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尾張の大うつけが、絶世の美女に恋をした

 【13//2015】

最愛の女性


弘治三年(1557年)
織田上総介信長の長子奇妙丸が尾張国丹羽郡小折の生駒屋敷で誕生する。
のちの織田勘九郎信忠である。

生母は側室の生駒吉乃という説が一般的だが、異説もある。



戦国Check✓

織田 信忠(おだ のぶただ)
安土桃山時代の武将。通称は勘九郎。官位は出羽介、秋田城介、左近衛少将、左近衛中将。
織田弾正忠家第五代当主。織田信長の嫡男。
父信長に従い長島の一向一揆、長篠の戦などに転戦し、信長が安土に移った後は、
織田弾正忠家を継承し岐阜城主となる。
甲斐の武田勝頼を滅ぼし、中国攻めのため上洛するが、京都妙覚寺滞在中に明智光秀の謀反を知り、
二条城で光秀方に包囲され自刃。

生駒 吉乃(いこま きつの)
戦国時代の女性。織田信長の側室で、信忠、信雄、徳姫(見星院)の母。
馬借を家業としていた生駒家宗の長女。
名は「前野家文書」で吉乃(吉野)と創作されるが実名ではない。




武功夜話によると、
馬借を家業としていた生駒因幡守家宗吉乃(吉野)という娘がいた。
しかし生駒家に伝わる系図には吉乃の名は記されておらず、記されている名は「類」であり、
「類」が正式な名であると推察されている。

信長と吉乃

川賊
尾張生駒家についての資料は乏しく、不明確な点が多い。
太政大臣藤原良房の子孫が大和国平郡生駒の地に移り住み、後に生駒を名乗るようになる。

応仁元年(1467年)に起こった応仁の乱の戦禍から逃れるため、
生駒左京進家広の頃に尾張国丹羽郡小折の地に移住したと伝えられる。

灰(染料用)と油を扱い馬借として商い財を蓄え富家となる。

上総介信長の飛躍の裏には
生駒家の資金力情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していたと言われている。

当時、生駒屋敷は各地から浪人や旅芸人などが多く集まり、情報交換の場として広く開放されていた。
その為 諍い(いさかい)も絶えず、その諍いが発展し抗争になることも少なくなかった。
そこで「川並衆」と呼ばれる傭兵部隊を率いる蜂須賀小六正勝という者に警固にあたらせていた。

美濃と尾張との国境に流れる木曽川流域には古くから「川並衆」と呼ばれる独立勢力があった。
人々からは川賊と呼ばれ恐れ嫌われていたが、信長は早くからこの川並衆の力に目を付け、
自陣に引き入れようと模索していた。

その川並衆の党首である蜂須賀小六正勝を従わせる程の生駒家の経済力とはどれ程のものなのか。
また他国から集まる情報網に目をつけていた信長は、
情報収集基地として頻繁に生駒屋敷に出入りするようになっていた。




愛惜
しかし信長が生駒屋敷に足繁く通った最大の理由は他にあった。
それは、以前から好意を寄せていた女性が生駒屋敷にいたためである。

その女性こそが吉乃であった。

吉乃は弘治二年(1556年)の明智城の戦いで、
夫である土田弥平次を失い後家(ごけ)として実家である生駒屋敷に戻っていた。

吉乃は信長より六歳年上であったとされ、母から与えられなかった愛情を信長は吉乃に求め、
吉乃もまた信長のその欲求を満たしてやっていたのである。

信長最愛の女性とまで言われた吉乃であったが、
勘九郎信忠三介信雄徳姫と信長の子をもうけたが産後の肥立ちが悪く、若くして亡くなっている。
享年三十九歳であったとされる。

久昌寺縁起(きゅうしょうじえんぎ)によると、吉乃の死を深く悲しんだ信長は、常に吉乃を愛惜(あいじゃく)り、
美濃小牧山城望楼(ぼうろう)から彼女の墓のある西の方角を望んではを流していたという。

戦国Check✓

武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
三巻本、二十一巻本などいくつかの異本が存在している。

生駒 家宗(いこま いえむね)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は八右衛門。尾張小折城主。尾張生駒家第三代当主。
生駒氏は灰や油の商いと馬借で冨を築き、小折城と呼ばれる屋敷を構えた尾張国丹羽郡小折の土豪。
武家商人として飛騨国から三河国まで広範囲の商圏を有し、犬山城主織田信清に属していた。
その後、出戻りの娘類(吉乃)が織田信長の側室となったことにより、信長に仕え重用された。
屋敷は遠方から多種多様な人の集まる場所となっており、信長は生駒氏の財力と情報力を求めて近づいた。

蜂須賀 正勝(はちすか まさかつ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は小六、小六郎。官位は従四位下修理大夫。尾張蜂須賀家第三代当主。
正勝は、秀吉の片腕として秀吉に従軍して数多くの合戦に参加しているが、槍働き(白兵)としての活躍よりも、
参謀として民政や調略に手腕を発揮した人物であったことが知られている。

明智城の戦い(あけちじょうのたたかい)
弘治二年(1556年)九月十九日、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受け、明智城代明智光安は、弟光久と一族を集めて籠城し、
義龍軍3,700余の軍勢を相手に二日間にわたり抵抗したという。
光安は、光秀に明智家再興を託し弟光久と自刃したという。
この時、光秀は明智城から逃れたと明智軍記にあるが証明するものはない。
城は落城後再興されることもなかった。

後家(ごけ)
夫と死別し、再婚しないで暮らしている女性。寡婦。未亡人。

愛惜(あいせき)
愛して大切にすること。名残惜しく思うこと。あいじゃく。

望楼(ぼうろう)
遠くを見渡すためのやぐら。

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次回 第九十八話  天下への歩み ⇒



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