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戦国期最強の軍団を作り上げた軍師との出会い

 【16//2012】

戦国期最強の軍団を作り上げた軍師との出会い

山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)という武田家の名軍師の名は、誰もが一度は聞いた事のある名だと思うが、
武田信玄こと武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)との出会いは勘助が四十四歳の時である。
幸若舞(こうわかまい)の演目のひとつである、敦盛(あつもり)「人間五十年」という一節から考えるとかなりの高齢である。


幸若舞(こうわかまい)
室町時代に流行した語りを伴う曲舞の一種。
福岡県みやま市瀬高町大江に伝わる重要無形民俗文化財(1976年指定)の民俗芸能として現存している。
能や歌舞伎の原型といわれ、700年の伝統を持ち、毎年1月20日に大江天満神社で奉納される。


勘助は、山本弾正貞幸(やまもとだんじょうさだゆき)の四男として明応九年(1500年)に生まれたというが、
諸説が色々とあり確かな事は解らない。
若い頃に諸国を遍歴して兵法を会得しており、その際城取り(築城術)や陣取り(戦法)を極めたという。

山本 貞幸(やまもと さだゆき)
駿河国富士郡山本村(静岡県富士宮市山本)の武士で、山本浪人と称して諸国を遍歴している。
武芸軍略に優れ、武田氏・今川氏に仕えた。
「吉野家系図」では貞幸が、子山本勘助の軍略の師範となっている。
当初、前妻との間に貞継を儲けたが、妻と死別したため大橋入道の娘・安を後妻とした。
この安との間に生まれたのが山本勘助と伝わる(勘助の諱を貞幸とする説もある)。


天文五年(1536年)
三十七歳になっていた勘助は、駿河国の太守今川治部大輔義元(いまがわじぶだゆうよしもと)に仕官する為、
駿河国庵原城主庵原安房守忠胤(いはらあわのかみただたね)を頼り今川家への仕官を願い出ている。
しかし義元は、色黒で容貌醜く、隻眼、身に無数の傷があり、足が不自由で、指もそろっていなかった勘助の異形を嫌い召抱えようとはしなかった。
小者一人も連れぬ貧しい牢人で兵を率いたこともない勘助が、兵法を極めたなど、
大言壮語(たいげんそうご)の法螺(ほら)であるとして、義元には相手にもされなかった。
仕官が叶わなかった勘助は、牢人の身のまま七年間も駿河に留まり、兵法家として名を上げる事が出来ない
鬱々(うつうつ)とした日々を過ごすことになる。

庵原 忠胤(いはら ただたね)
戦国時代の武将。通称、安房守。駿河国庵原城主。
今川義元の軍師として有名な太原雪斎は、義叔父にあたる。

大言壮語(たいげんそうご)
おおげさに言うこと。できそうにもないことや威勢のいいことを言うこと。
口では大きなことを言っても実行が伴わないこと。
「壮語」は威勢のよい言葉の意。


天文十二年(1543年)
四十四歳となっていた勘助に、転機が訪れた。
駿河国に稀代の兵法家が牢人していると聞きつけた武田家の重臣板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)が、
「知行百貫で、勘助を召抱えたい」と申し入れて来たのである。
銭一貫文で米一石、というのが中世の基準的な相場であったといわれており、単純計算でも百貫文は百石という事になる。
米一石というのは大人一人が、一年間に消費する米の量であり、百年分の米を貰える事になる。
また北条家の小田原衆所領役帳によると、
七貫に一人の軍役となっており、百貫と言う事は約十四人の軍役が課せられる事になる。
牢人者の新規召抱えとしては破格の待遇であったという事が解る。

板垣 信方(いたがき のぶかた)
武田信虎、晴信(信玄)の二代に仕えた武将。武田二十四将、武田四天王の一人。
家紋は「花菱(裏花菱)」、馬標は「三日月」。

小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)
相模の戦国大名北条氏康が作らせた、一族・家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳。
「北条家分限帳」、「小田原北条所領役帳」などとも呼ばれる。全1巻。
永正17年(1520年)から弘治元年(1555年)にかけて領国内における数度の検地を実施しており、
それに基づいて分限帳が作成されたと考えられている。
小田原衆をはじめ馬廻衆、玉縄衆など家臣団を12の衆別560人の役高が貫文で記され、所有する郷村名も併記された。
後北条氏の家臣に対する軍役や知行役など諸役賦課の体制の究明には必須史料である。

板垣信方の申し入れを受け入れた勘助は、すぐさま甲斐国守護武田氏の居館・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に赴き、
武田晴信と対面する事になる。
晴信は、城取り(築城術)や陣取り(戦法)・兵法などを語る勘助のその知識の深さに感心し、
知行百貫で召抱えようとしていた勘助をその倍の知行二百貫で召抱えている。
容貌が醜く異形の姿をした勘助を、晴信は快く受け入れたのである。
「我が人を使うは、人を使わず、その業を使うなり」という言葉を残した武田晴信らしい人事採用術である。

躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた
山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または城)。
甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。






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