2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

天下への歩み

 【27//2012】

天下への歩み


生駒吉乃が織田上総介信長の側室となり、嫡子である奇妙丸(織田勘九郎信忠)を産んだことにより、
生駒八右衛門家宗(いこまはちえもんいえむね)は、織田弾正忠家で重要な地位を占める事になる。
信長の大躍進の裏には、常に生駒家の情報収集力に基づく強固な後方支援が存在していた。
家宗の子家長(生駒宗家4代)、孫利豊(5代)ともに信長に仕え、1900余石を知行し尾張衆と称されるまでになる。
その後は、豊臣秀吉、徳川家康に仕え尾張藩士となる。
以後幕末まで加増を繰り返し、尾張徳川家の家老職をも勤め、4000石の尾張藩士として存続することになる。
廃藩置県後は、尾張徳川家相談人となり士氏族年金管理の銀行家、経済史家などを輩出している。


廃藩置県(はいはんちけん)
明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革。


武功夜話によると、
信長や秀吉が天下への歩みを始めたのが、生駒屋敷であると記されている。
武功夜話とは、前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料である。
前野家文書は、尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜の一種で、
昭和三十四年(1959年)に、三百八十年ぶりに蔵の中から発見されたという。
豊臣秀吉に仕え大名にまでなった前野長康や、前野家と関係の深かったという蜂須賀氏、生駒氏、そして生駒屋敷に出入りしていたという織田信長や豊臣秀吉の青年時代、桶狭間の戦い墨俣一夜城といった織田氏に関連する重要な情報を伝えている。


前野 長康(まえの ながやす)
通称は将右衛門。
元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿であり、別名を坪内長康とも言われているが、
その出自は『武功夜話』に依拠するところが多い。
定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。




この史料の中に日吉丸という少年が生駒屋敷に出入りしている事が記されている。
後の太閤豊臣秀吉である。

日吉丸の出自に関しては、諸説が色々ある。
太閤記によると、
誕生は天文五年(1536年)一月一日
幼名は日吉丸となっているが、天正記や家臣、伊藤加賀守秀盛(いとうかがのかみひでもり)の願文の記載からは、
天文六年(1537年)二月六日と記されており、今日ではこの説が有力であるとされている。

素性(すじょう)に関しても色々と諸説があり、本能寺の変を記した惟任退治記(これとうたいじき)では、
「秀吉出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が記されている

関白就任後の関白任官記(かんぱくにんかんき)では、
「秀吉公の祖父は萩中納言という、公卿であったが、同僚の讒言によって都を追われ、尾張国飛保の村雲という在所に住んでいた。中納言に娘が一人おり、父の伝手で若い頃宮中に奉公に上がり、ほどなくして村雲に帰ってきて男児を一人産み落とした。これが秀吉である」と記されており、
時の天皇の御落胤だった事を匂わす事が記されている。


落胤(らくいん)
父親に認知されない庶子、私生児のこと。
歴史上では高貴な人物の出自でそれが話題になることが多い。
正式な血統の一族とはみなされないので、正当な系図には記載されていない。
歴史上に登場した落胤といわれている人物
藤原不比等:奈良時代の公卿。天智天皇の落胤説がある。
平清盛  :平安時代末期の武将。白河法皇の落胤説がある。
大友能直 :大友氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
島津忠久 :島津氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
結城朝光 :結城氏の祖。源頼朝の落胤説がある。
一休宗純 :室町時代後期の名僧。後小松天皇の落胤説がある。
細川藤孝 :戦国時代の武将。室町幕府将軍足利義晴の落胤説がある。
大谷吉継 :戦国時代の武将。豊臣秀吉の落胤説がある。
天草四郎 :江戸時代の人物。豊臣秀頼の落胤説がある。


しかし、秀吉発給文書や、太閤記太閤素性記豊鑑(とよかがみ)には、
尾張国百姓 弥右衛門(やえもん)の子となっていて、記述が一致している。
また、萩中納言という公卿は公家の史料に一切記されていないのである。
このことから、関白任官記の秀吉御落胤説は史実ではないと考えられている。


日吉丸の父とされる弥右衛門に関しても、名字を持たない最下層の貧民、あるいは針売り商人、山窩(さんか)と呼ばれる漂流民であったとする説が色々とある。
もともと織田家の足軽であったが、合戦において膝を切断、あるいは足の裏を負傷したため辞職し、
故郷に帰農し百姓になったとも言われている。


山窩(さんか)
「山家」、「三家」、「散家」などと表記され、「ポン」、「カメツリ」、「ミナオシ」、「ミツクリ」、「テンバ」など、地方によってさまざまに呼ばれた不特定の人びとの総称として用いられることが多い。
定住することなく、山間を移動しながら生業に携わる生活形態をとることがほとんどであり、人別帳や戸籍に登録されないことも珍しくなかった人びとであったとされている。
それぞれの呼称は、「ホイト」、「カンジン」など、特定の芸能を指す言葉と併用されることも多かった。




おススメの本
最強の英傑たちに学ぶ 勝ちの掟
最後の伊賀者
佐川男子
真田幸村をめぐる旅―戦国乱世を駆け抜けた名将
The Quest For History 戦国武将 完全ビジュアルガイド
史跡女子の旅
知っておきたい日本の名字と家紋
失敗の本質―日本軍の組織論的研究
集中講義 織田信長
諸家評定―戦国武士の「武士道」
諸国の合戦争乱地図 東日本編―古地図と年表でみる
状況判断―まず計算し、しかる後これを超越せよ


CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ
第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
スポンサーサイト

Category: 弘治記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。