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名門の一族なんだわ

 【15//2015】

名門 吉良家


松平次郎三郎広忠の義理の伯父である三河東条城主吉良左兵衛佐持広は、

御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ

といわれるほどの名家三河吉良家の一門である。


戦国Check✓

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
守山崩れで老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、天文六年(1537年)今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河東条城(みかわとうじょうじょう)
三河国幡豆郡吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった城。

吉良 持広(きら もちひろ)
戦国時代の武将。通称は左兵衛佐。東条吉良家第七代当主。
嫡流西条吉良家の義安を養子にむかえ、東西両吉良家の融和をはかり、南北朝時代以来の抗争を終わらせた。
また松平広忠の元服に際して加冠の役を務めた。

日本史有名人の子孫たち 新人物往来社 (編集)







貞応元年(1222年)
鎌倉幕府の有力御家人であった足利武蔵守義氏が、
承久の乱の戦功により三河国守護職を任ぜられたことから三河吉良家の歴史は始まる。

義氏は、三河国吉良庄西条に三河西条城を築き、長男(妾腹)吉良上総介長氏を城主に据え
三河西条吉良氏の祖としている。

同じく吉良庄東条に三河東条城を築き、三男吉良左馬四郎義継を城主に据え
三河東条吉良氏の祖としている。

この両家を総称して三河吉良家と呼ぶが、けして仲のよい間柄では無かった。


戦国Check✓

足利 義氏(あしかが よしうじ)
鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は上総三郎、左馬頭入道正義。官位は三河守護、陸奥守、武蔵守、左馬頭。
足利家第三代当主。
和田氏の乱で、勇猛で知られた朝比奈義秀と五分に戦い、その後承久の乱、三浦氏の乱などでも
幕府方として活躍し名を挙げた。

承久の乱(じょうきゅうのらん)
承久三年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。
承久の変、承久合戦ともいう。
武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていたが、この乱の結果、
幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになる。

守護職(しゅごしき)
鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官、行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、
幕府の職制に組み込まれていった。

三河西条城(みかわさいじょうじょう)
三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にあった城。

吉良 長氏(きら おさうじ)
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は太郎。官位は従五位下、上総介。三河西条吉良家の祖。
母が側室であったため、長子でありながら足利家の家督を継ぐことができなかった。
この経緯が元となって、後に足利一門の中で吉良家とその支流の今川家のみが足利宗家継承権を持つことになる。

三河東条城(みかわとうじょうじょう)
三河国幡豆郡吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)にあった城。

吉良 義継(きら よしつぐ)
鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は左馬四郎。三河東条吉良家の祖。





応仁元年(1467年)に発生した応仁の乱では、
西条吉良氏である三河西条城主吉良治部少輔義眞は、東軍の細川右京大夫勝元につき、
東条吉良氏である三河東条城主吉良右兵衛佐義藤は、西軍の山名右衛門督宗全について互いに戦っており、
三河吉良氏と呼ばれるこの両家は争いが絶えない間柄であった。


戦国Check✓

応仁の乱(おうにんのらん)
室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明九年(1477年)までの約十年間にわたって継続した内乱。
八代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの
有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。
乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。
十数年に渡る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

吉良 義眞(きら よしざね)
室町時代の武将。官位は従四位下左兵衛佐、治部少輔。三河西条吉良家第四代当主。

細川勝元(ほそかわ かつもと)
室町時代の武将。通称は六郎。官位は従五位下右京大夫、武蔵守、従四位下。
室町幕府管領、土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。細川氏嫡流京兆家当主。
将軍家や畠山、斯波家の後継争いをめぐって山名持豊と対立。
応仁、文明の乱では東軍の総大将として戦ったが文明五年五月十一日陣中で病死。

吉良 義藤(きら よしふじ)
室町時代の武将。通称は右兵衛佐、右兵衛督。三河東条吉良家第五代当主。

山名 持豊(やまな もちとよ)
室町時代の武将。通称は小次郎。官位は正四位下左衛門佐、従三位右衛門督。
室町幕府侍所頭人兼山城守護、但馬、備後、安芸、伊賀、播磨守護。新田氏庶流山名家当主。
嘉吉の乱で赤松満祐を討ち、明徳の乱で失った領地を回復し、一族で九ヵ国を領する。
管領斯波、畠山家の相続問題に介入し、足利将軍家後継問題で細川勝元と対立。
応仁、文明の乱では西軍の総大将として戦ったが陣中で文明五年三月十八日死去。



駿河今川氏の祖
また西条吉良氏の祖である吉良長氏の次男が今川四郎国氏と名乗り、駿河今川氏の祖となっている。

今川家は、吉良家とともに足利将軍家の御連枝であり、足利宗家の継承権を有しており、
斯波家や畠山家をはじめとする他の足利一門庶流諸家とは別格の地位にあった。


戦国Check✓

今川 国氏(いまがわ くにうじ)
鎌倉時代の武将。通称は四郎。駿河今川家の祖。
父吉良長氏より、足利氏の分領三河国幡豆郡今川荘を譲り受け、今川氏を称した。
後の駿河国・遠江国の守護職を代々歴任し戦国大名に成長した今川氏も初代国氏の頃は
今川荘の三ヶ村の小領主に過ぎなかった。

