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無実の罪で逆臣の悪名を被る

 【05//2014】

守山崩れ


天文四年(1535年)十二月四日
松平二郎三郎清康は、一万余の軍勢を率いて三河岡崎城を出陣
清康に恨みを抱いていた松平内膳正信定は、仮病を装い尾張守山城攻撃に出陣していなかった。



戦国Check✓

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

松平 信定(まつだいら のぶさだ)
戦国時代の武将。通称は与一、内膳正。桜井松平家初代当主。
松平宗家の家督を巡り、兄松平信忠との対立に始まり、甥清康・姪孫(てっそん)広忠と宗家三代にわたり反意を示した。

尾張守山城(おわりもりやまじょう)
尾張国春日井郡守山(現在の愛知県名古屋市守山区市場)にあった城。


織田弾正忠信秀は戦いに優れた武将でもあったが、情報を巧みに利用して敵を騙し、敵を翻弄してきた。
清康と信定の不仲を知っていた信秀は、同盟者の信定を使い三河領内に偽風説を流布させた。
これは三河松平家の内部崩壊を狙ってのことであった。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。



偽風説
清康の配下にこの頃頭角を現していた阿部大蔵大輔定吉という者がいた。
家中に定吉を妬む者があり、定吉は信定と申し合わせて、織田弾正忠信秀に内通しているとの
偽風説が出陣前に流れた。

清康本人は「敵方が我々を撹乱しようとして流した雑説である」と取り合わなかったが、これを聞いた定吉は仰天。

出陣前に息子の弥七郎正豊を呼び、

「これは全くの濡れ衣だが誰が言い出したかわからない以上どうしようもない。

清康公から糾明(きゅうめい)があれば申し開きも出来るが、それもないまま無実の罪に陥れられ、

末代まで逆臣の悪名を被ることはやりきれない。

例え私が無実の罪を着せられようとも、お前は何としても逃れて私の無実を証明してくれ。

それも許されないなら、即刻自害して反心なきことを明らかにせよ。

くれぐれも父の冤罪を恨んで敵に内通などしてはならぬぞ」
と言い聞かせた。


戦国Check✓

阿部 定吉(あべ さだよし)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は大蔵大輔。
松平宗家に仕えたが、息子弥七郎があやまって主君清康を殺害してしまう。
定吉は息子の過ちを詫びようと自害を図るが、清康の嫡子広忠に止められ、以後、誠心誠意広忠に仕えた。

阿部 正豊(あべ まさとよ)
戦国時代の武将。三河松平家臣。阿部定吉の嫡男。通称は弥七郎。
正豊が斬ったのは清康の孫松平元康(徳川家康)であり、しかもそれは永禄三年(1560年)十二月五日の事であり、
それ以後の徳川家康は世良田二郎三郎元信という影武者とする異説もある。



そして守山布陣の翌日
天文四年(1535年)十二月五日、早暁
陣中で馬が放たれたため騒動が起きた。

清康も自らそこへ出向き「陣の外へ出すな、早く木戸を閉めよ」など大声で下知していた。
寝起きにこれを聞いた弥七郎正豊は父が誅殺されたものと早合点し、刀を取って走り出していた。
そして「逃がすな」と叫ぶ清康の後ろから斬りつけたのである。

右肩から左脇まで斬り下げられた二郎三郎清康は、この一太刀で即死
弥七郎正豊は清康の側にいた植村新六郎氏明に即座に討たれ、父定吉は捕らえられた。


戦国Check✓

植村 氏明(うえむら うじあき)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は栄安、新六、新六郎。
松平宗家三代(清康、広忠、家康)に仕え、主君の仇を二度も討った忠義の臣。
天文四年(1535年)、主君松平清康が森山崩れで阿部正豊に斬られ時、正豊をその場で斬殺している。
また、天文十八年(1549年)、主君松平広忠が岩松八弥に斬られた時も、八弥をその場で斬殺し感状を得ている。


定吉は全てを語り、息子が重罪を犯した以上、父たる自分は罪を逃れ得ない、即刻首をはねてくれと頼んだが、
衆議により、清康の祖父である松平蔵人丞長親の裁定に従うべきだとし、処分保留となった。(後に許されている)

総大将を失った松平軍は、三河へと退却する。
これを世に守山崩れと呼ぶ。

軍事では圧倒的な才能を誇った松平二郎三郎清康が、
些細な理由によって家臣の弥七郎正豊に刺され絶命したのである。

風説を流布したのは、弾正忠家と縁戚となり、同盟者となった清康の叔父松平内膳正信定であった。


戦国Check✓
松平 長親(まつだいら ながちか)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。官位は従五位下、蔵人丞、出雲守。
三河松平家第五代当主。
三河安祥城主として西三河を支配下に置き、東三河を支配していた今川氏親の客将北条早雲に、
永正三年と五年の二度にわたり攻め込まれるが撃退している。
庶子は福釜松平家、桜井松平家、東条松平家、藤井松平家の祖とし、西三河における松平宗家の基礎を築いた。


次回 第十話 宗家奪取 ⇒




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