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後継者候補として活躍してみませんか?

 【11//2014】

織田弾正忠家を継承する者



継承
松平家において、「次郎三郎」または、「二郎三郎」という仮名(通称)と、
「竹千代」という幼名は代々嫡男の名乗りであることは有名である。

織田弾正忠家にも、嫡男が名乗る仮名として「三郎」という名がある。

信長の父織田信秀も、祖父織田信定も仮名は「三郎」であった。

しかし、「織田弾正忠家を継承する者は、三郎信長である」とする確約は、
この時まだ無かったのでは無いかと思われる。



戦国Check✓

松平氏(まつだいらし)
室町時代に興った三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の在地の小豪族であり、
後に江戸幕府の征夷大将軍家となった徳川氏の母体である。
室町時代は伊勢氏の被官として活躍した。
江戸時代は徳川将軍家の一門、或いは将軍家と祖先を同じくする譜代の家臣の姓となり、
また将軍家が勢力、格式ある外様大名に授けた称号としての役割をも果たした姓である。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。



「織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり」

三郎信長には兄織田三郎五郎信広という人物がいたが、
妾腹(生母が側室)であったため、
織田弾正忠家の嫡男として扱われなかった(相続権はなかった)のが通説である。

しかし、妾腹の子であったにしろ信秀にとっては第一子である。

家督継承権があった可能性があると考えてもおかしくないのではないか。



戦国Check✓

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。

妾腹(しょうふく、めかけばら)
結婚している男性が、妻以外の女性=妾(めかけ)に産ませた子供。

(いみな)
本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞。
古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな)といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。

第六天魔王 織田信長
使ってみたい武士の作法 杉山頴男 (著)
ホントはどうなの?戦国武将への大質問 歴史の謎研究会



世襲
越前国の戦国大名朝倉氏の一族である朝倉太郎左衛門尉教景(朝倉宗滴)は、
第九代当主朝倉貞景、第十代当主朝倉孝景、第十一代当主朝倉義景の三代に仕え、
重鎮(じゅうちん)として各地を転戦し武名を轟かせた名将である。

宗滴は第七代当主朝倉孝景の八男として生れたが、
代々の朝倉家当主が世襲していた「小太郎」という仮名を世襲している。

また朝倉家歴代当主が名乗る「景」の字が諱に使われていることや、
諱そのものもが曽祖父である第五代当主朝倉教景が名乗っていたことから、
宗滴は嫡男として遇されていたものと思われる。

しかし文明十三年(1481年)、孝景が死亡すると朝倉家の家督を継承したのは「小太郎教景」ではなく、
長男であった「孫次郎氏景」であった。

以後三代に渡り「孫次郎」という仮名を朝倉家当主は世襲していく。

当時四歳に過ぎない宗滴に朝倉家を継がせることは無理があるとの判断から、
兄氏景が継いだものと思われるがその真意は解らない。

戦国の世での後継者とは、
正室の子=嫡男   仮名・諱を受け継いだもの=嫡男 という簡単なものでは無く、
家や家臣を守れる者 或いはその時の状況により継承者は変わるのである。

その時の政治的要因が最も反映されていたのである。
それは織田弾正忠家でも当然の事であり、それが戦国の世で生きる者の宿命であった。



戦国Check✓

越前国(えちぜんのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。別称は越州(えつしゅう)。
領域はおおむね現在の福井県嶺北地方及び敦賀市にあたる。
敦賀郡、丹生郡、今立郡、足羽郡、大野郡、坂井郡、吉田郡、南条郡の八郡から成る。

朝倉氏(あさくらし)
家系は開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする説と、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるとする説の二つに分類される。
はじめ日下部氏を名乗るが、平安末期に但馬国養父郡朝倉に移住したことから朝倉氏を名乗るようになる。
その後、越前に移住し、南北朝時代に越前国守護斯波氏に仕えた朝倉広景を祖としている。
越前朝倉氏は、甲斐氏、織田氏と共に斯波三守護代の第二席となり、のちに守護代三家で斯波氏領国三国を分けることになる。
後に朝倉氏自体が守護に任命されるようになった。

朝倉 教景(あさくら のりかげ)
戦国時代の武将。通称は太郎左衛門尉。諡号は宗滴。越前朝倉家一門。
朝倉貞景、朝倉孝景(宗淳)、朝倉義景の三代に仕え、一族の重鎮として各地を転戦し、武名を轟かせた名将。

朝倉 孝景(あさくら たかかげ)
室町時代中期の武将。通称は小太郎。官位は弾正左衛門尉。越前守護。越前朝倉家第七代当主。
同名の曾孫と区別するために代表的な名乗りの1つである「朝倉敏景」と表記する事がある。
また、法名から「英林孝景(えいりんたかかげ)」と呼ばれることも多い。
応仁の乱を機に守護斯波氏にかわって越前を支配。
一乗谷を本拠に戦国大名としての基盤を築く。
家訓として「朝倉敏景十七箇条」を遺している。



