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隣国の無礼な振る舞いは国力の弱体化が要因

 【24//2014】

安城合戦


守山崩れで不慮の死を遂げた松平二郎三郎清康の遺児松平次郎三郎広忠が三河岡崎城に帰還し、
松平宗家の後継者騒動はようやく鎮静化するもいまだ三河国は混乱していた。


戦国Check✓

守山崩れ(もりやまくずれ)
天文四年(1535年)十二月五日早朝に、三河国岡崎城主松平清康が、尾張国春日井郡守山の陣中において、
家臣の阿部正豊に暗殺された事件。

松平 清康(まつだいら きよやす)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。三河松平家第七代当主。徳川家康の祖父。
安祥松平家は清康の代に安城岡崎を兼領し、武威をもって離反していた一族、家臣の掌握を進め西三河の地盤を固めた。

松平 広忠(まつだいら ひろただ)
戦国時代の武将。通称は二郎三郎、次郎三郎、三郎、岡崎三郎。
三河松平家第八代当主。徳川家康の父。官位は贈従二位大納言。
「守山崩れ」で老臣阿部定吉と共に伊勢、遠江へ逃れ、
天文六年(1537年)、今川義元の支援により岡崎城への帰還を果たす。
以後、今川方部将として、尾張の織田信秀と戦うことになる。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。



天文九年(1540年)二月
地に落ちた松平宗家の威信を回復せんが為に、無謀ともいえる賭けに出た広忠は、
織田弾正忠家の支城尾張鳴海城を攻めるが敗北している。


二郎三郎清康が築き上げた松平家を継承した年若い広忠は果たして当主としてのなのか。

松平宗家の威信

当主としての器

謀反

離反

など色々な事が年若い広忠を苦しめていた。


苦悩の日々を送る広忠の努力もむなしく、松平宗家は以前の勢いもなく日に日に弱体化していくこととなる。
そして東から今川治部大輔義元率いる今川軍が東三河侵攻を開始する。


戦国Check✓

尾張鳴海城(おわりなるみじょう)
尾張国愛知郡鳴海(現在の愛知県名古屋市緑区)にあった城。

今川 義元(いまがわ よしもと)
戦国時代の武将。駿河国及び遠江国の守護大名。官位は治部大輔。今川氏第十一代当主。
婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟にあたる。
寄親、寄子制度を設けての合理的な軍事改革等の領国経営のみならず、外征面でも才能を発揮して
今川氏の戦国大名への転身を成功させた。
所領も駿河・遠江から、三河や尾張の一部にまで拡大する等、戦国時代における今川家の最盛期を築き上げるも、
尾張国に侵攻した際に行われた桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死した。

松平家の謎 (新人物往来社文庫) 「歴史読本」編集部 (編集)
松平三代記 清康・広忠・家康、三河から天下へ  (PHP文庫)嶋津 義忠 (著)



駿河今川家による東三河侵攻と時を同じくして、尾張の織田弾正忠信秀もまた、西三河侵攻に動き出す。

天文九年(1540年)六月六日
織田信秀は、三河刈谷城主水野右衛門大夫忠政を伴い、三千の兵を率いて西三河へ侵攻し、
三河安祥城を攻撃している。

三河安祥城の守将として、松平左馬介長家が、一千の兵と共に籠城していたが、
自軍の三倍もの兵力を相手にせねばならず劣勢は免れなかった。

そこで広忠は松平源次郎信康 松平彦四郎利長 松平上野介政忠 松平左近将監忠次ら、
一門衆を援軍として向かわせた。


戦国Check✓

織田 信秀(おだ のぶひで)
戦国時代の武将。通称は三郎。官位は従五位下、弾正忠、備後守、三河守。
織田弾正忠家第三代当主。織田信長の父。
智勇に優れた武将であり、その豪勇は「尾張の虎」と称されて恐れられた。
また当時の経済流通拠点であった商業都市津島や熱田を支配下に組み込み、織田弾正忠家の礎を築いた。

三河刈谷城(みかわかりやじょう)
三河国碧海郡刈谷(現在の愛知県刈谷市城町)にあった城。

水野 忠政(みずの ただまさ)
戦国時代の武将。通称は藤七郎。官位は右衛門大夫、下野守。
尾張緒川城を拠点として知多半島北部をその支配下においていたが、
天文二年(1533年)、三河刈谷に新城刈谷城を築いた。
織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、
形原城主松平家広などに娘を嫁がせ領土の保全を図った。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

松平 長家(まつだいら のぶたか)
戦国時代の武将。通称は左馬介。三河安祥城主。
天文九年、織田信秀に攻められ、岡崎城の松平広忠の救援をえて奮戦するが討死。

松平 信康(まつだいら のぶやす)
戦国時代の武将。通称は源次郎。松平清康の次男。松平広忠の異母弟。
天文九年、織田信秀が安祥城を攻めると、異母兄松平広忠の命で援軍に駆け付けた。
しかし、同族の安祥城主松平長家らとともに戦死。

