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三河一向一揆勃発

 【13//2012】

三河一向一揆勃発


永禄六年(1563年)九月
松平蔵人佐家康の本拠地 岡崎周辺にて、一向一揆が勃発。
桶狭間合戦後、岡崎帰城を果たした家康は、三河の領国経営を着々と進めていった。
しかしそれは、農民や寺院への過酷な収奪(しゅうだつ)となって現れ始め、その過程で三河三ヶ寺の
不入特権(ふにゅうとっけん)が侵害されたとして、一向宗派の国人、土豪、農民、一向門徒などが蜂起したのである。

収奪(しゅうだつ)
奪い取ること。強制的に取り上げること。

十五世紀後半、矢作(やはぎ)川周辺には、浄土真宗本願寺派が、土呂本宗寺(とろほんしゅうじ)や、三河三ヶ寺と
よばれる上宮寺、勝鬘寺、本証寺を中心に、本願寺教団を形成し、寺内町の建設などを通じて、広く地域の流通機構を掌握していった。


寺内町(じないちょう、じないまち)
室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。
濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。
寺内町は、自治特権を主張、または獲得し、経済的に有利な立場を得た。
これらの特権は、石山本願寺が管領細川晴元から「諸公事免除」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされ、各地の寺内町が一揆を起こす理由ともなった。
(注)商業地である門前町とは異なる。


本願寺教団に、先代松平広忠が認めた不入の特権は、
「検断権(逮捕)の拒否」「年貢・諸役の免税」などであった。
教団はこの特権をもとに、寺内町から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、松平家臣や、その他諸豪族に貸付けたりして、巨額の富を得る巨大宗教施設を形成していた。
三河の領国経営を進める家康にとって、無視できない存在であった事は確かである。

定説では、家康の命を受けた菅沼藤十郎定顕(すがぬまとうじゅうろうさだあき)が、佐々木に砦を築き、上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことがきっかけとなり、一向宗派が蜂起したという。

大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)が記した三河物語では、
本証寺に侵入した無法者を、西尾城主酒井正親(さかいまさちか)が捕縛したため、
不入の特権を侵害されたとして、一向宗派が蜂起したという。
どちらにしても家康が、不入の特権を持つ本願寺派寺院に介入したため勃発した一揆である。


三河物語(みかわものがたり)
徳川氏と大久保氏の歴史と、功績を交えて、武士の生き方を子孫に残した家訓書である。
上巻、中巻、下巻の三巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、
下巻では太平の世となってからの忠教の経験談や、考え方などが記されている。


蜂起した一向宗派の一揆勢は、門徒だけに留まらず、地主、百姓、僧侶、商人、そして「忠実」として知られる
三河武士団にまで広がり、その規模は一万にまでおよぶと言われている。
また、これを再起ととらえた三河東条城主吉良義昭が、今川与党の残党を集め、一向宗と同盟を結び、家康に叛旗を翻し参戦してきたことも大規模となった要因の一つである。

一向宗派に加担したのは義昭だけでは無かった。
本多一族の本多弥八郎正信(ほんだやはちろうまさのぶ)
三河上野城主酒井将監忠尚(さかいしょうげんただなお)
「槍半蔵」の異名で、「鬼半蔵」の服部半蔵正成と並び称された渡辺半蔵守綱(わたなべはんぞうもりつな)
徳川十六神将の1人蜂屋半之丞貞次(はちやはんのじょうさだつぐ)
忠義の家臣夏目次郎左衛門吉信(なつめじろうざえもんよしのぶ)など、
三河武士団の半数近くが反乱軍に加わっていた。
また、祖父清康の代より反抗的な態度を取っていた桜井松平家や、大草松平家が、再び宗家転覆を企て反乱軍に加わっている。


桜井松平家(さくらいまつだいらけ)
松平宗家五代松平長忠の次男、松平内膳信定を祖とする松平氏の庶流。
三河国碧海郡桜井を領したことから桜井松平家と称する。
十八松平の一つとされる。

大草松平家(おおくさまつだいらけ)
岩津の松平信光五男・松平光重を祖とする松平氏の庶流。
三河国額田郡大草郷を領したことから大草松平家と称する。
十四松平・十八松平の一つとされる。


一向宗派の一揆勢と、松平宗家の戦いは苛烈を極めたという。
一揆勢は、松平氏の本城である岡崎城にまで攻め上り、家康自身も窮地に陥ったという。
一揆勢との戦いで窮地に立った家康が、逃げ隠れたと言われる洞窟が、
現在パワースポットとして脚光を浴びている。
追手の兵がこの洞窟を探そうとしたが、中から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は、
「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、「九死に一生」を得た家康は、難をまぬがれたと伝えられている。
その後、この洞窟は山中八幡宮の鳩ヶ窟(はとがくつ)と呼ばれる様になり、
八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになったという。


山中八幡宮(やまなかはちまんぐう)
愛知県岡崎市舞木町宮下にある神社。祭神は応神天皇、比咩大神、息長足姫命。
山中光重という人物が、朱鳥十四年(699年)九月九日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめとされている。
弘治四年(1558年)、十七歳の家康は、初陣となる三河寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり、
当宮にて戦勝祈願をしたと伝えられる。
また、境内には永禄六年(1563年)、三河一向一揆で、門徒たちに追われた家康が身を隠し、
その難を逃れたと伝えられる鳩ヶ窟と呼ばれる洞窟がる。

CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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