後継者
戦国時代において戦国武将の究極の使命
「如何にして家名を後々まで存続させるか」ということに集約される。

先祖代々受け継がれてきた家名領土が未来永劫存続する為に彼らは戦い続けてきた。

織田弾正忠信秀もまた、先祖代々守られてきた「織田弾正忠」の家名を胸に、
尾張国内での勢力拡大に努めた。

戦国武将にとって、後継者を育てる事が最も大事

この時代は後継者にすべての財産を相続させる「単独相続」と呼ばれる分割方法がとられていた。

これは鎌倉時代に「分割相続」による財産の細分化により一族の勢力が弱体化したことを教訓として生まれた
分割方法といえる。

その為、後継者の采配によっては、家名はおろか一族全てが滅亡という最悪のケースも起こり得るのである。

先祖代々織田弾正忠家当主が世襲していた「三郎」という仮名や、
「信」というには確かに特別な意味が込められてはいるが、それ以上に大切な事は、
家名を絶やすことなく存続させる事が出来る戦国武将としての資質を持つ後継者を育てることである。



次回 第三十二話 初陣は三歳 ⇒




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成人式の髪型でお悩みのアナタへ

 【09//2014】

仮名という名乗り



元服(げんぶく、げんぷく)
平安時代以降、公家武家の間で行われた男子の成人式という通過儀礼であり、
加冠(かかん)ともいわれている。

十二~十六歳の男子が、成人したことを表すために行われ、
氏神の社前で大人の服に改め、総角(あげまき)と呼ばれる子供の髪型を、
大人の髪である冠下髻(かんむりしたのもとどり)に結いなおし、それまでの幼名を廃し、
烏帽子親(えぼしおや)の名前から「一字」をもらいうけ、帽子名(えぼしな)=元服名を新たに付けるのである。


戦国Check✓

総角(あげまき)
日本の上古における貴族男性の髪型。古墳時代の男性埴輪などに見られる。
中国の影響で成人が冠をかぶるようになった後は少年にのみ結われ、幕末頃まで一部で結われた。
美豆良(みずら)、角髪(みずら)とも。
分類として、「上げ角髪」と「下げ角髪(ようは、おさげ)」があり、一般人に認知度が高いのは前者であり、
後者は貴人(身分の高い者)の髪型である

冠下髻(かんむりしたのもとどり)
平安時代から現代の宮廷行事まで続く男性貴族の髪型。別名:一髻(ひとつもとどり)。
肩を越すぐらいまで伸ばした髪を一つにまとめ、元結で根元を二度巻いた後に千鳥掛け(正面で紐を交差する結び方。
正面から見ると菱形に見える)に結い上げて行くというもの。
高位の人間は紫の、身分の低い人間は白の元結を使い、通常は奇数回(およそ十三回)巻上げ、凶事には偶数回
(およそ十二回)巻き上げるという。

烏帽子親(えぼしおや)
元服儀式の際に加冠を行う者のこと。
中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になって貰い、
当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。
この仮親を烏帽子親と呼ぶ。



信長公記によれば、

吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御伴申し、

古渡の御城にて御元服、欝三郎信長と進められ・御酒宴御祝儀斜斜めならず



天文十五年(1546年)
吉法師は十三歳の年に、
林佐渡守秀貞平手中務丞政秀青山与三右衛門信昌内藤与三右衛門勝介の四人の家老に
介添えされて、尾張古渡城で元服の儀式を執り行い、織田三郎信長と名乗りを改める。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として補佐役に抜擢されているが
不明な点が多く謎の人物。

家老(かろう)
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

尾張古渡城(おわりふるわたりじょう)
尾張国愛知郡古渡(現在の愛知県名古屋市中区)にあった城。



この「三郎」とは、清洲三奉行家の一つ、織田弾正忠家の嫡男が名乗る仮名(通称)であり、
父 信秀も、祖父 信定も仮名は「三郎」であった。


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清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)
清洲城を本拠に守護斯波氏を奉じ、尾張下四郡を支配下に治めていた尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える
奉行三家のこと。
因幡守家、藤左衛門家、弾正忠家がある。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、室町時代、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

織田 信定(おだ のぶさだ)
戦国時代初期の武将。通称は三郎。官位は弾正忠、弾正左衛門尉。
織田弾正忠家第二代当主。織田信長の祖父。
清洲城を本拠とした織田大和守家当主の織田達勝のもとで奉行職を務めた。清洲三奉行。
中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えた。
この港から得た経済力が戦国大名としての織田氏の発展の基礎となったとされる。



仮名(けみょう)
本名である(いみな)を呼称することを避ける為に便宜的に用いた通称のことである。

古来中国や日本などでは、人間の実名にあたるを呼称する事を避ける避諱(ひき)の風習があった。

諱で呼びかけることは、親や主君などにのみ許され、
それ以外の人間が実名で呼びかけることは、「極めて無礼」であると考えられていた。

そのため、天皇・皇族・公卿は、尊称又は官職をもって呼称し、
将軍家・大名・武士においては、官位又は仮名をもって呼称していた。

諱を呼ぶ事で、その人格を支配したり、呪いをかけたり出来るという言霊(ことだま)信仰が存在したためである。

ゆえに仮名が本名である諱の代わりに日常的に使われるようになったという。


戦国Check✓

言霊(ことだま)
日本において言葉に宿るとされた霊的な力のこと。言魂とも書く。
清音の言霊(ことたま)は、五十音のコトタマの法則を指し、その法則によって森羅万象が成り立つとされ、
言霊を研究する学問を言霊学という。

