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信長 上洛

 【20//2012】

信長 上洛

上洛(じょうらく)
京都に入ることを意味する語。
京の都が漢の古都になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれたことから。

永禄二年(1559年)二月二日
尾張全土をほぼ統一した織田上総介信長は、上洛し室町幕府第十三代将軍足利義輝に謁見している。

足利 義輝(あしかが よしてる)
室町時代後期の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。
室町幕府歴代将軍の中でも特に覇気に溢れ、武士らしい将軍と讃えられている。
その政治活動により、一時的とはいえ将軍権威が復活したことにおいて、その努力は評価に値する。
また、上泉信綱・塚原卜伝に指導を受け、卜伝からは一説に奥義「一の太刀」を伝授され、鎌倉から江戸までの征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物として伝えられている。

謁見(えっけん)
平安時代より見られる用語で、目下の者が目上の者のもとへ参上して対面すること。

信長公記には、
「俄に仰せ出され」とあるが、信長にしてみれば予定通りの行動であった。
信長が危険を犯してまで行う上洛の目的は、尾張統一を報告すると共に、守護職を拝命するつもりであったものと思われる。
尾張統一を成し得た信長は、領国経営を行う上で権威が必要と考えた為では無いだろうか。
時の将軍に正式に守護として認められれば、自らの正当性を主張できると考えた為である。

守護(しゅご)
日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。
令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河上皇が鎌倉殿へ守護・地頭の設置を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。
将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。
鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代には守護職(しゅごしき)といった。


上洛の多くは、将軍の命によるものだという。
不安定な地位に置かれていた将軍が、自己の地位を守るために、有力な戦国大名に上洛を促し、
よしみを通じる為である。
また戦国大名にとっては、将軍を支えることで、領国支配に有利な地位を得ることを目的としていた。
戦国大名にとって将軍家は、領国支配の正統性を保持するための権威であった。
将軍家は常に有力大名の後ろ盾を必要としており、さらに困窮していた天皇家も多くの大名の援助
必要としていた。

大名家が上洛するということは、
天下統一するためというよりも、領国支配に正統性を与えてくれる将軍家を支え、さらにそれに権威を与えてくれる天皇家に、さまざまな財政援助をすることで、領国支配基盤を確保することだったのである。


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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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Category: 永禄記

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