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覇業への道~獅子奮迅~

 【31//2015】

北条家臣団・二十八老将



伊勢新九郎盛時の孫にあたる北条左京大夫氏康は、
譜代の四十六家から、二十八人を抜擢し、それぞれ三家老五家老二十将に任命し、
北条氏の重要な城に配属した。


戦国Check✓

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。


「関八州の大守」といわれた相模北条氏は、
支配領域が広大なことと、初代伊勢新九郎盛時が伊豆に攻め入った延徳三年(1491年)から
第五代当主北条左京大夫氏直が豊臣秀吉に攻められた天正十八年(1590年)まで、
百年間にわたって戦国大名として君臨していたこともあり、家臣の数は膨大である。


三家老には、
今川氏、武田氏の侵攻に備えた西の守りである駿河興国寺城松田尾張守憲秀

上杉氏、武田氏に備えた北の守りである上野松枝城大道寺駿河守政繁

千葉氏、佐竹氏、里見氏に備えた東の守りである武蔵江戸城遠山丹波守綱景

三家老は相模北条氏の前線基地として重要な城の警固を任された。


戦国Check✓

駿河興国寺城(するがこうこくじじょう)
駿河国駿河郡(現在の静岡県沼津市根古屋)にあった城。

松田 憲秀(まつだ のりひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。官位は左馬助、尾張守。相模北条家臣。小田原衆筆頭。
「小田原衆所領役帳」には貫高二千七百九十八貫文余と記載されており、これは家臣中最高であった。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原来攻に当たって籠城を主張したといわれる。
籠城中、秀吉方に内応しようとし、戦後秀吉より切腹を命じられている。

上野松枝城(うえのまつえだじょう)
上野国碓氷郡松井田(現在の群馬県安中市松井田町)にあった城。

大道寺 政繁(だいどうじ まさしげ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。幼名は孫九郎。官位は駿河守。相模北条家臣。河越衆筆頭。
北条早雲の重臣であった盛昌以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めで松枝城を守るが、前田利家・利長軍に攻められ降伏。
秀吉の命で天正十八年七月十九日自害。

武蔵江戸城(むさしえどじょう)
武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった城。

遠山 綱景(とおやま つなかげ)
戦国時代の武将。通称は藤九郎。官位は隼人佑、甲斐守、丹波守。相模北条家臣。江戸衆筆頭。
北条早雲の重臣であった直景以来、代々相模北条家に仕えた譜代の重臣。
「小田原衆所領役帳」によると、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約九百六十三貫を知行していた。
永禄六年、第二次国府台合戦にて討ち死。


五家老には、
扇谷上杉氏の元居城で武蔵国中心の城である武蔵河越城北条左衛門大夫綱成

鎌倉を制圧する拠点の城である相模玉縄城北条治部少輔綱高

古河公方の元居城である下総栗橋城富永三郎右衛門尉直勝

相模北条氏の南の守りであり、水軍の拠点でもある伊豆下田城笠原能登守康勝

山内上杉家の元居城である上野平井城多目周防守元忠がそれぞれ配属された。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条 綱成(ほうじょう つなしげ)
戦国時代の武将。通称は孫九郎。官位は左衛門大夫、上総介。
今川氏親の家臣福島正成の嫡男。幼名は福島勝千代と称した。
相模北条氏の最盛期を築いた北条氏康の家臣として、朽葉色の塗絹に八幡と書かれた旗印を掲げ黄備えを率いた勇将。
別名は「福島綱成」。

相模玉縄城(さがみたまなわじょう)
相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった城。

北条 綱高(ほうじょう つなたか)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官位は常陸介。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の赤備えを率いた勇将。
武蔵制覇に貢献し、地黄八幡こと北条綱成に匹敵すると言われる武将。

下総栗橋城(しもうさくりはしじょう)
下総国葛飾郡(現在の茨城県猿島郡五霞町)にあった城。

富永 直勝(とみなが なおかつ)
戦国時代の武将。幼名は岩千代。通称は神四郎、四郎左衛門、三郎右衛門尉。相模北条家臣。
「小田原衆所領役帳」によると、伊豆西土肥に加え相模西郡飯田など千三百八十三貫を知行していた。
相模北条氏三代に仕え、五色備の青備えを率いた勇将。
天正十八年、豊臣秀吉の小田原攻めでは、北条氏規を城主とする韮山城に篭って戦うも六月二十四日落城。
北条氏が没落した後、家康から仕官の誘いがかかったがこれを断り、代わりに長男の直則を仕官させた。

伊豆下田城(いずしもだじょう)
伊豆国加茂郡下田(現在の静岡県下田市)にあった海城。

笠原 康勝(かさはら やすかつ)
戦国時代の武将。幼名は弥太郎。官位は能登守。相模北条家臣。
相模北条氏三代に仕え、五色備の白備えを率いた勇将。
相模北条家譜代家臣である武蔵小机城代 笠原越前守信為の子。
加島合戦では松田憲秀、北条氏繁らとともに北条軍の先鋒を勤めた。

上野平井城(うえのひらいじょう)
上野国緑野郡平井郷(現在の群馬県藤岡市西平井)にあった城。

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
相模北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。


五色備
五家老の指物の色はそれぞれ定められており、北条五色備と戦場で恐れられた精鋭部隊であった。

黄備を率いていたのが、北条左衛門大夫綱成

赤備を率いていたのが、北条治部少輔綱高

青備を率いていたのが、富永三郎右衛門尉直勝

白備を率いていたのが、笠原能登守康勝

黒備を率いていたのが、多目周防守元忠であった。

氏康の陣立は、この五家老を中心としたもので、五色の色分けによって、
遠くからでも自軍の攻撃の様子などを把握しやすく、指揮しやすかったという。



また氏康は、三家老・五家老の下に二十将衆を配置している。
二十将衆とはいずれも駿河、伊豆、相模などの国人衆で構成されており、彼らも領国内の諸城の守備を分担していた。

普通は支城主クラスの家臣を重臣と呼んでいる。
もっとも、重臣とは何貫文以上の所領高であるとかいった規定があるわけではなく、
ただ漠然と呼び習わされているだけである。
相模北条氏の場合、領国規模も大きかったこともあって、重臣の数も多かった。


二十将衆
荒川豊前守、山中主膳正、荒木右衛門尉、在竹又太郎、福島伊賀守、
横井越前守、清水上野介、南条九衛門尉、山角四郎左衛門尉、石巻勘ヶ由、
佐藤左衛門尉、板部岡右衛門尉、中条出羽守、伊丹右衛門尉、行方弾正、
間宮豊前守、朝倉右京亮、大藤式部丞、大谷帯刀、安藤左近太夫などである。

この八人の家老と、二十人の部将による二十八老将と呼ばれる譜代の家臣団が、
氏康率いる相模北条家の中核を担うのである。


おススメの本
内閣総理大臣 織田信長 志野 靖史 (著)
なぜか語られなかった日本史の意外な顚末 
「なぜか成果が出てしまう人」の習慣術 土井 哲 (著), 高木 進吾 (著)
難儀でござる 岩井 三四二 (著)





次回 第七十三話 河越城の戦い ⇒



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覇業への道~若獅子の覚醒~

 【30//2015】

北条家臣団・譜代四十六家



救援
今川治部大輔義元との和睦を成立させた北条左京大夫氏康は、



天文十五年(1546年)四月二十日
八万もの大軍団に、約半年間もの間包囲されていた武蔵河越城救援に向かう。

関東連合軍の包囲網を見た氏康は、自軍八千を四隊に分け、そのうち一隊を北条五色備の一つ、
黒備を率いる多目周防守元忠に指揮させ、戦闘終了まで動かないように命じた。


戦国Check✓

武蔵河越城(むさしかわごえじょう)
武蔵国入間郡河越(現在の埼玉県川越市)にあった城。

北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)
小田原北条家で軍事面で活躍した家老五人衆

多目 元忠(ため もとただ)
戦国時代の武将。官位は周防守。北条家御由緒衆。北条家軍師。
後北条氏の初代・伊勢盛時(北条早雲)からの北条氏の協力者であり、
北条氏初期の家臣団「草創七手家老」の一家でもある、古参の重臣の家柄。





草創七手家老
氏康の軍師として黒備を率いた多目家は、伊勢新九郎盛時からの古参の重臣であり、
北条家初期の家臣団「草創七手家老」(そうせいしちてかろう)の一家である。

草創七手家老とは、伊勢新九郎が駿河国にやって来た時、追従して来た者達であり、
新九郎の覇業を助けた六人の盟友、

大道寺太郎重時

多目権兵衛元益

荒川又次郎

荒木兵庫

山中才四郎

在竹兵衛

それと相模国の土豪であった松田尾張守盛秀を加えた七家である。


北条記に、
新九郎が駿河国へ下向する際、大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛の仲間六人と、
伊勢で神水を酌み交わし、一人が大名になったら他の者は家臣になろうと誓い合ったという逸話が残っている。

草創七手家老は、御由緒家(ごゆいしょけ)とも呼ばれ、
一門衆で編成されている御家門方(ごかもんかた)の次に位置し、別格の扱いを受けていた。


戦国Check✓

伊勢 盛時(いせ もりとき)
室町時代中後期・戦国時代初期の武将。通称は新九郎。号は早雲庵宗瑞。室町幕府申次衆、奉公衆。
相模小田原城主。後北条氏の祖。北条氏の関東制覇の基礎を確立した。

北条記(ほうじょうき)
鎌倉府の滅亡より、小田原北条五代の盛衰を隣接する諸将との関連の中で、
豊臣秀吉により滅ぼされるまでの過程を書いた軍記物語。

おススメの本
徳川家に伝わる徳川四百年の内緒話 ライバル敵将篇 (文春文庫) 徳川 宗英 (著)
殿様を叱る! 歴史を動かした戦国大名家臣たちの直言集 澤宮 優 (著)
とまどい関ヶ原 岩井 三四二 (著)
虎の夢見し 津本 陽 (著)
トンデモ日本史の真相 史跡お宝編 (文芸社文庫) 原田 実 (著)








譜代四十六家
相模北条家譜代の家臣には
新九郎が駿河国へ下向する際、新九郎の覇業を助けた六人の盟友である
御由緒家
大道寺氏、多目氏、荒川氏、荒木氏、山中氏、在竹氏、松田氏の他に、

駿河興国寺城に入った新九郎が新たな家臣とした
駿河衆四家の、
葛山(かつらやま)氏、福島氏、岩本氏、朝比奈氏

続けて伊豆国に入った新九郎に味方した
伊豆二十一家の、
桑原氏、横井氏、笠原氏、松下氏、遠山氏、富永氏、高橋氏、鈴木氏、
山本氏、佐藤氏、安藤氏、山角(やまかど)氏、狩野氏、村田氏、上村氏、
梅原氏、朝倉氏、横地氏、田中氏、南条氏、清水氏

そして相模小田原に入った新九郎が西相模の国人を家臣とした
相模十四家の、
間宮氏、石巻氏、安藤氏、梶原氏、大谷氏、諏訪氏、橋本氏、関氏、
福島氏、中村氏、酒匂(さこう)氏、行方(なめかた)氏、河村氏、布施氏などがあった。

これら御由緒家の七家、駿河衆の四家、伊豆衆の二十一家、相模衆の十四家の計四十六家が
相模北条氏の草創の功労のあった家臣たちであった。

これらを総称して譜代四十六家と呼ばれている。




次回 第七十二話 北条家臣団・二十八老将 ⇒



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その無念たるや想像するに余りある

 【30//2015】

並々ならぬ器量



天文二十二年(1553年)四月十八日
尾張富田の聖徳寺で、斎藤山城守道三織田上総介信長の会見がおこなわれた。

織田弾正忠家当主である信長は、
茶筅の髪に湯帷子の袖をはずし、大小は差していたものの荒縄で腰に巻き、
芋縄を腕輪にし、腰には猿使いのように火打ち袋や、瓢箪を七つ八つぶらさげ、下は虎革と豹革の半袴という
いつものうつけ姿で会見の場に現れた。