日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 新人物往来社
ぼくのイニシエーション体験―男の子の魂が育つ時 マリドマ・パトリス ソメ (著)
ものづくりとくらしの日本史 新人物往来社 (編集)
わが子に教えたい日本の心 石 平(著)

 

名前

明治三年十二月二十二日
太政官布告
「在官之輩名称之儀是迄苗字官相署シ来候処自今官苗字実名相署シ可申事」


明治四年十月十二日
太政官布告
「自今位記官記ヲ始メ一切公用ノ文書ニ姓尸ヲ除キ苗字実名ノミ相用候事」


明治五年五月七日 
太政官布告
「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルヘキ事」


実名であると、通称である仮名を併称する事が公式に廃止され、
今日では人名として諱・仮名の区別なく命名されている。




次回 第三十一話 織田弾正忠家を継承する者 ⇒




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主の裏切り行為が許せない!!

 【08//2014】

尾張国内 一族との対立


包囲
加納口の合戦で勝利した斎藤新九郎利政(山城守道三)は、織田弾正忠家支城美濃大垣城を包囲する

信長公記によると、

去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、

大柿を取り詰め、此の時攻め干すべきの由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき


尾張の者は足腰立たないほどの大敗であったため、今の内に大垣を取り囲み、兵粮攻めすべきであると、
利政は北近江の国人浅井備前守亮政に加勢を頼み、十一月上旬に大垣城を取り囲んだ。


戦国Check✓

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、武藝郡、
郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

加納口の合戦(かのうぐちのかっせん)
天文十六年(1547年)九月二十二日に織田信秀(および朝倉孝景・土岐頼芸)と斎藤道三との間で起こった合戦である。
井ノ口の戦いとも言う。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

美濃大垣城(みのおおがきじょう)
美濃国安八郡牛屋村(現在の岐阜県大垣市郭町)にあった城。

北近江国(きたおうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は江北(こうほく)・湖北。(こほく)。
領域はおおむね現在の滋賀県長浜市、米原市、彦根市鳥居本にあたる。
伊香郡、浅井郡、坂田郡の三郡から成る。
室町時代から戦国時代にかけて、近江国は北近江を佐々木源氏庶流の京極氏が治め、
南近江を佐々木源氏嫡流の六角氏が治める事で一国を二分していた。
その為、近江国守護職も京極氏を北近江守護職に、六角氏を南近江守護職と分けている時代もあった。

国人(こくじん)
主に鎌倉時代の地頭層から発し、南北朝時代から室町時代にかけて諸国の開発に推進した武士層のこと。
国人領主。国衆(くにしゅう)、国人衆。

浅井 亮政(あざい すけまさ)
戦国時代の武将。通称は新三郎。官位は備前守。北近江の国人浅井家初代当主。
北近江の国人である浅井氏庶流蔵人家直種の子に生まれた亮政は、浅井家嫡流で従兄弟浅井直政の娘蔵屋と結婚し、
浅井宗家を継承。
「浅井三代」の基礎を築いた人物。



救援
天文十六年(1547年)十一月十七日
敗戦の傷の癒えぬ織田弾正忠信秀は、軍備を整え美濃大垣城救援に再度美濃国に出陣するが・・


「霜月上旬、大柿の城近貼と取り寄せ、斎藤山城道三攻め寄するの由、注進切々なり。

其の儀においては、打ち立つべきの由にて、霜月十七日、織田備後守殿後巻として、又、憑み勢をさせられ、

木曾川・飛騨川の大河、舟渡しをこさせられ、美濃国へ御乱入、竹が鼻放火侯て、あかなべ口へ御働き侯て、

所貼に姻を揚げられ侯間、道三仰天致し、虎口を甘げ、井の口居城へ引き入るなり。

か様に、程なく傭後守軽貼と御発足、御手柄、申すぱかりなき次第なり。」



信秀は後方からの挟撃に備え、美濃と尾張の国境である木曽川、飛騨川を超えて美濃国に乱入
竹ヶ鼻(たけがはな)、茜部口(あかなべぐち)に進撃し、所々に火を付けた。

これには利政も意表をつかれたようで、大垣城攻撃の手を緩め、美濃稲葉山城へ兵を引き上げている。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

竹ヶ鼻(たけがはな)
尾張国葉栗郡竹ヶ鼻(現在の岐阜県羽島市竹鼻町)辺りの地。

茜部口(あかなべぐち)
美濃国厚見郡茜部(現在の岐阜県岐阜市茜部町)辺りの地。

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

青銭大名 東郷 隆(著)
安吾 戦国痛快短編集 (PHP文庫) 坂口 安吾 (著)
桶狭間戦記-センゴク外伝 宮下 英樹 (著)
織田三代記 羽生 道英 (著)
「戦国武将」がよくわかる本 猛将・婆娑羅(ばさら)武将編 株式会社レッカ社 (著, 編集)
戦国の活力 (全集 日本の歴史 8) 山田 邦明 (著)
なぜか語られなかった日本史の意外な顚末 歴史の謎研究会
歴史REALvol.4 戦国の城を攻める! 洋泉社
わが子に教えたい日本の心 石 平 (著)



