わしとされた様である。


戦国Check✓

古事記(こじき、ふることふみ)
和銅五年(712年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された日本最古の歴史書。
神代における天地(アメツチ)の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が
紀伝体で記載されている。

天の岩屋(あまのいわや)
日本神話に登場する、岩でできた洞窟。
太陽神である天照大御神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台。

出雲国(いずものくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。別称は雲州(うんしゅう)。
領域はおおむね現在の島根県東部にあたる。
意宇郡、能義郡 、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡 、出雲郡 (出東郡)、神門郡 、飯石郡 、仁多郡 、大原郡の十郡から成る。

八俣遠呂智(やまたのおろち)
日本神話に登場する八つの頭と八本の尾を持った伝説の怪物。

荒御魂(あらみたま)
神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面の一つ。
天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の荒々しい側面。
神の祟りは荒魂の表れとされている。

和御魂(にぎみたま)
神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面の一つ。
雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面。
神の加護は和魂の表れとされている。







草薙剣
須佐之男命が天照大御神に献上した草那芸之大刀は、古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。

神話の記述の通りであれば、愛知県名古屋市の熱田神宮の奥深くに御神体として安置されている事になっている。

この草那芸之大刀は、
天照大御神の神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)とともに
皇居内に祀られていたが、景行天皇(けいこうてんのう)の時代に伊勢斎宮倭姫命(やまとひめのみこと)から、
東征へ向かう倭建命(やまとたけるのみこと) に渡された。

倭建命が東征の途上、駿河国で野火の難を払い、「草薙剣」の別名を与えたという神話もある。

現在の静岡県には、「焼津」、「草薙」など、この神話に由来する地名が残る。


戦国Check✓

景行天皇(けいこうてんのう)
称号は天皇。第十二代天皇。
日本書紀によると、子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に九州の熊襲(くまそ)、東国の蝦夷(えみし)を平定させ、
諸国に田部(たべ)と屯倉(みやけ)を設けたとされる。
しかし古事記では以上の事柄は景行天皇の皇子、日本武尊個人の事業とされ、
天皇はこの皇子の勇猛さを恐れ疎外する存在としてあらわれる。





皇大神宮奉祀
全国に何万社とある神社の中で、特別の社格尊崇をもって維持されてきた伊勢神宮建立にまつわる逸話

日本書紀によれば、
倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢神宮創始に関わる最重要人物とされている。

「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」

「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」


天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御杖代(みつえしろ)として、
天照大御神の神魂を鎮座させる地を求め大和国から伊賀、近江、美濃、尾張の諸国を旅した倭姫命は、
津島湊から海路伊勢国に渡る。

「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰する国なり。

傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。

この国に居らむと欲ふ。」


伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しようとの
神託(しんたく)を受けた倭姫命は、伊勢の地に神宮を創建し、初代伊勢斎宮となった。

以後斎宮は天皇の代替わり毎に置かれ、
「天照大御神の御杖代」、神の意を受ける依代(よりしろ)として伊勢神宮に奉仕した。

斎宮の制度は一時途絶えるものの、天武天皇の時代に正式に制度として確立し、
以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎宮が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。


戦国Check✓

日本書紀(にほんしょき)
神代から持統天皇の時代までを記した歴史書。
天武天皇の第三皇子 舎人(とねり)親王が勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂。

御杖代(みつえしろ)
神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者。

天武天皇(てんむてんのう)
諱は大海人皇子。称号は天皇。第四十代天皇。
専制君主として君臨し、八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。
飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、
「日本書紀」と「古事記」の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。
天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)
皇室が南北2つに分裂した時代。
延元元年/建武三年(1336年)、足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、
元中九年/明徳三年(1392年)に皇室が合一するまでの時代を指す。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に二つの朝廷が存在する。

伊勢神宮 (楽学ブックス) Kankan (写真)
伊勢神宮ひとり歩き―神の森のヴィジュアルガイドブック  中野 晴生(著)
はじめてのお伊勢まいりー神様の声を聴くサンクチュアリ・ガイドー いしかわ かずたか (著, 監修)




式年遷宮
伊勢神宮の式年遷宮は歴史が古く、今から千三百年前の第四十代天武天皇の時代に制度が定められ、
以後二十年に一度、正殿以下すべての社殿や神宝、装束に至るまでそのすべてを造り替え新調し、
新しい正殿に御神体を遷す式年遷宮が繰り返されてきた。

