2017 07 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2017 09

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

松平宗家を襲う因縁

 【22//2012】

松平宗家を襲う因縁

永禄二年(1559年)三月六日
松平蔵人佐元康(まつだいらくらんどのすけもとやす)と、正室である瀬名姫(築山御前(つきやまごぜん))との間に嫡男・竹千代
駿府で誕生する。
のちの松平次郎三郎信康である。
この信康もまた、父・元康同様に、波乱に満ちた生涯を送る事になる。


築山殿(つきやまどの)
徳川家康(松平元康)の正室。本名は瀬名(せな)。別名を鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)。
築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。
今川家一門、瀬名家の関口親永の娘。
母は今川義元の妹で、つまり義元の姪にあたる。
また、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。


「松平宗家」には不思議な因縁のような事が起こる。
信康誕生のちょうど十年前にあたる
天文十八年(1549年)三月六日
信康の祖父にあたる松平次郎三郎広忠が、三河国岡崎城で家臣により斬殺されている。

信康の曽祖父にあたる松平二郎三郎清康もまた、
天文四年(1535年)十二月五日
尾張国守山対陣中に家臣により斬殺されている。
そして不思議な事に「広忠」、「清康」共に「妖刀村正」によって斬殺されている。
この妖刀村正による不思議な因縁は、なおも「松平宗家」を襲う事になる。


村正(むらまさ)
伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工。または、その作による日本刀名。
別称は「千子村正」(せんじむらまさ、せんごむらまさ)。
「村正」の銘は、桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続いた。
村正以外にも、藤村、村重など、「村」を名乗る刀工や、正真、正重など、「正」を名乗る刀工が存在する。
江戸時代においては「千子正重」がその問跡を幕末まで残している。


松平宗家の血を狙う村正の次なる獲物は、元康の嫡子松平信康であった。
天正七年(1579年)九月十九日
織田信長の厳命で切腹を申しつけられた信康を介錯した刀も「妖刀村正」であった。
天正七年(1579年)八月二十九日
元康の命を受けた野中三五郎重政が、小藪村で築山御前を殺害した刀も「妖刀村正」である。

「祖父」「父」「嫡男」「妻」を殺害した「妖刀村正」はなおも「松平宗家」を襲う。
関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田河内守長孝が、戸田武蔵守勝成を討ち取るという功を挙げた。
その槍を徳川家康(松平元康)が見ている時に、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切った。
聞くところ槍も「村正」で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったという。

また元和元年(1615年)五月七日
真田左衛門佐信繁(真田幸村)が大坂夏の陣で、徳川本陣を急襲した時、家康に向かって投げつけたと云えられる刀も「妖刀村正」という伝承がある。

名将言行録には、
「真田信繁は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があり、
さらに家康の孫である徳川権中納言光圀が、「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」
賞賛したという逸話が併記されている。

そして、
慶応四年(1868年)四月十一日
江戸城を制圧した西郷隆盛が帯びていた刀も、「徳川(松平)に仇をなす妖刀村正」であったという。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
スポンサーサイト

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。