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十郎左衛門信清 謀反

 【07//2012】

織田十郎左衛門信清 謀反

永禄五年(1562年)
尾張犬山城主織田下野守信清(おだしもつけのかみのぶきよ)が、
織田上総介信長に、叛旗を翻す事件が起こった。

反旗(はんき)を翻(ひるがえ)
謀反を起こす。主君に背いて兵を起こす。反逆する。

信清は、織田与次郎信康の嫡男で、信長の従兄弟にあたる人物であった。
また、信長の妹を正室として迎えており、信長とは義理の兄弟でもあった。
守護代織田伊勢守信安信賢親子を破った浮野の戦いや、岩倉城攻略でも信長を支援しており、
その後も美濃攻めに弟・勘解由左衛門信益を送るなど、一門の要として十分な役割を果たしていた。
その信清の謀反である。
伊勢守信安の旧領の分与を巡って、信長との折り合いが悪くなり、離反することになったという。
一説には、美濃斎藤家との戦いで、弟信益を戦死させた恨みからともいう。
信長と信清の不仲を知った斎藤右兵衛大夫龍興は、信清に近づき、信長討伐の策動をさかんに行いだした。
情勢しだいでいつ敵方に寝返るかもしれない、動静さだまらない信清との禍根を今断っておかなくては、
どのような憂慮(ゆうりょ)すべき事態に発展するか、油断ならない状況であると、信長は考えていた。

織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。犬山城築城主。織田信定の子。織田信長の叔父。
通称、与次郎。法名は伯厳又は白厳。
織田弾正忠家当主・織田信定の子として生まれ、兄信秀に従い、今川家との小豆坂の戦い等で戦功を挙げるなど、政戦両面で活躍した。
天文13年、斎藤道三との戦いに従軍し、美濃稲葉山城攻め(加納口の戦い)にて戦死。

憂慮(ゆうりょ)
心配すること。思いわずらうこと。

永禄五年(1562年)六月
信長は、信清方の支城である於久地城(小口城)を攻めている。
信清の謀反を知った信長は、犬山城の前衛基地たる於久地城に開城を促すが、
信清の家老である中島豊後守は信長の要求を拒否。
それに怒った信長は、武力行使に出て、於久地城に攻め込んだのである。
於久地城(おぐちじょう)
東西五十間(91m)、南北五十八間(105m)、四方に二重の堀と土塁を巡らした要害であった。


才幹死す  於久地惣構破るるの事
信長公記によると、
「六月下旬、於久地へ御手遣。御小姓衆先懸けにて、惣構をもみ破り、推入つて散々に数刻戦ひ、十人ばかり手負これあり。上総介殿御若衆にまいられ候岩室長門、こうかみをつかれて討死なり。隠れなき器用の仁なり。信長御惜み大方ならず。」とある。
永禄五年(1562年)年六月下旬
信長は、織田信清の於久地城を攻めた。
戦は御小姓衆が先懸けとなって、惣構を押し破り、曲輪内に突入して数刻にわたる激戦となった。
信長は、千余の軍兵を繰りいれ、小曲輪まで侵入したのち頃あいを見はからい撤退している。
我攻めに討って、無駄に兵を損じることを避けたのである。
尾張の侍同士が殺戮(さつりく)しあうことを、出来る限り避けたいと、信長は考えていた。

この戦いで御小姓衆の岩室長門守重休(いわむろながとのかみしげやす)が、敵にこめかみを突かれて討死している。
重休は、桶狭間合戦の際、急に出陣した信長にいちはやく随従した人物であり、隠れなき才人であったという。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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