しかし、斎藤山城守道三の前に現れた信長は、
うつけ姿ではなく、髪はきちんと折髷(おりまげ)にし、
袴は長袴を履き、貴公子とした様子で会見に臨んだという。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

聖徳寺(しょうとくじ)
尾張国中島郡冨田村(現在の愛知県一宮市)にあった真宗大谷派の寺院。山号は七宝山。
天文二十二年、織田信長と斎藤道三がこの寺で会ったことで知られる。
鎌倉時代後期の寛喜年間、閑善の開山により尾張国大浦(現在の岐阜県羽島市)に創建された寺で、
その後尾張国冨田村、清洲などを転々とし、寛永年間に現在の名古屋市中区錦三丁目に移ったが、
最近現在の名古屋市天白区に移転した。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

織田弾正忠家(おだだんじょうのちゅうけ)
尾張国守護代、清洲織田氏(大和守家)に仕える清洲三奉行家の一つ。
弾正忠家の元々の系譜は定かではないが、当時の守護代である織田常松の家臣に織田弾正なる人物がいたことが
分かっており、その子孫がのちの清洲三奉行の一家である弾正忠家と推測されている。
①織田良信②織田信定③織田信秀④織田信長⑤織田信忠⑥織田秀信

茶筅(ちゃせん)
茶道において抹茶をたてるのに使用する茶道具のひとつ。
湯を加えた抹茶を茶碗の中でかき回して均一に分散させるための道具。

湯帷子(ゆかたびら)
入浴の際、または入浴後に着た、麻や木綿の単(ひとえ)。湯具。ゆかた。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

折髷(おりまげ)
束ねた髪を立てずに折りまげて結ったまげ。


完訳フロイス 日本史1~12
将軍義輝の最期および自由都市堺
信長とフロイス
安土城と本能寺の変

秀吉の天下統一と高山右近の追放
「暴君」秀吉の野望

ザビエル来日と初期の布教活動
宗麟の改宗と島津侵攻
宗麟の死と嫡子吉統の背教

島原・五島・天草・長崎布教の苦難
大村・竜造寺の戦いと有馬晴信の改宗
黒田官兵衛の改宗と少年使節の帰国
キリシタン弾圧と信仰の決意






信長公記によると、

寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、

一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、

一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、

一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵(こしら)えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、

さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消(つぶ)し、各次第貼に斟酌(しんしゃく)仕(つかまつ)り侯なり




信長は寺に着くなり、四方に屏風(びょうぶ)をめぐらせ、その中で髪を整え、いつの間にか用意した長袴をはき、
これもいつの間にか作らせていた見事な拵(こしら)えの小刀を差した。

家臣の者どもは、この姿を見て、「日頃のうつけぶりはわざと作っていたものであったか」と肝を潰し、
次第に信長のことを見直すようになっていたという。



暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。

叉、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、

であるかと、仰せられ侯て、

敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。


さて、道空御湯付を上げ申し侯。

互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。

附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。



古風の儀礼にのっとった貴公子姿の信長は、八百人の斎藤家臣が、肩衣、袴姿で挨拶するのを知らぬ顔をして通り抜け、
会見の場である一室で待った。
しばらくして、道三もまた、知らぬ顔をしてあらわれ端座(たんざ)した。




山城守道三は、美濃五十四万石の太守である。
しかし、信長は、道三を恐れはばかるどころか、まったく動揺の色を見せなかった。

見かねた堀田道空が脇から、「山城殿にござる」と声を出した。
すると信長は、「であるか」とのみ答え、敷居の内に入り、道三に挨拶を述べた。

斎藤家宿老である堀田道空は、津島に居館を構えており、信長の亡父織田弾正忠信秀とは
昵懇(じっこん)の間柄であったため、接待役をかってでていたが気が気ではなかった。

互いに盃を酌み交わし、表情一つ動かさない、その若き当主信長に、道三は圧倒されていた。
道三は、苦虫(にがむし)を噛み潰したような顔で別れの口上(こうじょう)を述べた。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

端座(たんざ)
姿勢を正して座ること。正座。

堀田 道空(ほった どうくう)
戦国時代から安土桃山時代の武将。
早くから斎藤道三に仕え、天文二十二年(1553年)道三と織田信長が尾張正徳寺で会見した際、
道三に随行したことが知られている。
道三死後は、その後継義龍、龍興に仕えるが、永禄十年(1567年)信長によって美濃稲葉山城が攻略されると、
信長の家臣豊臣秀吉に仕え、元和元年(1615年)大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した際、これに殉じた。






信長は、沿道で道三が見ているであろうことは予測していたのである。
八百人もの重臣に正装をさせ、美濃の国力を見せつけようとした道三に対し、圧倒的な軍事力を見せつけた信長。
そして、尾張のうつけ者を見たいという道三の望みをも叶えてやったのである。

また信長は、虚勢を張るところがなく、言葉にも無駄が無かった。
刃物のように研ぎすまされた神経が、動作にまで現れており、四隣を脅かす謀将になるのは眼にみえていた。
それが解った道三は、若き信長に圧倒され、魅了されてしまっていた。


信長公記にはこんな文面が続く、
「猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。

と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。

山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。

今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。」



稲葉山へ帰る道中、家臣の猪子兵助高就が、
「どうみても、上総介はたわけでござりました」といったところ、道三は吐き捨てるかのように、

「無念である。わが子どもは、かならずやそのたわけの門前に馬をつなぐことになろう。」とのみ答えたという。

道三は、短い会見の席で、信長の並々ならぬ器量を見抜いたのである。


戦国Check✓

美濃稲葉山城(みのいなばやまじょう)
美濃国厚見郡井口(現在の岐阜県岐阜市金華山)にあった城。

猪子 高就(いのこ たかなり)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は兵助。斎藤家、織田家 家臣。
斎藤道三に側近として仕え、正徳寺の会見の際、ひそかに織田信長を観察する道三の側に控えていたという。
道三死後は信長に仕え、罪人糾明・検使などを務めた。
信長側近として信長配下の軍団長格の武将との仲介連絡役として活躍し、
吉田兼見(兼和)も度々贈答品を送るなどしている。
天正十年、本能寺の変にて織田信忠とともに二条城に篭り討死。



次回 第五十二話 クーデター ⇒




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過去の過ちを何度もほじくり返さないで

 【17//2015】

古今に比類なき家臣



諫死(かんし)
死んでいさめること。
また、死を覚悟し ていさめること。

諌める(いさめる)
地位・身分が上位にある者にあえて苦言(くげん)を呈(てい)し、
間違った振る舞いや言動を直すよう忠告すること。



天文二十二年(1553年)閏正月十九日

尾張志賀城主平手中務丞政秀  諫死

織田弾正忠信秀三郎信長の二代に仕えるが腹を切って自害。
享年六十二歳。
法名 政秀寺殿功案宗忠大居士


昨今では、自害した理由は他にあったと疑問視されているが、うつけ者と呼ばれていた信長を表す逸話として、
信秀の葬儀政秀の諌死がセットとして代表的なものとなっている。


戦国Check✓

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

尾張志賀城(おわりしがじょう)
尾張国春日井郡志賀(現在の愛知県名古屋市北区平手町)にあった城。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

うつけ
もともと「からっぽ」という意味であり、ぼんやりとした人物や暗愚な人物、常識にはずれた人物をさす。
うつけ者ともいう。字は「空」「虚」「躻」。
実際に暗愚な人物がうつけと呼ばれるというよりも、奇矯なふるまいなどにより「うつけ」と呼ばれるだけで、
実際には暗愚なわけではない場合が多い。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。






信長は幼少の頃、父 信秀から尾張那古野城と四人の家老をあたえられた。

一番家老 林佐渡守秀貞
二番家老 平手中務丞政秀
三番家老 青山与右衛門信昌
四番家老 内藤与三右衛門勝介である。

この四人の家老はそれぞれよく信長を補佐したが、なかでも平手中務丞政秀は、
尾張那古野城に住み込み傅役としてよく補佐した。

政秀は、茶湯や連歌などを嗜(たしな)むインテリの老人である。
対する信長は、手のつけられないうつけ者であった。


戦国Check✓

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。

家老(かろう)
武家の家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治・経済を補佐・運営した。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として
補佐役に抜擢されているが不明な点が多く謎の人物。

連歌(れんが)
鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。
和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。




やがて元服した三郎信長は、三河大浜への初陣を無事果たすのであるが、
この大事な初陣(儀式)の介添え役は、平手政秀が受け持っている。

また政秀は、美濃国主斎藤山城守道三の娘濃姫(帰蝶)と信長の縁談をまとめている。
これは織田弾正忠家にとって、とても大きな功績であった。

それまで仇敵であった斎藤山城守道三との和睦を成立させたのである。
しかし信長は依然として「うつけ者」であり続けた。


戦国Check✓

三河大浜(みかわおおはま)
三河国碧海郡大浜(現在の愛知県碧南市羽根町)辺りの地。

初陣(ういじん)
日本における武士階級の子弟が初めて戦闘行為に参加すること。
初陣の年齢は個人差があるが多くの場合、元服前後の十代前半が多く、
親は子供の将来の安寧を願い必ず勝てる戦いに参加させる傾向があった。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、
武藝郡、郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。和解。








信長を「うつけ者」として決定付ける事が起った。

それは父信秀の葬儀の席の事である。
定刻を過ぎても現れない喪主信長に対し、苛立ちを隠せない家臣一同。

喪主不在の葬儀が始まり、不安と苛立ちの中 家臣一同のストレスはピークを迎えた。
そこにうつけ姿で現れた信長が、抹香をつかんで信秀の位牌に向かって投げつけたのである。

居合わせた家臣一同が「はぁぁぁあぁぁあぁあぁぁ~」
傅役として補佐していた政秀をも嘆かせることになり、信長を「うつけ者」として決定付ける事となった。



「さる程に、平手中務丞、上総介信長公実日に御座(おざ)なき様体をくやみ、守り立て験(しるし)なく侯へば、

存命侯ても詮(せん)なき事と申し侯て、腹を切り、相果て侯。」


諫死である。
つまり、信長の常軌(じょうき)を逸した生活態度を諫めるための割腹自殺であったと言われているが、
信じ難い話である。


戦国Check✓

抹香(まっこう)
シキミの葉・皮を粉末にして作った香。
仏前の焼香に用いる。
古くはジンコウとセンダンとの粉末。

織田信長のマネー革命 (ソフトバンク新書) 武田 知弘 (著)
織田信長 破壊と創造 (日経ビジネス人文庫) 童門 冬二 (著)
織田信長はなぜ「天才」と言われるのか 武田 鏡村 (著)
織田信長 炎の生涯 (講談社青い鳥文庫) 小沢 章友 (著)
おのれ筑前、我敗れたり 南条 範夫 (著)
女たちの戦国時代 米田 一雄 (著)



また、政秀の死の原因には色々と諸説がある。

「平手中務丞が子息、一男五郎右衛門、二男監物、三男甚左衛門とて、兄弟三人これあり。

総領の平手五郎右衛門 能き駿馬を所持侯

三郎信長公御所望侯ところ、にくぶりを申し、某は武者を仕り候間、御免侯へと申し侯て、進上申さず候。

信長公御遺恨浅からず、度々おぼしめしあたらせられ、主従不和となるなり。」


平手中務丞政秀には三人の息子がいた。
長男、五郎右衛門、次男、監物、三男、甚左衛門という三兄弟である。

五郎右衛門長政が所有していた優れた駿馬を信長が所望したときの話である。

「私は武士を業としています。武士は主君の為に軍事でお役に立つのが本分です。
主君に奉仕するために駿馬を所有していますから、
信長公に差し上げれば軍事的奉仕ができなくなります。」

長政は、信長が所望する駿馬を差し出さなかったのである。

確かに生意気である。

信長はこの件を深く恨み、たびたびこの事を思い出しては不快になり、次第に主従が不和となった。
そして信長は政秀を疎(うと)んじるようになったという。

信長の幼児性が強調されている話ではあるが、リアリティ(現実感)がない。
政秀の死の原因としてはどうも決め手に欠ける内容である。


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平手 長政(ひらて ながまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門、孫右衛門。平手政秀の嫡男。
家老クラスの人物と思われるが、謎の人物。