御連枝(ごれんし)
根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。
天皇家、将軍家、大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、
特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。
天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家、御両典、御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。
いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することも有り得る存在として知られた。

斯波氏(しばし)
家系は清和天皇の血をひく清和源氏の一つ河内源氏棟梁 鎮守府将軍源義家の子である義国を祖とする足利氏の有力一門。
室町時代に幕府の三管領筆頭となった一族であり、越前、若狭、越中、山城、能登、遠江、信濃、尾張、加賀、安房、
佐渡などを領した守護大名、戦国大名。
また一門は奥州探題、羽州探題を代々歴任し、一時は九州探題、関東管領にも任じられた。

畠山氏(はたけやまし)
家系は清和源氏系足利氏流の一族であるが、そもそもは桓武平氏系秩父氏流であった。
室町時代に「明徳の乱」「応永の乱」に功を立て、斯波氏・細川氏とならぶ幕府の三管領の一家に数えられるに至る。
紀伊、河内、越中の守護を務め、分家は能登守護を務めた。



足利氏の祖
鎌倉幕府の有力御家人であった足利武蔵守義氏
長男(妾腹)吉良上総介長氏三河西条吉良氏の祖とし、
三男吉良左馬四郎義継三河東条吉良氏の祖とし、

そして次男(嫡男) 足利左衛門佐泰氏を下野国足利庄で足利氏を継承させ、足利氏の祖としている。
この足利泰氏の系統が、後に室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏を輩出することとなる。


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足利 泰氏(あしかが やすうじ)
鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人。通称は三郎。官位は丹後守、左衛門佐、右馬助、宮内少輔、正五位下。
足利氏第四代当主。
子に足利尊氏につながる頼氏をはじめ、斯波家、渋川家、石塔家、一色家の各氏の祖となった家氏、義顕、頼茂、
公深がいる。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府初代征夷大将軍。幼名は又太郎。
官位は従五位上鎮守府将軍、従四位下左兵衛督、従三位武蔵守、正三位参議、征東将軍、
従二位権大納言、正二位征夷大将軍、贈従一位贈左大臣、贈太政大臣。
足利将軍家の祖。
元弘の乱で建武新政第一の功臣となるが、のち建武政権にそむき、一時九州に逃れる。
建武三年=延元元年、楠木正成を破って再び京に入り、光明天皇(北朝)を擁立。
建武式目を制定し、室町幕府をひらいた。





余談ではあるが江戸時代中期に発生した元禄赤穂事件で三百年以上悪役として君臨し続けてきた
吉良上野介義央という人物はこの三河吉良家の系統である。

元禄赤穂事件
元禄十四年(1701年)三月十四日
播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城松之大廊下で吉良義央と口論となり、
思わず斬りかかってしまった事から始まる。

吉良義央の方にも非はあったものの、浅野内匠頭のみが罰せられ即日切腹という裁きが下る。

赤穂義士 忠臣蔵の真相(河出文庫) 三田村 鳶魚 (著)
赤穂義士の歩いた道 柏原 新 (著)


この幕府の裁きに納得がいかなかった者達が一年半後の
元禄十五年(1702年)十二月十四日
播磨国赤穂藩家老大石内蔵助良雄率いる赤穂浪士四十七名が江戸本所松坂町の吉良邸に討ち入り、
見事吉良上野介の首級を挙げて仇をとるという一連の騒動である。

映画やドラマで威張り散らす吉良上野介の家系がこれ程の名門であったとは知らなかったと言う人も多いと思う。


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吉良 義央(きら よしひさ)
江戸時代前期から中期の武将。江戸幕府高家職。通称は左近。官位は従四位上左近衛権少将、上野介。
義央は「忠臣蔵」の世界では悪役として喧伝されているが、知行地の三河国幡豆郡吉良地方では、築堤や塩の生産、
新田開発などの功績により、名君と評価されている。

浅野 長矩(あさの ながのり)
江戸時代中期の武将。播磨赤穂藩第三代藩主。官位は従五位下内匠頭。
元禄十四年(1701年)、勅使の江戸下向に際して幕府に接待役を命じられた。
その礼式指南に当たる高家吉良義央に同年三月十四日、江戸城内で斬りつけ、即日切腹を命じられる。
さらにこの事件により領地は没収されている。

大石 良雄(おおいし よしたか)
江戸時代前期から中期の武将。播磨国赤穂藩筆頭家老。通称は竹太郎、喜内、内蔵助。
元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」で有名になった人物。


次回 第十二話 奇策をもって攻略 ⇒




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