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利家出奔

 【23//2012】

利家出奔

永禄二年(1559年)六月
十四歳の初陣以来、織田上総介信長に付き従って数々の武勇を立て「槍の又左」の異名をとるまでなっていた
前田又左衛門利家が、信長の同朋衆十阿弥を斬り出奔、浪々の身となってしまう。


出奔(しゅっぽん)
逃げだして行方をくらますこと。武士の失踪(しっそう)。


刀の笄(こうがい)を盗んだ同朋衆・十阿弥(じゅうあみ)の処罰を巡り、主君信長と対立した「傾き者」が起こした事件である。
笄とは、髪を掻き揚げて髷(まげ)を形作る装飾的な結髪用具。
頭が痒い時に髪型を崩さずに掻くなど、女性の身だしなみに欠かせない装身具としても使われていた。
三所物と呼ばれる日本刀(脇差)の付属品のひとつで、刀と一緒に持ち歩く場合が多い。


加賀藩の資料・亜相公夜話(あしょうこうおんやわ)によると、
信長の同朋衆に十阿弥という僧体の者がいた。
十阿弥は茶湯、香、連歌などの芸能に秀でており、側近、あるいは取次ぎ人といった役目で信長に仕えていた。
この十阿弥も、利家同様に信長の寵愛を受けていた人物の一人であったが利家の事を快く思っていなかった。

ある日、十阿弥が利家の愛用している笄を盗んだ(隠した)事により主君信長をも巻き込む事件が起こる。
十阿弥が盗んだ笄は、利家の正室・まつの亡き父である篠原一計の形見の品であり、日頃からまつが大事に扱っていた代物であったという。
利家にとって「洒落」「遊び心」で扱われていい代物では無かった。

怒りに我を忘れた利家は、刀を抜き十阿弥を斬捨てようとするが、十阿弥と親交の深かった者達の仲介や、
命乞いをする十阿弥の姿を見て利家は我に帰り刀を収めた。
後日、利家は笄を盗んだ十阿弥の処罰を信長に願い出るが、信長にはあまり取り合ってもらえず、
「大目に見てやるように」と逆に諭された。

お咎めを受けなかった十阿弥は、
信長の寵愛を一身に受けていると思い込みますます増長してしまうのである。
「人に物を盗まれるような男が、かぶき者とは片腹痛い」
「嫁御に鼻の下を長くしているかぶき者」
「武士がいったん斬ると口外したからには、たとえ殿よりお言葉添えがあったにせよ、
斬らぬことがあるものか。
途中で思いとどまるくらいなら、最初から斬るなどと言わぬことよ」
などと大口を叩き利家を陰で蔑み始めた。

これに激怒した利家は、わざわざ信長の見ている前で十阿弥を斬捨てたのである。
信長の判決に対する、「傾き者」としての意地であった。

「おのれ又左、主君への面当てのつもりか!手討ちにしてくれるわ!」
信長の逆鱗にふれた利家の「覚悟」はどのようなものだったのであろうか。
利家を斬ろうとする信長の前に、柴田権六勝家森三左衛門可成が、
身を呈して立ちふさがり、利家に代わり様々に詫びたという。

柴田勝家や森可成らの取り成しにより、なんとか利家は手討ちにされずに済んだが、無期限の出仕停止処分を言い渡される。
この時、利家は二十二歳であった。
十阿弥殺害の罪で織田弾正忠家から追放された利家は、二年にも及ぶ浪人生活を送る事になる。

二年にも及ぶ浪人生活の間、信長は何かと利家を気に掛けていたようである。
逸話ではあるが、
利家が他の大名家に仕官するかしないか、信用が出来る人間かどうかを見極める為の追放処分という話も残されている。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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