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八幡原の死闘

 【30//2012】

八幡原の死闘

永禄四年(1561年)九月九日 夕刻
妻女山に本陣を置く上杉弾正少弼政虎は、遠方に見える海津城の異変を見逃さなかった。
いつもより早い刻限に海津城内から多くの炊煙が立ち昇っているのを見た政虎は、
直江大和守景綱甘粕近江守景持の両将を呼び寄せ、
「明日、必ずや信玄は戦いを挑んでくる。擦れば今宵の内に夜襲を仕掛けてくるは必定である。我らを山より引きずり下ろし、八幡原に布陣した本隊と共に挟撃して殲滅する作戦であろう。我らは篝火、旗はそのままに残し、密かに山を下り、八幡原に布陣した信玄本隊と一戦を交え、明日越後に帰陣致す。敵が我が軍の進行を阻めばこれを打ち破りて進むべし」と命じた。

直江景綱(なおえ かげつな)
山東郡(三島郡)与板城城主。
長尾為景・晴景・景虎(後の上杉謙信)の3代にわたって仕えた宿老で、奉行職を務め主に内政・外交面で活躍した。
また七手組大将の一人として軍事面で活躍することもあった。

甘粕景持(あまかすかげもち)
越後国飯塚灰毛城主。
柿崎景家と並ぶ武勇を誇り、第四次川中島の戦いに於いては殿軍を務め、その勇猛な戦いぶりや引き方の鮮やかさで敵方の武田信玄も「殿軍に謙信がいるのか」と賞賛したと言う逸話も残っている。


直江、甘粕の両将はすぐさま本陣を辞し、全軍に下知し出撃の準備に取り掛かった。
両雄がともに智謀の限りをつくし、肚のさぐり合いをしていた。
九月十日 子の刻(午前1時頃)
妻女山に夜襲を仕掛ける為、高坂弾正忠昌信ら別働隊が海津城を出陣。

九月十日 丑の刻(午前2時頃)
政虎ら上杉勢は、妻女山を密かに下山し、信玄本隊が布陣するであろう八幡原に向かい出陣。

九月十日 寅の刻(午前4時頃)
頃合を計り、武田徳栄軒信玄が率いる本隊が八幡原に向かうべく海津城を出陣。

九月十日 卯の刻(午前6時頃)
夜襲を仕掛けた信玄にとって予想もしなかった事態が発生する。
「霧の名所」といわれるほど霧の発生が多い場所である八幡原に布陣した信玄は、備えを固めるべく、
各諸将らに細かく下知していた。
そこに馬蹄の音が響き渡り、朝霧の中から突如、政虎の軍旗である「毘の一字旗」が現れたのである。
奇襲を仕掛けたはずの武田勢が、逆に奇襲を受ける形となった。
一万以上の軍勢を有する上杉勢に対し、武田勢は八千余りの軍勢であり、しかも不意を突かれる形となった。
「車懸り(くるまがかり)の陣」で突撃を仕掛ける上杉勢に、武田勢は動揺し混乱し始めた。
この危機を乗り切るため、武田左馬助信繁とその一隊が真っ先に上杉勢に向かって突撃していく。
玉砕覚悟の突撃であった。

迎え撃つのは、上杉家中でも勇猛をもって知られる柿崎和泉守景家率いる千余の軍勢。
武田信繁隊と柿崎景家隊との激突は凄まじく、戦いの雄叫びは山野に轟き、山も崩れんばかりであったという。
しかしさすがの武田勢も、不意を突かれた上に、備えも固まらぬうちの上杉軍の猛攻に、次第に打ち負け、
討ち死にする者が相次いだ。
信繁は、敵と戦うこと二度、三度、味方は次第に討ち死にし、とても敵勢を押さえきれない状況であった。
死を覚悟した信繁は、信玄の元へ「御覧のごとく、越後勢の攻撃を某(それがし)が受け留めておりますが、
多勢に無勢、今の内に勝利の工夫をなされますように」
と使いを送ったという。