平手 久秀(ひらて ひさひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は五郎右衛門。官位は監物。平手政秀の次男。

平手 汎秀(ひらて ひろひで)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は甚左衛門。官位は監物。
平手政秀の三男或いは兄 久秀の嫡男(政秀の孫)ともいわれる。
織田信長の命を受け、三方原の戦いで徳川家康の援軍として武田軍と戦い戦死。

駿馬(しゅんば、しゅんめ)
足の速い優れた馬。


政秀の死の原因は、五郎右衛門長政の逆心にあった。

五郎右衛門長政は、尾張末盛城主である信長の弟、勘十郎信行に心を寄せていた。

長政は、密使を尾張清洲城に出入りさせ、坂井大膳勘十郎信行との交渉人として働いていた。

その事が、信長の使う諜者によって明るみとなり、その責任を取って政秀は自害する。
長政の逆心は、「うつけ者」であり続けた信長が招いたことであった。

平手中務丞政秀を死に追いやったのは、信長自身である。
政秀の死を悔いた信長は、太田又助牛一に、
政秀の死は諫死であったと信長公記に記すよう命じた。
このほうがリアリティがある。


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尾張末森城(おわりすえもりじょう)
尾張国愛知郡末森(現在の愛知県名古屋市千種区城山町)にあった城。

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

坂井 大膳(さかい だいぜん)
戦国時代の武将。諱は不詳。通称は大膳。官位は大膳亮。
織田大和守家臣。尾張小守護代、又守護代。
坂井甚助、河尻与一、織田三位らと共に清洲織田大和守家の実権を握っていた。

諜者(ちょうじゃ)
敵の内情などをひそかに探る者。スパイ。間者。

太田 牛一(おおた ぎゅういち、うしかず)
戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は又助。官位は和泉守。
織田家臣柴田勝家に仕えるが、弓の腕を認められ、織田信長の直臣となる。
その後は側近として、主に政治的手腕をもって内外の諸問題を広く治めた。
文才に優れ、信長、秀吉、秀次、秀頼、家康の軍記などを著述したが、信長の一代記である「信長公記」が特に有名。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。



幼くして両親と離れ尾張那古野城主となっていた信長にとって、政秀は、親以上の存在であった。
政秀にとっても、我が子同様、或いはそれ以上に手の掛かる主君の御子息 信長が愛おしかった。
政秀の自害を知り信長は号泣したと言われている。

信長の政秀に対するこんな逸話がある。
近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃の話である。

近臣たちが信長に、
「このように強大勢力になるとも知らずに平手中務丞が自害したのは、短慮軽率(たんりょけいそつ)でありました。」
と媚(こ)び諂(へつら)う近臣に対し、

信長は、
「わしがこのように弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。
自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそである。
古今に比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」
と語ったという。

また、信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、
その一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。

信長は政秀の死を悼んで春日井郡小木村に政秀寺を建立し、禅僧の沢彦宗恩に託している。
信長は幼いころからの傅役としての苦労に報いようとしたのである。


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鷹狩り(たかがり)
鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、
鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。

河狩り(かわがり)
川で、水をせき止めたり、投網を打ったりして魚を捕ること。

小木村(こきむら)
尾張国春日井郡小木村(現在の愛知県小牧市)辺りの地。

政秀寺(せいしゅうじ)
現在 愛知県名古屋市中区栄にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は瑞雲山。
もともとは天文二十二年に織田信長が、家臣平手政秀を弔うために小牧山の南にある小木村に創建したのが始まりである。
その後慶長十七年に、現在の地に移転した。

沢彦 宗恩(たくげん そうおん)
織田家家臣平手政秀の依頼により吉法師(後の織田信長)の教育係となり、信長が長じた後は参謀となる。
また平手政秀の菩提を弔うために建立された政秀寺の開山も務めている。
信長が美濃国を攻略した際には、稲葉山城下の「井ノ口」について改名を進言し、
中国周の故事にならい沢彦の挙げた「岐山・岐陽・岐阜」の3つから岐阜が選ばれたとの説がある。
信長の政策である天下布武も沢彦の進言によるとも言われる。









次回 第五十話 若き当主 ⇒




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戦国時代の事柄は、 果たして本当の事なのだろうか?

 【17//2015】

戦国の謎

稀代の英雄として語り継がれていた松平二郎三郎清康は、
家臣の阿部弥七郎正豊により暗殺されている。

弱体化した松平宗家を守った悲運の英雄、松平次郎三郎広忠もまた、
家臣の岩松八弥により暗殺されている。

清康暗殺の犯人である阿部弥七郎は、その場で植村新六郎氏明によって斬殺されているが、
不思議な事に広忠暗殺の犯人である岩松八弥もまた、氏明によって斬殺されている。


戦国Check✓

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

阿部 正豊(あべ まさとよ)
戦国時代の武将。三河松平家臣。阿部定吉の嫡男。通称は弥七郎。
正豊が斬ったのは清康の孫松平元康(徳川家康)であり、しかもそれは永禄三年(1560年)十二月五日の事であり、
それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする異説もある。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

岩松 八弥(いわまつ はちや)
戦国時代の武将。三河松平家臣。
岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)を刺殺したとの伝承がある人物。

植村 氏明(うえむら うじあき)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は栄安、新六、新六郎。
松平宗家三代(清康、広忠、家康)に仕え、主君の仇を二度も討った忠義の臣。
天文四年(1535年)、主君松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られ時、正豊をその場で斬殺している。
また、天文十八年(1549年)、主君松平広忠が岩松八弥に斬られた時も、八弥をその場で斬殺し感状を得ている。

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東照宮御実紀(とうしょうぐうおんじっき)によると、
此時も植村新六郞外のかたより來ながら、おもはず八彌と行あひしまゝをしとらへ、

共にからぼりの中におちいり、終に組敷て八彌を伐はたす。

この植村さきに淸康君御事ありし時は阿倍彌七を即座に伐とめ、今度また八彌をも其座をさらず首をとり、

二代の主君の御仇を即時に誅しける冥加の武士と感じうらやまぬ者ぞなかりける



岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)にも、
岩松八弥は植村新六郎氏明によって、「大手先ノ堀ノ中で討ち取られた」とある。

主君暗殺現場に二度も居合わせ、二度とも刺客を斬る。
これは偶然なのであろうか。


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徳川実紀(とくがわじっき)
十九世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
正確には、歴代将軍の諡号(しごう)を冠して、それぞれの将軍に関する記録を
「東照宮御実紀」「台徳院殿御実紀」と称する。
「徳川実紀」というのはそれらをまとめた総称、通称である。
初代将軍 徳川家康から十代将軍 徳川家治までの事象を日ごとに記述している。
それぞれの記録は、歴代将軍在任時の出来事を日付順にまとめた本編と、
その将軍にまつわる逸話を集めた附録からなっている。
文化六年(1809年)に起稿、嘉永二年(1849年)十二代将軍 徳川家慶に献じられた。

岡崎領主古記(おかざきりょうしゅこき)
正保二年(1645年)から寛政十年(1798年)の間に編纂された岡崎城領主に関する年代記。
また、井上信好書写朱字加筆および加茂久算貼紙貼付のされている箇所が多数あり、
朱書きや貼り紙の部分の加筆も含めれば、江戸末期の成立といえる。


また、主君を暗殺した阿部弥七郎正豊の罪を問われる事無く、その後も松平家に仕え続けた
阿部大蔵大輔定吉もまた謎である。

阿部定吉と植村氏明との間には何らかの関係性があり、そしてそこには織田弾正忠信秀、
或いは今川治部大輔義元の何らかの策略があったのではないかと思われるがどうなのだろうか。


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阿部 定吉(あべ さだよし)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は大蔵大輔。
松平宗家に仕えたが、息子弥七郎があやまって主君清康を殺害してしまう。
定吉は息子の過ちを詫びようと自害を図るが、清康の嫡子広忠に止められ、以後、誠心誠意広忠に仕えた。

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。





次回 第四十話 人質交換 ⇒




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あの謎の女性の身元が確定?

 【16//2015】

戦国史上最も謎の多い女性


濃姫の資料は極めて少なく謎の多い女性とされていた。
信長の生涯を記した信長公記には、濃姫の記述は「輿入れ」の事実のみだという。

一体なぜ濃姫は、織田家の記録から消されたのか?



美濃国諸旧記(みのうのくにしょきゅうき)によると、
濃姫は鷲山城で生まれ育った事から、鷲山殿と呼ばれていたとある。

濃姫というのは通称であり、「美濃国から来た高貴な女性」という意味で、
尾張国へ来てからのものとされるが、後世に作られたという説もある。


冒頭でも述べたように濃姫の資料は極めて少なく、その実像には謎が多い。

「信長との間に子供は出来なかった」というのが通説だが、
信長との間にがいる家系図が存在しているらしく、御台出産記事のある文献もあるのである。


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濃姫(のうひめ)
戦国時代から江戸時代初期の女性。織田信長の正室。
美濃国主 斎藤山城守道三の娘で、光秀の従兄妹とも伝えられる。
天文十八年(1549年)、十五歳で織田信長に嫁いだ。
このとき父道三は短刀を渡し、信長が愚か者ならこれで刺せと諭した。
濃姫は、父上を刺すことになるかも知れないと返答したという。

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

美濃国諸旧記(みののくにしょきゅうき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から安土桃山時代頃の美濃国の歴史を記した書物とされている。
著者不明。成立年代不明などの事から歴史的史料価値には諸説ある。

美濃鷺山城(みのさぎやまじょう)
美濃国方県郡鷺山(現在の岐阜県岐阜市鷺山)にあった城。

美濃国(みののくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。別称は濃州(のうしゅう)。
領域はおおむね現在の岐阜県の南部。
多藝郡、石津郡、不破郡、安八郡、池田郡、大野郡、本巣郡、席田郡、方県郡、厚見郡、各務郡、山県郡、
武藝郡、郡上郡、加茂郡、可児郡、土岐郡、恵奈郡の十八郡から成る。

尾張国(おわりのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。別称は尾州(びしゅう)。
領域はおおむね現在の愛知県西部にあたる。
智多郡、愛智郡、春日井郡、丹羽郡、葉栗郡、中嶋郡、海東郡、海西郡の八郡から成る。

御台(みだい)
貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台所。
「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事。



女たちの戦国時代 米田 一雄 (著)
ギャルバサラ 戦国時代は圏外です (KCG文庫) 飯山満 (著)
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戦国激女100人伝 乱世を駆け抜けたすごい美女がいた 鶴岡伸寿 (著)



近江輿地志略(おうみよちしりゃく)には、
永禄十一年(1568年)
成菩提院にて、「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。」という記述がある。

近江国の成菩提院という寺で、濃姫は出産をしたということが記されている。


勢州軍記(せいしゅうぐんき)には、
信長の御台所である斉藤道三の娘に若君が生まれなかったため、
側室が生んだ織田勘九郎信忠を養子とし、嫡男としたとの記述がある。


信忠を嫡子とする為、正室である濃姫の養子としたと記されているが、
信長はなぜ織田弾正忠家の嫡男が名乗る「三郎」の仮名(けみょう)を与えず、「勘九郎」としたのか。

信長は正室である濃姫が男子を産んでくれることを期待し、
「三郎」の仮名は、濃姫との間に出来る嫡男の為に取っておきたかったのではないか

或いは、近江輿地志略で濃姫が出産したのは姫ではなく男子(嫡子)であり、
その子が継承すべき仮名であったためか真意の程は解らない。


戦国Check✓

近江輿地志略(おうみよちしりゃく)
江戸享保年間頃に戦国時代から江戸時代頃の近江国の歴史を記した書物。
著者は膳所藩士 寒川辰清。
寛政十年(1798年)に幕府に献上され、全百一巻から成る江戸時代の地誌としては最も優れたものの一つとされている。