叛旗
信秀は何とか美濃大垣城救援に成功するのではあるが・・・・・、
斎藤新九郎利政と誼(よしみ)を通じていた 尾張下四郡の守護代織田大和守信友の家臣坂井大膳が、
利政との手はず通り信秀の居城尾張古渡城を強襲し、城下に火を放ち、まさかの敵対行動を取った。

織田大和守家は、織田弾正忠家の主家であった為、
信秀にとっては「まさか」と耳を疑うしかなかった。


戦国Check✓

尾張下四郡(おわりしもよんぐん)
尾張国海東郡、海西郡、愛知郡、知多郡(現在の愛知県名古屋市から知多半島)に及ぶ範囲。

守護代(しゅごだい)
鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職。
守護は、家臣の中から代官を任命して実際の政務を代行させた。
これが守護代である。
守護代も自らの代理人たる小守護代を置き、守護任国における土地支配構造はきわめて重層的であったといえる。

織田 信友(おだ のぶとも)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は大和守。織田大和守家第八代当主。
別称は清洲織田氏。尾張下四郡守護代。尾張清洲城主。
主家である斯波氏当主 斯波義統を傀儡の守護として擁立するが、信友自身も家臣である坂井氏や河尻氏に
家中の主導権を握られていたようである。
また元々は家来筋であった清洲三奉行の一人、織田弾正忠家当主 織田信秀と尾張国の覇権をめぐって争った。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

尾張古渡城(おわりふるわたりじょう)
尾張国愛知郡古渡(現在の愛知県名古屋市中区)にあった城。



「なぜ?」と思われるようなこの織田大和守家の行動には訳があった。
それは、織田弾正忠信秀を、織田大和守信友は快(こころよ)く思ってはいなかったのである。


伊勢湾交易を背景に頭角を現した織田弾正忠家の勢力は、
主家である織田大和守家を凌ぐものとなっていた。
下克上が平然と行われる世において、他将に影響力のある部下ほど邪魔なものはない。

また、先の加納口の合戦で、信秀が総指揮をとる連合軍が美濃勢に大敗し、織田因幡守達広ら、
有力諸将をことごとく討ち取られたことも、信友と信秀の関係を悪化させる一つの要因となった。


戦国Check✓

下克上(げこくじょう)
下位の者が上位の者を政治的・軍事的に打倒して身分秩序(上下関係)を侵す行為。

織田 達広(おだ たつひろ)
戦国時代の武将。官位は因幡守。織田因幡守家当主。清洲織田三奉行家の一人。



和睦
信友にとっては、織田弾正忠家を取り潰す絶好の機会であったことはいうまでもない。


天文十六年(1547年)十一月二十日

霜月廿日、此の留守に、尾州の内清洲衆、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火侯て、御敵の色を立てられ侯。

此の如く侯間、備後守御帰陣なり。

是れより鉾楯に及び侯へき



このような状況下ではどうすることも出来ず、信秀は止むを得ず尾張古渡城へ撤退する。

信秀軍の撤退を確認した斎藤新九郎利政は、手はず通り美濃大垣城に総攻撃をしかけ奪い取っている

織田弾正忠信秀は、主家織田大和守家の裏切りにより、美濃侵攻の足掛かりを失った。

以後、尾張国内の一族との対立に不安を覚えた信秀は、
斎藤新九郎利政との和睦(わぼく)を決意する。


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和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。和解。

最強の英傑たちに学ぶ 勝ちの掟 津本 陽 (著)
信長公記 太田 牛一 (著者)、桑田 忠親(翻訳)
戦国武将 起死回生の逆転戦術 榎本 秋 (著)
戦国武将に学ぶサバイバル術 加来耕三 (著)
戦国武将に学ぶリバイバル術 加来耕三 (著)
地図で訪ねる歴史の舞台 日本 帝国書院編集部
ペンブックス8 もっと知りたい戦国武将 ペン編集部(著, 編集)
戦国手帳 しのびや.com





次回 第二十九話 土岐の鷹 ⇒




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他人の楽しみを自由に自らのものとすることができる

 【08//2014】

神仏

日本では、
神仏習合(しんぶつしゅうごう)というあり方が一般的で、神社の中に仏教施設が造られているケースがある。

しかし神道(しんとう)の聖地である伊勢神宮には、境内に仏教施設は造られず、
仏法忌避(ぶっぽうきひ)の誓約が今も残っている。


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神仏習合(しんぶつしゅうごう)
日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し一つの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象。
神仏混淆(しんぶつこんこう)ともいう。

神道(しんとう・かんながらのみち)
山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。
自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、
その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。



