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立身

 【29//2012】

立身


弘治元年(1555年)
日吉丸(のちの豊臣秀吉)は、蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)の家臣となっている。

武功夜話によると、
「この人、弘治元年の夏越方の出会いと承るなり。尾州小折村の生駒屋敷にて候。」
「蜂須賀小六殿、生駒屋敷で見知り、不審の儀もこれあり、乱波の類にて候わずや、風体は無類の輩の如く小兵なれども武芸あり、兵法の嗜も深く得体知り難し、仕切りに小六の稼ぎ好み候なり。やむなく小六殿宮後屋敷に伴ひ、出入り御用に足し候。」と記されている。


乱波の類(間諜)(らっぱ)
戦国時代、敵国に忍び入って探索などをつとめた忍者。


尾張に戻った日吉丸がどのような経緯で正勝の家臣となったのかは謎であるが、
矢作川の橋の上で日吉丸と蜂須賀小六が出会ったという逸話がある。
立身という夢を抱きながら放浪の生活を送っていた日吉丸が、矢作橋の上で寝ていたところ、付近を荒らしていた野武士集団が通りかかり、野武士集団の頭目が寝ている日吉丸の頭を蹴り飛ばしたという。
それに怒った日吉丸は「侘びていけ」とその頭目を睨みつけたという。
その頭目こそが尾張海東郡蜂須賀を根拠とした国人領主である蜂須賀小六正勝であったという。
正勝は日吉丸のその度胸を買い手下にしたという逸話である。


矢作橋(やはぎばし)
愛知県岡崎市を流れる矢作川にかかる橋であり、橋上を通るのは東海道(国道1号線)である。
この地は古来より交通の要衝であった。
橋の東の八帖町は八丁味噌で知られ、橋の袂の味噌工場が味噌の香りを漂わせている。


この逸話は有名ではあるが、当時の矢作川にはまだ橋が掛けられていなかったため、
後世の創作である可能性が高いと指摘されている。


また日吉丸は、蜂須賀家と生駒家が縁戚関係であった為、自然に生駒屋敷に出入りするようになり、
生駒家で奉公するようになった。
ちょうどその頃生駒屋敷には、明智城の合戦で夫を失い、未亡人として実家に戻っていた吉乃がおり、
日吉丸は、吉乃との出会いによって人生を大きく変える転換期を迎えることになる。



「彼の者、信長公に奉公の濫觴(らんしょう)は久庵(きゅうあん)様御口添えあるによる所、多大なり。久庵様の前少しも憚らず、色話もしばしば、生来の利口者なば、久庵様の御機嫌取ること巧みなり。」

生駒屋敷に出入りするようになった日吉丸は、次第にその小才を吉乃に見込まれるようになり、
「必ずお館様のお役に立つ者でございます。」と、織田上総介信長に推挙してくれたのである。


「立身」という夢を抱きながら奉公を続ける日吉丸に、
吉乃は織田家への仕官の道を作ってくれたのである。



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第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
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