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毘沙門天の転生

 【27//2012】

毘沙門天の転生


古志郡司として栃尾城主となった長尾平三景虎(ながおかげとら)は、
天文十三年(1544年)春
謀反を鎮圧することで初陣を飾っている。(栃尾城の戦い

越後国守護代長尾左衛門尉晴景(ながおはるかげ)を侮って謀反を起こした越後の豪族を、
兄晴景に代り鎮圧している。
十五歳の景虎を若輩と軽んじ栃尾城に攻めよせた豪族を、景虎は少数の城兵を二手に分け、
一隊に傘松に陣を張る敵本陣の背後を急襲させ、混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させ、
敵勢を壊滅させることに成功している。
その後も数回にわたり起る謀反を、景虎は兄に代り悉く鎮圧することになる。

天文十四年(1545年)十月
越後国守護上杉兵庫頭定実(うえすぎさだざね)の老臣、黒滝城主黒田和泉守秀忠(くろだひでただ)が長尾氏に対して謀反を起こした。
秀忠は、守護代長尾晴景の居城春日山城にまで攻め込み、景虎の兄長尾景康長尾景房らを殺害し、その後黒滝城に立て籠もった。
景虎は、兄晴景から討伐を命じられ、総大将として攻撃を指揮し、秀忠を降伏させている。(黒滝城の戦い)
しかし翌天文十五年(1546年)二月
秀忠が再び兵を挙げるに及んだ為、景虎は再び黒滝城を攻め寄せて猛攻を加え、
二度は許さず黒田氏を滅ぼしている。


景虎の快進撃は尚も続き、晴景に敵対する勢力を悉く鎮圧し、影虎の武名は越後国内に鳴り響いた。
この景虎にいち早く注目したのが、守護派として晴景と対立していた
中条弾正左衛門尉藤資(なかじょうふじすけ)であった。
藤資は、長尾為景の没後、伊達左京大夫稙宗の子時宗丸(伊達実元)を定実の養子に迎え入れ、伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図った主犯格であった。

しかし、天文一七年(1548年)九月
室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(あしかがよしてる)からの停戦命令を受けた伊達稙宗は、
嫡男晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居することを余儀なくされた。
越後守護上杉定実が、嗣子(後継者)として伊達稙宗の三男時宗丸(伊達実元)を迎えようとしたことに端を発する争乱は、稙宗・晴宗が和睦したことで終息を迎え、時宗丸の入嗣は履行されることは無かった。
この争乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱化する事になる。
伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏相馬氏最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長している。


時宗丸の入嗣が頓挫(とんざ)し、守護権力復活の目論見が失敗に終わった藤資は、
今度は晴景に代わって景虎を守護代に擁立しようと画策し始めたのである。
藤資は、まず景虎の叔父にあたる北信濃中野城主高梨摂津守政頼(たかなしまさより)と結び、越後国人衆たちの調略を裏で進め始めた。
景虎の補佐役である本庄新左衛門尉実乃(ほんじょうさねより)を始め、景虎の母虎御前(とらごぜん)の実家である
栖吉城主長尾豊前守景信(ながおかげのぶ)、箕冠城主大熊備前守朝秀(おおくまともひで)
与板城主直江大和守実綱(なおえかげつな)、三条城主山吉行盛(やまよしゆきもり)らが加わり景虎派を形成。
この動きに対し、坂戸城主長尾越前守政景(ながおまさかげ)や、
藤資と対立する同族の黒川城主黒川備前守清実(くろかわきよざね)らは晴景派につき、武力抗争となった。

しかし同年天文一七年(1548年)十二月三十日
この事態を憂いた守護上杉定実の調停によって和議が結ばれ、晴景は景虎を養子とした上で家督を譲り隠居する事になる。
景虎は春日山城に入り、十九歳で守護代長尾家の家督を相続し、長尾家の当主となった。

その二年後の天文十九年(1550年)二月二十六日
定実が後継者を遺さずに死去したため、同月、守護代長尾景虎は将軍足利義輝から「白傘袋」(しろかさぶくろ)
「毛氈の鞍覆」(もうせんくらおおい)の使用を許され、越後国主として認められることとなる。
影虎擁立に成功した藤資は、以後景虎の重臣として一門に次ぐ待遇を受けたという。

越後国主として認められた影虎は、のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、
上杉政虎(うえすぎまさとら)と名を改め、上杉氏が世襲する室町幕府の重職関東管領に任命される。
更に将軍足利義輝より偏諱を受け、最終的には上杉輝虎(うえすぎてるとら)と名乗った。
「謙信」は、さらに後に称した法号である。

内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させ、他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、四十九年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、
能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。
特に五回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世物語として描かれており、よく知られている。
さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大。
自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる。


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