仏法忌避の誓約は、
織田三郎信長が自称した第六天魔王(だいろくてんまおう)と関係がある。

第六天とは仏教における欲界の六欲天(ろくよくてん)の最高位にある他化自在天(たけじざいてん)をいう。
この天に生まれたものは、他人の楽しみを自由に自らのものとすることができるという。

第六天魔王の起源は、平安末期頃作られた中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)に記されている。
ここでは、天照太御神「国を治める証文」第六天魔王から請い受けたとされている。

天照太御神
天岩戸神話の天照大神


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他化自在天(たけじざいてん)
欲界(地獄より天上まで)の最高位、また天上界の第六天、
欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬(はじゅん、Papiyas)の住処。
この天は、他人の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするからこの名がある。

中臣祓訓解(なかとみのはらえくんげ)
鎌倉時代に作られた両部神道書。




また高野物語(こうやものがたり)では、
大日如来(だいにちにょらい)が魔王の子となりわが国を受継ぎ、子孫を国王とした。

※ここでいう大日如来とは天照太御神の事であり、子孫とは神武天皇(じんむてんのう)である。

大日如来+神武天皇
右:大日如来 左:神武天皇



通海参詣記(つうかいさんけいき)では、
伊邪那岐命(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二尊がこの国を創ろうとして、
第六天魔王から国を譲り受けたとき、仏法を忌むと申し出たとされている。



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神武天皇(じんむてんのう)
日本神話に登場する人物で、日本の初代天皇。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。
異称は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
高天原(たかまがはら)より天津神(あまつかみ)の子として地上に降臨した瓊瓊杵(ににぎ)尊の曾孫とされる。

通海参詣記(つうかいさんけいき)
鎌倉時代後期につくられた伊勢神宮(大神宮)信仰の解説書。全二巻。
著者 通海の名により「通海参詣記」と呼ばれることが多いが、正しくは「大神宮参詣記」。



第六天魔王が元々の日本の神であり、国譲り仏法忌避の誓約がなされた



余談であるが、
信長が行った比叡山焼き討ちに大僧正であり敬虔(けいけん)な信仰者であった武田大膳大夫晴信は、
信長の神仏を恐れぬ悪行を糾弾(きゅうだん)する書状を天台座主沙門信玄と名乗り送っている。

悪行仏敵と非難した信玄に対し信長は、
国を乱す者はたとえそれが仏教の聖地であろうと皇家にあがなう敵であり、
天敵たる仏・法・僧に第六天魔王信長懲罰を与えると返書を送っている。



我信長は魔界を挫(くじ)き、これを砕(くだ)くの槌(つち)にして、

日本の各宗派の敵および僧徒(そうと)の大害となる者なり



信長らしい傲慢さであるが、さらにこの傲慢さは膨れ上がりやがてとなる


ルイス・フロイス(Luís Fróis)著:Historia de Japam(日本史)によると、
「信長みずからが神体であり、生きた神仏である。
世界には他の主はなく、彼の上に万物の創造主もないといい、地上において崇拝されんことを望んだ」とある。

生きている間にみずからになったのは日本史上信長が最初であった。


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ルイス・フロイス(Luís Fróis)
ポルトガル出身のカトリック司祭、宣教師。
イエズス会士として戦国時代の日本で宣教し、織田信長や豊臣秀吉らと会見。
戦国時代研究の貴重な資料となる「日本史」を記したことでも有名。




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衝撃的な鎧飾り

 【08//2014】

ダース・ベイダー鎧飾り

ダース・ベイダー 鎧飾り-1

伝統、固定概念・・・・・・・

伝統的な日本人形のイメージ・・・・・・・

端午の節句は、
男子の成長を祝い健康を祈るためにあり、また鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。


ダース・ベイダー 鎧飾り-2


Star Wars
映画「スター・ウォーズ」に登場するシスの暗黒卿ダース・ベイダー

漆黒のマスクとマントに身を包んだ姿、
そして迫力あるテーマ曲で絶大な人気を得ているのは誰もが知るところとなってはいるが、
子供の成長と幸福を祈る五月人形としてまさかの登場。

学んだことを全て捨てるのだ。(固定概念を捨てろ。)」
ヨーダ


ダース・ベイダーは、もともと独眼竜 伊達藤次郎政宗の鎧をモチーフにデザインされたとも言われており、
いわばデザインを逆輸入するという考えをもとに、五月人形の甲冑飾りの手法を用いて製作されたものである。

マスクにあたる面頬及び、前立・櫃中央の銀河帝国軍のシンボルマーク部分のデザインは、
特撮ヒーローなどのフィギュア原型を多数手がける造形作家 竹谷隆之氏によるものである。
暗黒卿のマスクが組み込まれた兜は、まさに暗黒武将そのものである。

また背後の屏風には「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」で、
後にダース・ベイダーとなるアナキン・スカイウォーカーが、
オビ=ワン・ケノービを相手に死闘を演じた、火山と溶岩の星「ムスタファー」が描かれている。