松平 利長(まつだいら としなが)
戦国時代の武将。通称は彦四郎。松平長親の五男。藤井松平家初代当主。
天文九年、織田信秀が安祥城を攻めると、松平広忠の命で援軍に駆け付け、織田軍を撃退することに成功。
しかし、同族の安祥城主松平長家が戦死している。

松平 政忠(まつだいら まさただ)
戦国時代の武将。通称は上野介。長沢松平家第七代当主。
永禄三年、桶狭間の戦いで織田軍に急襲され、次男忠良と共に討死。

松平 忠次(まつだいら ただつぐ)
戦国時代の武将。官位は左近将監。五井松平家第四代目当主。
天文九年(1540年)及び天文十四年(1545年)の二度にわたって、織田の軍勢を安城で防ぎ打ち破った。
天文十六年(1547年)宗家に敵対した一族松平信孝(三木松平)と岡崎耳取縄手において戦い、討死。




信秀は、主力の騎馬隊二千を率い、城の北方の高台に布陣し、南方に忠政の別働隊が布陣した。
天文九年(1540年)六月六日 未明
織田、水野連合軍による安祥城攻撃が開始された。

長家率いる松平勢は籠城策を取り果敢に戦い、
援軍として駆けつけた松平信康らと共に一度は織田水野勢を後退させている。

しかし劣勢を挽回するまでには至らず、長家など松平勢の主だった武士五十余人が討死

両軍合わせて千以上の死者が出た。いかに激戦だったかを物語っている。


戦国Check✓

籠城(ろうじょう)
城にこもり敵と戦うこと。敵陣包囲の中、味方が劣勢の場合の重要な戦術。
籠城により敵を攻略するには、何よりも食糧、水などの生活物資の確保が先決であり、
加えて矢、火薬、石などの戦闘用具の準備も必要となる。

戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い 小和田 泰経 (著)
全国 城攻め手帖 風来堂 (著)



「織田信秀により安祥城陥落」
報せを受けた広忠には、もはや奪い返す力は無かった。

安祥城の陥落により、三河佐々木城主松平三左衛門忠倫、三河上野上村城主酒井将監忠尚らが
織田信秀に寝返ることになる。

この合戦により松平家の主だった武将はことごとく討ち取られ、
三河における松平宗家の武勇は地に落ちた。

以後、存亡の危機を迎えた松平家は、家名を存続させる為に駿河今川家に従属し、
その庇護を受けることになる。


戦国Check✓

三河佐々木城(みかわささきじょう)
三河国額田郡佐々木(現在の愛知県岡崎市上佐々木町)にあった城。

松平 忠倫(まつだいら ただとも)
戦国時代の武将。通称は三左衛門。松平清康の弟。松平広忠の叔父。三河佐々木城主。
松平宗家に反抗し続けた人物ではあるが資料が残されておらず、謎の多い人物。

三河上野上村城(みかわうえのかみむらじょう)
三河国加茂郡上野(現在の愛知県豊田市上郷町)にあった城。

酒井 忠尚(さかい ただなお)
戦国時代の武将。通称は将監。松平家臣。三河上野上村城主。
松平広忠の時代から松平氏に仕えた重臣であり、広忠没後は松平元康(徳川家康)に仕えたが、
自立傾向が強くて松平氏から離反することも少なくなかった。

従属(じゅうぞく)
権力や威力のあるものに依存して、それにつき従うこと。

庇護(ひご)
弱い立場のものをかばって守ること。




一方、安祥城攻略に成功し西三河侵略の足がかりを得た信秀は、その勢いを持って上洛し朝廷に謁見(献金)

その見返りとして従五位下に叙位され、備後守の任官を得ている。

更に花の御所に参じて室町幕府第十二代将軍 足利義晴にも拝謁している。


戦国Check✓

謁見(えっけん)
貴人または目上の人に会うこと。

従五位下(じゅごいのげ)
官吏における個人の地位を表す序列・等級である。位(くらい)。
近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。
一般官人から貴族階層への昇進となる。
昇殿の許可に必要とされる最低ラインであったため、宮中に入る像や鷹などにも与えられた。

叙位(じょい)
位階を授けること。授位(じゅい)とも。
官人、宮人に位階(内位・外位及び勲位)を授けること、あるいはそれを行う儀式のことを指す。
律令制においては、五位以上を授ける勅授(ちょくじゅ)、
内位八位以上もしくは外位七位以上を授ける奏授(そうじゅ)、
それ以下を授ける判授(はんじゅ)に分けられていた。
一般官人から貴族階層への昇進となる従五位下への叙位は特に重要視され、
叙爵(じょしゃく)、栄爵(えいしゃく)と称した。




次回 第十四話 時の権力者による神殿の移動 ⇒




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