しかしその二十年に一度の遷宮も、南北朝の動乱期ではその制度は崩壊し、
室町時代には約百二十年以上にわたり遷宮が行われなかった。

当然、正殿などは荒れ果てていた為、
朝廷は尾張国の実力者である織田弾正忠信秀式年遷宮の費用負担を願い出たのである。

その後、信秀の意志を織田信長が、そして豊臣秀吉など時の権力者が受け継いでいく。

江戸時代に入ると徳川幕府がその費用を負担し、第二次世界大戦の戦災復興の時期を除き、
今日までその制度は守られてきた。

そして平成二十五年には、第六十二回伊勢神宮式年遷宮が行われた。




次回 第十五話 三河国での覇権争い ⇒




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隣国の無礼な振る舞いは国力の弱体化が要因

 【24//2014】

安城合戦


守山崩れで不慮の死を遂げた松平二郎三郎清康の遺児松平次郎三郎広忠が三河岡崎城に帰還し、
松平宗家の後継者騒動はようやく鎮静化するもいまだ三河国は混乱していた。


戦国Check✓

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。



天文九年(1540年)二月
地に落ちた松平宗家の威信を回復せんが為に、無謀ともいえる賭けに出た広忠は、
織田弾正忠家の支城尾張鳴海城を攻めるが敗北している。


二郎三郎清康が築き上げた松平家を継承した年若い広忠は果たして当主としてのなのか。

松平宗家の威信

当主としての器

謀反

離反

など色々な事が年若い広忠を苦しめていた。


苦悩の日々を送る広忠の努力もむなしく、松平宗家は以前の勢いもなく日に日に弱体化していくこととなる。
そして東から今川治部大輔義元率いる今川軍が東三河侵攻を開始する。


戦国Check✓

尾張鳴海城(おわりなるみじょう)
尾張国愛知郡鳴海(現在の愛知県名古屋市緑区)にあった城。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

松平家の謎 (新人物往来社文庫) 「歴史読本」編集部 (編集)
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ  (PHP文庫)嶋津 義忠 (著)



駿河今川家による東三河侵攻と時を同じくして、尾張の織田弾正忠信秀もまた、西三河侵攻に動き出す。

天文九年(1540年)六月六日
織田信秀は、三河刈谷城主水野右衛門大夫忠政を伴い、三千の兵を率いて西三河へ侵攻し、
三河安祥城を攻撃している。

三河安祥城の守将として、松平左馬介長家が、一千の兵と共に籠城していたが、
自軍の三倍もの兵力を相手にせねばならず劣勢は免れなかった。

そこで広忠は松平源次郎信康 松平彦四郎利長 松平上野介政忠 松平左近将監忠次ら、
一門衆を援軍として向かわせた。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

三河刈谷城(みかわかりやじょう)
三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市城町)にあった城。

水野 忠政(みずの ただまさ)
戦国時代の武将。通称は藤七郎。官位は右衛門大夫、下野守。
尾張緒川城を拠点として知多半島北部をその支配下においていたが、
天文二年(1533年)、三河刈谷に新城刈谷城を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、
形原城主松平家広などに娘を嫁がせ領土の保全を図った。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

松平 長家(まつだいら のぶたか)
戦国時代の武将。通称は左馬介。三河安祥城主。
天文九年、織田信秀に攻められ、岡崎城の松平広忠の救援をえて奮戦するが討死。

松平 信康(まつだいら のぶやす)
戦国時代の武将。通称は源次郎。松平清康の次男。松平広忠の異母弟。
天文九年、織田信秀が安祥城を攻めると、異母兄松平広忠の命で援軍に駆け付けた。
しかし、同族の安祥城主松平長家らとともに戦死。

松平 利長(まつだいら としなが)
戦国時代の武将。通称は彦四郎。松平長親の五男。藤井松平家初代当主。
天文九年、織田信秀が安祥城を攻めると、松平広忠の命で援軍に駆け付け、織田軍を撃退することに成功。
しかし、同族の安祥城主松平長家が戦死している。

松平 政忠(まつだいら まさただ)
戦国時代の武将。通称は上野介。長沢松平家第七代当主。
永禄三年、桶狭間の戦いで織田軍に急襲され、次男忠良と共に討死。

松平 忠次(まつだいら ただつぐ)
戦国時代の武将。官位は左近将監。五井松平家第四代目当主。
天文九年(1540年)及び天文十四年(1545年)の二度にわたって、織田の軍勢を安城で防ぎ打ち破った。
天文十六年(1547年)宗家に敵対した一族松平信孝(三木松平)と岡崎耳取縄手において戦い、討死。




