2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

信濃制圧

 【18//2012】

信濃制圧

甲斐武田家は、武田信虎の時代に国内が統一され、山内・扇谷両上杉家や駿河今川家、信濃諏訪家との
和睦を成立させ、信濃佐久群や小県郡への侵攻を開始していた。


天文十一年(1542年)
家督を継承した武田大膳大夫晴信(たけだだいぜんだいぶはるのぶ)は、信虎の北進政策による信濃佐久群への侵攻を見直し、
より実りの大きい信濃諏訪郡への侵攻を画策するようになる。
武田家の北進政策による信濃佐久群は、晴信が治める甲府盆地とは八ヶ岳によって隔てられていたが、
諏訪湖を中心に広がる諏訪盆地は甲府から平坦な道が繋がっていた。
国力を上げる上では、統治する事が困難とされる信濃佐久群へ侵攻するよりも、統治しやすい信濃諏訪郡への
侵攻の方がより実りが大きい事は明らかであった。
また、信濃国で生き神として君臨する諏訪の血が、晴信の信濃侵攻にとって必要不可欠であった事も大きな要因の一つであったと思われる。
諏訪四朗勝頼の誕生は、晴信にとってとても大きな事であったのは言うまでもない。
現に勝頼が誕生するまでは、思慮をめぐらし謀殺した諏訪刑部大輔頼重(すわぎょうぶのだゆうよりしげ)の嫡子である寅王丸諏訪惣領家の当主として、武田家で養育していたからである。

諏訪 頼重(すわ よりしげ)
戦国時代の武将。信濃国の戦国大名。諏訪氏の第19代当主。刑部大輔。上原城城主。
諏訪大社大祝(おおほうり)。武田勝頼の外祖父にあたる。

諏訪郡を制圧した晴信は、信濃侵攻を本格化させる為、相模国の北条家と同盟を締結。
これは武田家の外交方針を180度転換する事になった。
それまで友好関係にあった関東管領山内上杉家は、関東において北条家と敵対していた為、武田家と北条家との同盟は許しがたい行為であった。
また、晴信の本格的な信濃侵攻に危機感を抱いていた信濃国人衆が、山内上杉家に庇護を求める様になり、
山内上杉家と武田家は敵対関係となっていった。
諏訪惣領家の後見役となった晴信は、旧領回復を大義名分に掲げ、高遠家・藤沢家・大井家などの信濃国人衆を次々と攻略、調略し、信濃の領国化を進めていった。

後北条氏(ごほうじょうし、旧字体:後北條氏)
関東の戦国大名。本姓は平氏。家系は武家の桓武平氏伊勢氏流。
室町幕府の御家人・伊勢氏の一族にあたる伊勢盛時(北条早雲)をその祖とする。
正式にはただ「北条氏」だが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになった。
また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏(おだわらほうじょうし)とも呼ばれる。

山内上杉家(やまのうちうえすぎけ)
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。
足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、
鎌倉の山内に居館を置いたことに因む。

天文十六年(1547年)閏七月二十四日
晴信は、諏訪氏の一族であった信濃国人衆笠原新三郎清繁(かさはらしんざぶろうきよしげ)の居城志賀城(しがじょう)を攻め、
援軍に来た関東管領上杉兵部少輔憲政(うえすぎひょうぶしょうゆうのりまさ)小田井原の戦いで撃破するなど武田家の快進撃は続いた。
しかし、天文十七年(1548年)二月十四日
信濃制圧を目指し連勝を続けていた晴信は、村上左近衛少将義清(むらかみさこんえのしょうしょうよしきよ)上田原の合戦で敗れ、重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫している。
村上氏は、清和源氏の流れをくむ北信濃の名族であり、当主義清は、猛将として知られ、
天白山の居城葛尾城を本拠に埴科郡、高井郡、小県郡、水内郡を勢力下におさめ、村上氏の全盛期を築き上げた人物であった。

