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三河国は一向宗禁制の地!!

 【15//2012】

三河国は一向宗禁制の地!!

永禄七年(1564年)
武装蜂起した一向宗派との死闘は、年が明けると松平蔵人佐家康側に有利な形勢へと変化していく。
野場砦の守将夏目次郎左衛門吉信が、松平又八郎伊忠により生け捕りにされ、家康勢有利の方向へと変わっていく。

援軍として駆けつけた乙部八兵衛が、松平伊忠に内通し、野場砦が陥落したためである。
捕らえられた夏目吉信は、松平伊忠の助命の嘆願により、家康に許され帰参を果たしている。
後年、家康に恩義を感じた吉信は、のちのちまで家康に忠義を尽くし、
元亀三年(1573年)、三方ヶ原の戦いで、死を覚悟した家康を叱咤激励(しったげきれい)し、家康の兜と馬を以って武田勢に突入し、家康の身代わりとなって戦死している。


三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)
元亀三年(1573年)十二月二十二日、
遠江国敷知郡の三方ヶ原、現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺で起こった、
武田信玄軍二万七千人と、徳川家康軍一万一千人との間で行われた戦い。
信玄の西上作戦の過程で行われた戦いであり、家康が大敗したことで有名な戦。


三河一向一揆討伐戦で勝機を得た家康は、刈谷城主水野下野守信元に援軍を要請し、
自ら二千余の兵を率い岡崎城を出陣。
家康勢は矢作川を渡り、南下して一向宗派に加担した吉良義昭の庶流、荒川甲斐守義広(あらかわかいのかみよしひろ)が籠もる八ッ面城を、水野信元勢と共に三方から攻めかけ陥落させている。
これにより、荒川義広は河内国へ亡命することになる。
勝利をあげた家康はそのまま小川に進軍し、一揆勢を率いる本證寺空誓との決戦に挑み、
一揆勢を悉(ことごと)く討ち取っている。
この小川合戦の勝利により、三河一向一揆討伐戦は終焉を迎える事になる。
合戦に敗れた一向宗派側は、急ぎ家康に和議を申し入れ、上和田の浄珠院(じょうしゅいん)にて
和睦交渉がおこなわれている。


和睦(わぼく)
争いをやめて仲直りすること。

和議(わぎ)
係争、戦時の際に和睦のためになされる協議。


家康は和睦の条件として、一揆の首謀者を処刑することを提示。
しかし大久保新八郎忠俊は、ようやく終焉を迎えつつある騒動が再発する事を恐れ、
一向一揆の首謀者も許してやるのが肝要であると家康に説いたという。

三河一向一揆和睦の条件は、
一揆に加担した者の本領を安堵する。
一揆の首謀者の一命を助ける。
寺院や道場、その他宗教施設はもとのままにする。
といった一向宗派側に有利な条件のものであった。
しかし、一向一揆の恐ろしさを知った家康は、本願寺派寺院をすべて破却し、禁制を発し、
三河国は一向宗禁制の地としている。


一向宗派に加担した本多弥八郎正信は、主家に叛旗を翻した事を悔やみ、
松平家に帰参せず、大和国の松永弾正少弼久秀(まつながだんじょうしょうひつひさひで)に仕えるが、やがて出奔し諸国を流浪する。
また一説には、加賀門徒衆の中心拠点である加賀尾山御坊(かがおやまごぼう)に籠り、織田軍を相手に戦っていたともいう。
後に大久保七郎右衛門忠世(おおくぼしちろうえもんただよ)のとりなしで、徳川家に帰参し、家康の参謀として重く用いられることになる。


加賀尾山御坊(かがおやまごぼう)
加賀一向一揆の拠点で浄土真宗の寺院。
寺とはいうものの、大坂の石山本願寺(大坂御坊)と同じく、石垣を廻らした城ともよべる要塞。
加賀尾山御坊跡地に、金沢城が築かれ加賀藩主前田氏の居城となる。

松永久秀(まつなが ひさひで)
戦国時代の武将。大和国の戦国大名。
官位を合わせた松永弾正(まつなが だんじょう)の別名でも知られている。
出身地は山城国とも播磨国ともいわれる。
父は不明。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)。
初めは三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に、
第十三代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。
しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。
その後、信長に反逆して敗れ、文献上では日本初となる爆死という方法で自害した。
一説には、永禄の変や、東大寺大仏殿焼失の首謀者などとも言われる。
北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とも評されるが、信貴山城近郊の人々からは、
連歌や茶道に長けた教養人であり、領国に善政を敷いた名君として、現在でも知られている。


松平家康の戦後処理の見事さは、一揆側に加担した家臣をいっさい罰せず、すべて許し、元の知行で抱えなおしたことである。
この家康の慈悲深い寛大な処置に、三河武士の家康への忠誠心はさらに高まることになったという。


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戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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