信秀は、主力の騎馬隊二千を率い、城の北方の高台に布陣し、南方に忠政の別働隊が布陣した。
天文九年(1540年)六月六日 未明
織田、水野連合軍による安祥城攻撃が開始された。

長家率いる松平勢は籠城策を取り果敢に戦い、
援軍として駆けつけた松平信康らと共に一度は織田水野勢を後退させている。

しかし劣勢を挽回するまでには至らず、長家など松平勢の主だった武士五十余人が討死

両軍合わせて千以上の死者が出た。いかに激戦だったかを物語っている。


戦国Check✓

籠城(ろうじょう)
城にこもり敵と戦うこと。敵陣包囲の中、味方が劣勢の場合の重要な戦術。
籠城により敵を攻略するには、何よりも食糧、水などの生活物資の確保が先決であり、
加えて矢、火薬、石などの戦闘用具の準備も必要となる。

戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い 小和田 泰経 (著)
全国 城攻め手帖 風来堂 (著)



「織田信秀により安祥城陥落」
報せを受けた広忠には、もはや奪い返す力は無かった。

安祥城の陥落により、三河佐々木城主松平三左衛門忠倫、三河上野上村城主酒井将監忠尚らが
織田信秀に寝返ることになる。

この合戦により松平家の主だった武将はことごとく討ち取られ、
三河における松平宗家の武勇は地に落ちた。

以後、存亡の危機を迎えた松平家は、家名を存続させる為に駿河今川家に従属し、
その庇護を受けることになる。


戦国Check✓

三河佐々木城(みかわささきじょう)
三河国額田郡佐々木(現在の愛知県岡崎市上佐々木町)にあった城。

松平 忠倫(まつだいら ただとも)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。松平清康の弟。松平広忠の叔父。三河佐々木城主。
松平宗家に反抗し続けた人物ではあるが資料が残されておらず、謎の多い人物。

三河上野上村城(みかわうえのかみむらじょう)
三河国加茂郡上野(現在の愛知県豊田市上郷町)にあった城。

酒井 忠尚(さかい ただなお)
戦国時代の武将。通称は将監。松平家臣。三河上野上村城主。
松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えたが、
自立傾向が強くて松平氏から離反することも少なくなかった。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

庇護(ひご)
弱い立場のものをかばって守ること。




一方、安祥城攻略に成功し西三河侵略の足がかりを得た信秀は、その勢いを持って上洛し朝廷に謁見(献金)

その見返りとして従五位下に叙位され、備後守の任官を得ている。

更に花の御所に参じて室町幕府第十二代将軍 足利義晴にも拝謁している。


戦国Check✓

謁見(えっけん)
貴人または目上の人に会うこと。

従五位下(じゅごいのげ)
官吏における個人の地位を表す序列・等級である。位(くらい)。
近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。
一般官人から貴族階層への昇進となる。
昇殿の許可に必要とされる最低ラインであったため、宮中に入る像や鷹などにも与えられた。

叙位(じょい)
位階を授けること。授位(じゅい)とも。
官人、宮人に位階(内位・外位及び勲位)を授けること、あるいはそれを行う儀式のことを指す。
律令制においては、五位以上を授ける勅授(ちょくじゅ)、
内位八位以上もしくは外位七位以上を授ける奏授(そうじゅ)、
それ以下を授ける判授(はんじゅ)に分けられていた。
一般官人から貴族階層への昇進となる従五位下への叙位は特に重要視され、
叙爵(じょしゃく)、栄爵(えいしゃく)と称した。




次回 第十四話 時の権力者による神殿の移動 ⇒




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騙し取る詐欺が多発

 【20//2014】

奇策をもって攻略


奪取
天文七年(1538年)
織田弾正忠信秀尾張那古野城を騙し取る

尾張那古野城は、尾張国愛知郡那古野にあった城で、
大永年間(1521年~28年)西への領地拡大を目論む駿河国守護今川治部大輔氏親によって
尾張侵攻の最前線基地として築城された城である。

信秀は尾張那古野城主であった今川家庶流尾張今川家の名跡を継いだ氏親の六男今川左馬助氏豊
友好的に接近し、連歌などの友人となって氏豊を油断させた後、奇策をもって攻略したと伝えられている。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第七代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)
戦国時代の武将。幼名は竹王丸。官位は左馬助。今川義元の実弟。

連歌(れんが)
鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。
和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。

