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八幡原での逸話

 【01//2012】

八幡原での逸話

上杉勢の強襲により、大激戦となった八幡原の死闘は、両勢の諸将の勇名を高める戦でもあった。
武田勢の猛将として名を轟かす山県三郎兵衛昌景は、四尺三寸の大太刀をふりかぶり、鬼神のごとく敵を切り伏せ、敵も味方も「あっぱれ勇士」と誉め讃えたという程の大奮闘をしていた。
また、上杉勢でも「鬼小島」の異名を持つ小島弥太郎一忠が、敵中で獅子奮迅の働きを見せていた。
この両猛将が八幡原で激突している。

第四次川中島の戦いで、上杉弾正少弼政虎武田徳栄軒信玄との一騎打ちは有名な逸話ではあるが、この山県昌景と小島弥太郎の一騎打ちもまた、戦国乱世を彩った「武士」の輝かしい逸話の一つとして甲越信戦録(こうえつしんせんろく)に記されている。
山県昌景と小島弥太郎の一騎打ちは、双方共に激しい技を繰り出すものの中々決着が付かなかった。
その一騎打ちの最中、昌景は上杉勢に囲まれ、手傷を負い、窮地に追い込まれている主君徳栄軒信玄の嫡男
武田太郎義信の姿を見た。
義信の危機を知った昌景は、弥太郎に休戦を申し出るのである。
「主君の御曹司の危機を救いたい為、勝負を預けたい」と願い出る昌景に対し、弥太郎は、
「主君を救うは武士の習い。貴殿の忠義に免じ、この勝負はまたの機会に」と槍を引いて退いたという。
弥太郎が快諾したことに恩義受けた昌景は、
「花も実もある武士(もののふ)よ」と、弥太郎を賞賛したという。
直ちに義信救援に向かった昌景は、義信を援護し、この難を免れたという。

山県昌景(やまがたまさかげ)
甲斐武田氏の家臣で、武田四天王の一人。名は飯富源四郎。
『甲陽軍鑑』に拠ればはじめ武田晴信の近習として仕え、信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、
信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。
その後も数々の軍功を重ね、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われた。
その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となる。

小島弥太郎 / 小島貞興(こじまやたろう / こじまさだおき)
上杉氏家臣。諱は一忠(勝忠)。通称は慶之助。
上杉謙信の幼少期から側近として仕え、強力無双の豪傑で、「鬼小島」と恐れられたと言われる。
しかし弥太郎は、上杉氏の軍役帳や名簿に記載されておらず、実在したかどうかを疑われている人物である。
上杉家中には小島姓を名乗る人物が多く存在するため、そこから創作した人物という説もある。

甲越信戦録(こうえつしんせんろく)
甲越信戦録は,甲陽軍鑑の異本の一つとされている。

その他にもおもしろい逸話がある。
武田信玄の麾下の武将、伊那小笠原氏の一族小笠原若狭守長詮は、
この合戦に伊那小笠原氏重代の太刀 「狐丸」(きつねまる)を帯びて出陣している。
永禄四年(1561年)九月十日
徳栄軒信玄の命により、妻女山から敗走する上杉勢を迎え討つべく八幡原に布陣していた長詮は、
馬蹄の響きと共に獣の咆哮をおもわせる怒号を上げ、朝霧の中から突如現れた、上杉勢に翻弄され、
壊滅寸前となっていた。
「もはやこれまで」と玉砕覚悟で上杉勢への突撃を下知する長詮に、家臣桑山茂見(くわやましげみ)が、
「殿は逃れて再起を」と諭し、主君の鎧甲に身を固めた茂見は、
「われこそは、新羅三郎義光の苗裔、小笠原若狭守長詮なり!」と叫び敵勢に突撃し、長詮の身代わりとなって討ち死にしたという逸話が残されている。

新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)・源義光(みなもとのよしみつ)
河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。
兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。
近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称した。
義光の子孫が後に、平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏として発展する。

大激戦の末、何とか生き延びた長詮ではあったが、伊那小笠原氏重代の太刀「狐丸」を戦場で無くしていた。
合戦後、主君のために命を捧げた勇士桑山茂見の死を哀れみ、長詮は亡骸と武具を集めて塚を築き、墓を建て
桑山茂見の霊を弔わせた。
すると奇妙な事に毎夜この塚に狐が集まり鳴き騒ぐという噂がたった。
噂を聞きつけ不思議に思った長詮は、里人を集めこの塚を掘り返してみたところ、
人骨に混ざって伊那小笠原氏重代の太刀「狐丸」が出てきたという。
桑山茂見は死して尚、伊那小笠原氏家臣としての誇りを失わなかったという逸話である。
以来、この塚を「狐丸塚」「狐塚」と呼ぶようになったといわれる。

小笠原(おがさわら)
甲斐源氏の嫡流である武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族。
室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、
時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用されていた。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。

また、狐丸の太刀を作刀した京都三条の刀鍛冶三条宗近(さんじょうむねちか)には次のような逸話が伝えられている。
一条天皇の宝刀「小狐丸」(こぎつねまる)を鍛えたことが謡曲「小鍛冶」に取り上げられている。
一条天皇より作刀を命じられた宗近は、藤の森稲荷社(京都府伏見区深草藤森神社)に毎日参詣した。
その後、宗近が劔(剣)を打つ時に、一人の童子が来て相槌(あいづち)をした。
宗近は不審に思い、「何れの人ぞ」と尋ねたところ、その童子は、
「我は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の神勅(しんちょく)で参った末社の白狐神(びゃっこしん)である」という。
このようなことから、白狐神が相槌して打ったので、宗近の劔を狐丸と伝えているとされている。
川中島の激戦で、小笠原長詮が危機を遁れることのできたのは、主君の身代わりとなって討死した桑山茂見の忠義はいうまでもないが、名劔の神徳でもあるとも伝えられている。
三条宗近の現存する有銘の作刀は極めて少なく「宗近銘」「三条銘」とがある。
代表作は、「天下五剣」の一つに数えられる、徳川将軍家伝来の国宝「三日月宗近」



CATEGORY/カテゴリ
戦国乱世を駆け抜けた武士の見た夢
今も語り継がれる歴史に名高い英雄たちは、時代の渦の中で、どのように生き抜いたのか。
戦国城下町
戦国虎太郎が戦国の地に建造させた巨大城下町。
第三章 永禄記
1558年から1570年までの12年間を指すこの時期に、
織田信長が天下布武を掲げ、覇道の道を進む事になる。
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Category: 永禄記

Theme: 歴史

Genre: 学問・文化・芸術

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