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東海の覇者・今川治部大輔義元の最後

 【31//2012】

東海の覇者・今川治部大輔義元の最後


暴風雨の後に突如現れた織田勢の急襲で東海の覇者今川治部大輔義元は討ち取られた。
信長公記によると、
未刻(午後二時頃)
暴風雨の後に突如現れた織田勢の急襲に、今川勢はひとたまりもなく崩れさり、弓も槍も鉄砲も打ち捨てられ、
指物が散乱していたという。
この混乱の中、義元は三百騎ばかりの兵に護衛され後退する。
そこを織田勢が数度にわたり執拗に攻撃を繰り返し、とうとう護衛の兵は五十騎程にまで減ってしまっていた。
信長も馬を下り、旗本に混じってみずから槍をふるい敵を突き伏せていた。
周りの者達も負けじと勇戦し、歴戦の馬廻・小姓衆にも手負いや死者が相次いだという。
まさに双方入り乱れての激戦である。
混戦の中、今川義元を見つけた服部小平太が我先にと義元に槍を付けるが、
義元は佩刀(はいとう)を抜いて服部の膝を払い、これを凌いだ。
がしかし、その横合いから毛利新介の突進を受けた義元は、これを防ぎきれず、
毛利に突き伏せられ、ついに討取られてしまう。
東海の覇者今川治部大輔義元は、志半ばにして桶狭間で最後を遂げた。
毛利は、先年武衛様(ぶえいさま)が遭難された折、その弟君を救った者であり、人々はその冥加があらわれてこのたびの手柄となったのだろうとのちに噂したという。
この戦いでの戦死者は、今川軍二千五百、織田軍八百程であったという。

服部 一忠(はっとり かずただ)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は小平太、采女正。
織田信長の馬廻として仕え、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて今川義元に一番槍をつけ戦功をあげた。
しかし、義元の反撃を受けて膝を斬られた為、首級を挙げたのは助太刀に入った毛利良勝であった。
桶狭間の戦い以降は織田氏の配下として目立った活躍は知られていない。

毛利 良勝(もうり よしかつ)
戦国時代の武将。織田氏の家臣。通称は新助(新介とも)、新左衛門。
織田信長に馬廻として仕えたとされるが、小姓であったともいう。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは負傷した服部一忠を助け、今川義元の首を取り名を上げた。
(この際、指を噛み千切られたとも言われている)。
その功により、のちに黒母衣衆のひとりとなった。
以後は目立つ活躍もできず、一隊の長に昇ることなく信長の側近として旗本部隊に属した。


今川撤退
総大将である今川義元や、その他有力武将を失った今川勢は、総崩れとなり駿河に向かい撤退する。
義元の命により大高城を守っていた松平蔵人佐元康も大高城を捨て、松平家菩提寺である大樹寺に軍を移す。
また、岡崎城代を勤めていた山田新右衛門尉景隆も、義元討死の報せを受け、岡崎城を捨てて駿河に撤退する。

大樹寺(だいじゅじ、またはだいじゅうじ)
愛知県岡崎市(三河国)にある浄土宗の寺院。山号は成道山。
正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。
徳川氏(松平氏)の菩提寺であり、歴代当主の墓や歴代将軍(大樹公)の位牌が安置されている。
大樹寺から岡崎城が眺望でき、直線状にマンション等の高層建築物を建てることはできない。


桶狭間にて勝利した織田上総介信長は、沓掛城の近藤九十郎景春など、尾張国内で引き続き抵抗する
諸将の討伐に動き出し一帯を一挙に奪還していく。
しかし、岡部五郎兵衛元信が城将を勤める鳴海城の抵抗はすさまじく、難攻を示した。
そこで信長は鳴海城の無理攻めを諦め、岡部元信との和睦交渉を行い、
「義元の首級の返還と引き換えに鳴海城の開城」を約束させた。
こうして西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されることとなった。

近藤 景春(こんどう かげはる)
戦国時代の武将。尾張国沓掛城主。通称・九十郎。
藤原秀郷の後裔を称する、沓掛近藤氏第9代。
近藤氏は当初、三河国の松平広忠の傘下にあったが、後に尾張国で勢力を拡大していた織田氏に従った。
永禄2年(1559年)尾張侵攻を目論む今川義元に寝返っていた同国鳴海城主山口教継によって今川氏に降った。
永禄3年(1560年)沓掛城を今川家臣の浅井政敏に預け、支城の高圃城に移って織田軍に備えるが、
桶狭間の戦いで今川義元が戦死して今川軍が駿河へ退いたため沓掛城に戻るが、
直後に織田軍に攻められて戦死した。

岡部 元信(おかべ もとのぶ)
戦国時代の武将、今川氏の家臣。通称は五郎兵衛、官位は丹波守。
名は長教、元綱、真幸とも。岡部久綱の子。
岡部正綱の弟(親子説もあり、同族だが親子兄弟ではないとする説もある)。
今川氏が衰退してからは武田氏に仕えた。

また別働隊として戦っていたため難を逃れた松平元康は、もぬけの殻となった岡崎城に入城。
今川氏から独立を果たし松平氏の旧領回復を目指し急速に勢力を拡大させていく。
一方で今川領国の動揺は地域情勢に多大な影響を及ぼすことになる。
後年、甲斐の武田氏と今川氏の関係は悪化し、武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始されることになる。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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