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日輪の子

 【28//2012】

日輪の子


天文六年(1537年)二月六日
尾張国愛知郡中村で、織田弾正忠信秀の足軽木下弥右衛門(きのしたやえもん)(なか)の間に男子が誕生する。
幼名を日吉丸という。
後の木下藤吉郎秀吉である。


尾張国愛知郡中村
現在の愛知県名古屋市中村区中村

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の尾張国の武将、大名。織田信長の父。
智勇に優れた名将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
商業都市津島や熱田を支配し、経済力を蓄えるなど、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、信長飛躍の土台を作った人物。

足軽(あしがる)
日本の平安時代以降存在した歩兵の一種で、軍の主要部隊。
身分は武士と農民の間に位置して低かったが、功を認められれば足軽大将に抜擢され、家禄も200石から500石程度となり、中級の武士として認められる存在になる。



日吉山王権現に参拝して懐妊した、又は日輪が懐中に入る夢をみて懐妊した為、
幼名を日吉丸としたという逸話が残されている。
仲は、日吉丸の他にとも小竹を授かる事になるが、小竹、旭については、なかの後夫である竹阿弥(ちくあみ)の子とも云われている。


山王権現(さんのうごんげん)
日枝山(比叡山)の山岳信仰と神道、天台宗が融合した神仏習合の神である。
天台宗の鎮守神。日吉権現、日吉山王権現とも呼ばれた。

竹阿弥(ちくあみ)
戦国時代の人物。その出自は諸説がある。
豊臣秀吉の生母なかの後夫。
前妻との死別後、なかと再婚するが竹阿弥の晩年の詳細は不明である。
異説では、秀吉の実父・弥右衛門と同一人物であり、織田家の雑兵(雇い兵)として戦い、負傷を負ったために、
弥右衛門自身が出家して「竹阿弥」と名乗ったとも伝わる。


天文十二年(1543年)一月二日
日吉丸は六歳の時に父、弥右衛門を病で失うことになる。
その後、織田信秀の同朋衆(どうぼうしゅう)を務めた竹阿弥(ちくあみ)と仲が再婚し、日吉丸は竹阿弥の養子となる。
日吉丸は八歳の時に奉公に出されたが、十二歳の時に奉公先を逃げ出し中村の実家に戻っている。
しかし義父である竹阿弥と馬が合わず、再び家を飛び出し放浪の生活を送る事になる。
諸国を放浪していた日吉丸は、今川治部大輔義元こそ天下人となる武将と見込んで、
東国を目指したと武功夜話には記されている。


今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将、駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。
今川氏第11代当主。婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親・寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げた人物。

天下人(てんかびと/てんかにん)
天下の政権を掌握した人のこと。
主に戦国時代から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者。

同朋衆(どうぼうしゅう)
主君の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと。
一遍の起した時衆教団に、芸能に優れた者が集まったものが起源とされる。
阿弥衆、御坊主衆とも呼ばれた。
時宗を母体としているために阿弥号を名乗る通例があるが、阿弥号であっても時宗の僧であるとは限らない。


天文二十年(1551年)
駿河国の今川家の直臣である飯尾氏の配下であった
遠江国長山郡頭陀寺城主松下源太左衛門長則(まつしたげんたざえもんながのり)に仕官している。


遠江国(とおとうみのくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に位置する。
別称は遠州(えんしゅう)。領域は現在の静岡県の大井川以西に当たる。

頭陀寺城(ずだじじょう)
現在の静岡県浜松市南区頭陀寺町にある高野山真言宗の古刹・頭陀寺の門前にあった城。

松下 長則(まつした ながのり)
松下氏は元来、近江国の守護である近江源氏六角氏の一族・西條氏の庶流と称して、鎌倉時代末期に三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市枡塚地区)に移住し、これにより苗字を松下と名乗ったとされる。
豊臣秀吉が織田氏の家臣になる以前に仕えた人物で、武芸・学問・兵法などを秀吉に教えたとみられる。



日吉丸が長則に奉公したのは僅か三年間であったが、長則の下で異例の出世を遂げている。
しかし、中途採用であった日吉丸は他の家臣から妬まれるようになり、長則の下を去っている。
一説には長則が日吉丸の才能を見抜き、「その才能を当家にて埋もれさすのは非常に惜しい」と諭し、
他家への仕官を進めたともいう。
長則は当時としては異例であった能力主義で人材を重用してきたが、それが松下家の家風に合わず、
他の家臣等の不満に繋がっている事を知った長則は、日吉丸に幾ばくかの路銀を与え、松下家から出している。

松下家を出た日吉丸は立身という夢を抱きながらまた放浪の生活を送る事になった。
十八歳になった日吉丸は地元尾張国で仕官することを心に決め、一路尾張へと旅をすることになる。





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第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
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