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二つの史料の矛盾

 【04//2014】

三河国での覇権争い

「信長公記」は信憑性が高く、戦国時代を知る第一級の史料とされている。

しかし必ずしもそうではない部分も存在する。

首巻においては、不整合な部分が多く存在する為、
「三河物語」 「信長記」など同時代の複数の史料をつき合わせる事が重要である。


戦国Check✓

信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は太田牛一。
信長の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した永禄十一年(1568年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた天正十年(1582年)の記録が全十六巻にまとめられている。

三河物語(みかわものがたり)
武士の生き方を子孫に残した家訓書。著者は大久保忠教。
徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交え、数々の戦の記録と忠教の経験談や考え方などが全三巻にまとめられている。

信長記(しんちょうき または のぶながき)
安土桃山時代の戦国大名織田信長の一代記。著者は小瀬甫庵。
太田牛一の著書「信長公記」に加筆・潤色を加え、原作よりもわかりやすく整理改編したもの。


小豆坂
天文十一年(1542年)八月十日
三河の覇権を巡って織田弾正忠信秀今川治部大輔義元が激突する。

発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立であったが、
これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入したことにより生じた合戦である。

三河守となり三河平定の大義名分を得た織田弾正忠信秀の西三河平野部への侵攻に対し、
松平氏を後援しつつ東三河で勢力を伸ばしつつあった今川治部大輔義元が、
西三河から織田氏の勢力を排除すべく大軍を率いて三河生田に軍を進めた。

一方の信秀もこれに対して三河安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の三河上和田に布陣。

両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突する。

この合戦は小豆坂七本槍と呼ばれた
織田孫三郎信光 織田造酒丞信房 岡田助右衛門尉重善 佐々隼人正政次 佐々孫介
中野又兵衛一安 下方弥三郎貞清の七将をはじめとした、将士の奮戦により織田勢の勝利に終わった。

信秀率いる織田勢は第一次小豆坂の戦いで勝利し、西三河の利権を保持した。


戦国Check✓

三河生田(みかわしょうだ)
三河国額田郡生田(現在の愛知県岡崎市美合町)辺りの地。

三河安祥城(みかわあんしょうじょう)
三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった城。

三河上和田(みかわかみわだ)
三河国額田郡上和田(現在の愛知県岡崎市上和田町)辺りの地。

三河小豆坂(みかわあずきざか)
三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市美合町)辺りの地。




異説
小豆坂の合戦は、
天文十一年(1542年)と天文十七年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた合戦と言われているが、
定説と言えるものが存在しない。

「信長公記」では年次はなく、「八月上旬」とのみ記されているが、

「信長記」では天文十一年(1542年)八月十日

「三河物語」では天文十七年(1548年)三月十九日の合戦となっている。

上記のことから天文十一年を第一次小豆坂合戦、天文十七年を第二次小豆坂合戦と言われている。

しかし小豆坂の合戦は、天文十七年の合戦「ただ一回のみ」とする説もある。

天文十一年の合戦は、天文十七年の合戦に比べ資料が極端に少ないからである。

天文十七年の合戦では、今川治部大輔義元が家臣の手柄を誉めた感状などが多数存在するのに対し、
天文十一年の合戦では、資料その他感状などが一切存在していない。


天文十一年の合戦は、太田牛一の「信長公記」に由来する。

あづき坂合戦の事 八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、

三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。

駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。

則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、

既に一戦に取り結び相戦ふ。



八月上旬、今川軍が生田原から「あづき坂へ人数を出し候」
安祥城から矢作へ出撃した織田軍と「一戦に取結び相戦ふ」と記されている。


其の時よき働きせし衆。

織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ・

内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。

那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。

下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、

三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。

前後きびしき様体是れなり。

爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。

是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。



劣勢だった織田軍が槍をふるって活躍した「七本槍」と称される七将の奮戦で盛り返し辛勝した。
天文十一年の合戦の記述として存在する資料はこれ以外には無い。


しかし今川家は、天文五年(1536年)から天文十四年(1545年)までの間、
富士川以東の「河東地域」の争奪を巡り、相模北条家と争っており、
西三河へ攻め込む状況ではなかったはずである。

また最後の文面には「是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり」とあり、
以後三河国に今川勢が進駐したと書かれている。

駿河勢が三河に入った時期として少し早すぎるのである。
とすると小豆坂の合戦は、天文十七年の「ただ一回のみ」とする説が有力なのか?



桶狭間戦記-センゴク外伝 (KCデラックス) 宮下 英樹 (著)
青銭大名 東郷 隆 (著)
手にとるように戦国時代がわかる本 岸祐二 (著), 加来耕三 (監修)




矛盾
しかし小豆坂の合戦が天文十七年の「ただ一回のみ」とすると、史実に矛盾が生じてしまう。

信長公記「あづき坂合戦の事」によると、
「其の時よき働きせし衆」として「織田与二郎殿」という名が記されている。

織田与二郎というのは、織田弾正忠信秀の弟 織田与二郎信康の事であるが、
信康は天文十六年(1547年)に起こった加納口の戦いで討ち死している。
※異説として天文十三年(1544年)とする説もある。

どちらにしても「織田与二郎」は天文十七年の小豆坂の合戦以前に死んでいる事になる。

小豆坂の合戦が天文十七年の「ただ一回のみ」だけだとすると、
「織田与二郎殿」という名が記されている事自体がおかしな事になる。

だとすると小豆坂の合戦は2回ないと辻綱が合わなくなる。


結局のところ、史料をどのように読むかによって解釈が分かれるのである。



戦国Check✓

織田 信康(おだ のぶやす)
戦国時代の武将。通称は与次郎。法名は伯厳又は白厳。尾張犬山城主。
織田信秀の弟であり、織田信長の叔父にあたる。
兄信秀に従い政戦両面で活躍した武将。
しかし信康死後は、子の信清が信秀・信長に対して反抗的であったため、
犬山織田家は「織田弾正忠家」の敵対勢力の一つとなった。

加納口の合戦(かのうぐちのかっせん)
天文十六年(1547年)九月二十二日に織田信秀(および朝倉孝景・土岐頼芸)と斎藤道三との間で起こった合戦。
井ノ口の戦いとも言う。

家康の父は武田信玄だった (ぶんか社文庫) 武山 憲明 (著)
戦国人物伝 徳川家康 すぎた とおる (著)
戦国武将の意外な関係 (PHP文庫) 加賀 康之 (著)





次回 第十六話 天下の権力者 ⇒




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