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大日本帝国陸軍参謀本部による桶狭間の合戦

 【01//2014】

大日本帝国陸軍参謀本部による桶狭間の合戦


永録三年(1560年)五月
東海の覇者今川治部大輔義元が、二万五千の大軍勢を率い尾張へ侵攻。

桶狭間合戦の通説によれば、織田上総介信長が十倍以上の敵を撃破ることが出来たのは「奇襲攻撃」にあったとされている。
が果たしてそれは本当なのだろうか。
桶狭間の合戦については未だ謎に包まれている。

我々に馴染みのある桶狭間合戦の通説は、大日本帝国陸軍参謀本部が日本で起きた合戦を軍部の視点でまとめた「日本戦史」によるところがある。
軍事の専門家により作られた物であった為、それなりに価値のある物とされてきたが、歴史の専門家という訳では無い為、物事の解釈や推理が偏る傾向にあり、近年、歴史家による新説が色々と注目されてきている。




大日本帝国陸軍(だいにっぽんていこくりくぐん、だいにほんていこくりくぐん、旧字体:大日本帝國陸軍)
1871年(明治4年)から1945年(昭和20年)まで日本(大日本帝国)に存在した陸軍。

参謀本部(さんぼうほんぶ)
大日本帝国陸軍の軍令を司った機関。
参謀総長を長として、作戦計画の立案等を職務とする。


今では義元が尾張へ侵攻してきた理由には色々と諸説がある。
通説としてよく語られているのが、「義元上洛説」である。
上洛の途上にある尾張を斬り従えて・・・・というものだ。
これは大日本帝国陸軍参謀本部の視点でまとめられたものである。
日本戦史によると、
「戦国時代における英雄豪傑中、東海道方面にあったものは、地理的に力を中原(中央)に伸ぶるの便が多かった為(中略)天子を奉ずることを最も捷徑(近道)と考へ、何れも京都の占有を目的となし、その行動を律した」
と記されている。

信長に関する第一級資料とされている信長公記によれば、
「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」
という文面から桶狭間の戦の項が始まる。
「義元上洛」については一切ふれられていない。

しかし信長公記以降に執筆された「信長記」では、
「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば…」
義元が上洛して天下を斬り従えるために駿河を出陣したと記されている。

また「織田軍記」では、
「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる・・・」
と記されている。

執筆順からすると「信長公記」→「信長記」→「織田軍記」→「日本戦史」という順になる。
当初、はっきりとしなかった「義元の尾張侵攻」が時の経過とともに「義元上洛」へと移り変わっていく。
歴史と言うものは言い伝えられる過程で、あるいはその時の時代背景で、都合のいいように誇張して伝えられていくものなのである。


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Genre: 学問・文化・芸術

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