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Star Wars(スター・ウォーズ)
辺境の惑星で奴隷の身分であった一人の少年アナキン・スカイウォーカーとその子供達の成長、
銀河系の自由と正義の守護者ジェダイと銀河系の悪と恐怖の信奉者シスの攻防、
銀河規模の共同国家体銀河共和国から銀河帝国への変遷、
帝国の圧制に対する反乱により再び復活した「新共和国」への変遷を描いた物語

伊達 政宗(だて まさむね)
戦国時代から江戸時代時代前期の武将。幼名は梵天丸。通称は藤次郎。官位は美作守、左京大夫、越前守、
右近衛権少将、陸奥守、参議、権中納言。伊達家第十七代当主(仙台藩初代藩主)
奥州を武力制覇した後 豊臣秀吉に仕え朝鮮出兵に出陣するも、
関ヶ原の戦い、大阪の陣では徳川方につき仙台藩の基礎を固めた。
キリシタンに関心をもち、支倉常長をローマに派遣。

竹谷 隆之(たけや たかゆき)
日本のフィギュア造形作家。北海道出身。
雨宮慶太監督作品の造形美術を担当していることで知られる。







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歴史書の年代設定は謎だらけである

 【06//2014】

美濃国へ乱入し五千討死の事


伝記
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、
原作よりもわかりやすく小瀬甫庵が整理改編した「信長記」によれば、
「加納口の戦い」は織田信長の元服の翌年、すなわち天文十六年(1547年)と記されている。

しかし甫庵の記した信長記は、「三つに一つは真実だか、あとはデタラメであり根も葉もない嘘である」
大久保彦左衛門忠教「三河物語」に記している。

ただ当時の伝記物語は活躍した人物の行跡(ぎょうせき)を記憶で記すことにある為、多少仕方が無い事でもある。

信長公記が史料的信憑性が高い第一級の史料とされているのも、あくまで信長記と対比しての評価である。


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信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

小瀬 甫庵(おぜ ほあん)
戦国時代から江戸時代初期の儒学者、医師。通称は又次郎、長太夫。本名は秀正。
慶長十六年(1611年)、太田牛一が著した「信長公記」を元に「信長記」(甫庵信長記)
寛永十年代には「太閤記」(甫庵太閤記)をそれぞれ刊行。

信長記(しんちょうき または のぶながき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は小瀬甫庵。
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、原作よりもわかりやすく整理改編したもの。

大久保 忠教(おおくぼ ただたか)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は彦左衛門。三河松平家臣。江戸幕府旗本。
自分の出世を顧みず常に多くの浪人たちを養ってその就職活動に奔走していたといわれており、
様々な人々から義侠の士と慕われていた。
「三河物語」の著者でも有名。

三河物語(みかわものがたり)
武士の生き方を子孫に残した家訓書。著者は大久保忠教。
徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交え、数々の戦の記録と忠教の経験談や考え方などが全三巻にまとめられている。



侵攻
信長公記
さて、備後殿は国中を憑(たの)み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。

或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々(ざいざいしょしょ)放火侯て、

九月廿二日、斎藤山城道三が居城稲葉山の城下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ



天文十六年(1547年)九月三日
織田弾正忠信秀は、尾張国中に援軍を要請し、総勢約一万の大軍団で美濃守護土岐左京大夫頼芸
美濃復帰を大義名分に掲げ、斎藤新九郎利政(山城守道三)討伐の兵を挙げ美濃国に侵攻する。

この頃の信秀は、尾張国内から徴兵した連合軍の総指揮をとれるまでに成長していた。

尾張国における第一人者であったことは言うまでも無い。


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土岐 頼芸(とき よりあき)
戦国時代の武将。官位は左京大夫、美濃守。美濃守護。美濃土岐家第十五代当主。
斎藤道三に擁立され、兄土岐頼純を越前に追放し、美濃守護となる。
天文二十一年、道三とあらそって敗れ、のち尾張の織田信長をたよったとされる。
鷹の絵が得意で、土岐洞文と同一人物との説もある。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

おのれ筑前、我敗れたり 南条 範夫 (著)
安吾 戦国痛快短編集 (PHP文庫) 坂口 安吾 (著)
現代語訳 信長公記 太田 牛一 (著) , 中川 太古 (翻訳)
信長公記 (教育社新書―原本現代訳) 太田 牛一(著者),榊山 潤 (翻訳)
信長公記 太田 牛一 (著者)、桑田 忠親(翻訳)



大敗
天文十六年(1547年)九月二十二日
織田信秀は、斎藤利政の居城がある稲葉山の麓(ふもと)の村々へ軍を進め、付近の村を焼き払い、城下まで攻め寄せた。


既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り侯所へ、山城道三焜と南へ向かつて切りかゝり、

相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿(信秀)御舎弟織田与次郎・織田因幡守

織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、

歴々五千ばかり討死なり。



しかし日没であった為、信秀は一旦軍勢をまとめ引き上げようとした時、
稲葉山城で篭城策(ろうじょうさく)を取っていた利政が、「好機到来」とばかりに猛然と襲いかかり、
撤収中に不意を襲われた尾張勢は大混乱となり悉く(ことごとく)美濃勢に討ち取られた。