青銭大名 東郷 隆 (著)
今川氏家臣団の研究 小和田 哲男 (著)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹 (著)
織田三代記 羽生 道英 (著)
下天は夢か  (角川文庫) 津本 陽 (著)
ものづくりとくらしの日本史 新人物往来社 (編集)




氏豊は連歌を非常に好み、連歌の席を頻繁に設けていた。
そのことに目をつけた信秀は、氏豊に近づく為、尾張那古野城で催される連歌会に足繁く通っていた。

信秀は氏豊が開く連歌の席には必ず出席し、また弾正忠家で開かれた連歌の席にも氏豊を必ず招いた。
数ヶ月あるいは数年という歳月をかけ信秀は、氏豊の信用を得るようになる。

また言継卿記によると、

天文二年(1533年)
尾張国に下向した山科内蔵頭言継飛鳥井雅綱が、尾張勝幡城で蹴鞠の指導をした際、
今川竹王丸(今川氏豊)も招かれていたと記している。

この事からも信秀と氏豊は親交があった事が良く解る。

氏豊の信秀に対する信用は、「友」あるいは「親子」に良く似た「信頼」に近かったものと思われる。

信秀が城の本丸に軍を侵攻させやすい様に窓を開けるが、
氏豊は夏風を楽しむ風流の為だろうと信秀を疑うことはなかった程である。

ある日、いつもの如く連歌会に招かれた信秀は、単身那古野城へ赴いた。
そこで事件が起こった。
那古野城での連歌の会で信秀は原因不明の病気で倒れ、そのまま床に伏せてしまったのである。


体調が優れず数日間 那古野城で滞在していた信秀は、
「家臣に遺言をしたい」と最後の力を振絞り氏豊に懇願する。

同情した氏豊は、信秀の最後の頼みを聞き入れ、信秀の家臣を那古野城内に招き入れてしまう。
信秀の謀略に氏豊は気づいていなかった。

その夜、信秀はにわかに城内に引き入れた手勢を使って城に火を放ち、城の内外から攻め寄せて
一夜にして那古野城を乗っ取ってしまうのである。

信秀による那古野城乗っ取りの報せを受け、成す術も無く信秀の兵に捕らえられた氏豊は、
命乞いをして助けられ、女方の縁を頼って京都に逃れたという。

時は戦乱の世であり、まして尾張侵攻の最前線基地として築城された城の城将としては余りにも頼りない・・・・


戦国Check✓

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの
多彩な才能の持ち主であり、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)
戦国時代の公家、歌人、蹴鞠家。官位は従一位権大納言。

尾張勝幡城(おわりしょばたじょう)
尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にあった城。

蹴鞠(けまり/しゅうきく)
平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技。

謀略(ぼうりゃく)
人を陥れるためのはかりごと。



子離れ
那古野城を騙し取った信秀は嫡男吉法師に、
林佐渡守秀貞  平手中務丞政秀  青山与三右衛門信昌  内藤与三右衛門勝介ら、
四人の重臣を傳役に付け、尾張那古野城の城主とした。

群雄がひしめく戦乱の世で尾張統一を目指す信秀は、
幼い吉法師に「戦乱を生き抜く強さ」を身につけさせようと、
あえて奪い取った城の城将に据えるという無謀とも取れる英才教育をほどこした。

子供の自立を願うのであれば、親は「子離れ」をする必要がある。

吉法師をひとかどの武将にする為には、あえて外の世界でもまれて免疫力をつけさせる必要があった。

氏豊同様に誰かに城を騙し取られるかもしれない。

または攻め落とされるかもしれない。

それでも信秀は可愛い我が子を強い武将に育てる為、あえて辛い選択をするのである。

そんな父の想いを知ってか吉法師は「うつけ」と陰口をたたかれながらもたくましく成長して行く。


戦国Check✓

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として
補佐役に抜擢されているが不明な点が多く謎の人物。

歴史REALvol.4 戦国の城を攻める! 洋泉社
戦国IXA スクウェア・エニックス




次回 第十三話 安城合戦 ⇒




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子どもの将来に役立つ習い事は?

