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川中島の戦い

 【19//2012】

川中島の戦い

天文十九年(1550年)七月十五日
武田大膳大夫晴信の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護小笠原信濃守長時(おがさわらしなののかみながとき)は、
長尾弾正少弼影虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)を頼り越後国へ亡命。

天文二十一年(1552年)一月
関東管領上杉兵部少輔憲政(うえすぎひょうぶしょうゆうのりまさ)もまた、相模国の北条左京大夫氏康(ほうじょうさきょうのだいぶうじやす)に、
領国である上野国を攻められ、長尾弾正少弼影虎(ながおだんじょうしょうひつかげとら)を頼り越後国へ亡命している。

さらに
天文二十二年(1553年)四月
村上左近衛少将義清(むらかみさこんえのしょうしょうよしきよ)が晴信との信濃での抗争に敗れ、越後国へ亡命。
この義清の影虎への援軍要請を期に川中島の戦いが始まる。
武田晴信三十二歳・長尾影虎二十四歳 戦国史上、屈指のライバルの誕生である。

小笠原 長時(おがさわら ながとき)
信濃国守護。信濃小笠原氏当主。信濃林城主。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族。
武家社会で有職故実の中心的存在となり、幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。

上杉 憲政(うえすぎ のりまさ)
室町幕府の関東管領を務めた山内上杉家当主。上杉謙信の養父。
甲陽軍鑑では、大勢力を率いながらも家を滅ぼしてしまったと評価される。
また北条氏康の上野侵攻の際、佐竹義昭に関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたが、これを拒否されたという。

村上 義清(むらかみ よしきよ)
北信濃の戦国大名。
信濃埴科郡葛尾城主で、武田晴信の侵攻を2度撃退するなどの武勇で知られ、家督相続時には佐久郡・埴科郡・小県郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に収め、村上氏の最盛期に当主となった。
実質的には戦国大名としての村上氏最後の当主。


天文二十二年(1553年)四月二十二日
影虎の援軍を得た義清は、旧領を奪還する為出陣し、葛尾城を奪還。
天文二十二年(1553年)七月二十五日
義清に破れ、一端兵を引き甲斐に戻った晴信は、軍備を整え、1万の軍勢を従えて再度信濃へ侵攻。
天文二十二年(1553年)八月五日
晴信は、小県郡塩田城に篭る村上義清を攻撃し、塩田城の攻略に成功。
義清は再び越後国へ逃亡する事になる。


影虎出陣
再び義清から援軍要請を受けた影虎は、晴信討伐を決意し、
天文二十二年(1553年)八月三十日
八千の軍勢を従えて信濃に出陣し、更級郡布施で武田軍の先鋒を撃破する。
天文二十二年(1553年)九月一日
勢いに乗る長尾軍は、更級郡八幡原でも武田軍に圧勝し、武田家支城を次々と攻め落としていく。
情勢の不利を悟った晴信は、勢いに乗る影虎との決戦を避け、甲斐に引き上げた。
晴信の信濃撤退を確認した影虎は、晴信を追撃せず越後へ引き上げている。
これが第一次川中島の戦いである。

長尾影虎の出現により、信濃攻略の厳しさを痛感した晴信は、後顧の憂い(こうこのうれい)を絶つため、
天文二十三年(1554年)
太原崇孚雪斎の協力により甲相同盟を結ぶ事になる。
晴信は、北条氏康の嫡男北条新九郎氏政(ほうじょうしんくろううじまさ)に、愛娘である黄梅院(おうばいいん)を嫁がせている。
また嫡男である武田太郎義信(たけだたろうよしのぶ)の正室に、今川治部大輔義元の娘嶺松院(れいしょういん)を迎え入れ、
甲駿同盟の強化にも勤めた。

太原 雪斎 / 太原 崇孚(たいげん せっさい / たいげん そうふ)
臨済宗の僧侶(禅僧)で今川氏の家臣。諱は崇孚。
今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川氏の発展に大きく寄与したことから、「もし雪斎が1560年の桶狭間の戦いまで存命していたならば、義元が織田信長に討たれるようなことは決してなかった」「今川氏の衰退は雪斎の死によって始まった」等と評する文献も少なくない。

甲相同盟(こうそうどうめい)
戦国時代に甲斐国武田氏と相模国北条氏との間で結ばれた軍事同盟。

甲駿同盟(こうすんどうめい)
戦国時代に甲斐国武田氏と駿河国今川氏との間で結ばれた軍事同盟。


そしてより一層同盟関係を強固にするために太原崇孚雪斎は、
天文二十三年(1554年)三月
氏康の娘早川殿と、義元の嫡男今川五郎氏真(いまがわごろううじざね)との婚姻を実現させている。
ここに、甲斐の武田晴信、相模の北条氏康、駿河の今川義元による甲相駿三国同盟が完成する。

後顧の憂い(こうこのうれい)を絶つ事に成功した晴信の敵は、長尾影虎ただ一人となったのである。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
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第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
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