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騙し取る詐欺が多発

 【20//2014】

奇策をもって攻略


奪取
天文七年(1538年)
織田弾正忠信秀尾張那古野城を騙し取る

尾張那古野城は、尾張国愛知郡那古野にあった城で、
大永年間(1521年~28年)西への領地拡大を目論む駿河国守護今川治部大輔氏親によって
尾張侵攻の最前線基地として築城された城である。

信秀は尾張那古野城主であった今川家庶流尾張今川家の名跡を継いだ氏親の六男今川左馬助氏豊
友好的に接近し、連歌などの友人となって氏豊を油断させた後、奇策をもって攻略したと伝えられている。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

今川 氏親(いまがわ うじちか)
戦国時代の武将。通称は彦五郎。官位は従四位上、上総介、治部大輔、修理大夫。駿河今川家第七代当主。
検地の施行、分国法「今川仮名目録」の制定など、今川氏が戦国大名へと発展する基盤をきずいた。
また歌人としても知られ、東胤氏(とう-たねうじ)と「続五明題(しょくごめいだい)和歌集」を編集。

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)
戦国時代の武将。幼名は竹王丸。官位は左馬助。今川義元の実弟。

連歌(れんが)
鎌倉時代ごろから興り、南北朝時代から室町時代にかけて大成された、日本の伝統的な詩形の一種。
多人数による連作形式を取りつつも、厳密なルール(式目)を基にして全体的な構造を持つ。
和歌のつよい影響のもとに成立し、後に俳諧の連歌や発句(俳句)がここから派生している。

青銭大名 東郷 隆 (著)
今川氏家臣団の研究 小和田 哲男 (著)
桶狭間戦記-センゴク外伝 講談社 宮下 英樹 (著)
織田三代記 羽生 道英 (著)
下天は夢か  (角川文庫) 津本 陽 (著)
ものづくりとくらしの日本史 新人物往来社 (編集)




氏豊は連歌を非常に好み、連歌の席を頻繁に設けていた。
そのことに目をつけた信秀は、氏豊に近づく為、尾張那古野城で催される連歌会に足繁く通っていた。

信秀は氏豊が開く連歌の席には必ず出席し、また弾正忠家で開かれた連歌の席にも氏豊を必ず招いた。
数ヶ月あるいは数年という歳月をかけ信秀は、氏豊の信用を得るようになる。

また言継卿記によると、

天文二年(1533年)
尾張国に下向した山科内蔵頭言継飛鳥井雅綱が、尾張勝幡城で蹴鞠の指導をした際、
今川竹王丸(今川氏豊)も招かれていたと記している。

この事からも信秀と氏豊は親交があった事が良く解る。

氏豊の信秀に対する信用は、「友」あるいは「親子」に良く似た「信頼」に近かったものと思われる。

信秀が城の本丸に軍を侵攻させやすい様に窓を開けるが、
氏豊は夏風を楽しむ風流の為だろうと信秀を疑うことはなかった程である。

ある日、いつもの如く連歌会に招かれた信秀は、単身那古野城へ赴いた。
そこで事件が起こった。
那古野城での連歌の会で信秀は原因不明の病気で倒れ、そのまま床に伏せてしまったのである。


体調が優れず数日間 那古野城で滞在していた信秀は、
「家臣に遺言をしたい」と最後の力を振絞り氏豊に懇願する。

同情した氏豊は、信秀の最後の頼みを聞き入れ、信秀の家臣を那古野城内に招き入れてしまう。
信秀の謀略に氏豊は気づいていなかった。

その夜、信秀はにわかに城内に引き入れた手勢を使って城に火を放ち、城の内外から攻め寄せて
一夜にして那古野城を乗っ取ってしまうのである。

信秀による那古野城乗っ取りの報せを受け、成す術も無く信秀の兵に捕らえられた氏豊は、
命乞いをして助けられ、女方の縁を頼って京都に逃れたという。

時は戦乱の世であり、まして尾張侵攻の最前線基地として築城された城の城将としては余りにも頼りない・・・・


戦国Check✓

言継卿記(ときつぐきょうき)
戦国期の公家 山科言継が、大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記。
言継は、有職故実や笙(しょう)、製薬のみならず、和歌、蹴鞠から漢方医学や酒宴、双六などの
多彩な才能の持ち主であり、多くの戦国大名とも交友があった事が記されている。

山科 言継(やましな ときつぐ)
戦国時代の公家、廷臣。官位は内蔵頭、正二位権大納言。
「歴名土代」の編纂者であり、多くの戦国大名との交友でも知られている。
また衰微した宮廷に約六十年間に渉り仕え、朝廷経済のたてなおしに務めた。
大永七年(1527年)から天正四年(1576年)の五十年に渡って書き記した日記「言継卿記」は、
戦国時代研究の好史料とされている。

飛鳥井 雅綱(あすかい まさつな)
戦国時代の公家、歌人、蹴鞠家。官位は従一位権大納言。

尾張勝幡城(おわりしょばたじょう)
尾張国中島郡勝幡(現在の愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内)にあった城。

蹴鞠(けまり/しゅうきく)
平安時代に流行した競技のひとつ。鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競技。

謀略(ぼうりゃく)
人を陥れるためのはかりごと。



子離れ
那古野城を騙し取った信秀は嫡男吉法師に、
林佐渡守秀貞  平手中務丞政秀  青山与三右衛門信昌  内藤与三右衛門勝介ら、
四人の重臣を傳役に付け、尾張那古野城の城主とした。

群雄がひしめく戦乱の世で尾張統一を目指す信秀は、
幼い吉法師に「戦乱を生き抜く強さ」を身につけさせようと、
あえて奪い取った城の城将に据えるという無謀とも取れる英才教育をほどこした。

子供の自立を願うのであれば、親は「子離れ」をする必要がある。

吉法師をひとかどの武将にする為には、あえて外の世界でもまれて免疫力をつけさせる必要があった。

氏豊同様に誰かに城を騙し取られるかもしれない。

または攻め落とされるかもしれない。

それでも信秀は可愛い我が子を強い武将に育てる為、あえて辛い選択をするのである。

そんな父の想いを知ってか吉法師は「うつけ」と陰口をたたかれながらもたくましく成長して行く。


戦国Check✓

林 秀貞(はやし ひでさだ)
戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は新五郎。官位は佐渡守。
尾張国春日井郡沖村を本貫とする土豪。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
織田信秀の嫡男信長の一番家老を務めた。

平手 政秀(ひらて まさひで)
戦国時代の武将。通称は五郎左衛門。官位は監物、中務丞。尾張志賀城主。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
主に外交面で活躍し、茶道や和歌などに通じた文化人であり、朝廷との交渉役も務めた。
天文二十二年(1553年)閏一月十三日、うつけ者と言われた若年の信長の奇行を諫め諫死。

青山 信昌(あおやま のぶまさ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、平手政秀・林秀貞・内藤勝介と共に養育係として仕えた「四長(四家老)」の一人。
天文十六年(1547年)、加納口の戦いにて討死した。

内藤 勝介(ないとう しょうすけ)
戦国時代の武将。通称は与三右衛門。織田信秀、信長の二代に仕えた重臣。
信長が那古野城主となった際、林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」(家老)として
補佐役に抜擢されているが不明な点が多く謎の人物。

歴史REALvol.4 戦国の城を攻める! 洋泉社
戦国IXA スクウェア・エニックス




次回 第十三話 安城合戦 ⇒




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