小田井原の戦い(おたいはらのたたかい)
天文16年(1547年)閏7月から8月にかけて甲斐守護武田晴信と関東管領上杉憲政、信濃国志賀城主笠原清繁との間で行われた合戦と攻城戦。
武田晴信は、信濃国佐久郡に侵攻し志賀城を包囲。
関東管領上杉憲政は、志賀城救援の軍勢を派遣するが、小田井原で武田軍に迎撃され潰走。
救援の望みを失った志賀城は落城し、武田氏は佐久郡の制圧を完了する。

上田原の戦い(うえだはらのたたかい)
天文17年2月14日(1548年3月23日)に信濃国上田原で行なわれた、甲斐国の戦国大名武田晴信と北信濃の戦国大名村上義清との戦い。
家督相続以来、信濃制圧を目指して連勝を続けていた武田晴信は、この合戦で重臣と多くの将兵を失い、初めての大敗を喫した。

上田原の合戦で武田家は、板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)
才間河内守信綱(さいまかわちのかみのぶつな)初鹿野伝右衛門(はじかのでんえもん)ら多くの諸将を失った。
武田軍の敗北を知った信濃国人衆は、信濃守護小笠原氏を中心に結束して反撃を開始。
また諏訪郡でも、諏訪郡代板垣信方が戦死したことにより反乱が起り、武田家の信濃支配は、危機的状況に陥ることになる。

小笠原氏(おがさわら)
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。
室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり、家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも
礼典や武芸の事柄においては重用された。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。

天文十七年(1548年)七月十九日
信濃守護小笠原信濃守長時(おがさわらしなののかみながとき)が、信濃国人衆を率い混乱する諏訪郡へ侵攻するが、晴信率いる武田軍に撃退されている。
天文十九年(1550年)七月十五日
晴信は、諏訪郡の地盤回復後、信濃の小笠原領の筑摩郡に侵攻を開始し、長時の居城・林城を攻略。
当主小笠原長時は何とか落ち延び、居城を捨て逃亡。
これにより信濃中南部の大半を制圧した晴信は、信濃北部・東部へ進軍を開始する。
しかし、天文十九年(1550年)九月十一日
上田原の戦いの雪辱を果たすべく、村上氏の支城の砥石城を包囲するが、村上義清の反撃を受けて再び大敗。

妙法寺記(みょうほうじき)では、
兵力において圧倒的に優位であった武田軍であったが、堅城である砥石城と城兵の果敢な反撃の前に苦戦し、
葛尾城から本隊を率いて援軍に駆けつけた村上義清勢に挟撃される形となった。
戦況不利と判断した晴信は撤退を決断するが、義清の追撃は激しく、千人近い死傷者を出したと記されている。
晴信自身も影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで記されている。

俗に言う「戸石崩れ」で、二度も武田軍に敗北を味あわせ勢いを得た村上軍は、小諸(こもろ)へ進軍し、さらに佐久郡野沢へと軍を進めた。
このような絶体絶命の状況のなか、「智将」として歴史の表舞台に現れたのが、真田家である。
天文二十年(1551年)五月二十六日
信濃先方衆真田源太左衛門幸隆(さなだげんたざえもんゆきたか)の調略により、堅城と謳われた砥石城はわずか一日で陥落。

砥石崩れ(といしくずれ、戸石崩れ)
天文19年(1550年)9月、甲斐の戦国大名武田晴信と、北信濃の戦国大名村上義清との間に勃発した
砥石城(戸石城)攻防戦。
崩れとは、
最終的に勝利した側(この場合は武田氏)が、その戦いでは大敗北を喫した場合などに使われる用語である。

真田 幸隆(さなだ ゆきたか)
戦国時代の武将。信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。
以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。

天文二十二年(1553年)
その後も続く執拗な武田軍の攻撃の前に成す術を失った義清は、居城・葛尾城を捨て、長尾影虎に援助を請う為、越後国へ亡命している。
晴信は十一年という歳月をかけ、ようやく信濃国のほぼ全域を支配する事になった。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
スポンサーサイト

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。