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上杉 謙信

 【26//2012】

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)
戦国時代 越後国(えちごのくに)の武将、戦国大名。

享禄(きょうろく)三年(1530年)一月二十一日
越後守護代長尾信濃守為景(ながおためかげ)の四男(または次男、三男とも)として春日山城で誕生する。
幼名虎千代


越後国(えちごのくに)
かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に位置する。
別称は越前国・越中国とあわせて、または単独で越州(えつしゅう)。
領域は現在の新潟県本州部分にあたる。『延喜式』での格は上国、遠国。

春日山城(かすがやまじょう)
新潟県上越市にあった中世の山城。
主に長尾氏の居城で、戦国武将上杉謙信の城として知られる。
春日山城跡は国の史跡に指定されている。


天文五年(1536年)
守護上杉民部大輔房能(うえすぎふさよし)を殺し、上杉一族の上杉兵庫頭定実(うえすぎさだざね)を傀儡(かいらい)守護にたて、
実質的な越後国主として君臨していた父為景が、家督を嫡子長尾左衛門尉晴景(ながお はるかげ)に継承させ、隠居する事になる。
この時期為景は、重い病を患っていた様で、同年死去している。

二十四歳という若さで嫡子晴景に家督を継承させる事に一抹の不安を覚えた為景は、内乱を避ける為、
幼少の虎千代を曹洞宗(そうとうしゅう)の古刹(こさつ) 林泉寺(りんせんじ)天室光育(てんしつこういく)に預け、
僧侶となる道を歩ませている。
嫡子以外の後継者候補者が内乱を避ける為、仏門に入る事は戦国の世では至極当然の事であった。


林泉寺(りんせんじ)
越後国守護代長尾氏およびその後裔である上杉氏の菩提寺として知られる曹洞宗の寺院。
山号は春日山(かすがさん)。
長尾氏の居城春日山城の山麓に、明応6年(1497年)、越後守護代長尾能景が亡父の17回忌供養のため
曇英恵応を開山に拝招して創建建立させたとされる。
以後、能景とその子・為景の保護を受けて守護代長尾氏の菩提寺として発展する。

天室光育(てんしつこういく)
戦国時代の越後曹洞宗の僧侶。林泉寺六代住職。上杉謙信の師父。
永禄6年(1563年)に病没(享年93)。
上杉謙信に織田信長と信を通じた事を咎められて自裁したという説もあるが、当時、上杉家と織田家は
直接敵対関係になかったことから信憑性は薄いと考えられる。


為景の死後、越後国内では各地で長尾一族が分立対抗し内戦が行なわれ、父為景に代って守護代として国政を司った兄晴景は、為政者(いせいしゃ)として無能と評されていた。

為政者(いせいしゃ)
政治を行う者。為政家。

しかし、晴景は決して無能な人物では無く、政治的手腕に長けたやり手の人物であったようだ。
晴景は守護代に就任すると、父為景と異なる穏健(おんけん)な政策をとり、領内の国人衆との融和を図り、越後領国における内戦を鎮めることにある程度成功している。
また、同族でありながら犬猿の仲であった上田長尾氏の嫡男長尾越前守政景に妹仙桃院を嫁がせ縁戚関係を結び、彼らを取り込むことにも成功している。

長尾 政景(ながお まさかげ)
戦国時代の武将。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主。上杉景勝の実父。

仙桃院 / 仙洞院(せんとういん)
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。長尾為景の娘。
上杉謙信の同母姉にあたる。
長尾政景の正室であり、2人の間には2男2女がいる。
長男の義景は10歳で早世したが、次男景勝は後に謙信の養子になり、実子のなかった謙信の跡を継ぎ、現在まで上杉氏として子孫が続いている。


父為景の跡を継ぎ、越後の領国経営を進める晴景に思いもよらない大事件が勃発する。
天文八年(1539年)
長尾為景に傀儡(かいらい)守護として擁立されていた上杉定実が、実権回復を謀り嗣子(後継者)として奥羽の大名伊達左京大夫稙宗(だてたねむね)の三男・時宗丸(伊達実元)を迎えようとしたことから始まった。
この縁組は同年十一月、晴景の猛反対で一旦は消滅するものの翌年には再び持ち上がり、
越後国内は上杉定実派長尾晴景派に分裂し、「援軍」を名目とした伊達家の軍事介入を招く事になる一連の紛争へと発展していく事になる。

守護復権を目論み、国政を牛耳る程にまで成長していた上杉定実ら守護派に対し、晴景は
反守護代勢力を討平した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)揚北衆を制圧することが急務と考え、
末弟の虎千代を古志郡司として栃尾城に派遣している。
天文十二年(1543年)八月十五日
兄晴景の命により還俗した虎千代は、元服を済ませ長尾平三景虎(ながおかげとら)と名乗りを改めた。


また、伊達家内部でも稙宗が時宗丸入嗣を強行させようとしたことを発端に、稙宗と嫡男伊達晴宗が対立し、伊達氏天文の乱(洞の乱:うつろのらん)が勃発する。
伊達氏第十四代当主伊達稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、
家督相続からの三十年間で十郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上・相馬・
蘆名・大崎・葛西
ら南奥羽の諸大名を従属させるに至り、奥羽に一大勢力圏を築き上げていた。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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