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えっ!!現在の貨幣価値で約1億円!!

 【26//2014】

時の権力者による神殿の移動


経済基盤
三河松平氏の重要拠点である三河安祥城を手中に治め、
松平氏の本拠地 三河岡崎城の目前である矢作川のすぐ西までその勢力を伸ばしていた織田弾正忠信秀は、

天文十年(1541年)
伊勢神宮 式年遷宮の際に、材木や銭七百貫文を献上したことより、朝廷より三河守に任命されている。

七百貫文は、現在の貨幣価値に換算すると約1億円程の金額といわれており、
商業都市 津島を支配していた織田弾正忠家の経済力がよく解る。

津島は全国天王信仰の中心地である「津島神社」の門前町であり、
尾張と伊勢を結ぶ要衝(ようしょう)「津島湊」として発展した。

当時「津島湊」は「堺湊」よりも強大な経済基盤を持っていたと言われている。


(表)「戊寅年十二月尾張海部評津嶋五十戸」

(裏)「韓人部田根春赤米斗加支各田部金」


飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)発掘調査で出土した木簡(もっかん)の中に、
天武七年(678年) 、尾張国海部郡津島の韓人部田根赤米を収めたという内容の記述がある。

この記述より、
七世紀後半には、津島は伊勢や朝廷へ物資を運ぶ湊として機能し、
以後中央権力とある種の結びつきを持ちながら栄え続けたと考えられている。


戦国Check✓

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

三河岡崎城(みかわおかざきじょう)
三河国額田郡岡崎(現在の愛知県岡崎市康生町)にあった城。

天王信仰(てんのうしんこう)
牛頭(ごず)天王および須佐之男命(すさのおのみこと)に対する信仰。
古くは仏教の守護神である四天王に対する信仰であったが、現在は牛頭天王に対する信仰をさす。

飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
672年から694年にかけての天武、持統両帝の皇居。
明日香村雷(いかずち)と同飛鳥との間に位置したと考えられている。

木簡(もっかん)
墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板。
紙の普及により廃れた。


中世都市共同体の研究 (思文閣史学叢書) 小西 瑞恵 (著)
東海地域文化研究―その歴史と文化
(研究叢書) 名古屋学芸大学短期大学部東海地域文化研究所 (編集)
日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 新人物往来社




神話
また津島は古くから伊勢神宮とのかかわりが深く、伊勢詣でをする人たちは「津島かけねば片詣り」と、伊勢神宮と津島神社をともに参拝するのが古くからの習わしとされていた。

「伊勢神宮」は天照大御神(あまてらすおおみかみ) が祀られ、
「津島神社」は別名「牛頭天王」と言われ、須佐之男命(すさのおのみこと)が祀られ、
共に多くの人々の信仰を集めていた。

古事記によれば、
父である伊邪那岐命(いざなぎのみこと) の怒りを買い天から追放された須佐之男命は、
姉の天照大御神を頼り高天原へ上るが、そこで粗暴な行為を働き、
悲しんだ天照大御神は天の岩屋に隠れてしまった。

追われる様に出雲の国へ逃れた須佐之男命は、
その地を荒らしていた巨大な怪物八俣遠呂智(やまたのおろち)を退治する。

そして八俣遠呂智の尾から出てきた草那芸之大刀(くさなぎのたち) を天照大御神に献上し、許しを得た。

その後、須佐之男命の荒御魂(あらみたま)は出雲にとどまり、「須佐神社」で祀られ、
和御魂(にぎみたま)は、尾張津島の「津島神社」で祀られた。

この神話から伊勢神宮と津島神社はともに参拝するのが習わしとされた様である。


戦国Check✓

古事記(こじき、ふることふみ)
和銅五年(712年)に太朝臣安萬侶(おほのあそみやすまろ)が編纂し、元明天皇に献上された日本最古の歴史書。
神代における天地(アメツチ)の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が
紀伝体で記載されている。

天の岩屋(あまのいわや)
日本神話に登場する、岩でできた洞窟。
太陽神である天照大御神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れの伝説の舞台。

出雲国(いずものくに)
かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。別称は雲州(うんしゅう)。
領域はおおむね現在の島根県東部にあたる。
意宇郡、能義郡 、島根郡、秋鹿郡、楯縫郡 、出雲郡 (出東郡)、神門郡 、飯石郡 、仁多郡 、大原郡の十郡から成る。

八俣遠呂智(やまたのおろち)
日本神話に登場する八つの頭と八本の尾を持った伝説の怪物。

荒御魂(あらみたま)
神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面の一つ。
天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の荒々しい側面。
神の祟りは荒魂の表れとされている。

