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信長の棋風

 【08//2012】

信長の棋風
棋風(きふう)
将棋や囲碁、チェスなどのボードゲームにおけるその人の指し方の特徴のこと。

永禄五年(1562年)夏から、永禄六年(1563年)にかけて、尾張美濃国境では主だった合戦もおこらず、
平穏に過ぎていた。
美濃斎藤家当主斎藤右兵衛大夫龍興(さいとううひょうえのたいふたつおき)が家督を継承して後、
斎藤家内部では紛争が多く、尾張へ攻め寄せる余裕が無かったためである。

斎藤龍興(さいとうたつおき)
天文一七年(1548年)
斎藤治部大輔義龍と、近江の方との間に生まれ、幼名は喜太郎
一説では、妾腹であり、庶子として生まれたという説もあるが、真意の程は解らない。
生母の近江の方は、北近江の国人浅井備前守亮政の娘であったという。
永禄四年(1561年)
義龍の死により、十四歳で家督を継承するが、若年の為に祖父や父と比べると凡庸であるとされ、
譜代家臣の信望を得ることができなかったという。



桶狭間の合戦に勝利した織田上総介信長は、以降、再三に渡り美濃に侵攻するが、
(ことごと)く失敗に終わっている。
新当主龍興が愚将であるとはいえ、歴戦の美濃衆の戦力が弱体化するわけではない。
いま我攻めに討って出れば、消耗戦となることは明白であった。
しかし、美濃攻略に成功すれば、上杉家武田家北条家に並ぶ領土を擁する大大名になる。
義龍の急死は、信長にとって美濃攻略の絶好のチャンスであった。
だが下手に動き、消耗戦ともなれば、美濃国境の北近江の浅井家、ならびに武田家が好機とばかりに美濃に
襲い掛かり、そのまま尾張に侵攻し、信長の前途は破滅ということにもなりかねない。

そこで信長は、調略へと方向を転換することになる。
美濃斎藤家を周辺諸国から孤立させるための調略である。
戦国時代の常識を打ち破り、破竹の勢いで天下統一をめざした織田信長は、
美濃侵略に意外なほどに気の長い調略を行っている。
信長の戦略は、堅実であり、敵中に猪突猛進(ちょとつもうしん)して活路を拓くようなことはなく、まずゆっくりと基盤を固め、そののちゆっくりと、確実に活路を拓く、ねばりの戦略であった。



永禄六年(1563年) 三月二日
五徳姫と竹千代 婚約
信長は、愛娘の五徳姫と、松平蔵人佐元康の嫡子竹千代との婚約を、とりきめている。
松平家との結びつきをさらに強いものとするための政略結婚であった。
松平竹千代、織田五徳、共に五歳であったという。
このさき、
近江小谷城主浅井備前守長政
越後国守上杉弾正少弼輝虎
甲斐国守武田大膳大夫信玄とも、婚姻によって同盟を結ばねばならないと、信長は考えていた。

CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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