 【19//2014】

少年の戦争哲学

織田三郎信長が単なるうつけではないことは歴史が証明している。


織田信長はなぜ「天才」と言われるのか(知的生きかた文庫) 武田 鏡村 (著)
戦国人物伝織田信長 (コミック版日本の歴史)
第六天魔王 織田信長



競争
信長は幼少期より常々、武術や水泳、鉄砲の訓練など、あらゆる武芸の稽古に励み、
桶狭間の戦いでは自ら馬を下りて奮戦するなど、武勇にも秀でた武将であった。

また信長は、自身の武芸の稽古だけではなく、
将として「いかにして強い兵を育てるか」という事にも余念がなかった。

信長がまだヤンチャ坊主だった頃の逸話が「甲陽軍鑑」に記されている。
離れて暮らす吉法師の下に母土田御前から金一封(十疋=約百銭)が届けられた。
吉法師は母からのこの贈り物を大層喜んだがその使い方がいかにも「信長らしい」のである。

これは吉法師が子供たちを集めて竹や木で槍や刀をつくり、合戦ごっこをして遊んだ時の逸話である。
吉法師はどうしてもその合戦ごっこに勝ちたくてある作戦に出る。
まず、三十人ばかりの子供の中から特に強そうな者を選び、金を前金として与えた。
その後子供たちを二つの隊に分け、戦うという作戦である。

ここで最も重要なことは、隊を二組に編制したことである。

隊を二組に編制することで両者を競わせることになり、両者の潜在能力を引き出させる効果があった。

勝利をあげた吉法師は約束通り残りの金を与え、特に力を発揮した子供には、別に褒賞金を与えたという。

これを知った大人達は

「さても頼もしい子供だ。」

「戦う前に大勢の中からよい者を選び出して銭を与え、戦いが済んでからまた銭を与えるという発想は並ではない。」

「将来名将になるに違いない。」と褒め称えた。


戦国Check✓

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)
永禄三年(1560年)五月十九日に尾張国桶狭間で行われた合戦。
二万五千といわれる大軍を引き連れて尾張に侵攻した駿河の戦国大名 今川義元に対し、
織田信長は十分の一程とも言われる軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取た日本の歴史上最も華々しい戦い。

甲陽軍鑑(こうようぐんかん)
甲斐国の戦国大名 武田氏の戦略、戦術を記した軍学書。全五十九品。
武田信玄、勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。

土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。
法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。




創出
があるからこんな遊び方が出来るのであって、とりわけ信長が凄いとは思わない。
凄いのは子供が遊びで金をばら撒いているのに何も怒らない信秀や傅役の大人達の頭の中である。

後年、信長は黒母衣(くろほろ)・赤母衣(あかほろ)と呼ばれる精鋭部隊を編成し、強兵部隊を創出する。
通説では弱兵とされていた尾張兵を、三河兵や美濃兵と互角に渡り合える強兵へと信長は変化させている。

天王寺の戦いで三千余の兵を率い救援に駆けつけた信長は、本願寺勢一万五千余を相手に突撃を敢行し、
敵陣を切り崩し、見事天王寺砦の救援を成功させている。
しかもそれだけでは無い。
尚も続く執拗な本願寺勢を相手に、「多勢に無勢である」と反対する諸将を押し切り、
「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由」と言い放ち、再度突撃を敢行し、
本願寺勢二千七百余りを討ち取っている。

信長は、自己鍛錬を行なうのと同時に精鋭部隊を鍛え上げ、身体能力に優れた兵を常に補充していくのである。


戦国Check✓

母衣(ほろ)
日本の軍装の一種。幌・保侶とも書く。
元来は平安時代末期に生まれた懸保侶(かけぼろ)という戦闘用補助防具である。
武士の組織化が進んだ戦国時代では、敵味方から識別しやすくする為、赤や黄など目立つ色で着色され、大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われた。

天王寺の戦い(てんのうじのたたかい)
石山合戦の一環として天正四年(1576年)に行なわれた織田信長と一向一揆との戦い。天王寺砦の戦いともいう。



鍛錬
信長公記(しんちょうこうき)によれば、

信長十六、七、八までは、別の御遊びは御座なし。

馬を朝夕御稽古、又、三月より九月までは川に入り、水練の御達者なり・・・


市川大介めしよせられ、御弓御稽古。

橋本一巴を師匠として鉄炮御稽古。

平田三位不断召し寄せられ、兵法御稽古。

御鷹野等なり



十七、八歳頃までは、これといった遊び事はせず、馬を朝夕に稽古し、
三月から九月までは川で水泳をしている。

また、市川大介を呼び寄せて弓の稽古
橋本一巴を師匠として鉄炮の稽古
平田三位を側に呼び寄せて兵法の稽古と、
世にきこえた名人上手を身辺から離さず、懸命の稽古をつづけたと記されている。