和御魂(にぎみたま)
神道における概念で、神の霊魂が持つ二つの側面の一つ。
雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面。
神の加護は和魂の表れとされている。







草薙剣
須佐之男命が天照大御神に献上した草那芸之大刀は、古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる。

神話の記述の通りであれば、愛知県名古屋市の熱田神宮の奥深くに御神体として安置されている事になっている。

この草那芸之大刀は、
天照大御神の神体とされる八咫鏡(やたのかがみ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)とともに
皇居内に祀られていたが、景行天皇(けいこうてんのう)の時代に伊勢斎宮倭姫命(やまとひめのみこと)から、
東征へ向かう倭建命(やまとたけるのみこと) に渡された。

倭建命が東征の途上、駿河国で野火の難を払い、「草薙剣」の別名を与えたという神話もある。

現在の静岡県には、「焼津」、「草薙」など、この神話に由来する地名が残る。


戦国Check✓

景行天皇(けいこうてんのう)
称号は天皇。第十二代天皇。
日本書紀によると、子の日本武尊(やまとたけるのみこと)に九州の熊襲(くまそ)、東国の蝦夷(えみし)を平定させ、
諸国に田部(たべ)と屯倉(みやけ)を設けたとされる。
しかし古事記では以上の事柄は景行天皇の皇子、日本武尊個人の事業とされ、
天皇はこの皇子の勇猛さを恐れ疎外する存在としてあらわれる。





皇大神宮奉祀
全国に何万社とある神社の中で、特別の社格尊崇をもって維持されてきた伊勢神宮建立にまつわる逸話

日本書紀によれば、
倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢神宮創始に関わる最重要人物とされている。

「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」

「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」


天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御杖代(みつえしろ)として、
天照大御神の神魂を鎮座させる地を求め大和国から伊賀、近江、美濃、尾張の諸国を旅した倭姫命は、
津島湊から海路伊勢国に渡る。

「この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰する国なり。

傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。

この国に居らむと欲ふ。」


伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しようとの
神託(しんたく)を受けた倭姫命は、伊勢の地に神宮を創建し、初代伊勢斎宮となった。

以後斎宮は天皇の代替わり毎に置かれ、
「天照大御神の御杖代」、神の意を受ける依代(よりしろ)として伊勢神宮に奉仕した。

斎宮の制度は一時途絶えるものの、天武天皇の時代に正式に制度として確立し、
以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎宮が選ばれ、南北朝時代まで続く制度となった。


戦国Check✓

日本書紀(にほんしょき)
神代から持統天皇の時代までを記した歴史書。
天武天皇の第三皇子 舎人(とねり)親王が勅を奉じて太安麻侶(おおのやすまろ)らと編纂。

御杖代(みつえしろ)
神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者。

天武天皇(てんむてんのう)
諱は大海人皇子。称号は天皇。第四十代天皇。
専制君主として君臨し、八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。
飛鳥浄御原令の制定、新しい都(藤原京)の造営、
「日本書紀」と「古事記」の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業。
道教に関心を寄せ、神道を整備して国家神道を確立し、仏教を保護して国家仏教を推進した。
天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。

南北朝時代(なんぼくちょうじだい)
皇室が南北2つに分裂した時代。
延元元年/建武三年(1336年)、足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、
元中九年/明徳三年(1392年)に皇室が合一するまでの時代を指す。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に二つの朝廷が存在する。

伊勢神宮 (楽学ブックス) Kankan (写真)
伊勢神宮ひとり歩き―神の森のヴィジュアルガイドブック  中野 晴生(著)
はじめてのお伊勢まいりー神様の声を聴くサンクチュアリ・ガイドー いしかわ かずたか (著, 監修)




式年遷宮
伊勢神宮の式年遷宮は歴史が古く、今から千三百年前の第四十代天武天皇の時代に制度が定められ、
以後二十年に一度、正殿以下すべての社殿や神宝、装束に至るまでそのすべてを造り替え新調し、
新しい正殿に御神体を遷す式年遷宮が繰り返されてきた。

しかしその二十年に一度の遷宮も、南北朝の動乱期ではその制度は崩壊し、
室町時代には約百二十年以上にわたり遷宮が行われなかった。

当然、正殿などは荒れ果てていた為、
朝廷は尾張国の実力者である織田弾正忠信秀式年遷宮の費用負担を願い出たのである。

その後、信秀の意志を織田信長が、そして豊臣秀吉など時の権力者が受け継いでいく。

江戸時代に入ると徳川幕府がその費用を負担し、第二次世界大戦の戦災復興の時期を除き、
今日までその制度は守られてきた。

そして平成二十五年には、第六十二回伊勢神宮式年遷宮が行われた。




次回 第十五話 三河国での覇権争い ⇒




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