成菩提院 円乗寺(じょうぼだいいん えんじょうじ)
近江国坂田郡柏原(現在の滋賀県坂田郡山東町柏原)にある天台宗比叡山延暦寺の末寺。山号は寂照山。
弘仁六年(815年)、天台宗の開祖 最澄が柏原小野に留まった際、創建したのが始まりとされている。

勢州軍記(せいしゅうぐんき)
江戸寛永年間頃に戦国時代から江戸時代頃の伊勢国の歴史を記した軍記物。
著者は神戸良政。
寛永十五年(1638年)に「勢州軍記」の抄録「勢州兵乱記」を徳川頼宣に献上。

斎藤 道三(さいとう どうさん)
戦国時代の武将。通称は新九郎。官位は山城守、左近大夫。美濃斎藤家初代当主。
「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる人物。
名としては、法蓮房、松波庄五郎(庄九郎)、西村正利(勘九郎)、長井規秀(新九郎)、長井秀龍(新九郎)、
斎藤利政(新九郎)、道三などが伝わる。

織田 信忠(おだ のぶただ)
安土桃山時代の武将。通称は勘九郎。官位は出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将。
織田弾正忠家第五代当主。織田信長の嫡男。
父信長に従い長島の一向一揆、長篠の戦などに転戦し、信長が安土に移った後は、
織田弾正忠家を継承し岐阜城主となる。
甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国攻めのため上洛するが、京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知り、
二条城で光秀方に包囲され自刃。




また濃姫は、「斎藤道三の死後、離縁されて美濃に帰された」
或いは「斎藤道三の死後、若くして病死」というのが通説だが、

永禄十二年(1569年)
信長が美濃を制圧した頃に山科言継が記した言継卿記には、斎藤家親族「信長本妻」との記述がある。

この記述から推測すると、
濃姫は、この時期はまだ信長の「正室」という立場にあり、生きている事になる。


また織田信雄分限帳(おだのぶおぶげんちょう)に、
「安土殿」という女性が、六百貫文の知行を与えられていると記載されており、
安土城の「安土」という土地を冠されていることから、織田家における地位の高さがうかがえ、
信長の正室にあたるのではないかとも考えられている。


妙心寺史(みょうしんじし)によると、
天正十一年(1583年)六月二日
信長公夫人主催で一周忌を執り行った記事があり、豊臣秀吉主催の一周忌法会とは別である為、
興雲院(お鍋の方)とは別人と推測され、信長公夫人とは「安土殿」である可能性が高いと考えられている。

「安土殿」が濃姫であった場合
濃姫は慶長十七年(1612年)七月九日に死去している。
享年七十八歳。
養華院殿要津妙玄大姉という法名で京都の大徳寺総見院に埋葬されている。


戦国Check✓

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、
双六などの多彩な才能の持ち主であり、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。

近江安土城(おうみあづちじょう)
近江国蒲生郡安土(現在の滋賀県近江八幡市安土町)にあった城。

妙心寺史(みょうしんじし)
草創から維新期まで六百年の妙心寺の沿革を、本山、塔頭はもちろん地方寺院に至るまでその記録、
文書を猟渉して記した書物。
著者は川上孤山師。






次回 第三十八話 謀反・謀叛 ⇒




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名門の一族なんだわ

 【15//2015】

名門 吉良家


松平次郎三郎広忠の義理の伯父である三河東条城主吉良左兵衛佐持広は、

御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ

といわれるほどの名家三河吉良家の一門である。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
守山崩れで老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河東条城(みかわとうじょうじょう)
三河国幡豆郡吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった城。

吉良 持広(きら もちひろ)
戦国時代の武将。通称は左兵衛佐。東条吉良家第七代当主。
嫡流西条吉良家の義安を養子にむかえ、東西両吉良家の融和をはかり、南北朝時代以来の抗争を終わらせた。
また松平広忠の元服に際して加冠の役を務めた。

日本史有名人の子孫たち 新人物往来社 (編集)







貞応元年(1222年)
鎌倉幕府の有力御家人であった足利武蔵守義氏が、
承久の乱の戦功により三河国守護職を任ぜられたことから三河吉良家の歴史は始まる。

義氏は、三河国吉良庄西条に三河西条城を築き、長男(妾腹)吉良上総介長氏を城主に据え
三河西条吉良氏の祖としている。

同じく吉良庄東条に三河東条城を築き、三男吉良左馬四郎義継を城主に据え
三河東条吉良氏の祖としている。

この両家を総称して三河吉良家と呼ぶが、けして仲のよい間柄では無かった。


戦国Check✓

足利 義氏(あしかが よしうじ)
鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は上総三郎、左馬頭入道正義。官位は三河守護、陸奥守、武蔵守、左馬頭。
足利家第三代当主。
和田氏の乱で、勇猛で知られた朝比奈義秀と五分に戦い、その後承久の乱、三浦氏の乱などでも
幕府方として活躍し名を挙げた。

承久の乱(じょうきゅうのらん)
承久三年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。
承久の変、承久合戦ともいう。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、
幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

三河西条城(みかわさいじょうじょう)
三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にあった城。

吉良 長氏(きら おさうじ)
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は太郎。官位は従五位下、上総介。三河西条吉良家の祖。
母が側室であったため、長子でありながら足利家の家督を継ぐことができなかった。
この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。

三河東条城(みかわとうじょうじょう)
三河国幡豆郡吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった城。

吉良 義継(きら よしつぐ)
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は左馬四郎。三河東条吉良家の祖。





応仁元年(1467年)に発生した応仁の乱では、
西条吉良氏である三河西条城主吉良治部少輔義眞は、東軍の細川右京大夫勝元につき、
東条吉良氏である三河東条城主吉良右兵衛佐義藤は、西軍の山名右衛門督宗全について互いに戦っており、
三河吉良氏と呼ばれるこの両家は争いが絶えない間柄であった。


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応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

吉良 義眞(きら よしざね)
室町時代の武将。官位は従四位下左兵衛佐、治部少輔。三河西条吉良家第四代当主。

細川勝元(ほそかわ かつもと)
室町時代の武将。通称は六郎。官位は従五位下右京大夫、武蔵守、従四位下。
室町幕府管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。細川氏嫡流京兆家当主。
将軍家や畠山、斯波家の後継争いをめぐって山名持豊と対立。
応仁、文明の乱では東軍の総大将として戦ったが文明五年五月十一日陣中で病死。

吉良 義藤(きら よしふじ)
室町時代の武将。通称は右兵衛佐、右兵衛督。三河東条吉良家第五代当主。

山名 持豊(やまな もちとよ)
室町時代の武将。通称は小次郎。官位は正四位下左衛門佐、従三位右衛門督。
室町幕府侍所頭人兼山城守護、但馬、備後、安芸、伊賀、播磨守護。新田氏庶流山名家当主。
嘉吉の乱で赤松満祐を討ち、明徳の乱で失った領地を回復し、一族で九ヵ国を領する。
管領斯波、畠山家の相続問題に介入し、足利将軍家後継問題で細川勝元と対立。
応仁、文明の乱では西軍の総大将として戦ったが陣中で文明五年三月十八日死去。



駿河今川氏の祖
また西条吉良氏の祖である吉良長氏の次男が今川四郎国氏と名乗り、駿河今川氏の祖となっている。

今川家は、吉良家とともに足利将軍家の御連枝であり、足利宗家の継承権を有しており、
斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格の地位にあった。


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今川 国氏(いまがわ くにうじ)
鎌倉時代の武将。通称は四郎。駿河今川家の祖。
父吉良長氏より、足利氏の分領三河国幡豆郡今川荘を譲り受け、今川氏を称した。
後の駿河国・遠江国の守護職を代々歴任し戦国大名に成長した今川氏も初代国氏の頃は
今川荘の三ヶ村の小領主に過ぎなかった。

御連枝(ごれんし)
根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。
天皇家、将軍家、大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、
特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。
天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家、御両典、御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。
いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することも有り得る存在として知られた。

斯波氏(しばし)
家系は清和天皇の血をひく清和源氏の一つ河内源氏棟梁 鎮守府将軍源義家の子である義国を祖とする足利氏の有力一門。
室町時代に幕府の三管領筆頭となった一族であり、越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、
佐渡などを領した守護大名、戦国大名。
また一門は奥州探題、羽州探題を代々歴任し、一時は九州探題、関東管領にも任じられた。

畠山氏(はたけやまし)
家系は清和源氏系足利氏流の一族であるが、そもそもは桓武平氏系秩父氏流であった。
室町時代に「明徳の乱」「応永の乱」に功を立て、斯波氏・細川氏とならぶ幕府の三管領の一家に数えられるに至る。
紀伊、河内、越中の守護を務め、分家は能登守護を務めた。



足利氏の祖
鎌倉幕府の有力御家人であった足利武蔵守義氏
長男(妾腹)吉良上総介長氏三河西条吉良氏の祖とし、
三男吉良左馬四郎義継三河東条吉良氏の祖とし、

そして次男(嫡男) 足利左衛門佐泰氏を下野国足利庄で足利氏を継承させ、足利氏の祖としている。
この足利泰氏の系統が、後に室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏を輩出することとなる。


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足利 泰氏(あしかが やすうじ)
鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は三郎。官位は丹後守、左衛門佐、右馬助、宮内少輔、正五位下。
足利氏第四代当主。
子に足利尊氏につながる頼氏をはじめ、斯波家、渋川家、石塔家、一色家の各氏の祖となった家氏、義顕、頼茂、
公深がいる。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府初代征夷大将軍。幼名は又太郎。
官位は従五位上鎮守府将軍、従四位下左兵衛督、従三位武蔵守、正三位参議、征東将軍、
従二位権大納言、正二位征夷大将軍、贈従一位贈左大臣、贈太政大臣。
足利将軍家の祖。
元弘の乱で建武新政第一の功臣となるが、のち建武政権にそむき、一時九州に逃れる。
建武三年=延元元年、楠木正成を破って再び京に入り、光明天皇(北朝)を擁立。
建武式目を制定し、室町幕府をひらいた。





余談ではあるが江戸時代中期に発生した元禄赤穂事件で三百年以上悪役として君臨し続けてきた
吉良上野介義央という人物はこの三河吉良家の系統である。

元禄赤穂事件
元禄十四年(1701年)三月十四日
播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で吉良義央と口論となり、
思わず斬りかかってしまった事から始まる。

吉良義央の方にも非はあったものの、浅野内匠頭のみが罰せられ即日切腹という裁きが下る。

赤穂義士 忠臣蔵の真相(河出文庫) 三田村 鳶魚 (著)
赤穂義士の歩いた道 柏原 新 (著)


この幕府の裁きに納得がいかなかった者達が一年半後の
元禄十五年(1702年)十二月十四日
播磨国赤穂藩家老大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七名が江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、
見事吉良上野介の首級を挙げて仇をとるという一連の騒動である。

映画やドラマで威張り散らす吉良上野介の家系がこれ程の名門であったとは知らなかったと言う人も多いと思う。


戦国Check✓

吉良 義央(きら よしひさ)
江戸時代前期から中期の武将。江戸幕府高家職。通称は左近。官位は従四位上左近衛権少将、上野介。
義央は「忠臣蔵」の世界では悪役として喧伝されているが、知行地の三河国幡豆郡吉良地方では、築堤や塩の生産、
新田開発などの功績により、名君と評価されている。

浅野 長矩(あさの ながのり)
江戸時代中期の武将。播磨赤穂藩第三代藩主。官位は従五位下内匠頭。
元禄十四年(1701年)、勅使の江戸下向に際して幕府に接待役を命じられた。
その礼式指南に当たる高家吉良義央に同年三月十四日、江戸城内で斬りつけ、即日切腹を命じられる。
さらにこの事件により領地は没収されている。

大石 良雄(おおいし よしたか)
江戸時代前期から中期の武将。播磨国赤穂藩筆頭家老。通称は竹太郎、喜内、内蔵助。
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名になった人物。


次回 第十二話 奇策をもって攻略 ⇒




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「松平家の英雄」家康のじいちゃん!!