「信長公記」の文中で「うつけ」者を紹介する文面と一緒に記されている部分である。

乗馬、水練、弓、鉄砲、兵法、・・・・そして鷹狩
奇抜な格好や振る舞いをしようとも戦国武将としての分別は十分すぎるほど持っていた事も伺える。

幼少期の信長は毎日毎日こうした武芸の稽古に励んでいたという。
そして教育係には、茶湯(ちゃのゆ)や連歌(れんが)を嗜(たしな)むインテリの平手中務丞政秀
片時も離れず信長に付き従っている。



戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。


信長は戦国武将の嫡子としてそれなりの礼法も学んでいた

大うつけどころかなかなかの若武者であった。

けっしてただの「うつけ」ではないことが窺い知れる。


あるじは信長 岩井 三四二 (著)
いくさの子 織田三郎信長伝 原哲夫(漫画)、北原星望(原作)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹 (著)
織田信長 戦国最強の軍事カリスマ 桐野作人 (著)


次回 第六話 400年以上生き続ける男 ⇒




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日本を代表する反抗のカリスマ

 【19//2014】

自由な発想をたのしむ尾張のうつけ者



幼い頃の信長は「うつけ」と呼ばれていた。

信長公記(しんちょうこうき)によると、

其の比の御形儀(ぎょうぎ)、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色貼余多(あまた)付けさせられ、

御髪はちやせんに、くれなゐ糸、もゑぎ糸にて巻き立て、ゆわせられ、大刀、朱ざやをささせられ、

悉く朱武者に仰せ付けられ・・・



町を御通りの時、人日をも御憚(はばか)りなく、くり、柿は申すに及ぱず、瓜をかぶりくひになされ、

町中にて、立ちながら餅をほおばり、人により懸かり、人の肩につらさがりてより外は、御ありきなく侯。

其の比は、世間公道なる析節にて候間、大うつ気とより外に申さず候



その頃の身なりというと、湯かたびらの袖を外し、半袴(はんばかま)で火打ち袋などを身につけ、
髪は紅色や萌黄色(もえぎいろ)の糸で茶筅(ちゃせん)に結い立て、朱鞘(しゅざや)の太刀をさし、
お付きの者にもみな朱色の武具を着けさせていたという。

また、町を通るときは、人目を憚(はばか)ることなく、栗、柿はいうまでもなく、瓜をがぶりつき、
町中で立ちながら餅をほおばり、人に寄り懸かり、人の肩にぶらさがるような歩き方をしていたという。

「人の肩にぶらさがるような歩き方」
理解不可能だが、行儀悪い様子はよく解る。



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うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

茶筅(ちゃせん)
茶道において抹茶をたてるのに使用する茶道具のひとつ。
湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。


イメージ
よく信長を題材とした物語では「うつけ者」としての姿には意味がある的な感じで描かれているが
果たしてどうなのか。
ない ない
ただ、思春期にちょっとグレていた程度の事である。・・・・

近隣諸国の目を欺くための偽装工作
それもない ない

この頃の織田弾正忠家は、信長の父信秀が健在であり、バリバリ、イケイケの頃である。
主家をも凌ぐ力を持った信秀に憧れ、強い存在である父の姿を子供ながらに真似していただけなのではないか。

古い仕来り(しきたり)や常識にとらわれない人物造がすでに出来上がっているが、それは後年、
信長の偉業を知る我々の勝手なイメージである。


成長
人間の成長発達の過程においては、
親、年長者あるいは既成の価値体系に対して拒絶否定無視怒りの感情が芽生えたり、
破壊的・暴力的な行動をひきおこしたりすることが目立つ時期がある。

反抗期である。
第一次反抗期は幼児期にあり、第二次反抗期は思春期にあるとされている。

いずれも自我の発達に伴う自立、独立の欲求の高まりであり、人格形成上重要な意義をもつものである。

「うつけ」と呼ばれていた信長は、ただ反抗期を迎えていたに過ぎないのでは・・・・・。

通説では、常識にとらわれず自由な発想をたのしむ信長は、尾張のうつけ者などと悪評が立っていた。

母の愛に拒絶された子供の幼い反逆行為ともとれるが、この頃の信長には、
乱世で生き抜くための新しいビジョンがもう芽生え始めていた。

一般的な常識に判断基準を定める事はせず、信長自身の基準で物事を計り、決定していく。

だからうつけと陰口をたたかれても、身を正すことはなかった。



うつけ者という評価を世に知らしめたのはもう少し後の話である。




次回 第五話 少年の戦争哲学




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念願の尾張統一。信長の歴史はまだまだ続くんだZ!

