2017 05 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30. »  2017 07

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

宿無しフリーターが一国一城の主に!!

 【05//2014】

宗家奪取


戦国大名というシステムとは・・・

乱世で家を守る当主とは・・・

それは太平の世のように嫡男が当たり前のように継承できるような生易しいものではなかった。

松平二郎三郎清康の死後、松平宗家の混乱に乗じ、清康の叔父にあたる松平内膳正信定は、
松平宗家の家督を巡って清康の遺児仙千代と対立する。

仙千代とは、後の松平宗家八代当主松平次郎三郎広忠である。


戦国Check✓

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

松平 信定(まつだいら のぶさだ)
戦国時代の武将。通称は与一、内膳正。桜井松平家初代当主。
松平宗家の家督を巡り、兄松平信忠との対立に始まり、甥清康・姪孫(てっそん)広忠と宗家三代にわたり反意を示した。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。官位は贈従二位大納言。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。
守山崩れで老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。



稀代の英雄としてその武勇を国内外に轟かしていた松平二郎三郎清康の死は、
群雄が割拠する戦乱の世において、勢力図を大きく塗り替える事となった。

それは三河国内の勢力図も大きく変わることを意味していた。


松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ(PHP文庫) [文庫]
松平家の謎「歴史読本」編集部


僅か九歳で松平宗家の家督を継承する事となった仙千代は、波乱に満ちた幼少期を過ごす事になる。

松平宗家の居城 三河岡崎城は、大叔父松平内膳正信定によって武力占領されてしまう。

また、隠居の身である事を名目に、この信定の暴挙を諌めるどころか黙認していた
仙千代の曾祖父道閲[松平宗家第五代当主:松平長親]の態度もまた、三河松平領国を混乱させた。


戦国Check✓

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

松平 長親(まつだいら ながちか)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。官位は従五位下、蔵人丞、出雲守。
三河松平家第五代当主。
三河安祥城主として西三河を支配下に置き、東三河を支配していた今川氏親の客将北条早雲に、
永正三年と五年の二度にわたり攻め込まれるが撃退している。
庶子は福釜松平家、桜井松平家、東条松平家、藤井松平家の祖とし、西三河における松平宗家の基礎を築いた。



徳川諸家系譜(とくがわしょかけいふ)
「天文四乙末年清康主横死之虚に乗て内膳信定横領を巧む、大御隠居為にハ子なれは、信定心を免され、

国中の制法も大略信定次第なれハ、自然と権威強くなり、日増に我意増長し、同六年頃ハ岡崎の所領ともを悉横領し、

御譜代衆を引付タリ、然ル後ハ何卒広忠卿を殺害し、心之 に世を知らんと巧む、」


暴徒と化した信定は、仙千代の所領を悉く押領し、譜代衆をひきつけ、
挙句の果てには仙千代の殺害を企てるようになった。


「安部大蔵小輔ひそかに勢州神戸へ御供申、御伯母聟吉良持広を頼み彼地に幽居せしむ」


大叔父信定に命を狙われるようになった仙千代は、阿部大蔵小輔定吉の働きにより、
義理の伯父にあたる三河東条城主 吉良左兵衛佐持広を頼り伊勢国へと亡命することになる。



戦国Check✓

徳川諸家系譜(とくがわしょかけいふ)
徳川家および「寛政重修諸家譜」には収められていない徳川一門の松平諸家の家譜を集め編したもの。
「徳川幕府家譜」「柳営婦女伝系」「幕府祚胤伝」「御三家系譜」「華族系譜」など。

譜代(ふだい)
父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系及び、
その族姓・系統の正しさを証明する系譜類などを指す。
また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜第の臣」「譜第の者」などとも称した。

阿部 定吉(あべ さだよし)
戦国時代の武将。三河松平家臣。通称は大蔵大輔。
松平宗家に仕えたが、息子弥七郎があやまって主君清康を殺害してしまう。
定吉は息子の過ちを詫びようと自害を図るが、清康の嫡子広忠に止められ、以後、誠心誠意広忠に仕えた。

三河東条城(みかわとうじょうじょう)
三河国幡豆郡吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった城。

吉良 持広(きら もちひろ)
戦国時代の武将。通称は左兵衛佐。東条吉良氏第七代当主。
嫡流西条吉良家の義安を養子にむかえ、東西両吉良家の融和をはかり、南北朝時代以来の抗争を終わらせた。
また松平広忠の元服に際して加冠の役を務めた。



「正月十一日御元服」
逃亡生活を送っていた仙千代は、吉良持広を烏帽子親(えぼしおや)として元服する。

持広の一字を貰い受け松平次郎三郎広忠と名乗るようになる。


戦国Check✓

烏帽子親(えぼしおや)
元服儀式の際に加冠を行う者のこと。
中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親になって貰い、
当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。
この仮親を烏帽子親と呼ぶ。

ぼくのイニシエーション体験―男の子の魂が育つ時


「大叔父討伐」
元服を済ませた広忠は、三河再入国を果たす為、駿河 遠江の大守今川治部大輔義元に助けを求めた。

今川、吉良の後援を受けた広忠は、念願の三河再入国を果たし、
吉良持広の家老富永右京大夫忠安三河室城に入城する。

この報せを聞いた信定は、三河岡崎城を奪還される事を恐れ、室城を攻めるも広忠討伐に失敗する。
やがて事態を知った大久保新八郎忠俊ら、譜代家臣が広忠の岡崎城復帰を画策し始め、
広忠派の巻き返しに拍車が掛かかった。


戦国Check✓

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して、
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

富永 忠安(とみなが ただやす)
戦国時代の武将。通称は万五郎。官位は備前守、右京大夫。東条吉良家臣。三河室城主。
東条城主吉良持広の家老を務め、松平信定に追われた松平広忠に味方し、広忠を室城に迎え入れた。

三河室城(みかわむろじょう)
三河国幡豆郡室(現在の愛知県西尾市室町)にあった城。

大久保 忠俊(おおくぼ ただとし)
戦国時代の武将。通称は新八郎、五郎右衛門。三河松平家臣。蟹江七本槍の一人。
徳川家康の祖父松平清康の頃から松平宗家三代に渡り仕えた宿老。
家康の父松平広忠が大叔父の松平信定によって岡崎城を追われた際には、信定を追放し、広忠を岡崎城に入城させる。
後にも家康の独立などで活躍する。



岡崎城留守居松平蔵人佐信孝は状況の不利を悟り、広忠を岡崎城に迎え入れてその威に服した。
結局、信定も情勢の不利を悟りやむなく広忠に帰順する。

宗家奪取騒動はようやく鎮静化するが
信定の広忠への姿勢は、その後も恭順とは程遠い不遜な態度をとり続けた。


戦国Check✓

松平 信孝(まつだいら のぶたか)
戦国時代の武将。通称は与十郎。官位は蔵人佐。三木松平家初代当主。
兄松平清康の死後(守山崩れの後)、甥松平広忠の岡崎帰城に尽力し、後見人となる。
しかし後に、宿敵織田信秀に属して岡崎城の広忠軍とたたかい、天文一七年四月十五日戦死する。



次回 第十一話 名門 吉良家 ⇒




CATEGORY/カテゴリ
織田信長と戦国武将 トップページ

スポンサーサイト

Category: 天文記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。