 【15//2015】

松平清康の尾張侵攻



吉法師(織田信長)が誕生した翌年のことである。

天文四年(1535年)
尾張国と隣接する三河国では、
三河岡崎城を居城とする松平二郎三郎清康が、尾張国侵攻に動き出し始めていた。


徳川氏はこのころは松平姓で、矢作川の支流足助川上流域にあった松平郷が発祥の地とされている。

松平郷には、松平東照宮をはじめ、初代松平次郎三郎親氏をまつる高月院、松平城址など、
松平氏ゆかりの史跡が多く残っており、松平東照宮と高月院境内、松平城址、大給城址の四ヵ所は
松平氏遺跡として、国の文化財になっている。



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松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

松平郷(まつだいらごう)
三河国の戦国大名から江戸幕府の将軍家へと発展する松平氏、徳川氏の発祥地。
巴川(足助川)東岸の山地の中の小集落で、三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市松平町)にあたる。

松平 親氏(まつだいら ちかうじ)
室町時代初期、14世紀後半の武将。通称は次郎三郎、太郎左衛門。松平氏、徳川氏の始祖。
清和天皇に端を発する新田氏の一族であった得川義季の末裔、世良田京亮政義の曽孫が、
三河松平初代当主となる親氏である。
武勇に勝れた親氏は中山七名を征服し、松平城を本拠として足助川沿岸一帯の地を支配する。







大永三年(1523年)四月

清康が松平宗家第七代当主となったのは、十三歳の時であった。
三河安祥城を本拠としていた清康は、



大永四年(1524年)五月

敵対していた松平弾正左衛門信貞を攻め三河山中城・岡崎城を奪い、本拠を三河岡崎城に移し、
三河の統一に動き出すことになる。


戦国Check✓

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

松平 信貞(まつだいら のぶさだ)
戦国時代の武将。通称は弾正左衛門。大草松平家第三代当主。
大永四年(1524年)、松平清康の侵攻を受け、山中城、岡崎城とその所領を明け渡した。

三河山中城(みかわやまなかじょう)
三河国額田郡山中(現在の愛知県岡崎市羽栗町)にあった城。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

日めくり戦国史 きょうは何の日 (新人物文庫) [文庫]
地図で訪ねる歴史の舞台 日本帝国書院編集部 (著)





享禄二年(1529年)
快進撃を続ける清康は、東三河へ進出して三河今橋城を攻略し、
つづいて三河田原城を攻めて戸田氏を降伏させている。

三河湾の海上支配権を確立させると、さらにその年の秋には西に転じて尾張国に侵攻を開始。

三河、尾張、美濃三国の国境地帯にある尾張品野城、小牧にほど近い尾張岩崎城の二城を攻略。

智勇に優れ、周辺諸国にまでその名を轟かせていた清康は、
甲斐国守護武田左京大夫信虎が使者を送ってくる程までに成長していた。

そして、三河の東西を押さえた清康は、
天文四年(1535年)十二月四日
一万余の軍勢を率いて岡崎を出陣し、織田孫三郎信光が守る尾張守山城へ進軍することになる。


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三河今橋城(みかわいまばしじょう)
三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内)にあった城。

三河田原城(みかわたはらじょう)
三河国渥美郡田原(現在の愛知県田原市田原町巴江)にあった城。

尾張品野城(おわりしなのじょう)
尾張国春日井郡品野(現在の愛知県瀬戸市品野町)にあった城。

尾張岩崎城(おわりいわさきじょう)
尾張国愛知郡岩崎(現在の愛知県日進市岩崎町)にあった城。

武田 信虎(たけだ のぶとら)
戦国時代の武将。法名は無人斎道有、官位は従五位下 左京大夫 陸奥守。幕府相伴衆、甲斐守護。
甲斐武田家(甲斐源氏宗家)第十八代当主。武田信玄の父。
乱国となっていた甲斐を統一し、甲府の城下町を開創するなど画期的な政策を推し進め、
戦国大名武田氏の基盤を築いた人物。

織田 信光(おだ のぶみつ)
戦国時代の武将。通称は孫三郎、法名は梅岩または梅厳。
織田信秀の弟で織田信長の叔父にあたる。
武勇に優れ、兄信秀に従い武功を挙げ、小豆坂七本槍の一人として名を馳せた。
信秀の死後は、家督を継いだ甥の信長をよく補佐した。

尾張守山城(おわりもりやまじょう)
尾張国春日井郡守山(現在の愛知県名古屋市守山区市場)にあった城。





次回 第八話 松平家の内部崩壊 ⇒




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息子の過ちの許しを請う母

 【13//2015】

内部抗争の決着・勘十郎信行の死


弘治二年(1556年)八月二十四日
織田弾正忠家で起きた家督争いから発生した稲生の原の合戦において、
織田上総介信長は多くの首級(しゅきゅう)を挙げ、その日のうちに尾張清洲城に帰城している。

翌日首実検をおこなったところ、
取った首級は林美作守通具をはじめとしてその数、四百五十にのぼったという。

この合戦後、信長は叛旗を翻した信行勢に対して非常に寛大な措置を見せた。

謀反を起こした勘十郎信行を特に罰することもなく、赦免(しゃめん)している。
しかも信長は、林佐渡守秀貞柴田権六勝家にも罰を与えなかったのである。


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稲生の戦い(いのうのたたかい)
弘治二年(1556年)八月二十四日に、現在の名古屋市西区で起きた戦い。
尾張国の有力武将である織田弾正忠家で起きた、織田信長とその弟織田信行との家督争いから起きた戦い。
稲生合戦、稲生原合戦とも呼ばれる。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。

林 通具(はやし みちとも)
戦国時代の武将。官位は美作守。林通安の子で林秀貞の弟。
兄秀貞や柴田勝家と共謀し、主君織田信長を廃してその弟信行を擁立しようと図る。
弘治二年八月二十四日、稲生の戦いで信長勢に破れ、通具は討ち死。
信長自らが通具の首級を挙げたという

織田 信行(おだ のぶゆき)
戦国時代の武将。通称は勘重郎、勘十郎。官位は弾正忠、武蔵守。
織田信秀の三男。織田信長の同母弟。尾張末森城主。
林秀貞、柴田勝家らに担がれて兄信長と戦うが大敗し降伏する。
弘治三年十一月二日、信長に清洲城に誘い出され謀殺される。

柴田 勝家(しばた かついえ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は権六郎、権六。官位は左京大進、修理亮。
はじめ織田信行、ついで信長に仕えて戦功をたて、越前北庄城主となる。
本能寺の変後、信長の後嗣(こうし)をめぐり羽柴秀吉と対立。
賤ケ岳の戦いに敗れ、妻お市の方(信長の妹)とともに天正十一年自刃(じじん)。

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。


赦免嘆願

御袋様の御使として、色々様々御詫言にて、御赦免なされ、勘十郎殿、柴田権六、津々木蔵人、墨衣にて、

御袋様御同道にて、清洲において、御礼これあり



土田御前は、さまざまに詫び言を伝え、信行の赦免を頼み込んだ為、信長はこれを許している。

勘十郎信行 柴田権六勝家 津々木蔵人は、
墨染めの衣姿で土田御前と共に尾張清洲城に現れ赦免の礼を述べたという。

信長の寛大な措置は、内部分裂による織田弾正忠家の弱体化を防ぐ為の処置であった。


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土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。
法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。

津々木 蔵人(つづき くらんど)
末森城主織田信行の近臣。津々木は都筑、都築とも書かれる。
「信長公記」によると、天文二十四年(1555年)六月、守山城主織田信次の家臣洲賀才蔵が
織田信長、信行の弟 秀孝を射殺し、信次は逐電。
信行は守山城下を焼き払い、その後守山城攻囲のため大将として派遣したのが柴田勝家と津々木蔵人であった。
蔵人は信行の若衆で、柴田勝家と並ぶ地位を占めていた。
信行の死後、蔵人の消息についての記述はなく、不明である。







しかしこの二年後、再び謀反を企てた信行を信長は殺害している。

謀反を企てた信行を、元腹心であった勝家が信長に密告したため、
信長は信行を清洲城北櫓天主次の間に呼び寄せて殺害する。

この頃、信行と勝家の主従関係は微妙な関係となっていた。
信行は従来の腹心であった柴田勝家を遠ざけ、津々木蔵人と言う者を優遇し、腹心としている。

勝家もまた稲生の原の合戦以降、信長に心を寄せるようになっており、
勝家の心は少しずつ信行から離れていったのである。

信行は有力な家臣をみなこの津々木蔵人の配下に付け、再度謀反を企て
その総司令官的なポストに津々木蔵人を配置している。

津々木は有頂天となり、重臣である柴田勝家をないがしろにする始末であった。

人の心を掌握できなかった信行は、元腹心であった勝家により謀反の計画を密告されてしまうのである。
計画をしった信長は、病気と称して気弱な手紙を土田御前に送っている。
驚いた土田御前は、信行に見舞いに行くように懇願し、すでに信行を見限っていた勝家もそ知らぬ顔でこれを勧めた。


弘治三年(1557年)十一月二日
病気見舞いに訪れた信行は、清洲城北櫓天主次の間で、
信長の乳兄弟である池田勝三郎恒興によって斬られ絶命する。

最愛の息子を失った土田御前は、以後信長に引き取られるが、
信行を殺された憎しみを生涯抱いたまま息子信長と暮らすことになる。

皮肉にも土田御前は、兄弟の殺し合いから織田家の没落までを見届けることになる。

また「池田家履歴略記」によると、
信行を討った池田恒興に信長は事後処理として、恨みを残さぬようにと信行の未亡人を妻に迎えさせ、
遺児を引き取らせている。

信行未亡人はのちに池田家の繁栄をもたらした古新を生むことになる。
のちの池田三左衛門輝政である。

こうして弟との戦いに決着をつけた上総介信長は、尾張統一に向けて歩み始めることになる。


戦国Check✓

池田 恒興(いけだ つねおき)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は勝三郎、官位は紀伊守(自称)。
織田弾正忠家臣。織田信長、豊臣秀吉に仕える。清洲会議における四宿老の一人。
諱を信輝としている軍記物もあるが、信頼できる同時代史料には見当たらない。
信長の乳兄弟であり輝政の父であることからついた名ではないかと思われる。

池田家履歴略記(いけだけりれきりゃくき)
池田家歴代の重要事件を編年で記述したもの。
著者は岡山藩士の斎藤一興。全二十六巻。

池田 輝政(いけだ てるまさ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は三左衛門。官位は武蔵守、侍従、右近衛少将、参議。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕える。播磨姫路藩初代藩主。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれる。
信長、秀吉に仕え、豊臣時代には、豊臣一族に準じて遇され、従四位下侍従、および豊臣姓を許される。
また、関ヶ原の戦いでは徳川方に与し、本戦のみならず、前哨戦となった岐阜城攻略にも参加し、
福島正則とともに功を挙げた。

おススメの本
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逆境を打ち破った男たちの名言 武士の一言
逆説の日本史4 信長全史
逆渡り
ギャルバサラ 戦国時代は圏外です
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黒田家三代―戦国を駆け抜けた男達の野望
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家康の馬印ってどんな物か知っていますか?