美濃勢に討ち取られた諸将の中には、
信秀の弟である尾張犬山城主織田与次郎信康や、清洲三奉行家の一つである織田因幡守達広
その他にも織田主水正、熱田大宮司の千秋紀伊守季光毛利十郎敦元
吉法師の守役である青山与三右衛門、弾正忠家重臣 寺沢又八の舎弟である毛利藤九郎
岩越喜三郎らの名が記されており、総勢五千の兵が討ち取られた。


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織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は与次郎。法名は伯厳又は白厳。尾張犬山城主。
織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。
兄信秀に従い政戦両面で活躍した武将。
しかし信康死後は、子の信清が信秀・信長に対して反抗的であったため、
犬山織田家は「織田弾正忠家」の敵対勢力の一つとなった。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。



史料
美濃国へ侵攻した織田弾正忠信秀は、その地位を揺るがすほどの大敗を喫する。

「加納口の戦い」「小豆坂の合戦」同様に年次は記されておらず、
月日のみが記されていることから定説と言えるものが存在せず、
天文十三年(1544年)説天文十六年(1547年)説の二通りの考えがある。


東国紀行
「今度、濃州に於いて不慮の合戦、勝利をうしなひて弾正一人やうやう無事に帰宅」
天文十三年(1544年)十月
東国旅行に向かう連歌師 宗牧が、尾張那古野城に赴き、美濃で大敗した直後の織田弾正忠信秀に対面し、
禁裏修理の費用を進上した感状として後奈良天皇から委託された女房奉書を届けている。


長井久兵衛書状
仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、
此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、
木曽川へ二三千溺候、・・・・・・・
九月廿五日
長井久兵衛
 秀元
水野十郎左衛門殿

これは天文十三年(1544年)九月二十五日付の
長井久兵衛秀元から水野十郎左衛門宛ての書状の一部抜粋である。
水野十郎左衛門とは水野信元の事を指し、長井久兵衛秀元は斎藤利政(斎藤道三)を指す。
斎藤利政が水野信元に合戦の戦果を報告し、織田信秀の排斥を勧める内容の書状である。


定光寺文書
甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也
天文十三年(1544年)九月二十二日未刻、美濃に侵攻した織田信秀が敗退した事が記されている。


上記の内容から考えると加納口の戦い天文十三年(1544年)説が最も有力に感じられる。
しかし加納口の戦いが天文十三年にあったとすると、史実に矛盾が生じてしまう。


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小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦。
三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で二度にわたって繰り広げられた戦い。

後奈良天皇(ごならてんのう)
諱は知仁(ともひと)。称号は天皇。第百五代天皇。
皇室が最も衰微した時期に即位し、即位式は大内、今川、後北条氏らの諸大名からの献金を得て執り行なわれた。
戦乱や災害で飢饉、疫病に苦しむ庶民のため、悪疫流行の終息を祈り、般若心経を書写して諸国一宮に奉納した。
また、天皇権威の振興を図り、安土桃山時代の「王朝回復」の先駆けをなしたと言われている。

女房奉書(にょうぼう ほうしょ)
天皇や院の意向を女房(女官)が仮名書きの書にして当該者に対し発給する奉書

水野 信元(みずの のぶもと)
戦国時代の武将。通称は藤四郎。官位は下野守。徳川家康の生母於大の方の異母兄。
織田信長に仕え、桶狭間(おけはざま)の戦いなどで奮戦するが後に武田氏への内通の疑いを受け、
主君信長の命で天正三年十二月二十七日切腹。



矛盾
吉法師殿御元服の事

吉法師殿十三の御歳、林佐渡守、平手中務、青山与三右衛門、内藤勝介御伴申し、古渡の御城にて御元服、

欝三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀斜斜めならず


天文十五年(1546年)
十三歳になった吉法師は林佐渡守秀貞平手中務丞政秀青山与三右衛門信昌内藤勝介の介添えにより元服し、三郎信長と名乗る。

もし加納口の戦いが天文十三年にあったとすると、
信長の元服以前に「青山与三右衛門は死去」していたことになる。

歴史書は不整合な部分が多く存在する為、同時代の複数の史料をつき合わせる事が重要である。
結局のところ、史料をどのように読むかによって解釈が分かれるのである。







次回 第二十八話 尾張国内 一族との対立 ⇒




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二つの史料の矛盾

 【04//2014】

三河国での覇権争い

「信長公記」は信憑性が高く、戦国時代を知る第一級の史料とされている。

しかし必ずしもそうではない部分も存在する。

首巻においては、不整合な部分が多く存在する為、
「三河物語」 「信長記」など同時代の複数の史料をつき合わせる事が重要である。


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信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

三河物語(みかわものがたり)
武士の生き方を子孫に残した家訓書。著者は大久保忠教。
徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交え、数々の戦の記録と忠教の経験談や考え方などが全三巻にまとめられている。

信長記(しんちょうき または のぶながき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は小瀬甫庵。
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、原作よりもわかりやすく整理改編したもの。


小豆坂
天文十一年(1542年)八月十日
三河の覇権を巡って織田弾正忠信秀今川治部大輔義元が激突する。

発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立であったが、
これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入したことにより生じた合戦である。

