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異例の家督相続

 【02//2012】

異例の家督相続

弘治三年(1557年)
今川治部大輔義元は、嫡男の今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)に家督を譲り渡し、形式上隠居するのである。
この時、義元はまだ三十八歳であり、異例の家督相続であった。


今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。
父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、
戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。
今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。



新領地である三河国の掌握と、尾張国からさらに西方面への軍事行動に専念するため、
氏真に領国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が濃厚である。
もう一つの要因としては、越後国の戦国大名・長尾弾正少弼景虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)の存在であった。

武田家北条家今川家の三大名が結んでいた三国同盟は、長尾景虎を仮想敵としていた。
義元としては、景虎の動きに最大の注意を払いたい時期であったことも、この異例の家督相続に至った要因であると思われる。


上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 長尾 景虎(ながお かげとら)
戦国時代の越後国の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。
上杉家の下で越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、初名は長尾景虎。
兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。
のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎(うえすぎ まさとら)と名を改め、
上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。
後に将軍足利義輝より偏諱を受けて、最終的には上杉輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。
謙信は、さらに後に称した法号である。

甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)
天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。
甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。
締結時に3者が会合したという伝説から善徳寺の会盟(ぜんとくじのかいめい)とも呼ばれている。



名軍師であった太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)亡き今川家にとって、義元自らが遠征軍の指揮を採る他に道は無かったのである。

一方、義元の尾張への侵攻は、着々と進んでいた。
天文二十一年(1552年)
もとは織田家の部将であった、山口左馬助教継(やまぐちさまのすけのりつぐ)が、織田弾正忠信秀死後、家督を継承した
織田上総介信長「当主の器なし」と見限り、鳴海城主のまま今川家に通じ、謀反を起こしている。

赤塚にて信長勢と対峙するものの、その頃の信長には教継を討伐するほどの力は無く、
引き分けという形で両軍が兵を退いている。
その後、勢いに乗った教継勢は、織田家支城である大高城沓掛城をも攻め落としている。

弘治元年(1555年)八月三日
三河岡崎衆を先鋒に松平和泉守親乗(まつだいらいずみのかみちかのり)大久保新八郎忠勝(おおくぼしんちろうただかつ)らの活躍によって尾張蟹江城(かにえじょう)を攻略している。

この蟹江城の合戦で活躍したのが、
阿部四郎五郎忠政(あべしろうごろうただまさ)
大久保新八郎忠勝(おおくぼしんちろうただかつ)
大久保新十郎忠世(おおくぼしんじゅうろうただよ)
大久保弥八郎忠佐(おおくぼやはちろうただすけ)
大久保甚四郎忠員(おおくぼじんしろうただかず)
杉浦八郎五郎吉貞(すぎうらはちろうごろうよしさだ)
杉浦八郎五郎勝吉(すぎうらはちろうごろうかつよし)
「蟹江七本槍」と呼ばれる松平勢の猛将七人である。

次々と織田家の支城を攻略していく義元の勢力は、伊勢湾の西の海西郡にまで及んでいたという。
そして信長が統治する尾張下四郡のうち二郡が今川家の勢力と化したのである。


山口 教継(やまぐち のりつぐ)
尾張国笠寺付近の土豪。
織田信秀に重用され、三河との国境の要地である鳴海城を任され尾張の南東部の備えとなっていたが、
信秀の死後、子の信長の代になると、織田氏から離反して今川氏に寝返った。

鳴海城(なるみじょう)
現在の愛知県名古屋市緑区に存在した城。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。

松平 親乗(まつだいら ちかのり)
戦国時代の武将。松平乗勝の長男。大給松平家第4代当主。官位は和泉守。通称は源次郎。

蟹江城(かにえじょう)
現在の愛知県海部郡蟹江町にあった中世の平城。
永享年間(1429年 - 1440年)に北条時任(ときとう)が城塞を築いたのがはじめと言われ、戦国時代には、
本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城があったという。



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第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
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