 【13//2015】

大馬印由来諸説

天文十四年(1545年)九月二十日

三河松平家臣本多吉右衛門忠豊は、主君松平次郎三郎広忠から馬印を奪い取り、
主君の身代わりとなって織田勢に突撃し討死している。


戦国Check✓

本多 忠豊(ほんだ ただとよ)
戦国時代の武将。通称は平八郎、吉右衛門。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第九代当主。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。




この馬印には色々と諸説がある。

後年、広忠の嫡男である徳川家康は、金扇の大馬印を用いたことで知られるが、
その由来や使用開始時期などが多い。

家康は当初厭離穢土欣求浄土の纏(まとい)のみを用いたが、やがて金扇の大馬印と併用するようになる。


戦国Check✓

馬印(うまじるし)
戦国時代から江戸時代において戦国武将達が己の位置・武威などを誇示する為に備の旗や自身の周りに置く印。

徳川 家康(とくがわ いえやす)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は次郎三郎。官位は蔵人佐、三河守、左京大夫、侍従、右近衛権少将、
左近衛権中将、従三位、参議、権中納言、権大納言、左近衛大将、左馬寮御監、内大臣、右大臣、征夷大将軍、
太政大臣。
江戸幕府初代征夷大将軍。
幼少時に織田、今川の人質となるが、桶狭間の戦で岡崎に戻り、信長と結んで勢力を拡大。
本能寺の変後は、豊臣秀吉と対立するが和睦し、秀吉の天下統一に協力する。
秀吉の死後、関ヶ原の戦で石田三成を破り対抗勢力の一掃に成功、征夷大将軍となる。
大坂冬、夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めた。

厭離穢土欣求浄土(えんりえどごんぐじょうど)
戦国時代、徳川家康が馬印に用いたことで知られる。
桶狭間の戦いで今川義元討死の後、菩提寺である三河国大樹寺へと逃げ隠れた元康は、松平家の墓前で自害を試みるが、
その時十三代住職の登誉が「厭離穢土欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。
「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭い離れ、
永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」との意味が込められているという。



新三河物語 宮城谷 昌光(著)
戦国人物伝 徳川家康 すぎた とおる(著)
殿様を叱る!―歴史を動かした戦国大名家臣たちの直言集 澤宮 優 (著)
難儀でござる 岩井 三四二 (著)
松平家の謎 「歴史読本」編集部
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ 嶋津 義忠 (著)



柳営秘鑑(りゅうえいひかん)によると、

扇の御馬印ハ五本骨ニ而親骨の方を竿付尓して被為持。

元来、本多平八郎忠高所持之持物尓て数度の戦功顕し。

天文十八年安祥城責の時、一番乗りして討死之後、其子中書忠勝相伝、用之処、

文禄二年大神君御所望有て、御当家随一の御馬印ニ被成置。


もとは三河安祥之七御普代 本多平八郎忠高の指し物で、
後にこれを本多平八郎忠勝が受け継だという。

そして文禄二年に徳川家に献上しているとある。


戦国Check✓

柳営秘鑑(りゅうえいひかん)
江戸幕府の年中行事、諸士勤務の執務内規、格式、故事、旧例などを記した書物。著者は幕臣菊池弥門。
寛保三年(1743年)に成立。全十巻にまとめられている。

三河安祥之七御普代
酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、
または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す。

本多 忠高(ほんだ ただたか)
戦国時代の武将。通称は平八郎。三河松平家臣。藤原北家兼通流本多家第十代当主。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)
戦国時代から江戸時代前期の武将。通称は平八郎。官位は中務大輔。三河松平家臣。
藤原北家兼通流本多家第十一代当主。
本多平八郎家初代当主。上総国大多喜藩初代藩主、伊勢国桑名藩初代藩主。
生涯で五十七回の戦に参戦したが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと云われ、
徳川四天王、十六神将、徳川三傑に数えられる猛将。
家康の功臣として「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」と賞賛された名将。






常山紀談(じょうざんきだん)によると、
天文十四年,公矢矧川にて織田家と軍ありし時、利無くて危かりしに、本多吉右衛門忠豊、疾く岡崎に入らせ給へ。
御馬印を賜はり討死すべし、と申せ共許されず。扇の御馬印を取て清田畷にて討死しける。其隙に危きを逓れ給へり。
御印は忠豊が嫡子平八郎忠高が家に相伝へ、忠高も又戦死しける。
其子忠勝が時に至りて、永禄二年東照宮乞ひ返させ給ひたりと云へり。


安城合戦の時、本多吉右衛門忠豊が主君の御馬印を賜はり討死。
その馬印は、嫡子平八郎忠高が貰い受け、本多家で継承されていき、永禄二年に徳川家に献上しているとある。

これによると金扇の馬印は、松平広忠の時代から使用していたということになる。

扇の御馬印と記されているだけなので当時は金では無かったのかもしれないが・・・・・


戦国Check✓

常山紀談(じょうざんきだん)
江戸時代中期に成立した逸話集。簡潔な和文で書かれており、本文二十五巻、拾遺四巻、
それと同じ内容を持った付録というべき「雨夜燈」一巻にまとめられている。
著者は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者湯浅常山。



改正三河後風土記によると、
宇理城攻めの時、松平清康の扇の指し物を目指してせまる敵兵に、
清康の馬前にて奮戦し退けた本多忠豊の功を賞せられて、扇の指し物を賜るとある。
これより、本多家に伝わったものともいう。


牛窪記によると、
徳川家康が、今川軍の拠点の今橋城を攻略した際に、
後に譜代に列する東三河牧野家の金扇の馬印を譲り受けたとあるが、

常山紀談では、牧野家由来説を否定する説明が記されている。
真相はいまだなのである。


戦国Check✓

改正三河後風土記(みかわごふどき)
天保三年(1832年)に、徳川家斉の命により、
成島司直の手で「三河後風土記」の改編および「三河物語」などでの校正がなされ、
序文・首巻が付けられた全四十二巻からなる歴史書。
徳川氏創業史の一つで、徳川氏が祖と称している清和源氏から徳川家康将軍就任までを、年代順に記述する。
江戸幕府の編纂物の一つ。

牛窪記(うしくぼき)
室町時代から安土桃山時代、東三河地方における土豪の様子や、伝説を記載した地域史料。編著者は不明。
牛窪城主牧野氏の栄枯盛衰を中心に記述した内容から「牛窪記」と題されている。

三河今橋城(みかわいまばしじょう)
三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町豊橋公園内)にあった城。

三河牧野氏(まきのし)
三河国宝飯郡中條郷牧野村(愛知県豊川市牧野町)を発祥とする牧野氏の一族。
東三河の宝飯郡を中心に渥美郡・八名郡の一部を含む地域に分布した土豪として栄え、
中でも牛久保城と吉田城に居城した牧野氏は国人領主に成長した。





次回 第二十四話 松平家の結束 ⇒




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尾張の大うつけが、絶世の美女に恋をした

 【13//2015】

最愛の女性


弘治三年(1557年)
織田上総介信長の長子奇妙丸が尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で誕生する。
のちの織田勘九郎信忠である。

生母は側室の生駒吉乃という説が一般的だが、異説もある。



戦国Check✓

織田 信忠(おだ のぶただ)
安土桃山時代の武将。通称は勘九郎。官位は出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将。
織田弾正忠家第五代当主。織田信長の嫡男。
父信長に従い長島の一向一揆、長篠の戦などに転戦し、信長が安土に移った後は、
織田弾正忠家を継承し岐阜城主となる。
甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国攻めのため上洛するが、京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知り、
二条城で光秀方に包囲され自刃。

生駒 吉乃(いこま きつの)
戦国時代の女性。織田信長の側室で、信忠、信雄、徳姫(見星院)の母。
馬借を家業としていた生駒家宗の長女。
名は「前野家文書」で吉乃(吉野)と創作されるが実名ではない。




武功夜話によると、
馬借を家業としていた生駒因幡守家宗吉乃(吉野)という娘がいた。
しかし生駒家に伝わる系図には吉乃の名は記されておらず、記されている名は「類」であり、
「類」が正式な名であると推察されている。

信長と吉乃

川賊
尾張生駒家についての資料は乏しく、不明確な点が多い。
太政大臣藤原良房の子孫が大和国平郡生駒の地に移り住み、後に生駒を名乗るようになる。

応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱の戦禍から逃れるため、
生駒左京進家広の頃に尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。

灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え富家となる。

上総介信長の飛躍の裏には
生駒家の資金力情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたと言われている。

当時、生駒屋敷は各地から浪人や旅芸人などが多く集まり、情報交換の場として広く開放されていた。
その為 諍い(いさかい)も絶えず、その諍いが発展し抗争になることも少なくなかった。
そこで「川並衆」と呼ばれる傭兵部隊を率いる蜂須賀小六正勝という者に警固にあたらせていた。

美濃と尾張との国境に流れる木曽川流域には古くから「川並衆」と呼ばれる独立勢力があった。
人々からは川賊と呼ばれ恐れ嫌われていたが、信長は早くからこの川並衆の力に目を付け、
自陣に引き入れようと模索していた。

その川並衆の党首である蜂須賀小六正勝を従わせる程の生駒家の経済力とはどれ程のものなのか。
また他国から集まる情報網に目をつけていた信長は、
情報収集基地として頻繁に生駒屋敷に出入りするようになっていた。




愛惜
しかし信長が生駒屋敷に足繁く通った最大の理由は他にあった。
それは、以前から好意を寄せていた女性が生駒屋敷にいたためである。

その女性こそが吉乃であった。

吉乃は弘治二年(1556年)の明智城の戦いで、
夫である土田弥平次を失い後家(ごけ)として実家である生駒屋敷に戻っていた。

吉乃は信長より六歳年上であったとされ、母から与えられなかった愛情を信長は吉乃に求め、
吉乃もまた信長のその欲求を満たしてやっていたのである。

信長最愛の女性とまで言われた吉乃であったが、
勘九郎信忠三介信雄徳姫と信長の子をもうけたが産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなっている。
享年三十九歳であったとされる。

久昌寺縁起(きゅうしょうじえんぎ)によると、吉乃の死を深く悲しんだ信長は、常に吉乃を愛惜(あいじゃく)り、
美濃小牧山城望楼(ぼうろう)から彼女の墓のある西の方角を望んではを流していたという。

戦国Check✓

武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
三巻本、二十一巻本などいくつかの異本が存在している。

生駒 家宗(いこま いえむね)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒家第三代当主。
生駒氏は灰や油の商いと馬借で冨を築き、小折城と呼ばれる屋敷を構えた尾張国丹羽郡小折の土豪。
武家商人として飛騨国から三河国まで広範囲の商圏を有し、犬山城主織田信清に属していた。
その後、出戻りの娘類(吉乃)が織田信長の側室となったことにより、信長に仕え重用された。
屋敷は遠方から多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の財力と情報力を求めて近づいた。

蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は小六、小六郎。官位は従四位下修理大夫。尾張蜂須賀家第三代当主。
正勝は、秀吉の片腕として秀吉に従軍して数多くの合戦に参加しているが、槍働き(白兵)としての活躍よりも、
参謀として民政や調略に手腕を発揮した人物であったことが知られている。

明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)
弘治二年(1556年)九月十九日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安は、弟光久と一族を集めて籠城し、
義龍軍3,700余の軍勢を相手に二日間にわたり抵抗したという。
光安は、光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃したという。
この時、光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが証明するものはない。
城は落城後再興されることもなかった。

後家(ごけ)
夫と死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。

愛惜(あいせき)
愛して大切にすること。名残惜しく思うこと。あいじゃく。

望楼(ぼうろう)
遠くを見渡すためのやぐら。

おススメの本
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失敗の本質―日本軍の組織論的研究
集中講義 織田信長
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状況判断―まず計算し、しかる後これを超越せよ









次回 第九十八話  天下への歩み ⇒



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信長流戦術って何

 【12//2015】

400年以上生き続ける男


織田三郎信長ほど統率者としての魅力を備えた人物は日本の歴史上極めて少ないのではないだろうか。
四百年以上たった現代において尚、人々の心から忘れ去られることなく、生きつづけている。

ものの考え方や、その行動に人々は魅了されてきたのかもしれない。

中でも信長の先進性には目を見張るものがある。

兵を普段から鍛錬し、いかにして強い兵を育てるかということに余念がなかった信長は、
軍事訓練の中で短い槍では具合が悪いという事に気づくのである。


信長公記によると、

其の折節、竹鑓にて扣き合ひを御覧じ、兎角、鑓はみじかく候ては悪しく侯はんと仰せられ候て、

三間柄、三間々中柄などにさせられ・・・・



竹槍(たけやり)でのたたき合い(鑓試合)を目の当たりにした信長は、

「みじかく候ては悪しく侯」

全ての槍を三間(約5.4m)ないし三間半柄(さんげんまなかえ:約6.3m)の長柄(ながえ)の物に代えさせている。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。




