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総動員可能兵力数

 【01//2014】

総動員可能兵力数

今川治部大輔義元の尾張侵攻軍は総勢二万五千、迎える織田上総介信長の軍勢は総勢二千余りというのが通説となっている。
そして通説では「奇襲攻撃」となる。

しかし、いくら全軍を率いて義元の首だけを狙い奇襲攻撃をしかけたところで、その兵力差は10倍以上に及ぶ。
これだけの兵力差の前で相手になるはずが無い。
信長公記によると、
今川義元の軍勢は四万五千と記されており、実際のところこの兵力差自体に信憑性があるのか疑問である。

そもそも戦国大名の動員兵力は、領地の石高により左右される。
動員兵力を算出する際の目安となる数値が、一万石に対し、250人~300人の兵力とされている。
では、この数値で動員兵力を算出すると、今川義元と織田信長の兵力の差はどうなるのか。
後に行われた慶長検地の結果から、両軍の兵力を算出してみると意外な事が解る。
駿河国 約十五万石、
遠江国 約二十五万五千石、
三河国 約二十九万石
六十九万五千石となる。
この石高から今川軍の総動員可能兵力を算出すると、17,375~20,850となる。

一方、尾張国はというと、
尾張国 約五十七万千石
織田軍の総動員可能兵力を算出すると、14,275~17,130となる。

「あれ?」
尾張一国の織田信長と、三国の太守である今川義元の間に余り開きが無いことが解る。
これは肥沃(ひよく)な土地が広がる尾張平野に対し、山が多く一国あたりの石高が低い今川領との差である。
とは言え、尾張統一直後の信長に全ての兵を動員できたかどうかは微妙である。
また美濃国からの脅威にも備えの兵が必要だったであろう事も考えられる。
しかも丹下・善照寺・中島・丸根・鷲津の砦にも守備兵が必要である。
以上の事から全体の3分の1程度の兵力しか動員出来なかったとしても4,758~5,710という事になる。

一方の今川軍だが、三国同盟を結んでいるとは言え、甲斐国の武田や相模国の北条への備えにある程度の兵を
領国内に残しておく必要はあったと思われる。
また、松平隊・朝比奈隊らの先行部隊の兵を差し引くと、義元本陣の動員可能兵力は、せいぜい10,000程度なのではないかと思われる。
「ん?」
まあそれでも2倍以上の兵力差はあった事になる。
しかしこうして仮説を立てて検証してみると、奇襲によらずとも織田軍が今川軍に勝つ可能性が出てくる事になる。





そもそも「奇襲説」は、信長公記を参考にして書いた以降の軍記物により、面白おかしく着色されていった事による為かと思われる。
「敵勢の後の山に至りて推廻すべし。山際までは旗を巻き忍び寄り、義元が本陣へかかれ」
これは「信長記」に記された義元の本陣を急襲せよという信長の作戦の全貌である。
ところが、一級史料の「信長公記」には迂回した事実は一切書かれていない。
総動員可能兵力数に関してはあくまで推測ではあるが、「奇襲説」に関しては果たしてどうなのだろうか・・・。


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Posted at 01:23:05 2015/06/02 by

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