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新たな関東の統治者

 【18//2012】

新たな関東の統治者


永禄七年(1564年)八月
尾張犬山城への織田上総介信長の総攻撃が始まる。
総勢六千余の軍勢が、織田下野守信清の居城犬山城へ襲いかかった。

武功夜話によると、
黒煙が天を覆い、鉄砲の音が鳴り響いていたと記されている。
犬山城には、信清の手勢が立て篭もっていたが、大沢次郎左衛門正秀の援軍もむなしく、
丹羽五郎左衛門尉長秀、柴田権六勝家、佐久間右衛門尉信盛ら諸将の執拗な猛攻に成す術も無く、
わずか二刻半(五時間)余りで、陥落している。
信清は、犬山城陥落の際に僅かな供回りと共に城を抜け出し、美濃領国へ逃亡。
その後甲斐国へ逃れ、犬山鉄斎と称し武田家家臣団(御とぎ衆)に名を連ねている。


武功夜話(ぶこうやわ)
戦国時代から安土桃山時代頃の尾張国の土豪前野家の動向を記した覚書などを集成した家譜。
ただし、偽書説を唱える研究者も存在し、成立年代や史料的価値には諸説ある。
前野家文書と呼ばれる古文書群の中心的な家伝史料であり、三巻本、二十一巻本など、
いくつかの異本が存在している。


信長は、犬山城を陥落させたのち、直ちに丹羽五郎左衛門に、猿啄城(さるばみじょう)攻略を下知し、
陥落させている。

猿啄城(さるばみじょう)
現在の岐阜県加茂郡坂祝町勝山にある標高275.3mの山頂付近にある城。
別名猿飛城、勝山城。
岐阜県と愛知県の境の木曽川の北に位置し、飛騨国、美濃国、尾張国への重要な地点となる。


信長は、犬山城が陥落し、丹羽長秀が猿啄城攻略を成功させ、木下藤吉郎が伊木城の調略に成功している今、
鵜沼城は完全に孤立してしまっており、大沢次郎左衛門は放っておいても降伏せざるをえないと読んでいた。
信長の読み通り間もなく、大沢次郎左衛門正秀降伏している。
織田上総介信長の東美濃侵入は成功した。
伊木、鵜沼、猿啄、その他美濃方の諸砦を撃破し、木曽川から北方一里の各務野(かがみの)まで、
信長軍は兵を進めたのである。


信長が美濃攻略を着実に進めていた頃、関東でも新たな混乱が生まれ始めていた。
永禄三年(1560年)五月
長尾弾正少弼景虎が、関東管領上杉兵部少輔憲政の失地回復という大義名分を掲げ、
北条左京大夫氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣。
小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など、北条方の諸城を次々に攻略し快進撃を続ける長尾景虎は、関東諸将に対して北条討伐の号令を発し、
北条の圧迫に苦しんでいた諸将などを取り込み、その数は数万に達していた。

翌永禄四年(1561年)三月
小田原城の戦いが勃発する。
景虎は、関東管領上杉憲政を擁して、宇都宮広綱、佐竹義昭、小山秀綱、里見義弘、小田氏治、那須資胤、
太田資正、三田綱秀、成田長泰ら旧上杉家家臣団を中心とする十万余の大軍団で、小田原城をはじめとする
北条方諸城を包囲し、攻撃を開始する。

「関八州古戦録」等の軍伝に於いては、上杉軍の太田源五郎資正(おおたげんごろうすけまさ)隊が、小田原城の蓮池門(はすいけもん)へ突入するなど攻勢をかけ、対する北条軍は、各地で輸送隊を襲い物資を奪い去って抗戦、
この間、包囲は一ヶ月に及んだとも伝えられている。
しかし同時代史料の上杉家文書では、城下への放火等は記されているものの詳細は明らかになっておらず、甲斐武田家と対峙している信濃国境を放置しておくわけにはいかない景虎の動きから考えると、包囲自体は1週間から10日間ほどであったという説もある。


関八州古戦録(かんはっしゅうこせんろく)
江戸時代の軍記物。享保十一年(1726年)に成立。全二十巻。著者は槙島昭武
「関東古戦録」とも呼ばれる。
戦国時代の関東地方における合戦や外交情勢について記されており、天文十五年の河越夜戦から、天正十八年の後北条氏滅亡までの関東における大小の合戦を詳細に扱っている。
関東各地に埋もれている戦記類をたんねんに集めたもので、その他の軍記物に比すると、語りものの調子を避け、歴史をそのままに伝えようとしている姿勢が強い。
同書は実証的戦国時代史研究において、原資料に基づいた良質な内容も認められるが、その他軍記物類の影響も見られるので、近世・近代に比べて古文書・日記などの同時代史料の少ない戦国時代の研究において、史料批判を行なった上で使用されている。

上杉家文書(うえすぎけもんじょ)
旧米沢藩主上杉家に伝えられた鎌倉時代から江戸時代までの古文書群。
二千十八通、四帖、二十六冊が、平成十三年(2001年)に武家文書として初めて国宝に指定。
近世に米沢藩となった上杉氏は、もともと越後国の守護代であった長尾氏の系譜を引く氏族であり、戦国期に長尾景虎(上杉謙信)が関東管領山内上杉氏の名跡を継いで以降上杉氏を称したという経緯があり、上杉家文書には謙信期以降の戦国大名や近世大名としての上杉家文書に加え、関東を拠点とした山内上杉氏、越後長尾氏に伝わる文書群含まれている。
近代まで上杉家の子孫家が所持していたが、平成元年(1989年)に上杉家より米沢市に寄贈され、現在は米沢市上杉博物館が保管している。


難攻不落と謳われた小田原城の防衛は堅く、景虎率いる十万余の大軍団の攻撃に耐え、
また玉縄城、滝山城、河越城、江戸城などの北条方支城も大軍団の攻勢を耐え凌いでいる。
信濃国境での甲斐武田氏の不穏な動きに警戒し、小田原城からの撤退を余儀なくされ、鎌倉に兵を引き上げた
景虎は、
永禄四年(1561年)閏三月十六日
上杉憲政の要請もあって、鎌倉府の鶴岡八幡宮において、山内上杉家の家督と、関東管領職を相続し、
名を上杉弾正少弼政虎(うえすぎだんじょうしょうひつまさとら)と改めた。
長尾影虎が、関東の統治者となったことを宣言した瞬間であった。


鎌倉府(かまくらふ)
南北朝時代から室町時代にかけて、室町幕府が関東を統治するために設置した政庁。
後醍醐天皇が建武の新政の一環として、関東統治を目的に皇子成良親王を奉じて鎌倉へ下向させて創設した
鎌倉将軍府が起源で、幼い親王に代わって実権は足利直義に握られ、やがて室町幕府の関東の出先機関となる。
観応の擾乱が発生すると、足利尊氏は子である足利基氏を鎌倉へ派遣し、以来基氏の子孫が
鎌倉府の長官(鎌倉公方)となり、関東管領として上杉氏が代々補佐した。

鶴岡八幡宮(つるがおか はちまんぐう)
神奈川県鎌倉市にある神社。相模国一宮。別称鎌倉八幡宮
宇佐神宮・石清水八幡宮とともに日本三大八幡宮の一社であり、武家源氏、鎌倉武士の守護神とされている。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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