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鈴木日向守と山本勘助

 【15//2012】

鈴木日向守と山本勘助


桶狭間の合戦の前哨戦の一つとも言われる寺部城合戦で、寺部城と共に討死した
鈴木日向守重辰(すずきひゅうがのかみしげたつ)には面白い逸話が残されている。

甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田氏第十九代当主武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)には、
山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)という武田二十四将の一人に数えられる程の名軍師がいた。


甲斐源氏(かいげんじ)
甲斐国に土着した清和源氏の河内源氏系一門で、源義光(新羅三郎義光)を祖とする諸家のうち、武田氏をはじめとする甲斐を発祥とする諸氏族の総称。
同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や、平賀氏(信濃源氏)とは同族。
また加賀美氏流の小笠原氏系統は、早い時期に隣国信濃に移ったため、信濃源氏にも含まれる。

武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)
武田信玄に仕えた武将のうち、一般的な評価が特に高い24人。


勘助は三河国牛久保の出身で、諸国を放浪し城取り(築城)を極めた後、最初は今川家に仕えようとするが、
その醜い容貌から今川家に仕官する事が出来ず、武田晴信に仕え頭角を現した武将である。
一説によると、勘助が師として兵法を学んだのが寺部城主鈴木重辰といわれている。
しかし、史実の上での山本勘助については資料がほとんど残されておらず、情報が乏しいため想像の粋を超えられないのが現実である。


軍師としての山本勘助は、江戸時代に書かれた武田家の軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」の記述をもとに、
後世の軍談の作者による創作であると考えられている。
甲陽軍鑑(こうようぐんかん)とは、
甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。
武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。


勘助が鈴木重辰から学んだものがどのようなものであったのかを記す資料は残されてはいないが、
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけ建武の新政の立役者として、足利尊氏(あしかがたかうじ)らと共に活躍した
楠木正成(くすのきまさしげ)の流れを汲む寺部鈴木氏に受け継がれている正成の兵法の極意が、
山本勘助に伝えられ、そして甲斐武田家に伝わった可能性があると考えると大変興味深い逸話である。


建武の新政(けんむのしんせい)
鎌倉幕府滅亡後の1333年(元弘3年/正慶2年)6月に、後醍醐天皇が「親政」(天皇が自ら行う政治)を開始した事により成立した政権及びその新政策(「新政」)である。
名は、翌1334年に定められた「建武」の元号に由来する。
後醍醐天皇は天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしたが、武士層を中心とする不満を招き、1336年(建武3年)に河内源氏の有力者であった足利尊氏が離反したことにより、政権は崩壊した。

足利 尊氏(あしかが たかうじ)
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。
室町幕府の初代征夷大将軍。足利将軍家の祖。

楠木 正成(くすのき まさしげ)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。
尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

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