 【19//2014】

浮野合戦の事

永禄元年(1558年)
織田上総介信長は尾張統一を目指し尾張岩倉城攻めを開始する。

永禄元年(1558年)七月十二日
尾張岩倉城主織田伊勢守信賢を攻略すべく、二千の兵を率いて尾張清洲城を出陣。


戦国Check✓

尾張岩倉城(おわりいわくらじょう)
尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。



激戦
信長公記によると、
清洲と岩倉は直線にして三十町足らずの距離(約3.3km)であったが、直進すれば悪所が続き攻め難く困難を要する為、北西に三里迂回し、岩倉西方の浮野という地に展開し布陣したとある。
現在でいう愛知県一宮市にあたる。

これに対し信賢は、三千の兵を率い岩倉城を出陣し、信長勢と対峙した。

合戦は午(うま)の刻に始まった。

両軍が一斉に敵軍向かって突撃し、敵味方入り乱れての激戦となるが、
尾張犬山城主織田下野守信清の援軍が到着すると形勢は一気に傾き、信賢勢を追い崩した。

信賢勢は信清勢の急襲に混乱し陣形は崩れ、逃げまどうところを次々と信長勢に討ち取られていった。

千二百を超える死者を出し、壊滅寸前のところで信賢は岩倉城へ敗走したという。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。



相打つ
信賢勢の中に尾張国丹羽郡浅野村の林弥七郎と申す弓達者の者がいたと記されている。

弥七郎は先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者ではないかと云われている。

敗軍の中、弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた信長勢の鉄砲の名人橋本一巴に声をかけられた。


浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体(じんたい)なり。

弓を持ち罷(まか)り退き候ところへ、橋本一邑、鉄砲の名仁、渡し合ひ、連々(れんれん)の知音(ちいん)たるに依って、

林弥七郎、一邑に詞(ことば)をかけ候。

「たすけまじき」と申され候。

「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根を、しすげたる矢をはめて、立ちかへり候て、

脇の下へふかぶかと射立て候。

もとより一邑も二ツ玉をこみ入れたるつゝ(筒)をさしあてて、はなし候へば、倒れ臥しけり。



橋本一巴とは信長の鉄砲の師匠であり、鉄砲の名人であった。

「弥七郎、汝とは長年に渡り互いによく心を知り合った友であるが、この場にあっては助けることも出来ない。」

「いざ勝負」

「心得候」

弥七郎が強く弓を引き放つと、矢は一巴の脇下へ深々と命中し、
一巴が放った二発玉も見事弥七郎に命中し、相打ちとなった。


戦国Check✓



武辺者

然るところを、信長公の御小姓衆佐脇藤八走り懸かり、林が頸(くび)をうたんとするところを、

居ながら大刀を抜き持ち、佐藤藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。

かゝり向って終に頸を取る。

林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。


その様子を見ていた信長の御小姓衆佐脇藤八郎良之が、
手柄を得ようとまだ息のある弥七郎の首を討ち取らんと走りよって来たが、
逆に太刀を抜いて良之の左肘を切り応戦する。

しかし最後は、良之に組み伏せられた弥七郎は首を討ち取られた。

首は討ち取られたが弥七郎の奮戦を見ていた敵味方から
「弓と太刀の両用の働き比類なき武辺者」と賞賛されたという。

信長は岩倉城へ敗走する信賢勢を追撃することはせず、そのまま清洲へ帰還している。
翌日首実検を行ったところ、首数は千二百五十余にのぼった。



岩倉落城ノ事
翌永禄二年(1559年)春
織田上総介信長は軍勢を率い、尾張岩倉城を包囲

岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、

二、三ケ月近陣にとりより、火矢・鉄炮を射入り、様々攻めさせられ、越訴拘へ難きに付いて、渡し進上侯て、ちり転、

思ひ貼罷り退き、其の後、岩倉の城破却させられ侯て、清洲に至つて御居城侯なり。


信長は岩倉城下を焼き払い裸城にしてから、四方を鹿垣で囲み、
廻番を据え置き長期包囲により外界との接触を遮断する。

しかも信長は、二、三か月におよぶ長期包囲中、連日城内に火矢・鉄砲を撃ち込ませた。

城兵は思い思いに退去し、万策尽きた織田伊勢守信賢は数ヶ月に及ぶ篭城戦の末、ついに城を明け渡し、
降伏する。


織田上総介信長はついに念願であった尾張統一を成し遂げたのである。




次回 第百九話 信長の色小姓



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同族の誼

 【17//2014】

織田伊勢守家の内紛

尾張下四郡の支配を固めつつあった織田上総介信長は、
いよいよ尾張統一に向け尾張上四郡を支配していた織田伊勢守家の攻略に動き出す。


戦国Check✓

尾張上四郡(おわりかみよんぐん)
尾張国春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡に及ぶ範囲。

