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念願の尾張統一。信長の歴史はまだまだ続くんだZ!

 【19//2014】

浮野合戦の事

永禄元年(1558年)
織田上総介信長は尾張統一を目指し尾張岩倉城攻めを開始する。

永禄元年(1558年)七月十二日
尾張岩倉城主織田伊勢守信賢を攻略すべく、二千の兵を率いて尾張清洲城を出陣。


戦国Check✓

尾張岩倉城(おわりいわくらじょう)
尾張国丹羽郡岩倉(現在の愛知県岩倉市下本町)にあった城。

尾張清洲城(おわりきよすじょう)
尾張国春日井郡清須(現在の愛知県清須市一場)にあった城。



激戦
信長公記によると、
清洲と岩倉は直線にして三十町足らずの距離(約3.3km)であったが、直進すれば悪所が続き攻め難く困難を要する為、北西に三里迂回し、岩倉西方の浮野という地に展開し布陣したとある。
現在でいう愛知県一宮市にあたる。

これに対し信賢は、三千の兵を率い岩倉城を出陣し、信長勢と対峙した。

合戦は午(うま)の刻に始まった。

両軍が一斉に敵軍向かって突撃し、敵味方入り乱れての激戦となるが、
尾張犬山城主織田下野守信清の援軍が到着すると形勢は一気に傾き、信賢勢を追い崩した。

信賢勢は信清勢の急襲に混乱し陣形は崩れ、逃げまどうところを次々と信長勢に討ち取られていった。

千二百を超える死者を出し、壊滅寸前のところで信賢は岩倉城へ敗走したという。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

尾張犬山城(おわりいぬやまじょう)
尾張国丹羽郡犬山(現在の愛知県犬山市字犬山)にあった城。

織田 信清(おだ のぶきよ)
戦国時代の武将。通称は十郎左衛門、下野守。号は鉄斎。尾張犬山城主。
父信康が織田伊勢守家当主 織田信安の後見人となっていたことから、その配下となっていたが、
織田信秀死亡後は、犬山城で独自の勢力を保ち、信長の領地を押領して疎遠となったが、
信長より妹を貰い受けると、弟の広良同様仕える身になった。
その後浮野の戦い・岩倉城攻略で信長を支援するが、
国外に追い出した織田信賢の旧領地の分与を巡って信長といさかいを起こし、信長と敵対する。



相打つ
信賢勢の中に尾張国丹羽郡浅野村の林弥七郎と申す弓達者の者がいたと記されている。

弥七郎は先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者ではないかと云われている。

敗軍の中、弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた信長勢の鉄砲の名人橋本一巴に声をかけられた。


浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体(じんたい)なり。

弓を持ち罷(まか)り退き候ところへ、橋本一邑、鉄砲の名仁、渡し合ひ、連々(れんれん)の知音(ちいん)たるに依って、

林弥七郎、一邑に詞(ことば)をかけ候。

「たすけまじき」と申され候。

「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根を、しすげたる矢をはめて、立ちかへり候て、

脇の下へふかぶかと射立て候。

もとより一邑も二ツ玉をこみ入れたるつゝ(筒)をさしあてて、はなし候へば、倒れ臥しけり。



橋本一巴とは信長の鉄砲の師匠であり、鉄砲の名人であった。

「弥七郎、汝とは長年に渡り互いによく心を知り合った友であるが、この場にあっては助けることも出来ない。」

「いざ勝負」

「心得候」

弥七郎が強く弓を引き放つと、矢は一巴の脇下へ深々と命中し、
一巴が放った二発玉も見事弥七郎に命中し、相打ちとなった。


戦国Check✓



武辺者

然るところを、信長公の御小姓衆佐脇藤八走り懸かり、林が頸(くび)をうたんとするところを、

居ながら大刀を抜き持ち、佐藤藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。

かゝり向って終に頸を取る。

林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。


その様子を見ていた信長の御小姓衆佐脇藤八郎良之が、
手柄を得ようとまだ息のある弥七郎の首を討ち取らんと走りよって来たが、
逆に太刀を抜いて良之の左肘を切り応戦する。

しかし最後は、良之に組み伏せられた弥七郎は首を討ち取られた。

首は討ち取られたが弥七郎の奮戦を見ていた敵味方から
「弓と太刀の両用の働き比類なき武辺者」と賞賛されたという。

信長は岩倉城へ敗走する信賢勢を追撃することはせず、そのまま清洲へ帰還している。
翌日首実検を行ったところ、首数は千二百五十余にのぼった。



岩倉落城ノ事
翌永禄二年(1559年)春
織田上総介信長は軍勢を率い、尾張岩倉城を包囲

岩倉を推し詰め、町を放火し、生か城になされ、四方しゝ垣、二重三重、丈夫に仰せ付けられ、廻り番を堅め、

二、三ケ月近陣にとりより、火矢・鉄炮を射入り、様々攻めさせられ、越訴拘へ難きに付いて、渡し進上侯て、ちり転、

思ひ貼罷り退き、其の後、岩倉の城破却させられ侯て、清洲に至つて御居城侯なり。


信長は岩倉城下を焼き払い裸城にしてから、四方を鹿垣で囲み、
廻番を据え置き長期包囲により外界との接触を遮断する。

しかも信長は、二、三か月におよぶ長期包囲中、連日城内に火矢・鉄砲を撃ち込ませた。

城兵は思い思いに退去し、万策尽きた織田伊勢守信賢は数ヶ月に及ぶ篭城戦の末、ついに城を明け渡し、
降伏する。


織田上総介信長はついに念願であった尾張統一を成し遂げたのである。




次回 第百九話 信長の色小姓



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