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諏訪の姫

 【01//2014】

諏訪の姫


天文十四年(1545年)
武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)は、諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室として迎えている。

山本勘助晴幸(やまもとかんすけはるゆき)が、武田家の重臣たちの反対を押し切って、諏訪の姫を側室として迎える事を
晴信に強く進言した為であるとされている。
諏訪家の姫が晴信の子を産めば、信濃の名門である諏訪家との絆となり、諏訪への懐柔策(かいじゅうさく)になるであろうと考えたからである。
また、「尋常隠れなき美人」と現在にも言い伝えられる程の美貌をした諏訪の姫を、側室へと望んだのは晴信自身であったとする説もある。
どちらにしても、武田家に深い恨みを抱いていた諏訪の姫を側室として迎える事は、晴信にとって非常に危険な事であった。

諏訪氏(すわし)
日本の氏族の一つ。信濃国諏訪地方の領主。
諏訪神社上社大祝(おおほうり)を司った家柄でもある。

諏訪の姫が武田家に深い恨みを抱いていたのには訳があった。
天文十一年(1542年)六月
晴信は、諏訪氏庶流である高遠信濃守頼継(たかとおしなののかみよりつぐ)と共に諏訪領への侵攻を開始し、諏訪の姫の父である諏訪刑部大輔頼重(すわぎょうぶのだゆうよりしげ)の本拠上原城を攻略し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み
諏訪領を制圧していた。
諏訪氏は、出雲神話の神建御名方神(タケノミナカタヌシ)の血筋を継承した極めて尊貴な血筋とされていた特異な家系であり、代々、諏訪大社の大祝(おおほうり)を務めてきた一族である。
大祝とは、神として諏訪社の頂点に位置していた神職であった。





高遠 頼継(たかとお よりつぐ)
信濃国の国衆で、伊那郡高遠城(長野県伊那市高遠町)城主。甲斐武田氏の家臣で信濃先方衆。
諏訪郡の領主諏訪氏庶流の高遠氏の当主で、諏訪姓も称している。

諏訪 頼重(すわ よりしげ)
信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。上原城城主。
諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。

建御名方神(たけみなかたのかみ)
日本神話に登場する神。
「古事記」の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。
長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ、他田氏や保科氏など
諏訪神党の氏神でもある。

また、もともと武田家と諏訪家は武田信虎の三女・禰々(ねね)が諏訪頼重に嫁いでおり、同盟関係にあった。
晴信にとって頼重は妹の夫であり、義兄弟ということになる。
しかし父・信虎を国外追放にし、国主となった晴信は、生き神としての諏訪の血に目を付け、諏訪領への侵攻を画策するようになる。
信濃侵攻を本格化させた晴信は、諏訪氏庶流である高遠頼継や、諏訪下社の金刺氏と手を結び、
二万の大軍をもって諏訪領に侵攻。
武田軍の侵攻を許した諏訪家は、圧倒的な武田家の軍事力の前に成す術も無く上原城は落城。
しかし諏訪頼重は、桑原城に退いて尚も武田家に抵抗した。

禰々御料人(ねねごりょうにん)
甲斐国国主武田信虎の3女。信濃国諏訪領主諏訪頼重の正室。
武田信玄の異母妹で、信玄の次妹にあたる。
武田義信・武田勝頼(後に諏訪氏の名跡を継ぐ)は甥。

上原城(うえはらじょう)
信濃国諏訪郡(現在の長野県茅野市ちの上原)にあった中世の山城。長野県指定史跡。
金毘羅山(標高978m)の山頂と中腹の居館からなる諏訪総領家の本拠であった根小屋式山城である。
築城年は定かではないが、文正元年(1466年)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、5代70余年にわたり諏訪地方を統治したと考えられており、「守矢頼実書留」によれば上原町には堀廻りが存在し、信濃国衆の小規模城下町である「宿城」(町宿)であったと考えられている。

桑原城(くわばらじょう)
信濃国諏訪郡(現在の長野県諏訪市四賀桑原)にあった中世の山城。
別名を高鳥屋城(たかとやじょう)、水晶城(すいしょうじょう)。長野県指定史跡。
築城年は不詳であるが、諏訪総領家の本拠上原城の支城としての役割を果たしていた。
現在は、標高981m(比高差約190m)の山頂や尾根に、本丸跡、二の丸跡、土塁、空堀などの遺構が残る。
城跡からは諏訪湖が一望できる。


天文十一年(1542年)七月五日
諏訪頼重は、助命を条件に晴信に降伏し、桑原城を開城する。
しかし頼重は、弟の諏訪勝三郎頼高(すわかつさぶろうよりたか)と共に甲府に連行され東光寺に幽閉されてしまう。
天文十一年(1542年)七月二十一日
助命を条件に降伏した筈の頼重であったが、晴信の強制により弟の頼高と共に自刃させられ、若干二十七歳という若さでこの世を去った。

諏訪 頼高(すわ よりたか)
戦国時代の武将、諏訪大社大祝。
兄頼重の命により、叔父の諏訪頼寛から諏訪大社大祝を継承する。
甲斐の武田晴信(信玄)の信濃に侵攻に抗戦するが敗れて降伏した。
その後も諏訪に残るが、禰宜太夫の矢島満清の讒言にあい、甲斐に送られて自害させられた。

東光寺(とうこうじ)
山梨県甲府市東光寺にある寺院。山号は法蓋山(ほうがいさん)。臨済宗妙心寺派。
本尊は薬師如来。甲府五山のひとつ。
創建年代は不明だが、寺伝の由緒書によれば平安時代の保安2年(1121年)に新羅三郎義光が、国家鎮護と仏法繁盛の祈願所として諸堂を再興し、寺号を興国院とした。
その後荒廃し、密教寺院であったが、配流されていた渡来僧の蘭渓道隆が禅宗寺院として再興し、寺号も東光寺と改める。
「甲斐国志」では再興年を文永年間としている。
また、官寺として執権北条高時から諸山位に次ぐ寺格を与えられ(鎌倉市立図書館所蔵文書『崇鑑北条高時公帖』)、五山十刹の次に位置する。


頼重の辞世の句に、
「おのづから、枯れ果てにけり、草の葉の、主あらばこそ、又も結ばめ」

「枯れ果てた草の葉であっても、また再び命を宿すものであり、例え私が死んだとしても、主がいれば再び実を結ぶだろう」と、残された幼き我が子、寅王丸に諏訪家の未来を託したのである。
諏訪頼重の死により、古来より続く極めて尊貴な血筋とされていた諏訪惣領家は滅亡したのである。
父を殺した怨むべき仇へ側室として仕える事になった諏訪の姫の心中は穏やかでなかった事は言うまでも無い。
しかし諏訪惣領家は滅亡し、幼き弟の寅王丸と共に生きていく為には、側室として生きていく他に道は無かった。
戦国乱世を生きた姫の悲しい宿命である。
晴信の側室として迎えられた姫は、諏訪御料人と呼ばれるようになり、翌年、
最後の武田家当主となる諏訪四朗勝頼(武田勝頼)を生む事となる。
また諏訪惣領家を相続することになっていた寅王丸は、勝頼が生まれた事により廃嫡されてしまい、
駿河の今川治部大輔義元を頼って亡命を試みるが、露見したために晴信に捕えられ殺されたとする説がある。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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