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信長の色小姓

 【01//2014】

信長の色小姓


浮野合戦の折、佐脇藤八郎良之(さわきとうはちろうよしゆき)の活躍を記したが、
佐脇良之とは前田又左衞門利家の実弟にあたる人物である。


浮野の戦い(うきののたたかい)
尾張国の浮野で起きた合戦。「浮野合戦」とも言う。
1558年(永禄元年)、織田信長軍2,000と、織田信賢軍3,000とが浮野の地において戦った。
激戦の末、信賢軍は壊滅。1,200を超える死者を出し信賢は岩倉城へ敗走。
1559年(永禄二年)、信長は軍勢を率い、信賢の本拠岩倉城を包囲。
数ヶ月の篭城戦のあとに信賢は降伏する。

前田 利家(まえだ としいえ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利春の四男として生まれ、はじめ小姓として織田信長に仕え、
青年時代は赤母衣衆として信長に従軍、槍の名手だった故「槍の又左」の異名をもって怖れられた。
その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦。
信長より能登一国23万石を拝領し大名となる。


佐脇良之は、尾張国荒子で林佐渡守秀貞(はやしさどのかみひでさだ)の与力として、織田弾正忠家に仕えていた尾張荒子城主前田縫殿助利昌(まえだぬいのすけとしまさ)の五男として生まれるが、佐脇藤右衛門の養子となり、佐脇藤八郎良之と名乗るようになる。
佐脇家は、室町幕府奉公衆の系譜を持ち、「永禄六年諸役人附」には外様在国衆として、
「佐脇上野介、尾張衆」と記されており、前田家より格は上であった。





前田 利昌(まえだ としまさ)
戦国時代から安土桃山時代の武将、尾張国荒子城主。蔵人、縫殿助。
子に前田利久、前田利玄、前田安勝、前田利家、佐脇良之、前田秀継、寺西九兵衛室。
尾張国で林秀貞の与力として、織田氏に仕え、二千貫を知行して尾張荒子城(名古屋市中川区)の城主を務める。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後に死去。
戒名は「道機庵休岳居士」。 跡を嫡男の利久が継いだ。

奉公衆(ほうこうしゅう)
室町幕府に整備された幕府官職の1つである。
将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。
鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人や地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する
御家人である。
奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。


良之は、兄・利家と共に小姓として信長に仕えることになる。
一般的には前田利家が信長の色小姓だといわれているが、実際は良之であったとする説もある。
小姓とは、信長の身辺にあって信長の身を守り、時には相談を受けるなど、とても重要な役として奉公する稚児の事である。
では色小姓とは何なのか。
それは衆道(しゅどう)の相手を指す。
いわゆる若君の性欲の処理にあてがわれた者である。

当時、武家社会では家督を継承する者は、婚姻を交わすまでは女性と交わる事を許されなかったのである。
その為に出来た男色文化であると思われる。
家督を継承する者が、むやみやたらと性欲の処理に他家の姫と性的行為を行い、万が一子供が出来れば後々面倒なことになり、また世継ぎ騒動の火種となる恐れがあった為である。
かといって色街の女性との間での性行為は、性病にかかり命を落とす危険性があった為、武家社会では御法度とされていた。

「うつけ者」と名を轟かせていた信長に対してもそれは例外では無かった。
そこで性病に100%かかっていないと断言できる童貞の良家の男子が色小姓として抜擢されるのである。
なお色小姓は、主君の結婚と共にお役ご免となる事がほとんどである。
良之もまた信長の結婚と共に、お役を免除されたのではないだろうか。

衆道のお役目を免除された良之は、戦場での武功により評価される立場へと移行していく事になる。
良之は、武士として生きて行くことになるだが、衆道の相手をしていたという過去が良之、利家兄弟やその他の仲間達の人生に大きく関わっていくことになる。


衆道(しゅどう)
日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称および形態。
「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。
平安時代に公家や僧侶の間で流行したものが、中世以降武士の間にも広まり、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。


後年良之は、衆道の相手をしていたということでからかわれ、美濃衆を斬り、出奔することになる。
今も昔もこうゆうたぐいの話で、からかったり、からかわれたり、なんて事はあったと思います。

追伸
「森蘭丸が信長の寵童だった」なんて話もありますが、それはまったく無い話である。
信長が森蘭丸を重用したのは、父である森可成が、信長の厚い信頼を得ていた為である。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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