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槍の又左

 【01//2014】

槍の又左


浮野の合戦に勝利し、尾張統一をほぼ成し遂げた織田上総介信長の家臣に、
「槍の又左衞門」又は「槍の又左」などの異名をもって呼ばれていた若武者がいた。
名を前田又左衞門利家(まえだまたざえもんとしいえ)という。

天文六年(1537年)
尾張荒子城主前田縫殿助利昌(まえだぬいのすけとしまさ)の四男として生まれる。
幼名は犬千代
荒子前田家は、利仁流藤原氏(としひとりゅうふじわらし)の一族とも、菅原氏の一族ともいわれるが確かなものはない。

天文二十年(1551年)
十五歳になった犬千代は、自らの力で立身出世をする事を夢み、三歳年長の織田信長の小姓として仕える。
当時の犬千代は短気で喧嘩早く、派手な格好をした「かぶき者」としての悪名が鳴り響いており、
「尾張国で敵無し」と恐れられていた。
同じく「うつけ者」といわれた信長の破天荒な性格と相通じるものがあり、犬千代は信長にたいそう可愛がられていたという。




かぶき者(かぶきもの)傾奇者・歌舞伎者。
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。
特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行した。
異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。
茶道や和歌などを好む者を数寄者と呼ぶが、数寄者よりさらに数寄に傾いた者と言う意味である。


天文二十一年(1552年)
利家は、尾張下四郡を支配する織田大和守家当主織田信友との間に起こった萱津の戦い(かやづのたたかい)で初陣し、首級ひとつを挙げる功を立てたと、村井重頼覚書に記されている。
その後、元服して前田又左衞門利家と名乗ったという。
血気盛んな利家は数々の戦場で功績を上げていくことになる。

弘治二年(1556年)
織田勘十郎信行との、織田弾正忠家の家督争いである稲生の戦い(いのうのたたかい)では、
宮井勘兵衛恒忠(みやいかんべいつねただ)という信行方の小姓頭に、右目下を矢で射抜かれながらも恒忠を槍で組み倒し、討ち取るという功績を上げている。
また、永禄元年(1558年)七月十二日尾張統一戦を兼ねた浮野の合戦においての利家の奮戦ぶりは凄まじく、「槍の又左」の異名で呼ばれ始めたのも、この浮野の合戦の頃からといわれている。

信長の小姓として仕え始めた利家は、約五年足らずで織田弾正忠家で1.2を争う程の猛将としてその名を轟かせ、
永禄初年頃に信長は、黒母衣(くろほろ)赤母衣(あかほろ)という親衛隊的存在の直属精鋭部隊を編成し、
黒・赤と二組に編制した隊を互いに競わせ、強兵部隊を創出するのであるが、
その信長側近軍団の赤の筆頭に利家が抜擢されているのである。
赤母衣筆頭に抜擢された利家は、多くの与力を添えられた上に、百貫の加増を受けたという。
自分の為に命を懸ける「かぶき者」利家の出世は、信長にとっても嬉しい事であった。


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今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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