FC2ブログ
2018 11 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31. »  2019 01

スポンサーサイト

 【--//--】

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

Comments (-)Trackbacks (-) | トップへ戻る

藤吉郎の誠意

 【17//2012】

藤吉郎の誠意


永禄七年(1564年)
織田上総介信長は、美濃の斎藤右兵衛大夫龍興と結んで抵抗していた、尾張犬山城主織田下野守信清を攻略することで中濃への侵攻を開始する。
信長はすでに小牧山城へ本拠を移しており、この時点で尾張全体を完全に統一すると同時に、美濃の中央部
(中濃)に楔(くさび)を打ち込むこみ、東西を分断し、斎藤龍興の勢力をそぐ作戦を開始していたのである。

孫子の兵法
「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」
という言葉がある。
「戦わずに勝つ」ことが戦での上策とする孫子の考えである。


孫子(そんし)
中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書。
後に武経七書の一つに数えられ、古今東西の兵法書のうち最も著名なものの一つである。
孫子の成立以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。
しかし孫武は、戦争には「勝った理由」「負けた理由」が必ずあり得ることを分析し、兵法書として記している。


戦国時代の武将の評価基準は、どれだけ名のある武将の首を獲ったかが重要であった。
しかし、信長の評価基準は違っていた。
孫子の兵法にあるような、「兵を損なわずに敵を倒す」という合理的な思考をしていた。
織田家臣団を表す小歌に「木綿藤吉、米五郎左、掛かれ柴田に退き佐久間と言うへり」というものがある。
藤吉は木綿のごとく丈夫で便利であり、五郎左は米のごとくなくてはならない存在、柴田勝家は攻めが強い、
佐久間信盛は撤退戦が得意といった意味で、各々の得意分野が歌われている。
家臣の能力の特徴を良く把握し、うまく使いこなしていたことがうかがえる小歌である。

そこで信長は、木下藤吉郎秀吉に、犬山城対岸にある伊木山の頂に山城を構える
美濃斎藤方の土豪、伊木清兵衛忠次の調略を命じている。
伊木忠次が、蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)たち川並衆と年来昵懇(じっこん)の間柄であった為である。


川並衆(かわなみしゅう)
美濃尾張国境に流れる木曽川周辺に勢力を持つ国人衆。
水運、治水、漁業管理、船の護衛といった仕事を請負い、あくまで独立勢力として活動。
また地理的な知識や人脈を用いあらゆる情報に精通していたとも言われている。


伊木忠次を味方に引き入れないまま、犬山城攻撃の足懸りは無いと考えていた信長は、
藤吉郎に小六を使わせ、調略を果たさせようと考えていた。
また、東美濃へ乱入するためには、まず伊木城を攻略する事が正攻法でもあった。
当時、足軽大将にまで出世していた藤吉郎は、舎弟小一郎秀長、義父浅野又右衛門、林孫兵衛、木下源助らを
従え、黒革尾張胴具足に五徳兜を付け、信長より拝領の黒鹿毛の馬に跨り、鉄砲六十挺、槍六十、
合わせて百二十人の足軽を率い、小牧山城を出陣する。


足軽大将(あしがるたいしょう)
戦国大名のもとで足軽隊を率いた部将及びその職のことをいう。
足軽頭(あしがるがしら)ともいう。
応仁の乱以降、戦国時代にかけて合戦の集団戦化が進み、戦闘規模も大きくなった。
訓練された槍・弓・鉄砲の足軽隊が組織され主力軍として活躍するようになった。
足軽大将は配下である足軽小頭(足軽組頭)をはじめとする足軽を率いた。
基本石高は300石から200石とされている。


松倉へ着陣した藤吉郎は、川並衆頭領蜂須賀小六前野将右衛門長康(まえのしょうえもんながやす)らと合流し、伊木清兵衛調略の評定を開いた。
松倉城に着陣した藤吉郎は、手抜かり無く戦支度を整え、人数を二つに分け出陣する。
蜂須賀小六率いる前野将右衛門、聟大炊介(稲田種元)、松原内匠頭、草井長兵衛船頭衆を加えた総勢二百七十人の蜂須賀衆には、松倉城から川伝いに伊木山へ向かわせ、
藤吉郎率いる坪内利定、坪内玄蕃勝定、川筋衆青山新七郎、日々野六太夫、前野勘兵衛ら
総勢二百八十余人は、魔免戸口(現各務原市前渡)より中之道へ進み、
鵜沼城(うぬまじょう)の西方十五町(約1600m)の巾上(羽場)に陣を構えた。
一方、伊木城の軍勢は、逆茂木(さかもぎ)、竹束を連ね、応戦の構えを示していた。

蜂須賀小六、前野将右衛門、伊木清兵衛とは、かねてより昵懇の間柄であった為、小六は使者を遣わし、一戦構えるのは意味がないことを伝え、清兵衛とよく話し合いたい旨を伝えたところ、清兵衛が両人を城内へ迎え入れ、談合となった。
「われらがこのたび、御大将木下藤吉郎秀吉に従い罷(まか)り越したのは、清兵衛殿が
御味方してくれなければ、犬山城攻撃の足懸りは無いと考えているからだ。」
小六は、清兵衛への説得を試みた。
事実、伊木清兵衛を味方に引き入れないまま、犬山城を攻撃すれば、峰伝いに位置する鵜沼城主
大沢次郎左衛門正秀(おおさわじろうざえもんまさひで)の加勢も加わり、無理をすれば大敗する恐れがあった為である。
また、伊木城を押さえれば、鵜沼城の大沢勢は退路を断たれる事にもなり、今後の東美濃侵攻を優位に進める事が出来た。
「清兵衛殿が御味方してくれれば、大沢次郎左衛門殿の調略もきっと成功するであろう。」
「また、藤吉郎殿が大沢の助命は、我が一命に替えても、引き受けると申している。」と付け加え、
ついに清兵衛を説得に応じさせたのである。

清兵衛は、斎藤山城守道三の代より仕えてきたが、義龍亡き後、家督を継承した
斎藤右兵衛大夫龍興に遠ざけられ、主離れ同然の状態であった。
また、同朋の大沢次郎左衛門が織田信清と結び、信長に敵対する事になった為、やむなく清兵衛もそれに従う形となった。
しかし、清兵衛は、飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家に楯突く愚を知っていたのである。

小六は、内通に応じた伊木清兵衛と共に、藤吉郎の陣所へ赴いた。
清兵衛合力の委細を小六より聞いた藤吉郎は、清兵衛の手を取り、握り締め、「私はいまだ無冠の小心者ですが、信長様にこの大役を仰せつかり、清兵衛殿の合力を得て、私の初戦の命運は開けました。しかし、私には清兵衛殿の合力に酬いるだけの恩賞を与える事は出来ません。ですが私は一命に替えてでも必ず清兵衛殿の忠節を信長様に言上し、然る可き(しかるべき)恩賞を与えて下さる様、酬(むく)いたいと思います。」
清兵衛は、藤吉郎の言葉にあふれる誠意を感じ取り、藤吉郎の勧誘を受け入れるのである。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
スポンサーサイト

Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

Comments (0) | Trackbacks (0) | トップへ戻る

Commentform


URL:




Comment:

Password:

Secret:

管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。