長槍
当時の合戦は、弓戦から始まり、次に、槍隊が槍を揃えて突撃し、槍戦となる。
敵の突進を止め、敵を負傷させて引き退かせ戦意を喪失させることが合戦の重要なポイントであった。

槍隊が前方に向けて槍を水平に構え、最前線の者が倒されればすぐに後の槍隊が前進してその穴を埋める。

そこで信長は、槍は長いほうがよいという結論に達し、長槍を考案するのであるが、
当時の槍は二間半(約4.5m)が普通とされており、それよりかなりの長さである為、
かなりの訓練が必要ではあったが、有利であると判断した為、代えさせている。

長槍隊は当時の戦国大名の多くが軍備の中心に据えていた為、決して特異なケースではないが、
三間半にも及ぶ長槍は信長軍独自のものであった。

三間半長柄槍隊の槍衾(やりぶすま)は、
二間半長柄槍隊の接近を防ぎ、騎馬隊の突進をも妨げ、隊列の間隔を一定に保ちながら前進し、
敵を手許に飛び込ませないように只ひたすら押し返し、敵が退いた所に槍隊の背後に布陣している
精鋭部隊が突撃する。

信長の三間半長柄槍隊は突いたり・刺したり・払ったり・叩いたりという今までの
槍隊の常識を変えた戦法であった。




織田信長はなぜ「天才」と言われるのか
織田信長 戦国最強の軍事カリスマ
歴史REALvol.1 特集 戦国合戦を科学する



鉄砲
また信長の先進性に驚かされるのが鉄砲の利用である。

日本に鉄砲が伝来したのは、

天文十二年(1543年)
種子島左近衛将監時尭がポルトガル人から二挺の火縄銃を購入したことから始まる。

そのわずか六年後の
天文十八年(1549年)
弱冠十六歳の信長は、近江国友村(くにともむら)に五百挺もの鉄砲製作を依頼している。

また戦術にも創意工夫をこらし、かの長篠の合戦(ながしののかっせん)では、
馬防柵を設け、鉄砲隊を三段に編成して弾を込め、点火し、狙いを付けて撃つ動作をシステム化した
三段式装填法(さんだんしきそうてんほう)と呼ばれる戦法をあみだしている。

もはや大うつけなどではないことが良く解る。




戦国Check✓

種子島 時尭(たねがしま ときたか)
戦国時代の武将。幼名は犬楠丸。官位は左兵衛尉、弾正忠、左近衛将監。種子島氏の第十四代当主。
天文十二年(1543年)、種子島南端に漂着したポルトガル人より鉄砲二挺を購入し、
刀工八板(やいた)金兵衛に鉄砲の製法を学ばせ作らせている。これが我が国鉄砲伝来の初見とされている。

近江国友村(おうみくにともむら)
近江国坂田郡国友村。戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。
国友村の鉄砲鍛冶は、その技能の高さから別の職人集団へと独立した一派も存在し、
伊勢国亀山に移った者達は、鍔職人「亀山鍔」として名をはせた。

長篠の戦い(ながしののたたかい)
天正三年(1575年)五月二十一日、三河国長篠城をめぐり、織田信長、徳川家康連合軍三万八千と
武田勝頼軍一万五千との間で勃発した戦い。
決戦地が設楽ヶ原(したらがはら)および有海原(あるみはら)だったため長篠設楽ヶ原の戦いと記す場合もある。



次回 第七話 松平清康の尾張侵攻 ⇒




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織田信長は注意欠陥多動性障害

 【12//2015】

庶子と嫡子の戦国時代


織田三郎信長には、織田三郎五郎信広という兄がいたが、
妾腹(しょうふく)であったため、嫡男として扱われなかった。


戦国Check✓

織田 信広(おだ のぶひろ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は三郎五郎。官位は大隈守。
織田信秀の子。織田信長の異母兄。
信秀の長男であるが、生母が側室ということから織田弾正忠家の一族(家臣)扱いであった。
異母弟信長に仕え、上洛後は京都で室町幕府との連絡役をつとめる。
天正二年(1574年)九月二十九日長島一向一揆鎮圧の際、討死。



妾腹(しょうふく、めかけばら)
結婚している男性が妻以外の女性(妾 めかけ)に産ませた子供。
大坂や京都を初めとする畿内では、妾を「てかけ」と称する。

本妻(正室)は、「家族の一員」であるのに対し、(側室)の位置づけは「使用人」であるとされている。

妻が複数人存在する「一夫多妻制」とは、厳密には異なる。

女性一人が、生涯に出産できる子供の数は限られており、
男系男子の子孫を絶やさないことが重視されていた戦国の世において、
側室を置く事は必定と考えられていた。






嫡子(ちゃくし)
男系相続にこだわる武家社会では、側室(妾)の産んだ子は、正室(本妻)の産んだ子より低く見られる傾向があり、側室が産んだ男子は、長子であろうと「庶子」として扱われ、

正室の産んだ男子は次子であったとしても「嫡子」として扱われていた。

しかし、正室の産んだ子が女子、側室が産んだ子が男子であった場合、
「跡継ぎ」としては側室の産んだ男子のほうが尊重される事になる。



泰平の世を迎えた江戸時代以降では「庶子」「嫡子」の関係は少し変わる。
戦国時代では、側室が産んだ男子は、正室が産んだ男子がいる限り「嫡子」にはなれなかったが、
江戸時代以降は正室の子も側室の子も関係なく早く産まれた男子「世継ぎ」となるケースが多かった。

幕藩体制下では、家督相続は勝手に行えるものではなく「嫡子願」という届出書を幕府に提出し、
受理されて初めて嫡子として認められたためである。

嫡子願の届出をしないまま、その家の当主が死亡すると、
男子がいたとしても幕府側は「世継ぎがいない」と判断し「御家断絶」ということになった。

そのため、たとえ側室の子であったとしても「長子」「嫡子」という流れへと代わっていったのである。
ちなみに「嫡子願」で嫡子となった側室の子は、正室の養子とされ「正室の子」として育てられた。





自立
群雄がひしめく戦乱の世で尾張統一を目指す織田弾正忠信秀は、その生涯の大半を戦に費やしてきた。

そのため幼い吉法師にも「戦乱を生き抜く強さ」「嫡男としての心構え」を身につけさせようと
四人の重臣たちを傳役(もりやく)に付け、尾張那古野城の城主に据えるという
過酷ともいえる英才教育をほどこした。

自立するために必要なものは「親離れ」ではなく「子離れ」だという言葉があります。
子供の自立を願うのであれば、親は子離れする必要があり、
子離れしないといつまでも子供は自分で立つことが出来ないのである。

子供は、将来必ず大人になる

幼い吉法師を群雄がひしめく戦乱の世において「家を守る」ことができるようなひとかどの武将にするためには、
あえて「外の世界でもまれて免疫力をつける」必要があった。

可愛いからとはいえ、親元で育てていては、強く育たない。

どうすればいいのか、どういう大人になればいいのか、
すべて初めての経験ばかりのため自らトラブルの中へ飛び込んでいくかもしれない。
それでも信秀は可愛い我が子のために辛い選択をするのである。

日本のことわざに「かわいい子には、旅をさせよ」という言葉がある。
可愛い子だからこそ、あえてつらい経験をさせてあげるという意味だ。

大事な子とはいえ、いつまでも温室の中で生活していては、社会で生きるための力をつけることは出来ない。
可愛い子、大事な子だからこそ、思い切って旅をさせて、強くなってもらうことが大切なのである。

端午の節句⇒



戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

尾張那古野城(おわりなごやじょう)
尾張国愛知郡那古野(現在の愛知県名古屋市中区二の丸)にあった城。



発達障害
吉法師は幼少時から寺に入れられ修行をさせられたが、
おとなしく坊主の教義に耳を傾けるような子供ではなかった。

吉法師は衝動が抑えられず、突発的に行動してしまい、
同じ寺で修行する子供の食べているものを奪い取って食べてしまうことも日常茶飯事であった。

また我慢ができず、思い通りにならない場合などは誰彼構わず手を出してしまうこともあり、
感情のコントロールが出来ないこともあった。

吉法師の日常の行動が人並みではないことや、その素行の悪さにもてあまし気味であった僧や周囲の者達は、

「あの様子ではとうてい大した人物にはなれまい。

弾正忠の子にしてはあまり似つかわしくないのではないか」
と将来をあやぶみ嘆息していた。




織田信長は、ADHDだったのではないかと言われている。
ADHDは日本語で注意欠陥多動性障害と訳される発達障害の一つであり、
不注意や他動性、衝動性など周囲に誤解されやすい症状がある。

織田信長の他にもADHDだったのではないかという歴史的偉人には、
エジソンアインシュタイン坂本龍馬など高い能力や才能を持つ人物の名が挙げられている。





両親のもとで成長することを許されなかった吉法師は、父や母の温かい愛情を受けることなく成長していく。
しかしそれは両親の束縛も受けることなく成長していくことになる。

吉法師は自ら進んで興味を示し自ら進んで行動することで自己の個性を確立させていった。
世間の常識を鵜呑みにせず「自己の考え」を大切にしながら、人間として武将として成長していく。

独特な感性ひらめきがあり、行動力に長けていたことから
織田信長はADHDだったのではないかという話がでたようである。

また、アスペルガー障害アダルトチルドレンではないかという学説もあるらしいが、
それもまた違うと思う。



戦国Check✓

注意欠陥多動性障害(ちゅういけっかん・たどうせいしょうがい)
(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder、ADHD)
多動性、不注意、衝動性を症状の特徴とする発達障害もしくは行動障害。
感情的な衝動性(安定性がないことや短絡的に結論に飛躍し順序建てた考えでなく感情が優先しすぎる)や
注意力(日常の行動が人並みでないなど)や集中力の欠如が多いとされる。

アスペルガー症候群
社会性・興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害。
総合的なIQが知的障害域でないことが多く「知的障害がない自閉症」として扱われることも多い。
特定の分野への強いこだわりを示したり、運動機能の軽度な障害も見られたりする。

アダルトチルドレン
「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」など家庭問題を持つ機能不全家庭で育ったことにより、
成人してもなお心理的外傷として内心的なトラウマを持つ人を指す。
破滅的であり、完璧主義であり、対人関係が苦手であるといった、いくつかの特徴がある。
成人後も無意識裏に実生活や人間関係の構築に、深刻な悪影響を及ぼしている。



愛情
戦国の世の嫡男の宿命とはいえ、
吉法師には心から甘えられる存在がなかった。

子供にとって母親は依存の対象であり、それを拒否されたことで強い欲求不満となり、
飢えた獣のように粗暴さを剥き出しにし、奇怪とも取れる行動に出たのは、
母に愛されたいと思うがゆえの精いっぱいの反逆行為であった。

幼い頃に母と別れ、他人に囲まれて育つというスキンシップのない状態に本能的に反発していたに過ぎず、
単に母の愛情を求めていただけなのである。





次回 第四話 自由な発想をたのしむ尾張のうつけ者




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旧勢力の没落と新興勢力の台頭

 【11//2015】

乳首を噛む戦国時代のカリスマ



応仁元年(1467年)
応仁の乱以降、室町幕府の力が弱体化していき、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現

古い権威が否定され、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していく


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応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

手にとるように戦国時代がわかる本 岸祐二 (著), 加来耕三 (監修)








誕生
天文三年(1534年)五月十二日
織田弾正忠信秀の次男(三男との説もある)として、尾張勝幡城にて男子が誕生
幼名は吉法師
のちに戦国時代のカリスマとして光を放つ織田三郎信長である。

信秀は男十二人、女十二人の子をもうけたが、
吉法師は正室である土田御前の子ということで弾正忠家の嫡流として扱われた。

二十四人の兄弟で土田御前を母とするのは三郎信長勘十郎信行喜六郎秀考の三人だけである。
※お市の方も土田御前の子とする説もあるがはっきりはしていない。

信長の兄弟



乳母
赤ん坊の吉法師にこんな逸話がある。
武家の子供は乳母に育てられることが多いが、吉法師の乳母は次々と変わることになる。

吉法師は癇の強い赤ん坊で、授乳中に乳母の乳首を噛みちぎる癖があったためだ。
その為、生母の土田御前は、荒々しい気性に生まれついた吉法師を、疎(うと)んじ遠ざけていた。


