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義元に油断は無かった

 【29//2012】

義元に油断は無かった

永禄三年(1560年)五月十九日未明
織田上総介信長は、「今川軍、丸根・鷲津砦に攻撃開始」の報せを受け、わずか六騎で熱田へ向かう。

熱田に着いた信長は、同神宮の摂社・上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の前で、東方に二条の煙が立ち上るのを見て、丸根・鷲津の両砦が危機的状況である事を知ったと信長公記に記されている。

摂末社(せつまつしゃ)
神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、
摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、
格式は本社>摂社>末社の順とされる。

逸話ではあるが、
熱田神宮に着いた信長は、集結した兵達の前で作らせていた願文を読み上げ戦勝を祈願している。
無神論者として知られている信長でも、人生最大のピンチを迎えると「ああ神様」と祈らざるを得なかったのかもしれない。
この時、本殿の奥から一羽の白鷲が舞い立つという吉兆があらわれ、
「熱田の大神が我々を護り、勝利に導く印である!」と高らかに宣言し、送れて終結した兵達を激励したというが
どうなんだろうか…。

佐久間出羽介信盛が守る善照寺砦に入った信長勢は、一旦軍勢を整え戦況を確認している。
「御敵、今川義元は、桶狭間山にて人馬の休息」
「丸根・鷲津両砦が陥落」
「佐久間大学助盛重、織田玄蕃允秀敏、飯尾近江守定宗 討死」
信長が善照寺砦で戦況判断をした時に入ってきた情報である。
今川義元が桶狭間山に到着した時刻は、信長が善照寺砦に到着する時刻よりも早かったことが解る。

佐久間 信盛(さくま のぶもり)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。佐久間氏の当主。通称は出羽介、右衛門尉。
織田信長が幼少の頃より、重臣として仕え、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。
その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」(殿軍の指揮を得意としたことに由来)といわれた。
信長に従って各地を転戦し織田家の主だった合戦には全て参戦している。


織田家滅亡か・・・
信長の善照寺参陣を確認した佐々隼人正政次千秋四郎季忠ら遊撃部隊が、僅か三百ばかりの兵を率いて今川勢に攻撃を仕掛けるが、多勢に無勢、悉(ことごと)く討死している。
信長公記によると、
「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で候へば、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。
是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。信長御覧じて、中島へ御移り候はんと候つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。」と記されてある。
ここで言っておきたいが、義元が桶狭間山にて謡いを謡ったということについてである。
これは決して「義元の油断」などではない。
丸根・鷲津の攻略、佐々政次らが率いる遊撃部隊を撃破するなどの快進撃で「勝利」に酔っていた訳でも無い。
義元は「勝利を確信」していた。


佐々 政次(さっさ まさつぐ)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。尾張国井関城主。佐々成政の長兄。隼人正。
諱は「政次」で通っているが、文書上の裏付けはない。系図には「成吉」「勝通」とある。
織田信秀に仕え、三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられるほどの猛将。

千秋 季忠(せんしゅう すえただ)
熱田神宮の大宮司、武将。尾張国幡豆崎城主。通称四郎。
父千秋季光は熱田神宮の大宮司で、武士として織田信秀に仕えていたが、加納口の戦いで戦死。
季光の死後、季忠が家督と大宮司職を継ぎ、信秀の子、信長に仕えた。



義元は、信長の行動を全て把握していた。
信長は、最前線基地となった善照寺砦から中島砦へと急ぎ進軍し、その後桶狭間へ向け進軍する事になるが、
その行程を信長公記は次のように記している。
「敵方よりさだかに相見え候」
敵から丸見えの状態であえて進軍しているという事だ。
通説にあるような、簗田出羽守正綱「義元本隊、おけはざま山にて休息中である」と言う報せに、
「好機」とばかりに奇襲攻撃をしかけたというのはどうも出来すぎた話である。
もし信長が迂回しての奇襲を考えていたとすれば、敵に見られた時点で失敗である。


簗田 政綱(やなだ まさつな)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。子は簗田広正。出羽守、九之坪城主。
桶狭間の戦いで、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝え、義元の首を挙げた毛利新助よりもその功績は大きいと評価され、沓掛城主となったという。
しかし、なぜ本陣の場所を簗田が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、小和田哲男や
武田鏡村らの歴史研究者が推測を発表しているが定説はない。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

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Genre: 学問・文化・芸術

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