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今川一門衆

 【04//2012】

今川一門衆


弘治三年(1557年)正月十五日
十六歳を迎えた松平次郎三郎元信(まつだいらじろうさぶろうもとのぶ)は、今川関口家当主関口刑部少輔親永(せきぐちぎょうぶのしょうゆうちかなが)の娘、瀬名姫を正室として迎えている。
瀬名姫の母親は今川治部大輔義元の妹であった為、瀬名姫は義元の姪にあたる人物である。
彼女もまた、戦国乱世の運命に翻弄された悲劇の姫の一人であった。


今川関口家(今川刑部少輔家)(いまがわせきぐちけ)
今川家の祖、今川国氏の子今川経氏に始まる家。
代々刑部少輔に任じられ幕府の奉公衆を勤めた。
走衆にも列せられ将軍家に近侍した、また三河国内にある将軍家の御領所の管理もしていたとされる。

関口 親永(せきぐち ちかなが)
今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。駿河国持船城主。
今川義元の妹婿であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
永禄3年の桶狭間の戦い以降、衰退する今川氏を支え続けたが、娘婿の家康が今川氏から独立したため、氏真からその去就を疑われ、永禄5年、駿府尾形町の屋敷にて切腹し果てた。

築山殿(つきやまどの)
徳川家康(松平元康)の正室。本名は瀬名(せな)。別名を鶴姫という。築山御前(つきやまごぜん)とも呼ばれる。
築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
今川家一門、今川刑部少輔家の関口親永の娘。
母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたる。
また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。


瀬名姫を正室として迎えた事により、元信は今川一門衆としての扱いを受ける事になる。
ではなぜ元信が今川一門の姫を正室として迎える事が出来たのか。
それには今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)の家督継承が大きく関係していると思われる。
若くして家督を継承した氏真を、一門衆として十分に補佐してもらいたかったのではないだろうか。
義元に名軍師であった太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)がいたように、雪斎の最後の弟子であった元信に、氏真の軍師としての活躍を期待していたのかも知れない。


今川 氏真(いまがわ うじざね)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、江戸時代の文化人。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。
父義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれ、その後、武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。
その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。
今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。

太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)
臨済宗の僧侶(禅僧)で今川氏の家臣。諱は崇孚。庵原政盛(左衛門尉)の子、母は興津正信の娘。
父方の庵原氏は駿河庵原(現在の静岡県静岡市)周辺を治める一族。
母方の興津氏は横山城を本拠に海運を掌握し海賊(水軍)も率いていた。
両家とも今川氏の譜代の重臣。
今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与した人物。
また、人質時代の徳川家康の学問の師。


また義元は、自分の名前の一字である「元」の字を与えている事や、雪斎につけ指導を受けさせるなど、
通常の人質とは大きく違た扱いをしてきたのも、当時から今川家の一門格並として、格別の期待を元信に寄せていたのかも知れない。
義元から格別の期待と、扱いを受けてきた元信は、新たな決意を胸に松平蔵人佐元康(まつだいらくらんどのすけもとやす)と名乗りを改めるのである。
一説には、元信の「信」の字が、今川家に敵対する尾張国の織田上総介信長に通じることから、義元への遠慮もあって改めたとも言われている。
また「康」の字を選んだのは、稀代の英雄として高く評価されていた、祖父松平二郎三郎清康(まつだいらじろうさぶろうきよやす)からとったものと言われており、祖父にあやかり勇将となるべく決意を固めた元康の意気込みが感じられる
改名である。


松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。三河松平氏の第7代当主。第6代当主松平信忠の子で松平広忠の父、徳川家康の祖父。
三河国安祥城城主および岡崎城主。
松平家は清康の代に、武威をもって離反していた一族・家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。


ちなみに姓名判断によると、
8549総画数26画となり、

総運:才能もあり、独立心が旺盛で行動力もあるので、人の上に立ち成功をおさめることもありますが、26画は波乱を秘めた画数で安定することがありません。
予期せぬ災難やトラブルに見舞われることが多く、家庭崩壊や事業の失敗、事件に巻き込まれることがあります。
とある。

85411では総画数28画となり、

総運:自信家で頭もよく、積極果敢なチャレンジ精神と行動力があるので、特に専門的な分野で成功する運をもっています。
また、困難に立ち向かう力があるので、経営者や組織のリーダといった人の上に立つ職業も適しています。
但し、少し強引なところがあるので、周りの反感を買わないように注意が必要です。
といった結果が出ている。

姓名判断によってその人の核が決まるとは思わないが、一応参考になればと思い記してみた。



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第二章 弘治記
1555年から1557年までの3年間を指すこの時期に、戦国乱世を太平の世へ導いた三英傑が歴史の表舞台に登場する。
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