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織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

土田御前(どたごぜん)
戦国時代・安土桃山時代の女性。
織田信秀の継室(織田達勝息女が最初の正室であるが離縁)。実名は不明。別称は花屋夫人。法名は報春院花屋寿永大禅尼。
織田信長、織田信行、織田秀孝、織田信包、お市の方、お犬の方の生母。

尾張勝幡城(しょばたじょう)
尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にあった城。

乳母(うば、めのと)
母親に代わって子育てをする女性のこと。



赤ちゃんが乳首を噛む
歯が生えてきた赤ちゃんに、乳首を噛まれ、痛い思いをされている乳母は非常に多いと聞く。
赤ちゃんが乳首を噛む、その主な原因は、母乳の味(質)が落ちたことにあるようだ。


吉法師が乳首を噛みちぎる主な理由として
<食生活の乱れ>
母乳がしょっぱくなったり、苦くなったりすると、吉法師は嫌がって乳首を噛みちぎる事があります。
乳母は、食事を心がけ、質の改善を試みると良いそうです。

<授乳の仕方が悪い場合>
くわえ方が浅い場合が考えられます。
授乳の時、乳輪部が隠れるくらい吉法師の口腔内(こうこうない)に、深くくわえさせるといいそうです。

<ホルモンバランスの変化>
ホルモンバランスの変化が母乳の質に影響を与えると言われています。
排卵日前後や、生理開始前後、または肉体的・精神的ストレスなどによる、
ホルモンバランスが乱れている場合も考えられます。

<遊び心が芽ばえた>
ある程度、満腹感を得たとき、いたずら気分で噛みちぎってみたら、乳母が大げさな反応をしておもしろかったから、
また噛みちぎってやろうなんていう、遊び心も出てきます。
吉法師が乳首を噛んだら、「低い声で叱る」、「速やかに乳首を離す」など色々と試してみるといいそうです。

間違っても、噛むことを許したり、「キャ~」と叫ぶなんてことをしてはいけません。
吉法師は、乳母が喜んでくれたと勘違いし、乳母を喜ばせるために、乳首を噛みちぎり続けるからです。


しかし、
乳母が池田勝三郎恒興の母養徳院に変わるとこの癖は無くなったようである。
いくら主君の御嫡男であったとしても「やってはいけない事がある」ということを、
養徳院はきつく吉法師に教えたのかもしれない。

生まれた時から両親と離れて暮らし、実母の愛を知らなかった吉法師は、無意識に母を求め、
慈愛に満ち溢れる養徳院に母を見たのかも知れない。

信長はこの養徳院を大御乳(おおおち)と呼び敬愛することとなる。
また、乳兄弟の池田恒興は、信長を慕い信長が死ぬまで忠節を尽くすことになる。


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養徳院(ようとくいん)
戦国時代・安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。
織田信長の乳母。実名は不明。
池田政秀の娘として近江国で生まれ、池田恒利の正室となり、池田恒興を出産する。
後に、恒利とは離縁し信秀の側室となり、娘小田井殿を出産する。

池田 恒興(いけだ つねおき)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は勝三郎、官位は紀伊守(自称)。
尾張織田家重臣。織田信長、豊臣秀吉に仕える。清洲会議における四宿老の一人。



尾張の風雲児 織田三郎信長 
これより天下への道を駆け上ることになる

その信長の前に立ちはだかるのが

下克上により戦国大名に成り上がった美濃の蝮 斎藤山城守道三

戦国期稀代の謀将 中国の覇者 毛利治部少輔元就

天下に覇を唱える大大名 海道一の弓取り 今川治部大輔義元

戦国期最強の騎馬軍団 甲斐の虎 武田大膳大夫信玄

合戦の神毘沙門天の化身 越後の龍 上杉弾正少弼謙信などであった。





次回 第二話 織田信秀が勝ち旗に込めた意味




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光秀と煕子

 【11//2015】

光秀と煕子



明智家再興を胸に、流浪の身となった明智十兵衛光秀は、
弘治二年(1556年)から永禄五年(1562年)までの六年間、諸国を遍歴したことになっている。


明智軍記によると、
兵法・軍法などを身につけるため諸国を放浪し、東国の伊達氏、西国の宇喜田氏や毛利氏の軍法を見て学んだとあるが
信憑性に欠ける内容である。



光秀が毛利少輔次郎元就に仕官を求めた際の逸話であるが、

才知明敏、勇気あまりあり。
しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、
喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず


光秀の才気は並々ならぬものがあり、非常に魅力的ではあるが、彼の中には狼のような一面が眠っている。

利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きいと元就は推察し、光秀の仕官を断ったという。


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明智軍記(あけちぐんき)
江戸時代に書かれた明智光秀の伝記。
明智光秀の美濃脱出から山崎の戦いの後、光秀が小栗栖の竹藪で殺されるところまで書かれている。
しかし明智光秀の死後100年ほど経った頃に書かれた史料のため、一般的に史料価値は低いとされる。

毛利 元就(もうり もとなり)
室町時代後期から戦国時代の武将。幼名は松寿丸。通称は少輔次郎。官位は従四位上 右馬頭 治部少輔 陸奥守。
安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、
中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。
用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。







仕官

光秀は各地を転々とした後、越前丸岡の園阿上人(えんあしょうにん)の推挙により、
越前一乗谷の朝倉左衛門督義景に仕官することになり、知行五百貫文で仕えたという。

戦国時代の貨幣単位は基本的にが使われており、千文で一貫、四貫で一両となる。

貨幣価値は各国ばらばらであり、また時期的な変動があった事から一概には言えず、
一文 が 五円五十円と価値に巾があったようだ。

一文を十円程で計算してみたとしても、一貫 が 一万円、一両で 四万円となる。
知行五百貫文では、約五百万円程ということになる。


しかしこの頃の光秀は、貧しさに窮する事ばかりであった為、
妻である 熙子(ひろこ)が自分の大事な黒髪を売って光秀を助けたという逸話も残っている。

賢者の贈り物
2012年 05月 23日、「英国で毛髪の売買盛ん」とのロイターの記事があった。

この記事によると、金銭的に余裕のない英国人女性の間で、
自分の髪を売ってお金に換えるという動きが活発化しているという。

ブロンドの長い髪を持つ英国人女性は髪を売って120ポンド(約1万5000円)を手に入れたという。


極貧生活から、妻の煕子は黒髪を売って生活を支えたというが、果たしてどれ程の額になるのだろうか。





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仕官(しかん)
官に仕えること。役人になること。
浪人中の武士が召し抱えられて大名などに仕えること。

朝倉 義景(あさくら よしかげ)
戦国時代の武将。通称は孫次郎。官位は左衛門督。越前国守護職。越前朝倉家第十一代当主。
天文十七年(1548年)父孝景の死により若干十六歳で越前朝倉家の家督と領国支配を受け継ぎ、
将軍足利義輝に諱の一字を貰い受け左衛門督義景と名を改める。
元亀元年(1570年)越前に侵攻した織田信長を、北近江の浅井長政とむすんで対抗するが、姉川の戦いに敗れ、
天正元年(1573年) 八月二十日自害し、越前朝倉氏は滅亡する。

知行(ちぎょう)
平安~室町時代における所領の直接支配および江戸時代における所領の間接支配を表わす用語。
平安時代以後、荘園制の発達とともに「領掌」「領知」「知行」などと呼ぶようになった。

熙子(ひろこ)
明智光秀の正室
「細川家譜」や「美濃国諸旧記」などによると父は妻木範熙(勘解由左衛門)、
もしくは「妻木系図」によると妻木広忠とされる。
「明智軍記」によると名は煕子で、「絵本太功記」では照子の名で登場する。





武士の家計簿
当時の武士には、「体面」という意識が常にあった。

「武士」にかかる費用の内訳は、

家来の給金
家格に応じて家来や奉公人を雇う義務があり、俸禄をもらう代償として、
合戦時には家禄に応じて定められた人数を率いて出陣する軍役が武士には課せられていた。
そのため、収入は多くても、人件費がかさみ支出も多くなる。
また家来の衣装、食事、住居費も全て主持ちであった。
予算配分では、約5%を締める。(二十五万円)


寺社祭祀費(じしゃさいしひ)
祖先を祭り、武士身分としての格式を保つために強いられる費用であり、
これを支出しないと武家社会で「対面」を守る事が出来なくなる。
予算配分では、約3%を締める。(十五万円)


祝儀、交際費
武士身分であることによって生じる祝儀交際費などの「身分費用」
予算配分では、約9%を締める。(四十五万円)


頼母子講(たのもしこう)
金銭の融通を目的とする相互扶助組織
組合員が一定の期日に一定額の掛け金をし、入札によって所定の金額の融通を受け、
それが組合員全員にいき渡るまで行うもの。
結婚式とか、家の改修とか、大金の必要な人が、所定の金額の融通を受ける制度。
近隣仲間との付き合いには必要となる支出。
予算配分では、約15%を締める。(七十五万円)


上納金
主家の財政の逼迫(ひっぱく)する程度によっては、お借り上げと称して、給与の何割かを源泉徴収される。
決して帰ってこないお金。
実質賃金カット。
予算配分では、約14%を締める。(七十万円)


500万の給料のうち、46%の230万という金額が「武士の対面代」として差し引くと、
自由に使えるお金は残りの54%の270万という事になる。

武士はお金がかかるのである。






夫を支える献身的な妻としてよく煕子の名前が出てくるが、
光秀と煕子の逸話は他にもある。

これは光秀が熙子を妻に迎える時の逸話である。

煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡:ほうそう)にかかり生死の境を彷徨う事となる。
数ヶ月にも及ぶ闘病の末、どうにか命は取り留めたものの人もうらやむその美貌が、
無残な痘痕(あばた)顔になってしまっていた。

煕子の左頬に、一生消えない痘痕が残ってしまったのである。

婚儀を目前に控えた妻木家では、土岐一族である明智宗家の嫡男に嫁がせる娘が、
痘痕顔では申し訳が立たないと、内緒で煕子にそっくりな容姿をした二歳違いの妹八重を嫁がせようとした。

しかし、事の真意を知った光秀は、

「顔の善し悪しではない。例えどの様な顔になろうと、私が婚約したのは熙子である。」として、
身代わりとなった妹八重を妻木家へ送り返し、煕子を妻に迎えたという。

律義者と言われる光秀らしい逸話である。

熙子の父である妻木藤右衛門広忠(つまきとうえもんひろただ)は光秀のこの人柄に感銘を受け、
以後一族を挙げて光秀に臣従して役目を果たすことになる。

また光秀は他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、
正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかったと言われている。

光秀と煕子との間には、
嫡男明智十五郎光慶(あけちじゅうごろうみつよし)と五人の娘がいたという。


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妻木 広忠(つまき ひろただ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は藤右衛門。美濃妻木家第十二代当主。
美濃国土岐郡妻木城主。
尾張国の戦国大名織田信長に仕え、明智光秀の与力となり成果を挙げる。
本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀が敗れ、近江国坂本城が陥落すると、
西教寺で関係者一族の墓を作った後に、墓の前で自害したという。

明智 光慶(あけち みつよし)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は十五郎。明智光秀の嫡男。
実在は確認されているが光慶が歴史に記されるのは、光秀による丹波国・亀山城(京都府亀岡市)の築城前後であり、
目立った戦功や功績は明らかではない。
イエズス会の記録には、「ヨーロッパの王子のような優美な人」と記されている。
また、光秀主催の西之坊威徳院連歌(愛宕百韻)において、光慶が結句を詠んだ愛宕結句で知られる。
本能寺の変の折は、近江国坂本城にて西国防備にあたるが、山崎の戦いで父光秀が敗走中討たれると、
中川清秀、高山右近らの攻撃に持ちこたえる事が出来ず満14歳で自害した(最期の地は亀山城との史料もある)。



次回 第九十六話 斎藤義龍が恐れた織田・明智の親密な関係 ⇒




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