三河守となり三河平定の大義名分を得た織田弾正忠信秀の西三河平野部への侵攻に対し、
松平氏を後援しつつ東三河で勢力を伸ばしつつあった今川治部大輔義元が、
西三河から織田氏の勢力を排除すべく大軍を率いて三河生田に軍を進めた。

一方の信秀もこれに対して三河安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の三河上和田に布陣。

両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突する。

この合戦は小豆坂七本槍と呼ばれた
織田孫三郎信光 織田造酒丞信房 岡田助右衛門尉重善 佐々隼人正政次 佐々孫介
中野又兵衛一安 下方弥三郎貞清の七将をはじめとした、将士の奮戦により織田勢の勝利に終わった。

信秀率いる織田勢は第一次小豆坂の戦いで勝利し、西三河の利権を保持した。


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三河生田(みかわしょうだ)
三河国額田郡生田(現在の愛知県岡崎市美合町)辺りの地。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

三河上和田(みかわかみわだ)
三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田町)辺りの地。

三河小豆坂(みかわあずきざか)
三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市美合町)辺りの地。




異説
小豆坂の合戦は、
天文十一年(1542年)と天文十七年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた合戦と言われているが、
定説と言えるものが存在しない。

「信長公記」では年次はなく、「八月上旬」とのみ記されているが、

「信長記」では天文十一年(1542年)八月十日

「三河物語」では天文十七年(1548年)三月十九日の合戦となっている。

上記のことから天文十一年を第一次小豆坂合戦、天文十七年を第二次小豆坂合戦と言われている。

しかし小豆坂の合戦は、天文十七年の合戦「ただ一回のみ」とする説もある。

天文十一年の合戦は、天文十七年の合戦に比べ資料が極端に少ないからである。

天文十七年の合戦では、今川治部大輔義元が家臣の手柄を誉めた感状などが多数存在するのに対し、
天文十一年の合戦では、資料その他感状などが一切存在していない。


天文十一年の合戦は、太田牛一の「信長公記」に由来する。

あづき坂合戦の事 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、

三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。

駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。

則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、

既に一戦に取り結び相戦ふ。



八月上旬、今川軍が生田原から「あづき坂へ人数を出し候」
安祥城から矢作へ出撃した織田軍と「一戦に取結び相戦ふ」と記されている。


其の時よき働きせし衆。

織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ・

内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。

那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。

下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、

三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。

前後きびしき様体是れなり。

爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。

是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。



劣勢だった織田軍が槍をふるって活躍した「七本槍」と称される七将の奮戦で盛り返し辛勝した。
天文十一年の合戦の記述として存在する資料はこれ以外には無い。


しかし今川家は、天文五年(1536年)から天文十四年(1545年)までの間、
富士川以東の「河東地域」の争奪を巡り、相模北条家と争っており、
西三河へ攻め込む状況ではなかったはずである。

また最後の文面には「是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり」とあり、
以後三河国に今川勢が進駐したと書かれている。

駿河勢が三河に入った時期として少し早すぎるのである。
とすると小豆坂の合戦は、天文十七年の「ただ一回のみ」とする説が有力なのか?



桶狭間戦記-センゴク外伝 (KCデラックス) 宮下 英樹 (著)
青銭大名 東郷 隆 (著)
手にとるように戦国時代がわかる本 岸祐二 (著), 加来耕三 (監修)




矛盾
しかし小豆坂の合戦が天文十七年の「ただ一回のみ」とすると、史実に矛盾が生じてしまう。

信長公記「あづき坂合戦の事」によると、
「其の時よき働きせし衆」として「織田与二郎殿」という名が記されている。

織田与二郎というのは、織田弾正忠信秀の弟 織田与二郎信康の事であるが、
信康は天文十六年(1547年)に起こった加納口の戦いで討ち死している。
※異説として天文十三年(1544年)とする説もある。

どちらにしても「織田与二郎」は天文十七年の小豆坂の合戦以前に死んでいる事になる。

小豆坂の合戦が天文十七年の「ただ一回のみ」だけだとすると、
「織田与二郎殿」という名が記されている事自体がおかしな事になる。

だとすると小豆坂の合戦は2回ないと辻綱が合わなくなる。


結局のところ、史料をどのように読むかによって解釈が分かれるのである。



戦国Check✓

織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は与次郎。法名は伯厳又は白厳。尾張犬山城主。
織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。
兄信秀に従い政戦両面で活躍した武将。
しかし信康死後は、子の信清が信秀・信長に対して反抗的であったため、
犬山織田家は「織田弾正忠家」の敵対勢力の一つとなった。

加納口の合戦(かのうぐちのかっせん)
天文十六年(1547年)九月二十二日に織田信秀(および朝倉孝景・土岐頼芸)と斎藤道三との間で起こった合戦。
井ノ口の戦いとも言う。

家康の父は武田信玄だった (ぶんか社文庫) 武山 憲明 (著)
戦国人物伝 徳川家康 すぎた とおる (著)
戦国武将の意外な関係 (PHP文庫) 加賀 康之 (著)





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