すでに死を覚悟していた信繁であったが、信玄直筆の法華経陀羅尼を金文字で書かれた母衣(ほろ)だけは敵手に渡したくなかった。

法華経(ほけきょう、ほっけきょうとも)
大乗仏教の経典「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma Puṇḍarīka Sūtra、सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र)」(「正しい教えである白い蓮の花」の意)の漢訳での総称。
経の字をはずすと「法華」になるが、これは一般に「ほっけ」と発音する。
それぞれの意味はsad=「正しい」「不思議な」「優れた」など、dharma=「教え」「真理」、puṇḍarīka=「因果倶時・清浄な白蓮華」、sūtra=「仏の説いた経典」。

陀羅尼(だらに) 梵名ダーラニー (धारणी [dhaaraNii])
仏教において用いられる呪文の一種で、比較的長いものをいう。
通常は訳さず(不翻)サンスクリット語原文を漢字に音写したものを唱える。
意訳して総持、能持、能遮等ともいう。
ダーラニーとは「記憶して忘れない」という意味で、本来は仏教修行者が覚えるべき教えや作法などを指した。
やがてこれが転じて「暗記されるべき呪文」と解釈される様になり、一定の形式を満たす呪文を特に陀羅尼と呼ぶ様になった。
本来、陀羅尼は暗記して繰り返しとなえる事で雑念を払い、無念無想の境地に至る事を目的とした。
「能遮」という意訳は雑念妄想を「能く遮る」という意味である。

そこで信繁は、鬢(びん・耳の上あたりの髪)の乱れ髪を切り、
「この黒髪と、母衣を父の形見としてせがれ信豊に渡せ」と家臣の春日源之丞に申しつけた。
主人の覚悟を察した源之丞は、「冥途のご案内を仕りとうござります」と涙を流し拒んだという。
しかし信繁は、「せがれ信豊が立派に成長するまで、源之丞が補佐せよ」と叱咤(しった)し、戦場を離れさせたという。
後年、武田左馬之助信豊は父の形見の母衣をかけて、長篠の合戦に出陣している。

信繁は再び敵中に駆け入り、上杉勢を斬りまくり奮闘するものの、上杉の勇猛無双の将として名を轟かす、
宇佐美駿河守定満との一騎打ちに破れ、討死している。
一説には、宇佐美の郎党の鉄砲による最期だったが、大将を鉄砲で討ち死にさせたとあっては畏れであると、定満が槍で絶命させたという。
信玄の弟信繁とともに上杉勢に突入して奮戦していた、室住豊後守虎定もまた「信繁討死」を知ると、
「我もお供仕ろうぞ」と、敵中に駆け入り上杉勢を斬りまくり討死している。

信繁、虎定の討死を知った山本道鬼斎勘助は、己の献策した奇襲作戦の失敗によって全軍崩壊の危機にある責に嘆き苦しみ、死を決意して敵中に突入し、満身創痍になりながらも大太刀を振るって獅子奮迅の働きをするが、上杉家の猛将柿崎和泉守景家の手勢に取り囲まれ、四方八方から槍を撃ち込まれ落馬したところを
坂木磯八に首を取られ討死している。
この様子を見ていた原隼人正正種が、「主君の大事は今日だけではござらぬ。早まってはならぬ」と声をかけるが、勘助は、「過ぎ往く時は流れのごとし。九思下愚にあたらずの習い」と最期の言葉を言い捨て、
敵勢の中へと消えていった。
信玄の弟信繁が討ち死にし、室住虎定が討たれ、軍師山本勘助までもが壮絶な戦死をした第四次川中島の戦いは最大の激戦であった事が伺える。

武田信繁(たけだのぶしげ)
武田信虎の子で、武田信玄の同母弟。
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、嫡子・武田信豊も典厩を名乗ったため、
後世「古典厩」と記される。
武田二十四将においては武田の副大将として位置づけられている。

室住虎光(もろずみとらみつ)
甲斐の戦国大名武田氏の譜代家臣。豊後守。
姓は諸角(両角)とする記録も多いが、近年では自筆史料に見られる「室住」が採用されている。
諱に関しても虎定あるいは昌清とする説もあるが、確実な同時代文書(「安道寺文書」)によれば「虎光」とされる。


CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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