尾張下四郡(おわりしもよんぐん)
尾張国海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡(現在の愛知県名古屋市から知多半島)に及ぶ範囲。



叛旗
織田伊勢守家当主である織田伊勢守信安は、
織田弾正忠信秀の妹秋悦院を妻として迎えており、織田弾正忠家とは縁戚関係にあった。

しかし、弘治二年(1556年)四月
長良川の戦いで斎藤山城守道三が嫡子新九朗義龍に討たれると、
信安は義龍と呼応し信長と敵対するようになる。

また信安は、弾正忠家の家督問題にも関与しており、
織田勘十郎信行と共謀して信長廃嫡行動を起こすなどの動きも見せていた。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

長良川の戦い(ながらがわのたたかい)
弘治二年(1556年)四月、斎藤道三とその嫡男斎藤義龍との間で美濃国(岐阜県)の長良川にて行われた合戦。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

織田一族



家督騒動

永禄元年(1558年)
織田伊勢守信安は、嫡男左兵衛信賢によって国外へ追放されている。

信安には、嫡男左兵衛信賢と次男信家の二人の子息がいたが、信安が次男信家を溺愛するあまり信賢を廃嫡にし、信家を後継者にと考えるようになり、織田伊勢守家は二派に別れ相続の争いが行われるようになった。

御家安泰を求める家臣達と争いを避けるべく道を模索した信賢は、美濃国の斎藤義龍に後ろ楯を頼み、
自らが後継者として名乗りを挙げ、父信安と弟信家を国外へ追放するのである。

この織田伊勢守家の内紛を信長はただ傍観していた訳ではない。

伊勢守家の相続争いを裏で操っていたのは信長であった。

織田伊勢守家攻略に動き出していた信長は、
生駒八右衛門家長を織田伊勢守家重臣稲田修理亮植元前野右京進宗康福田大膳正に接触させ、
信安引退をほのめかすなどの調略をめぐらしている。
 
また信賢との戦いに備え、一時敵対関係にあった尾張犬山城主織田下野守信清に、
自分の姉である犬山殿を嫁がせ協調体制をとるなど、着々と織田伊勢守家攻略の包囲網を形成させていく。


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生駒 家長(いこま いえなが)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒家第四代当主。
灰(染料用)と油を扱い、馬借としての商いで財を蓄えた武家商人。
はじめ犬山城主 織田信清の配下であったが、妹の吉乃(類)が織田信長に見初められ側室に迎えられ、
縁戚関係を結んだため、父ともに信長の家臣となり馬廻りとして仕えた。

稲田 植元(いなだ たねもと)
戦国時代から江戸時代初期の武将。幼名は亀之助。通称は左馬亮。洲本城代稲田家初代当主。
尾張国岩倉城主織田信安の家臣、稲田大炊助貞祐の三男として誕生。
蜂須賀小六に従い、阿波蜂須賀藩筆頭一番家老となり阿波脇城番を勤める。
江戸所代になると徳川幕府の命により淡路洲本城代となり、稲田家は明治維新まで代々洲本城代を勤めた。

前野 宗康(まえの むねやす)
坪内 勝定(つぼうち かつさだ)
戦国時代の武将。通称は小次郎、右京進。
前野宗康と坪内勝定は同一人物ではないかと言われている。
小坂雄吉・前野長康・前野勝長の父。
坪内文書によると、信長より六百八十七貫文の地を安堵され、さらに三百貫文の地を宛行われたと記されている。

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。




尾張を追放された織田伊勢守信安は美濃国武藝郡白金の郷へ逃れ、斎藤義龍の家臣となり、
義龍の死後もその子刑部大輔龍興に仕え信長に抵抗するが、後年同族の誼から信長に罪を許され、
美濃白金に所領を与えられている。
また共に亡命した信安の次男信家は信長の嫡男勘九郎信忠の家臣となっている。



次回 第百八話 浮野合戦の事



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